2011年11月号 No.459

発行 : 2011年11月19日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


希望のシンボル

主任司祭 晴佐久 昌英神父

  前回、9月に福島市の野田町教会を訪問したとき、市内でカーラジオから流れてくる異様な放送に驚きました。
「○○市、○○シーベルト。××町、××シーベルト。・・・」。
 言うまでもなく、福島各地の「本日の放射能」の数値です。アナウンサーがまるで天気予報のように淡々と読み上げるその放送は、SF映画の1シーンのようでした。
 野田町教会のトマス神父様とはその時初めてお会いしましたが、親切にもてなしてくださり、誠実なお人柄に大変好感を持ちました。神父様はポーランド出身で、故郷のお母様からの度重なる「帰っておいで」コールに参っているそうです。お母様は、息子の教会は事故を起こした原発の門のすぐ前にあると思い込んでいるそうで、遠い国で「フクシマの教会」と聞けばそう思うのも無理はないかもしれません。しかし、実際にその「フクシマ」に東京から来て、「本日の放射能」放送などを聞くと、まさに原発の門のすぐ前まで来たと言う実感を持ってしまったのも事実です。現にそこで暮らす人たちの怒りと苛立ち、不安と焦りはどれほどでしょうか。
 トマス神父様は教会に隣接する幼稚園の園長でもありますが、園児たちのことを大変心配していました。すでに県内外へ避難して行った子どもたちも多く、園生は半減していましたが、残っている子どもたちをどう守るかということに関して一幼稚園のできることには限界があり、行政も東電も当てにできず、それこそ途方に暮れるというご様子でした。
 何かお手伝いできることはありませんかとおたずねすると、ちょっと言いにくそうに、実は、震災で聖堂のマリア像が倒れて砕けてしまったのだけれど、こんな時だから再建もできずにいるのだと打ち明けてくださいました。さすがはポーランドの神父様、コルベ神父様もそうであったようにマリア様への崇敬がひとしおであることに感動しました。と同時に一瞬頭をよぎったのは「マリア像っていくら?」という、まことに恥ずかしくも現実的な思いでしたが、口では大見得を切ってしまいました。
 「こんな時だからこそ、むしろ聖母像は希望のシンボルになるでしょう。ぜひ、わたしたち多摩教会から、寄付させてください。多摩教会では被災地支援として、毎月目的を定めて献金を集めています。10月はこちらの聖母像のために集めます」

  このたび、みなさんのご協力により献金が100万円集りました。心から感謝いたします。これくらいあれば、聖堂に見劣りしない聖母像を安置できるはずです。大見得切ったものとしてはほっとした、というのが正直な思いでもありますが、ともかくも11月はじめ、野田町教会に届けてまいりました。
 2ヶ月ぶりにお会いしたトマス神父様に「お変わりありませんか」とご挨拶すると「お変わりありました」とのお返事。なんと、幼稚園が閉鎖になるというのです。園児が減って立ち行かなくなったと言うことです。園児たちはもちろん、ご両親も職員も卒園生もショックを受けていて、園長としては何とか残したいと努力したのですが、修道会の決定なので仕方がないとのこと。
「わたしは、日本人がすぐに『仕方がない』というのが理解できなかった。原発のことでも、もっと怒りの声をあげ、反対し、行動すべきなのに、おとなしく『仕方がない』という姿に苛立っていた。しかし、今度という今度は、もうどうしようもない。まさに、仕方がない。わたしも日本人になりました・・・」
 返すことばもありませんでした。
 それでも、多摩教会からの献金をお渡しすると大変感激なさって、聖母像が安置されるときはぜひ、ミサを捧げに来てくださいとご招待されましたので、喜んでとお返事しました。都合が合えば多摩の信者さんたちも一緒に行けるといいなと思っています。そこでささやかな交流をして、互いに励ましあい、教会の喜びが生まれれば、まさに聖母像は希望のシンボルとして輝くでしょう。聖母は救い主の母、教会の母、被災地の母ですから。
 11月は、盛岡の信者さんたちの自主的な被災地支援活動である「ナザレの会」を応援することにいたしました。引き続き、献金をお願いします。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第17回

