巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

オアシス広場

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 多摩教会献堂10周年を迎えました。10年はあっという間と思う人も多いでしょうが、10年ひと昔でもあります。過ぎし10年の実りを心から感謝すると同時に、次の10年に向けて、10年前の熱い初心を思い起こしましょう。
 当時の献堂記念誌を開くと、教会委員長がこう書いています。「この聖堂に地域の人々と共に集い、黒光りするようになるまで使いましょう。聖堂は、使われることによって、はじめて生きている聖堂になります。大いに使い、床や、柱や、取っ手がすり減るくらい活用しましょう」。今回、10周年記念事業の一つとして床のすり減ったところを修理し、それはまさしくこの聖堂が生きているしるしと言えますが、それは「地域の人々と共に」であったかどうか。
 聖堂建設委員長は、こう書いています。「私たちはこの聖堂を建てる前に確認しました。この聖堂を宣教活動の拠点にしよう。地域社会のために開かれた聖堂にしよう。(中略)教会の目標は宣教活動です。聖堂建設を私たちの自己満足に終わらせないためにも」。今回、10周年記念事業のメイン事業として教会看板の設置も実現しましたが、それはまさしくこの聖堂が宣教の拠点として地域社会のために開かれていることのしるしとなるためです。
 主任司祭は、こう書いています。「神によってこの聖ヶ丘の地が選ばれ、しかも大聖年に鎌倉街道から一目で教会とわかる聖堂をお与えになったのは、『多くの人々に神の愛を宣べ伝えろ』という神の強いご意志による」。

 「カトリック多摩教会」という大きな看板を設置することを強く願った理由は、そのご意志をいっそう発展させていくためです。地域社会と言うなら、まずはそこにカトリック教会があることを認知してもらわなければ話が始まらないからです。
 初めて多摩教会を訪ねてきた一人のシスターが言うには、バスを降りて見回しても教会がわからず、鎌倉街道を歩いて来てちょうど教会の正面にあるトヨタの販売店で「この辺に教会ありませんか」尋ねたところ、店員はみな首をかしげるばかりで誰ひとり目の前の教会を知らなかった、と。一事が万事。これは放っておけないと思いました。そこにカトリック教会があると知らないということは、そこに天国の入り口があると知らないということですから。
 設置された看板をご覧になったでしょうか。もう、トヨタさんに知らないとは言わせません。大きな文字が遠くからでもよく見えて、誇らしい気持ちです。ぜひ、夜も見に来てください。文字が光るのです。わたしはうれしくて、毎晩うっとりと眺めています。つい先日などは、文字に光がともる瞬間を見ようと暮れなずむ橋の上で待ち構え、光った瞬間拍手しました。電気代が安く耐久性に優れたLED内蔵で、輝度抜群です。言うまでもなく、その輝きはキリストの光です。看板はただの名称の表示ではありません。「カトリック多摩教会」という光る文字は、「あなたに神の愛を伝えたい、私たちは本気です」という、意思表示なのです。
 さっき目の前の鎌倉街道の交通量を調べたら、5分で228台でした。おそらく一日3万台は通過しているでしょう。その多くは繰り返し通っているはずで、そのたびにチラリと看板を目にしては「ああ、あそこにカトリック教会があるな」「あそこにカトリック教会があるな」と、次第、次第に洗脳されていくのです。ふふふ。

 そんな人々がやがてふらりと教会前まで来たときのために、聖堂に向って左側のスペースにテーブルとベンチを並べ、大きな日よけパラソルを広げました。茶色い柄の上に緑の傘が開くとまるでヤシの木のようで、これぞ荒れ野のオアシス。その名も、「オアシス広場」と名づけました。日曜日はミサ後の歓談や軽食のテーブルとして活用していただきたいのですが、オアシスの本来の目的は、あくまでも旅人の歓待です。ある日、聖霊に導かれて通りかかった旅人に「どうぞひと休みしていってください。今、コーヒーをいれますから」と、みんなでもてなしましょう。おいしいコーヒーに一息ついたその旅人は、まだ知りません。自らの人生の旅路の真の目的地が、すぐ目の前の階段を上ったところにあることを。
「よろしかったら、聖堂をご案内しましょうか?」

