神がその名を呼ぶ(文集:晴佐久神父巻頭言)

主任司祭 晴佐久 昌英 神父

 洗礼式の初めに、「呼名」という美しい儀式があります。
 司式司祭が受洗者一人ひとりの名を呼び、呼ばれた者が返事をして祭壇前に進み出る儀式です。
 救いを求めて必死に生きてきた一人の人が、「はい」と返事をし、堂々と立ち上がる瞬間は、まさに神の愛の勝利、キリストの救いの実現、聖霊の偉大なる働きを目の当たりにする、感動的な瞬間です。
 このとき名を呼んでいるのは、実は神ご自身ですから、返事も神に向かっています。
 「はい」という返事は「神よ、わたしはわたし自身を受け入れ、あなたの救いの御業を受け入れます」という返事であり、立ち上がって進み出るという行為は「神よ、わたしはあなたの愛を信じ、わたしのすべてをゆだねます」という信仰を表すしるしにほかなりません。

 今年の洗礼式で、この「呼名」をしながら、不覚にも涙してしまいました。
 それまで、一人ひとりからその半生を聞き、一人ひとりにひたすら福音を語ってきた一人の司祭にとって、お呼びする名前は、ただの名前ではないからです。それは、試練と苦難の半生の果てに多摩教会と出会って結ばれた「教会家族の一員の名前」であり、特別に神から選ばれて救いの秘跡に与かり、今まさに神の国の住人になろうとしている「聖なる神の子の名前」なのです。
 今回、どの名前を呼んでも「ああ、本当につらかったね」と思い、どの返事を聞いても「ああ、本当によかったね」と思い、幾度も声が詰まってしまいました。今、現実に神がその名を呼び、神への返事が聞けるのですから、感極まって当然、ということでしょう。そのとき、神ご自身こそが、深い喜びを感じておられるのではないでしょうか。

 今年の受洗者の感想文集をお届けします。
 一人ひとりが初めて教会を訪れた時の寂しそうな様子や、落ち込んだ表情を思い出すと、このような文集を出せることに、本当に喜びと誇りを感じます。
 どうぞ、神の救いの(わざ)を分かち合ってください。そして、だれもがこのような救いに招かれていること、わたしたちこそがその救いに招くものであるという思いを新たにしてください。