≪私たちのオアシス≫

内山 啓子

  35年ほど前、関戸のマンション教会の頃、土曜日のミサは宮崎カリタス(今のイエスのカリタス)修道女会のかおり保育園の御聖堂で行われていました。ミサの後、私たちが集まる場所もなく、挨拶やお話しは階段の上下でなされていました。お互いの交流もなく、ミサの後は夕食の時間でもありましたので、すぐにそれぞれ家に帰って行きました。しかし週に一度は日中聖書の勉強会がありました。そんな時神父様がしびれを切らせて子供の教育についてそろそろ考えたらどうかと提案がありました。私たちも何かしたい気持ちはありましたが、教会ではないので保育園を自分たちの場所として使うことはできないと思っていました。そんな時一人の信者がこの教会は誰も話しかけてくれないといって「ものみの塔」に移って行ってしまいました。しかしその頃は誰もが他の地区から移ってきたばかりで、時間も場所もない状態で、ただミサに与っていただけですから、皆同じ気持ちだったと思います。
それでもマリア被昇天やクリスマス、復活祭はここでマンション教会の人たちと一緒に、シスターの多大な御協力を得て、盛大に行われていました。そんな頃近所同士の信者が3〜4人ほど、おやつを共にしながら、こんど家庭ミサをしてみない、ということになり、私の家でミサと食事会をしました。30人ほど集まり靴はお風呂場にまで並べ、カレーライスなどで食事をしました。そして月に一度は家庭ミサ、又は近くの里山などに出かけ一緒にピクニックをしたりしていました。そしてどんどん仲よくなり、お互いの家にいったりきたりして深い仲間意識が生まれてきました。
マンション教会の人たちから、かおり地区はみんな輝いているねと羨しがられましたが、そのうち新しい御聖堂づくりが始まり、今の信徒館ができて始めて一つになり、ミサが土・日ともここで行われるようになりました。そして家庭集会はなくなり、ミサ後は会議や教会学校などで集まっていましたが、宮下神父様の頃、軽食サービスをしようということになり、最初は大変という気持ちが強かったですが、二ヶ月に一度ということもあり、皆協力して働きはじめました。今は一人暮らしのお年寄りや精神的不安定な方、又教会になれていない人たちのよりどころになっているようです。
私は土曜日のミサに出ているので、その恩恵にはなかなか与れませんが、土曜日のミサの人たちもこんな交流が出来たらいいなとは思いますが、みんな家族が待っているので、すぐに帰る人が圧倒的です。そして私たち数人が残って祈りの集いを長い間行ってきました。土曜日の夜は誰もいない御聖堂と静けさがあります。祈りをするのに最高です。私たちのオアシスとなっています。

【 投稿記事 】


受付室窓口から

神田 高志

  受付室ガラス窓に本日の当番表氏名を表示している。初めて訪ねて来られる方々は先ずそれに目をやられ、それから声をかけてこられる。
 その一瞬の雰囲気を逃がさず判断して、窓をあけて応対する。先方様にいやがられないと判断したうえで、率先して聖堂など御案内することにしております。
 この頃の訪問者は広報部の成果といいますか、ホームページを見て来られた方が増えております。すでにコルベ神父様の聖なる御遺物は御存知の方も多く、又反対に全く知らなくて驚かれる方もおられるのは不思議ではないと思います。この事については少し詳しく書きたいと思っておりますが、紙面の都合であと回しにさせて頂きます。
 さて、先日午後五島出身の方で現在は栃木県に住んでいて、近くにいる御子息のお嫁さんのお産のおてつだいに来ているというMSさんが訪ねてこられた。この方の本当の目的は晴佐久神父様の主日のミサにあずかり、生の説教を聞きしたい。その為に前もって道順等下調べに訪ねて来られた由。
 永山駅から教会までの道すがら、初めての教会でどうか良きお話し相手にめぐり会えますようにと願いつつ来られたとお聞きして恐縮した次第ですが、小生こそ全く同じ様な思いでこの日勤めていたものであります。
 11月3日、休日で一日当番表が空白でした。この様な祭日に教会外からの訪問者が来られるにちがいない、このような日こそ小生の出番であると勇んで朝9時から夕方5時半迄一日勤めた次第です。ちなみに晴佐久神父様は12時頃高円寺教会へ出かけられた。澤田和夫神父様ダイヤモンド祝ミサの為に。
 澤田神父様といえば、多摩教会発足当初、農協でのミサ、関戸ビル505号室2DKマンションでの最初の黙想会。私的には家内と二人浅草教会を訪問した折、キリシタンの詩をうたって下さったなど、貴重な思い出を持っております。
 話は戻りますが、MSさんへ聖堂にコルベ神父様の聖遺物がございますよ、と告げると一瞬言葉がとぎれて「エー、エー、エー」。
 実はMSさんのお母様冨美子様は長崎から帰国されるコルベ神父様から直接マリア像を頂かれたそうです。その御像は現在妹さん宅にあって、3月11日の大地震に棚から落ちてもこわれなかったそうです。それをお聞きして、今度は小生の方が「エー、エー、エー」。この後台所に席を移して合わせて1時間30〜40分位も話し込みました。
 この日には他にも潮見教会の御婦人、前記MSさんお二人合わせて売店アンジエラでも合計7,000円近く買物して頂いた。午前の電話は宮古の御婦人、三軒茶屋の方他、もちろん当教会信徒の方々も4〜5名顔をみせられたし、本当に良い一日でした。
 訪ねて来られるのは、こんなにいい人達ばかりではありません。中にはサタンの回し者かと思われる様な人も入って来られます。デスク?から顔を上げて窓の外をみる時は緊張の一瞬です。最高に気が抜けないのは、二階から足早に音もなく来られる晴佐久神父様の時で、自分は何も隠れて悪い事をしていないにもかかわらず、神父様のスピードに巻きこまれてあわててしまう。
 やはり罪深い人間である証しなのでしょうか。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