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

赤ちゃんは家族を元気にする

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 多摩教会に赴任して、ちょうど一年がたちました。この一年、のどかな多摩の地で穏やかな信者さんたちに囲まれて、のびのびとした日々を過ごすことができました。みなさんの協力と忍耐に、心から感謝しています。特に先日の聖週間にあたっては多くの方に様々な奉仕をしていただきました。今までこんなにスムーズにこの時期を終えたことはなく、多摩教会には何か不思議な底力があるんだなと改めて気付き始めているところです。
 なかでも、洗礼式のあった復活徹夜祭は大変美しく感動的なミサとなりました。受洗者はもちろん、教会全体にとって忘れがたい体験となったことでしょう。こうして一年間待ちに待った洗礼式を無事終えることができて、今は少しほっとした気持ちと、さあ、来年の復活祭に向けて出発だという、ワクワクする気持ちがあります。

 一年間待ちに待ったというのは正直な気持ちです。改めて言う必要もないでしょうが、私は洗礼式が大好きです。どこの教会に赴任しても、まずは「洗礼と聖体を中心とした教会共同体づくり」を心がけてきました。もちろんほかにも大切なことはたくさんありますし当然大切にしていますが、洗礼と聖体を中心にすることが何よりもその教会を元気にするという事実を、私はずっと目の当りにしてきました。大勢の受洗者とその感動する姿に触れて教会全体が自信を持ち、希望を取り戻し、新しい力で再出発する姿を、これまで毎年見続けてきたのです。多摩教会の素晴らしい仲間たちにもそのような体験をしてほしいと、一年間待ちに待っていました。
 洗礼が大切であることは、自分も洗礼を受けた者としてだれでも分かってはいることです。けれども、いったん教会共同体ができあがってしまうと、どうしても日常の活動や典礼に追われ、いつもの仲間と慣れ親しんだ関係を保つことに心を奪われていきます。信者の一致と交流自体は悪いことではありませんが、それだけではただの自己満足になってしまいます。言うまでもなく教会は秘蹟であり、「神の愛の目に見えるしるし」です。それは誰にとってのしるしであるかと言えば、常に新たな仲間へのしるしであるはずです。塔を立てて頂に十字架を据えるのは信者のためではなく、信者ではない人を招くためなのです。そのような本質から離れると、どうしても教会は内向きになり、元気がなくなっていきます。
 多摩教会は元気な教会ではありますし信者も増え続けてきましたが、それは実は転入者に支えられてきたことも事実です。ニュータウンという土地柄、黙っていても転入者が多く、教会はそれによって活性化されてきました。しかし稲城地区の開発も終わった現在、もはやこれ以上転居による転入者が増える見込みはありません。むしろ転入者が多かったせいで、受洗者のことを忘れてしまっていたとしたら、今後一気に元気がなくなってしまうことも、十分考えられます。
 家族が喜び、一致し、元気になる一番のチャンスは赤ちゃんの誕生です。お母さんはすべての苦労が報われてもう一人ほしいと思い始め、お父さんはさあこれからがんばって働くぞと決心します。お兄さんお姉さんたちは様々なお手伝いを喜んでし始めるし、おじいちゃんおばあちゃんも、新しい命に心躍らせるのではないでしょうか。受洗者の誕生は、なによりも教会を元気にするのです。

 このたびの34名の受洗者は、間違いなくこれからの多摩教会を支えて元気にしていくことでしょう。また、洗礼式で心洗われた先輩信者たちも、改めて多摩教会を愛して活性化していくことでしょう。
 来年の復活祭に向けて、新たなスタートです。今はまだ福音の喜びを知らない大勢の人が、多摩教会と出会いたいと待ち望んでいるのです。来年2011年の復活徹夜祭は4月23日です。その夜、また、復活のろうそくに顔を輝かせた大勢の新受洗者が並ぶでしょう。「名前を呼ばれた洗礼志願者は前に出てください」。その日、どんなお名前が呼ばれるのでしょうか。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