ようこそ、多摩教会へ

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 神父になってから、講演というものを頼まれるようになりなりました。自分が講演をするなど、それこそ想定外のことだったので戸惑うことも多く、もともと人前で話すのが苦手だということもあって、初めのころはすいぶん気後れしていたものです。
 とはいえ、何しろ聖霊の働きを信じて福音を語るわけですから、そこには当然驚くべき救いの実りがたくさん生まれるわけで、その後に届くお礼の手紙や感動的な報告に励まされるうちに、次第に出かけることが苦ではなくなって来ました。
 本を出版するようになってからは依頼も増え、気がつけば全国区になっていて、先ほど過去の講演依頼のファイルで数えてみたら、北は旭川から南は那覇まで、東京以外で講演した場所が67ヶ所ありました。どんな所かというと、たとえば去年は九州から呼ばれる機会が多かったのですが、一年間で、九州だけで福岡、諫早、別府、熊本、鹿児島(北薩地区)の5箇所でお話しています。
 最近ではプロテスタント教会からの講演依頼も増えて、今年は聖公会の教区大会と牧師の研修会、日本基督教団の婦人大会、ナザレン教団の教役者研修会でお話しました。
今年と言えば被災地での講演もありましたし、先日の茅ヶ崎での講演会は、震災の時代にあって、不安や緊張で心を病む人もいる現実の中、希望の福音を語ってほしいという依頼でした。

 いつでも、どこでも、だれでも、どんな状況でも、人々は福音を必要としています。それは水や空気にも似て、人間は福音なしには生きていけないのです。多摩教会の方はご存知でしょうが、わたしの話は初めから終わりまで全て福音です。それしか話せませんし、話すつもりもありません。
 茅ヶ崎の講演会でも、もちろん全体として福音を語っているわけですが、1分間にひとつは、直接的な福音を織り込むように工夫しながらお話しました。
 「神さまは100パーセント愛であり、あなたのことを100パーセント愛しています」
 「神はあなたを喜ばせるために生みました。決して怖がらせるためではありません」
 「どれほどの災害であっても、どれほどの放射能であっても、神の愛から私たちを引き離すことはできません」
 「わたしたちの目には恐ろしい悪と見えるものも、神は善に変える力をお持ちです」
 「すべては途中であり、誕生へのプロセスであり、産みの苦しみに過ぎないのです」
 「あらゆる試練には聖なる意味があります。それを知らないから苦しむのです」
 「神を信じるならば、なにひとつ失っていなかったことに気づくでしょう」
 「今こそ、イエスの言葉を信じましょう。『恐れるな!』というイエスの宣言を」
 「今、ここで、こうして福音を聞いているあなたのうちに、救いは実現しています」
 「あなたはすでに永遠の命を得ています。いずれあなたは、天に生まれるのです」
 「そろそろ講演も終わりの時間になりました。続きは天国で」(笑)
とまあ、そんな感じです。
 しかし、これってわざわざ、特別な人が特別な場で話すようなことでしょうか。頼まれた以上講演しますが、これまたご存知の通りわたしは話の準備ができませんし、その場で聖霊の働くままに目の前の人に単純な福音を語るだけなわけで、「準備なしに聖霊の働くまま単純に」なんてことなら、信者ならだれでも、日常していることであるはずではないでしょうか。上記のようなワンフレーズを話せないという人はいないでしょう。そして、そんなひとことを、いまの時代にどれほど多くの人が必要としていることでしょうか。

 信者のみなさんの存在自体が福音です。神さまは、みなさんのことばと行いをとおして、福音を世界に広めようとしておられます。それこそは、全国を講演して回ることなんかよりいっそう本質的で力があり、多くの実りをもたらして人々を救う、福音宣教の王道なのです。講演はむしろ、そのような信徒を励ますためにあるのです。
 講演会の参加者で、東京に来たついでに多摩教会に寄った、という方が多くいます。主日のミサにも、毎週必ずと言っていいほど、そういう方が来ています。福音をさらに確かめ、いっそう深めたいという切実な思いで来ているのです。ミサで見慣れない方を見かけたら、ぜひ声をかけてください。そして、軽食サービスに招き、お茶を飲み、福音を語ってください。必ず共通の話題が見つかり、心が通い合い、聖霊の働きを実感でき、「さすが多摩教会」と喜んでもらえるはず。そしてそれが、平日の福音宣言への入り口にもなるはず。
 「ようこそ、多摩教会へ」。そういうみなさん自身が、多摩教会なのです。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

つながりの創造

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 9月初めに、2ヶ月ぶりに釜石を再訪しました。5月から始めた毎月の被災地めぐりもこれで5回目になりますが、どこへ行っても同じように強く感じることがあります。それは、言うなれば「つながりの創造」というようなことです。
 神さまは人と人をつなぐことで、人と人の間に愛を生み出し、その愛のネットワークをもって、目には見えない神の国を創造しておられます。ですから、わたしたちが他者と出会って愛し合ったり、他者を許して受け入れたりするとき、実は神さまの創造の業に協力していることにもなるのです。
 けれども現代の都市社会は、この創造の業にまことに非協力的です。つながりどころか、むしろ面倒な関りを避けるシステムをつくりあげ、独りでも快適に生きていける中毒的環境で人を孤立させ、人のつながりを限りなく阻害してきました。
 そんな中、このたびの大震災において、神さまは圧倒的な御業によって人と人を出会わせ、共感させ、かけがえのない友として結び合わせてくださっています。事実、被災地では人と人のつながりこそが最高の宝です。震災直後は人とのつながりがなければ身体的に生き延びられませんでしたし、たとえ身体的に生き延びても、人とのつながりがなければ精神的に生き延びられなかったでしょう。
 人が独りでは生きていけないようにお創りになった神さまは、このたびの大震災をきっかけにして、わたしたちを人間の原点、すなわちつながりの原点へと立ち返らせようとしておられるのです。

 その意味では、本来的に愛のネットワークである教会こそは、いま最もその真価を発揮すべき時だと言えるでしょう。実際、被災地での教会の働きには、本当に感動させられますし、特にボランティアベースのある教会は現実に人のつながりを生み、育て、つながりの創造に大いに寄与する現場になっています。
 塩釜教会のベースでは、ベース長自ら「何かお手伝いできることがありますか」と、御用聞きのように被災地を回っています。釜石教会のベースは、ベース自体が被災者のサロンとなっていて、心のよりどころになっています。米川教会のベースは小さいながらとても家族的で、ボランティア同士の福音的な出会いの場ともなっています。宮古教会のベースは、仮設住宅の各集会所にテレビを取り付けたり、近隣の被災者の自宅にお弁当を届けたり、本当に細やかなサービスを続けています。どこのベースも大変評判よく、地元から絶大な信頼を寄せられていることを、同じキリスト者として本当に誇らしく感じます。9月から大槌町に長崎管区のベースが開所しましたのでこちらも訪問して来ましたが、壊滅的な現場の真ん中に開所したベースの正面には巨大な垂れ幕がかかっていて、大きく「祈」と書かれた文字が、苦難の現場に希望の福音として輝いていました。

 ご存知の通り多摩教会では、このような現場を毎月、月代わりで応援しています。現地に出向くことのできる人は限られていますが、現地と心をひとつにして祈り、犠牲を捧げ、援助を送ることなら誰にでもできますし、わたしなんかは、そんなみなさんと現地の仲立ちをするのが使命なのでしょう。そのためにわたしは、直接現地に出向いてお話を伺い、戻ってきてみなさんからの援助を募り、再び現地に赴いて直接お届けするという関り方を大切にしています。じかに顔をあわせることが、つながりの創造に参与するための大きな力になると信じているからです。
 今回、釜石教会のベースにみなさんからの義捐金をお届けしてまいりましたが、ベース長が感に堪えないという様子で言ってくださいました。「こうして遠いところを、わざわざ来てくださるというだけで、本当に励まされます。私たちの判断で、被災者のために有効に使わせていただきます」。
 9月の献金は宮古教会のベースのためです。来月、直接お届けにまいりますので、ぜひ今後ともご協力をお願いいたします。

 今回は、福島の被災地にも足を運びました。野田町教会でお会いしたトマス神父様のひとことが耳から離れません。「福島はもはや、日本ではありません」。
 東京の繁栄のために植民地のように犠牲を強いられた福島。いまや誰も責任を取らず、誰もつながらず、誰もそこの農産物を買わない福島。「汚れた福島は、お祓いされてしまいました」。
 来月10月は、バザーの収益金を含め福島のために義捐金を集めますので、みんなで心をひとつにして応援しましょう。福島とつながるために。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