あなたも同じようにしなさい

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 先月のニューズで、2010年度の多摩教会のスローガンである「砂漠のオアシスとなる教会をめざして」に関して、「オアシスに行ったことがある人はそう多くはないだろう、もちろんわたしもそうだ」というようなことを書きましたが、なんと早速、本物のオアシスに行くという偶然に恵まれました。このたびの聖地巡礼旅行の途中、聖書の町エリコに寄ったのですが、そこは実は古代からのオアシスの町だったのです。聖地が荒れ野であるとは知っていましたが、そこに本物のオアシスがあるとは思っていなかったので驚かされましたが、期せずして大変良い黙想の機会となりました。

 エリコはその温暖な気候と豊富な水のために古くから栄えた町で、紀元前7800年ころに人が住んでいたという遺跡があり、城壁を持つ世界最古の町とも言われています。海抜下260メートルにあって、世界で最も低い所にある町としても有名です。
 緑豊かなガリラヤ地方からエルサレムを目指して南下していくと、乾燥して白茶けた荒野が延々と続きますが、エルサレムまであと25キロというところで、忽然と緑の町エリコが現れます。椰子の木が茂り、色とりどりの花も咲いて、それはまさに荒れ野のオアシスそのものでした。そこからは高地のエルサレムまでほとんど上り坂ですから、旅人は必ずこのエリコで休んだことでしょう。現在はパレスチナ自治区ですが、観光に力を入れているとのことで、街の入り口にカジノつきの壮麗なリゾートホテルを建設中でした。要するにこの町は、1万年前から今に至るまでリゾートだったというわけです。
 イエスもエルサレムに向う途中、エリコに立ち寄っています。そのとき、イエスがエリコの町に入ろうとすると、道端の盲人が「わたしを憐れんでください」と叫び、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と願います。イエスは言いました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえてイエスに従います。(ルカ18・35-43参照)この幸いな盲人は、開いた目で、美しいオアシスの町エリコをどのような思いで眺めたことでしょうか。
 そうしてエリコの町に入ると、罪人と言われていた徴税人の頭で、金持ちのザアカイという名の男が、イエスを一目見ようといちじく桑の木に登りました。イエスはその下まで来ると、ザアカイに声をかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは木から飛び降り、喜んでイエスを家に迎えました。おそらくご馳走を並べたことでしょう。人々は「あんな罪人の家に泊まった」と非難しますが、イエスは言います。「今日、救いがこの家を訪れた。わたしは、失われたものを捜して救うために来たのである。」、と。(ルカ19・1-10参照)現在もエリコの町のまん中に「ザアカイの木」と呼ばれるいちじく桑の古木があって、言われてみればまことに登りやすそうな枝振りで、当時を彷彿とさせています。
 このあとイエスはエリコからエルサレムに上って行きますが、エルサレムでは祭司長や律法学者たちとの決定的な対立があり、そのまま十字架上で野死を迎えるわけですから、イエスと弟子たちにとって、エリコは最後の安息の地となったということになります。

 不毛の荒れ野の只中にある、いのちあふれるオアシス。そのイメージは、魂の世界でこそ輝きを放ちます。恐れと不信、争いと絶望の魂の荒れ野の只中に、神のことばが凛と響く。「見えるようになれ」「あなたの信仰があなたを救った」「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」「今日、救いがこの家を訪れた」。そのような福音のあふれるところこそが、現代のオアシスであり、人生の途上でだれもが立ち寄るべき救いの泉です。傷つき倒れている人、闇の底で死に掛けている人を見かけたら、何をおいてもまず、魂のオアシスに連れて行くべきです。
 有名な「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10・25-37)では、イエスはその舞台を次のように設定しています。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」
 その後の展開はご存知でしょう。通りかかった祭司もレビ人も、倒れているこの同胞のユダヤ人を無視して通り過ぎますが、日ごろユダヤ人から蔑視されていた一人のサマリア人だけが、彼を憐れに思って助け起こし、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱します。「エリコへ下っていく途中」のできごとというのですから、その宿屋はエリコにあると考えるのが自然でしょう。つまりこのサマリア人は、死に掛けていた旅人を、まさしくいのち吹き返すオアシスへ連れて行ったのです。
 イエスはたとえ話をこう結びます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

わたしがオアシス

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 オアシスというところに実際に行ったことがあるという人は、そう多くはいないでしょう。おそらく、ほとんどの人はそれぞれ自分なりのオアシスのイメージを持っているだけで、現実のオアシスを知らないのではないでしょうか。もちろん、わたしもそうです。まず思い浮かぶのは、砂漠の中にヤシの木が生えていて、井戸端でラクダが休んでいるのどかな光景です。
 現実のオアシスがどのようなものであるかは実際に住んでみなければわからないことでしょうが、おそらくは、そんなのどかな憩いの場所であると同時に、結構しばしば命がけの現場となっているのではないでしょうか。突然襲う砂嵐の中、命からがらオアシスにたどり着く隊商にとって、そこは単なる休憩所ではなく、時には生死を分かつ避難所でもあるはずです。そんな時はオアシスで迎える側の意識も「よろしかったらどうぞ」などという悠長なものではなく、「おーいここだ! 早く来い」というような、必死な思いであるのは当然のことです。

 先日の信徒総会で、多摩教会2010年のスローガンを「砂漠のオアシスとなる教会をめざして」とすることが了承されました。先月号でも触れたとおり、岡田大司教が日ごろから強調していることでもあり、教会の本質を端的に示すイメージとして、わたしたちの教会のスローガンにとてもふさわしいと思います。
 ただしそのオアシスは、単に「ちょっとひとやすみ」的な、のどかな休憩所のイメージだけでは足りないのではないか。まずはそういう要素も必要だけれど、それにとどまらず、魂の命の死にかけた人々をぎりぎりのところで救う、緊急避難所としての役割もイメージするべきではないでしょうか。
 岡田大司教は東京教区ニュースの2月号で、「多くの人が生きがいを失っている、自死を遂げる人が減らないという状況を前に、本当に教会がオアシスの役割を果たさなければならないことを痛感しています」と語っておられます。確かに現代社会の非人間的現状は、もはや待ったなしの緊急事態であり、その意味では、現代ほど教会が必要とされている時代はないとさえ言える状況なのです。

 イエスの時代にも似たような状況がありました。だからこそ、その時代、その地域にイエスが遣わされたとも言えるでしょう。非人間的な状況下、多くの人が希望を持てずに苦しんでいる中、イエスは宣言します。「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)。これは言うなれば、「わたしがオアシスだ」と言っているようなものです。
 事実、イエスの語る福音とイエスの愛のわざは、神の愛と魂の救いに渇き切っていた民衆に、灼熱の砂漠の真ん中で冷たい泉に出会ったような感動と喜びをもたらしたのでした。そうして「歩くオアシス」として町や村を全力で巡るイエスの意識は、決して悠長なものではなかったはず。なにしろ、目の前に大勢の神の子たちが倒れているのです。一刻も早く、一人でも多くこの「永遠の命にいたる水」を飲ませたいという切羽詰った必死の思いがあったことは間違いありません。そのイエスの愛は、イエスの死と復活によってキリストの弟子たちに受け継がれ、いまやすべてのキリスト者が「わたしがオアシスだ」という自覚と誇りを持って現代の荒野に遣わされているのです。「一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ9・41)