充 満 観

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 月初めに塩釜を2ヶ月ぶりに再訪してきました。
 塩釜教会のベースは相変わらず元気一杯で、夏休みということもあって東京から学生たちがボランティアに駆けつけていました。ちょうど着いたばかりの学生たちとおしゃべりしていてつくづくと思ったのですが、ボランティアに来る人ってみんな本当にいい顔をしています。目に、光がある。被災した暗い現場が必要としているのは、まさにそんな光なのでしょう。信者ではない学生たちでしたので、ボランティアの原点はキリストの教えと生き方にある、東京に戻ったらぜひ多摩教会を訪ねてほしいとお誘いしました。
 前回お世話になり、共にミサを捧げた信者さんたちとも再会して、多摩教会からの義援金を直接お渡ししたら本当に喜んで、とても助かります、と言ってくださいました。それにしても、教会をボランティアベースとして提供し続けるのは大変でしょうねと言うと、「最近では、自分の教会なのに、すいません、お邪魔しまーすって感じで入るんですよ」と笑っていました。そんな謙遜と忍耐のエピソードを聞くと、これからもますます応援したくなりました。
 七ヶ浜も再訪しましたが、壊滅的な光景は相変わらずでした。それなりに以前よりは瓦礫の片付き始めているところもありましたが、まだまだ手付かずのように見えるところもあります。同行した青年が、「インターネットのユーチューブで見るのと、ナマで見るのとは全然違う」とつぶやきながら、流された家の跡にポツリと残された炊飯器をじっと見つめていたのが印象的でした。

 確かにナマの現場に立つと、そこでしか感じられないある独特の気配というものがあります。ひとことで言ってしまうとやはり虚無感とか喪失感ということになるのでしょうが、そういう言葉だけではすくい取れない、あまりにも空っぽな気配です。石巻でも釜石でも、南三陸でも宮古でも田老でも、その気配は共通していました。
 あえて具体的なことを言うならば、なにしろまず、とても静かです。本来ならば街が賑わい、車が行き交い、船が出入りして威勢のいい掛け声が響くはずのところが、不気味な静けさに包まれているのです。聞こえる音といえば瓦礫を片付ける重機の鈍い音と、海鳥の声。何かが風にはためいてハタハタと鳴っていると思ったら、いまだに樹上に引っ掛かっている白いシャツ。なるほど、「無常観」というのはまさしくこのような現実の中からつむぎだされた言葉なのでしょう。
 日本人の特徴のひとつと言われているこの無常観は、あまりにも激甚な災害や理不尽な災難から弱い心を守るために、長い年月の中で培われてきたある種の防御反応かもしれません。事実、耐えられない現実を前にして「仕方がない」というあきらめの境地になる以外には、人は生きていくことができないようにも思えます。その意味では、無常観がひとつの救いの道であることは確かです。
 しかし、それに関して、キリスト教はさらなる明確な救いの道を主張しています。あえて造語するならば、「充満観」とでもいうべき信仰の感覚です。要するに、キリストにおいて全存在は神の恵みに満たされており、信じるものはなにひとつ欠けていないという信仰の世界観です。聖書においては、ギリシャ語の「プレローマ(満ち満ちているもの)」がこれにあたります。
 「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)
 「わたしたちは皆、キリストの満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」
 (ヨハネ1・16)
 「こうして、時が満ちるに及んで救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つ にまとめられます」(エフェソ1・10)
 これらの「満ちる」・「満ちあふれる」が、プレローマです。
 キリスト教は、イエス・キリストにおいてこの世界は満たされたと信じます。逆に言えば、キリストにおいて満たされない限り、この世界は欠けた世界なのです。この世においてどれほど富んでいても、それは本質的には欠けた存在であり、逆にすべてを失っても、キリストに満たされているならばなにひとつ欠けていない。
 この天地はすべて、過ぎ去ります。その意味で言うならば無常です。しかし、天地の創造主の愛と、キリストの言葉は決して過ぎ去りません。それを信じるならばわたしたちは充満しています。
 イエスの死後、すべてを失って絶望していた弟子たちに、復活の主が現れて言います。「あなたたちに平和があるように」。この「平和」こそは、何一つ欠けたところのない神の充満です。イエスは弟子たちに、「だいじょうぶだ、あなたたちはなにひとつ失っていない、わたしがいる」と宣言しているのです。
 打ちひしがれている被災地に、地の復興とともに、主の復活をもたらしましょう。究極的にはそれが何よりの支援となるのではないでしょうか。
「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる(プレローマ)豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ3・18-19)

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

被災地方報告・釜石教会と宮古教会

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 5月の塩釜教会と米川教会(南三陸町ベース)に続いて、6月に釜石教会、今月7月は宮古教会を訪問してきました。塩釜と米川は宮城県、釜石と宮古は岩手県です。
 釜石教会はかろうじて津波の被害を免れました。波はちょうど庭の聖母像の前まで来て止まったそうで、しばらくは聖母像の前に瓦礫がたまっていたそうです。震災以降、カリタスジャパンのベースとして大勢のボランテイィアを受け入れるとともに、被災者のための支援物資を配布する集積拠点としての役割も担ってきました。信徒館には常時バザー会場のように物資が並べられ、避難所の方や在宅の被災者がひっきりなしに訪れてきます。会場に整えられたカフェコーナーが地元の方々の憩いのサロンともなっていて、そこで被災者同士がひととき交流したり、傾聴ボランティアがさまざまな思いを受け止めたりする場として重要な機能を果たしているのが印象的でした。物は大事だけれど心はもっと大事、ということでしょう。

 釜石の町は、世界一を誇った堤防が津波の勢いを一旦食い止めたため、壊滅的ではあるけれど比較的建物が残っているのが印象的でした。とは言っても、残った建物も内部は瓦礫の山で、人は住んでいません。早朝ゴーストタウンの中を歩いていると、ふと人類最後の一人が町のメインストリートを歩いていくハリウッド映画のワンシーンを思い出しました。
 そんな被災地区のちょうど端のところに、プロテスタントの新生釜石教会があります。こちらは一階部分が津波被害にあい、牧師の柳谷先生は今も避難所生活をしています。先生が5月に多摩教会を訪ねてくださったご縁もあって先日の新生釜石教会支援コンサートが実現し、そのとき集った義援金を直接お届けしました。壁の破れた礼拝堂で教会員の方々とともに祈り、福音を語る機会を頂き、みなさんも宗派を超えたつながりを大変喜んでくださいました。
 この教会前にたつ通称「赤テント」は、いまや町の名物です。運動会の時に使うあの大きなテントですが、布の部分が赤いので大変目立ちます。常にお茶とお菓子が用意してあり、牧師先生はいつもそこに座って道行く人に声をかけてお誘いするので、さまざまな人がそこでくつろぎ、話し合い、時につらい気持ちを語ります。朝はコーヒー、夕にはビールも出るそのスペースは、さながら地獄の真ん中に出現した天国のようで、ある意味うらやましくもありました。教会に掲げられた横断幕には、「ものよりつながり」と書いてありました。

 宮古教会も被災を免れており、現在は札幌教区の支援のもとでボランティアベースとなっています。聖堂がボランティアの寝室ともなっていて、わたしも生まれて初めて聖堂で寝るという恩恵に与りました。祭壇前の、目を開ければ聖母像と目が合う位置で、常夜灯のように聖体ランプが点るところで横になると、なんだか妙に安心して涙がこぼれました。どの被災地に行ってもちゃんと教会があります。どんな悲しみの現場にも24時間聖体ランプが点っています。主は常に共におられることの美しいしるしです。
 被災した信者さんがたと、初めてということでしたが、海岸での野外ミサをすることになり、これは生涯忘れられないミサになりました。眼下に広がる海には、まだ大勢の人が眠っています。地上には想像を絶する被災の現実が広がっています。あまりにも過酷なその現実のど真ん中で、天地のつながるミサ、キリストの完全なる礼拝が捧げられる。それは、どんな支援や復興にもまさる、神の愛の目に見えるしるしであり、まさに「復活」のミサなのです。
 多摩教会として、今後も、釜石・宮古の教会を応援し、教会を通して被災地のみなさんを支援していきたいと思います。物、金、ボランティア、いずれも大事です。しかし、何よりの支援は、まずはまずはわたしたちが本当に神の愛を信じて祈り、聖なるミサを心をこめて捧げ、全ての神の子と心を同調させることだと信じます。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

塩 釜 ベ ー ス

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 このたび、4日間ではありますが被災地を訪問してきました。塩釜教会のボランティアベースを中心に、七ヶ浜、石巻を回り、最後の日には米川ベースにも立ち寄って南三陸町の避難所を訪問しました。
 現場を車で走りながら思わず口をついて出てきたのは「行けども、行けども・・・」という呆然としたつぶやきです。ともかく延々と、行けども、行けども惨憺たる光景が続くさまは、文字通り「手のつけようがない」有様でした。
 しかし、だからこそ、そんな中で孤軍奮闘のように重機を動かす作業員や、今なお遺体を捜して側溝の泥の中に潜り込んでいく自衛隊員や、ただひたすらに瓦礫を片付け続けているボランティアたちの存在が、それこそ「地獄で仏にあったよう」に輝いて見えたのが、とても印象的でした。