 「砂漠のオアシスとなる教会をめざして」というスローガンを、単に建物としての教会や、組織としての教会とイメージして、訪れる人をおもてなしする教会として捉えるだけでは片手落ちです。まずは、このわたしが教会の一部であるという事実のもと、「わたしがオアシスとなる」という自覚と誇りが必要です。それはしかし、決して大変なことでも不可能なことでもありません。わたしは神に選ばれ、キリストが宿っているという信仰さえあれば、だれにでも出来ることです。
 「永遠の命に至る水」は、人間が作り出すものでも、人間が与えるものでもありません。それは神からあふれだし、キリストによって注がれ、キリスト者から流れ出すものです。ですから、ともかくも神の愛を信じて目の前の一人にかかわることこそがすべての出発点なのです。神のわざなのですから、だれでも必ずオアシスになれますし、実はすでになっています。考えてみればすごいことだと思いませんか。これほど救いの見えにくい、生きるのが困難な世の中にあって、わたしたちキリスト者は確実に人を救えるのです。
 目の前に倒れた旅人がいるとき、どうしたらいいのでしょうか。
 「この人にはオアシスが必要だ」と気付く人は銅メダル。「オアシスに連れて行こう」と決心する人は銀メダル。「わたしがオアシスだ」と信じる人が金メダルです。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

荒れ野で福音宣言

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 多摩カトリックニューズにこうして巻頭言を書くことは主任司祭として当然の務めではありますが、わたしにとってはそれ以上の特別な意味があります。今号で第437号になるこのニューズですが、かつてわたしは、その第1号から117号までを一冊の本にする際の装丁を担当したのです。本文の活字組や扉のイラストから表紙の紙質までデザインし、117の巻頭言全てにカットを描き、そのためにすべての文章を何度も読んでは想を練ったものです。今から27年前、まだ神学生のころです。
 本のタイトルは「荒れ野から」。著者はいうまでもなく、初代主任司祭である寺西英夫神父であり、彼が司祭叙階銀祝記念として出版したものです。わたしが装丁を頼まれた理由は、以前美校で編集デザインを学んでいたということもありますが、何よりもわたしが多摩地区の教会の青年活動で寺西師の影響を受けて神学校に入った者であり、多摩教会にも深い関わりを持っていたからです。実際、この本の175ページには師とも親しかったわたしの父の死にあたって書いた詩が載っていますし、228ページには神学生であるわたしに言及した文章も出てきます。ともあれ、この本に出てくる出来事の数々はわたし自身も体験したことであるため、出来事の本質を見抜こうとする師の見方からは多くを学ばされました。多摩カトリックニューズの巻頭言は、召命を受ける前後のわたしにとって、荒れ野を旅する教会の本質を自らの出来事と重ねつつ学んでいく格好の教科書でもあったのです。

 かく言うわたしも銀祝が近づき、気付けば「荒れ野から」出版時の寺西師の歳になり、あろうことか多摩教会の主任として多摩カトリックニューズの巻頭言を書いているではありませんか。これが単なる偶然ではなく摂理であるのは当然のことで、神様が多摩教会をいっそう多摩教会にしていくために、なすべきことをなしておられるということではないでしょうか。つまりわたしは、聖堂がまだ関戸ビルの2DKだったころから足繁く出入りし、多摩教会という出来事の証し人とされ、教会の本質がなんであるかを目の当りにしてきたものとしてここへ遣わされてきたということです。
 「多摩教会をいっそう多摩教会にしていく」とは、荒れ野で旅する教会として聖堂も持たずに設立され、だからこそ教会の本質である「福音を信じ福音を宣言する集会」としての教会を目指して苦労を重ねてきたという、多摩教会の恵まれた特質を再確認して再出発するということです。
 「荒れ野から」の37ページにはこうあります。「2DKの小さな家では、(略)ミサ以外の時に訪ねてきた人は『これが教会ですか』という顔をする。しかし、これこそ教会の『はだか』の姿なのである。教会とは『キリストを信じるわたしたち』のことであって、そのわたしたちは『キリストの証しされた神の国(神の愛がすべてにしみとおって実現する状態)の到来を、この世にあって受け継ぎ、伝えて行く弟子たちの集り』にほかならない。(略)わたしたちは信じているのである。キリストの証しが、はだかの十字架からの復活によって行われたことを。教会は、その証しを続けていくものであることを。いずれ多摩教会も、少しづつ着物を着ていくことであろう。しかし、常にはだかのキリストを忘れないでいたいと思う。」