  さて、被災地の現状とボランティアの意義については今号の深江氏の報告に詳しいのでそちらを読んでいただくとして、ここでは少しカトリック塩釜教会のことに触れておきたいと思います。
 塩釜湾は大小二百あまりの松島の島々が点在し、それが天然の防波堤となったため他の地区よりは少しだけ被害が少なかったようです。それでも津波は港から数百メートル内陸まで押し寄せましたが、ちょうどカトリック塩釜教会の手前のところで止まり、地震による損傷も軽微なものでした。あの激しい揺れでもお御堂のマリア像が台座から落ちなかった、というのが信者さんのご自慢で、「落ちないマリア様」として受験生の保護の聖母にしたいなどと、ユーモアたっぷりに案内してくれました。
 しかし、ご存知の通り塩釜教会はこのたび、大きな犠牲を払いました。主任司祭を亡くしたのです。アンドレ・ラシャペル神父は、地震発生時仙台市内にいましたが、皆の制止を振り切って車で教会に戻りました。しかし教会周囲の道は津波で冠水していて立ち往生し、一晩極寒の車中で過ごしたために持病の心臓病を悪化させて亡くなったとのことでした。敬愛する主任司祭を失った塩釜教会の信者さんたちの悲しみは察するに余りあります。落ちないマリア像の前に、神父様の大きな遺影が飾ってありました。

  そんな中、塩釜教会は、仙台サポートセンターのもとボランティアのベース(基地)となる教会に指定されて、教会をあげてベースを支えてきました。このたびそのベースの様子を見て、これは本当に信者さんたちの全面的な祈りと献身、犠牲なしには不可能だなと思い、頭が下がる思いでした。
 ミサ後は、お御堂のベンチは片付けられ、女子の寝室になります。信徒会館のホールは男子の寝室兼食堂。日中瓦礫と格闘してきたボランティアたちが毎日何十人と出入りすれば当然汚れます。ボランティアは皆が信者とは限りませんし、中には教会のことをあまり理解していない人もいるはずです。当然普段どおりの教会活動はできないでしょうし、時には苛立つ出来事もあるのではないでしょうか。
 そのような現実の中で、信者さんたちは毎日このベースを訪れて、だれであれ寛容に受け入れ、忍耐強く対応し、さまざまな工夫をしながらできる限りの奉仕をしているのでした。もちろん、直接的に運営しているのはカリタスジャパンであり、ベース長のブラザーや炊き出しに来ているシスターたちの献身的な奉仕あればこそのベースですが、そこでボランティアたちがさまざまなことを体験して成長し、時には福音に出会う姿を目の当りにするにつけ、そのベースを支える塩釜教会自体も尊い働きをしているなという実感を持ちました。まとめ役の主任司祭がいない中、信者たちが一致団結して話し合い、さまざまな配慮をしている様子は、まさに聖霊に導かれている教会の姿でした。
 今回わたしも塩釜教会の信者さんに受け入れられ、その細やかな配慮と案内で、ご自宅や病院におられる病気の信者さんたちの病床訪問をすることができましたが、教会の本質は何はともあれ「受容」であり、震災後の教会のあるべき方向性はそこにあることを、はっきりと見た気がしました。
 もしも教会が、自分たちの都合やら狭量な了見のために「もうベースはいいでしょう、そろそろお引取りください」などと言いだすとしたら、たとえ十字架は立てていても、もはやそれはキリストの教会とは呼べないでしょう。
 わたしたち多摩教会も、今後、さまざまな形でこの塩釜教会を応援していきたいと思います。それがベースを応援することとなり、それが被災地を支援することになるのですから。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