 次々と着物を着て、多摩教会は今年献堂10周年を迎えました。いまこそ、なにもないところからすべてをお始めになる神のわざに信頼し、「はだかのキリスト」に立ち帰る節目です。働くのは神です。神が福音を語っているのだから、わたしたちも共に語るのです。どれほど建物が立派でも、福音を語る者が集うのでなければそこはキリストの教会ではありえません。師の言うとおり、「キリストを信じるわたしたち」として「神の国の到来をこの世で伝える弟子たちの集り」でなければなりません。
 岡田大司教様は、ことあるごとに「教会はオアシスであるべき」と語っています。多摩ニュータウンも30年前に比べればずいぶん立派になりましたが、その中身は当時よりいっそう荒れ野化しています。多摩教会こそはまさに旅するオアシスとなり、救いを求めて渇ききった人々に福音を飲ませる教会とならなければなりません。この一年、「荒れ野で福音宣言する集会」をめざしましょう。荒れ野の旅はまだ始まったばかりです。

2009年バックナンバー

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2009年


12月号

(No.436)

2009.12.19

神に触れられて晴佐久 昌英 神父
米国(?)雑感高橋 英海
「信仰と光」のミサ加藤 幸子


11月号

(No.435)

2009.11.21

天国的な会食晴佐久 昌英 神父
感謝 感謝北村 勝彦・真美
ロアゼール神父様司祭叙階金祝おめでとうございます北村 司郎
足が痛くてミサで立っていられない!石塚 時雄


10月号

(No.434)

2009.10.17

教会ショップ「アンジェラ」晴佐久 昌英 神父
友を知り、自分を知り、キリストを知る塚本 博幸
教区こどものミサに参加して塚本 清


9月号

(No.433)

2009.9.19

本物のよろこび晴佐久 昌英 神父
野尻湖中高生キャンプに参加して安部 風紗子
徳見 優
石綿 凌
河野 光浩
ホームページセミナーに参加して思うこと松原 睦


8月号

(No.432)

2009.8.22

天国の応接室晴佐久 昌英 神父
教会学校の合宿に参加して塚本 清
病床訪問チームからのお知らせ塚本 清
合宿の感想文


7月号

(No.431)

2009.7.18

病床も聖堂晴佐久 昌英 神父
初聖体の感想時龍也・南條効子
次男の洗礼松口 嘉之


6月号

(No.430)

2009.6.29

天国の入門講座晴佐久 昌英 神父
多摩修道院の近況多摩修道院
初聖体を受けて
教会学校の遠足に参加して塚本 清


5月号

(No.429)

2010.5.16

天国の受付晴佐久 昌英 神父
晴佐久神父様 よろしくお願いいたします竹内 秀弥
孫たちの洗礼小島 圭子


4月号

(No.428)

2009.4.18

はじめまして晴佐久 昌英 神父
聖堂建設資金返済完了を祝して井上 信一
洗礼の日を迎えて小塚 和恵
伊藤淳助祭の叙階式加藤 泰彦


3月号

(No.427)

2009.3.14

主イエスと出会い、再び会うために〔二〕加藤 豊 神父
恵み多き6年間岩藤 大和
感謝の言葉新谷 ときわ
お体に気をつけてお過ごし下さい増島 亮
送辞塚本 博幸
体には気をつけて下さいね宿里 春奈


2月号

(No.426)

2009.2.21

神殿の境内で加藤 豊 神父
よろしくお願いします。竹内 秀弥
任期を終えて吉田 雨衣夫
チースリク神父様のこと佐倉 リン子


1月号

(No.425)

2009.1.24

主イエスと出会い、再び出会うために加藤 豊 神父
聖堂の屋根及び外壁改修工事のこと竹内 秀弥

 

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

神に触れられて

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 私は姉と弟の三人兄弟の真ん中ですが、実はその下に、生後80日で亡くなった弟がいました。私はすでに中学生でしたので、その誕生と死を良く覚えています。それはそれは小さくて、かわいくて、かわいそうな命でした。
 かわいそうというのは、単に短い命だったからというだけではありません。この弟は、一度も母親に抱かれることがなかったのです。当時母は結核を患っていたため、母子感染を防ぐ必要があり、生まれてすぐに母親と引き離されてしまったからです。
 結局、弟はわが家では育てることはできず、母が完治するまで近くの乳児院に預けることになりました。学校帰りに会いに行っては抱かせてもらったりして、早く大きくなれよという気持ちでしたが、ある日突然、亡くなったという連絡が来たのです。乳児にはよくある突然死だという説明でしたが、私は今でも心の奥ではこう思っているのです。「弟は、さみしくて死んだ」と。

 今でこそ乳児の健康と成長にスキンシップが重要な役割を果たしていることは常識ですが、40年前の乳児院では、赤ん坊はミルクを与えて寝かせておけばいいという感じで、特に抱いたりあやしたりする様子ではありませんでした。数名の職員が忙しそうにしているばかりで、泣いてもすぐに対応してくれるわけではなく、泣き続けている赤ん坊もいたりしたのですが、そんなものかなと思っていたのです。
 しかし赤ん坊にとって抱かれることや、あやされることは、自らの存在意義に関る大問題です。とりわけ、母親の優しい笑顔に見守られ、母親の暖かい声に語りかけられ、母親の柔らかな胸で眠ることは、人はまさにそのために生まれてきたというような重要なことであるはずであり、それが与えられないことこそが究極のストレスなのではないでしょうか。弟にとっては、きっとさみしい80日だったのではないかと思うと、もう少しなんとかできなかったものかと、今でも胸が痛みます。
 母は入院先で息子の死を知りました。突然何かを告げに来た父の苦渋の表情を見ただけで、ああ、息子がだめだったんだと分かったそうです。その時の母の胸のうちを考えるといっそう心が痛みますが、思えばその母も今は天国にいるわけで、ようやくわが子を思い切り抱きしめていることでしょう。わが子に触れること、それは親という存在の究極の願いであり、母親に触れられること、それは子という存在の絶対の原点なのです。

 神と人の関係も同じように、いや、人間の親子関係以上に、そのような究極の願いと絶対の原点で成立しています。神は人に触れたいし、人は神に触れられたい。神は人に触れるために人を生んだのだし、人は神に触れられて初めて生きるものとなり、自分自身になれる。神に触れてもらえないことは、人間にとって死を意味するのです。
 だから、神は人に触れました。それが、クリスマスです。
 イエスとは神の指先であり、イエスがこの世界内に誕生したということは、神がこの世界に触れたということに他なりません。神に触れられて、この世界は生きるものとなりました。この世界は、その根本の意味において死を克服したのです。人間はもはや「さみしくて死ぬ」ことはありません。神の手に触れられていることを信じるならば。

 このたび、わたしの新刊書「福音宣言」が発刊されました。今までも何冊も本を出版してきましたが、今回の本には特別の思いがあります。それは、自分の信仰の原点を明確に示した、ある意味で信仰宣言のような内容だからです。
 その原点とは、私は神というまことの親に語りかけられ、触れてもらった存在だという原点です。その喜びと安心の中で、私たちもまた誰かに神の愛を宣言し、苦しむ人々に触れようではないかと呼びかけています。いつかはそのようなことをきちんとまとめて書きたいと願っていたので、今回無事に発行されて、なんだかほっとしています。大げさでなく、遺書を書き上げたような気分です。教会ショップ「アンジェラ」で販売していますので、ぜひ手にとってごらんください。
 この本が、神がイエスの誕生においてこの世界に直接触れてくださったという、比類なき愛の出来事クリスマスに連なるものとなりますように。
 この本の誕生もまた、私にとってはクリスマスなのです。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

天国的な会食

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 ミサや講演の依頼を受けて全国の教会を訪れる機会が多く、さまざまな小教区を見てきました。いずこもそれなりにがんばってはいるのですが、いくつかの共通した問題を抱えていて、役員の方が思案している姿は見慣れた光景です。たとえば、信者が高齢化して若い人が少ないとか、新たに洗礼を受ける人がほとんどいないとか。なかでもよく聞く悩みは、「信者同士の関りが希薄でミサが終るとみんなすぐに帰ってしまう」というものです。確かに、よほどの大教会でもない限り、日曜日の昼過ぎてもなおにぎやかな教会はほとんど見かけません。むしろ駅前の喫茶店が親しい信者同士でもりあがっているという話を聞くこともあります。
 日本のカトリック教会は、まず宣教師に聖堂を建てていただき、神父様にさあどうぞと招いていただき、手取り足取り教えていただき、ありがたく秘跡をいただきと、何でも「いただく」教会として始まったので、何もいただけないならもう帰ります、というのは普通の信者の普通の思いなのかもしれません。それにそもそも、ミサが終ったころは当然おなかもすいているわけで、さあ帰ってお昼にしようというのもごく自然な話。せっかく集った信者さんたちが、ミサの後も今ひと時教会に残って親しく交わるというのは、そう簡単なことではないようです。

 ところが、多摩教会に来てみたら、なんと信者さん相互の奉仕による軽食サービスがあるではありませんか。ミサの後、ごく当たり前のようにみんなホールに集って、親しくおしゃべりをしながら一緒にお昼を食べている様子に感動しました。当人たちには見慣れた光景かもしれませんが、こんな天国的な会食を実現している教会は滅多にあるものではありません。久しぶりに会う方と話が弾んだり、たまたま同席した人同士が紹介しあったり、これこそ教会家族の食事というべきでしょう。さすがに信者たちが自らの手で立ち上げた多摩教会、単に「いただく」ばかりでなく、互いに「差し上げる」という教会の本質が生きている教会だとの感を強くしました。
 考えてみると、教会の本質は一緒に飯を食うというところにあります。イエス自身が常に宴の真ん中にいましたし、従う婦人たちはそれぞれのものを出し合って旅する共同体の食事を支えていました。イエスと弟子たちの一致の極みである最後の晩餐においてイエスは、「この食事をしたいと切に願っていた」と言い、「この食事をこれからも行いなさい」と命じます。復活の主はエマオに向う弟子たちに現れて食事を共にし、湖のほとりでは朝食を用意し、弟子たちの真ん中に現れたときには「何か食べ物があるか」と尋ねて魚を食べます。初代教会が「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」ていたのは、ともに食事をすることこそが、イエスとひとつになり、信者がひとつになり、教会が神の国の宴の目に見えるしるしになるための、最良の方法だと知っていたからです。

 いうまでもなくその教会家族の食事はミサとして実現しているわけですが、その意味では軽食サービスの食事は、実はミサの一部なのです。聖体拝領した信者たちが、その喜びを互いに分かち合い、今ひと時教会という家族を味わう食事ではないでしょうか。
 そうは言っても、奉仕する人たちの努力は並大抵ではなく、長年続けているうちに手伝う人も減り、体力的な問題もあって、このまま続けていけるだろうかという声も上がってきました。そこで以前より各地区を中心に話し合いを重ね、担当者で相談した結果、それでもなんとか工夫を重ね、できる範囲でもう少しがんばっていこうということになりました。軽食サービスが各地区で輪番になっているのは、互いに仕えあい、奉仕し合うことに意味があるからです。ぜひ、みんなでこの天国的な会食を大切にし、誇りにしていきましょう。いっそう多くの人に食べていただきたいですし、そのためにも新たにお手伝いくださる方を求めています。どんなお手伝いでも結構ですから、お申し出ください。忙しい中、真心で奉仕している信者の姿は、何よりの宣教でもあります。ご聖体でイエスさまに食べさせてもらった信者たちは、イエス様と共に食べさせる側になっていくのです。