大震災後に増えるもの

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 震災後、結婚する人の数が急増したというデータが報道されていました。個々の結婚の動機はさまざまでしょうが、震災が何らかの影響を与えたことは間違いありません。そこには共通した理由があるはずであり、おそらくそれは人々が「人間の尊さ」や「人と人のつながりの大切さ」に気づいたということではないでしょうか。
 たしかに、このたびの震災はわたしたちに大きな価値観の転換をもたらしました。ひとことで言えば、これまでの経済第一主義や効率至上主義から人間第一主義、生命至上主義へと変わりつつあるのです。その意味では、よく言われるようにようやく「戦後」が終ったのかもしれません。第二次大戦後、ともかく豊かになろう、強い力を持とう、便利に暮らそうという至上命題のもとに「発展」してきた日本ですが、今人々が本能的に求め始めているのは物よりも心が豊かである人生であり、弱くても互いに助け合う社会であり、不便でも安全で人間らしく生きられる暮らしなのです。
 そのような傾向はバブルの崩壊後、次第に高まって来てはいましたが、そうは言ってもこの不況はなんとかせねばとか、隣国の台頭に負けちゃおれんなどといった戦後の残り火がくすぶっていたのが、この20年だったような気がします。しかしその残り火も、このたびの津波でついに消えたように見えるのです。
 被災地はもちろん東京でも、地震の直後電話が不通になり、家族や友人、パートナーと連絡がつかなくなるという事態が発生しました。そのときわたしたちは決定的に悟ったのです。何が一番大切なのか、何を最優先で守らなければならないのかを。すべてが普通に存在し、当たり前につながっている時は、人々は物事の優先順序をちゃんと考えていませんでした。しかし、ひとたびわが身の危険を体験し、大勢の人を失う悲しみを体験し、互いの安否がわからぬ不安を体験してみると、否応なしに優先順位の真のトップが何であるかが浮かび上がってきたのです。経済も発展も便利も大事だけど、やっぱりなんと言っても大切なのは安らかに共に暮らす家族であり、命を任せられる信頼関係であり、どんなときも助け合う仲間でしょう。つまりは、人と人を結ぶ愛がすべて。そのような気づきこそが、結婚急増の背景に他なりません。

 さて、もしそうであるならば、当然のことながらそれは洗礼が急増するということでもあるはずです。キリスト教こそは、人と人のつながりと、神と人のつながりを何よりも大切にする教えであり、実際にそれを生きている集いだからです。キリストの教会はこの二千年間、神の子である人間第一主義、神によって生かされている生命至上主義を謳ってきましたし、神の愛のうちに人と人を結ぶ愛がすべてだと主張し続けてきました。それを御言葉と犠牲を伴う愛のわざで教えてくれたイエス・キリストを信じることで、愛の文明をつくり、愛がすべてである世界を実現し、神の国を完成させようと呼びかけて来ました。キリストの教会こそは、いかなる時代にも常に真の優先順序を守り続け、危険と不安の闇の中でも本物の安らぎと希望の光を見出せる魂の避難所として機能してきたのです。
 現に、震災後の不安と孤独感の中、とても独りではいられずに教会を訪ねてきた人が何人もいました。人々は、苦難のときに本能的に神を求め、神の愛を求め、神の愛の目に見えるしるしである教会を求めるのです。これから、キリストの教会を求める人が次第に増えてくることは、間違いありません。多摩教会でもいっそう受け入れ態勢を整え、いっそう声を大にしてここに救いがあると呼びかけなければなりません。それこそが、何にもまして「今わたしたちにできること」なのです。

 今年の復活祭に受洗した仲間たちには、何度もお話しました。今年2011年、大震災の直後に洗礼を受けたみなさんは、神から特別の使命を頂いている。苦難の日々に受洗したということは、いつにもまして真の希望を世に証しするようにとの召命を頂いているのだ、と。
 もちろんそれは、全キリスト者に言えることでもあります。多摩教会のみなさん、いつにもまして、福音を語ろうではありませんか。今こそ、イエス・キリストを告げ知らせようではありませんか。千年に一度の大災害を乗り越える真の希望を語るためにこそ、二千年の苦難を乗り越えて福音を語り続けてきたキリストの教会が存在しているのですから。

2012年 4月号 No.464

2012年 4月号 No.464

発行 : 2012年4月22日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


さあその日をめざしてがんばろう

主任司祭 晴佐久 昌英神父


  もう十年も前に生まれたぼく。
  学校にはりきって入学したぼく。
  そんなぼくは、今日もいろいろなことでしかられている。
  そのたびに決心しては、次にまたしかられる。
  こんなことではだめだ。
  よしこんどこそやるぞ。
  だめかもしれないけれどやってみよう。
  そしていつかできるようになったら
  先生やおとうさん、おかあさんにむねをはってやろう。
  さあその日をめざしてがんばろう。

 母が亡くなる数年前だったと思います。ある日、母が「これ、ずっと仕舞ってあったんだけど、返すね」と言って、黄ばんだ一枚の紙を渡してくれました。そこには、鉛筆書きのていねいな字で10行ほどの詩が書いてあり、作者名は晴佐久昌英とありました。最初の一行から類推するに10歳の時の作品のようですが、本人は全く覚えていなかったので、突然昔の自分と出会ったような、何とも不思議な気持ちになりました。
 上掲の詩が、それです。内容からして、たぶん国語の授業で「心で思っていることを素直に書きましょう」などと言われて書いたものではないでしょうか。まさに、毎日叱られて生きていたあの頃の正直な気持ちが書かれていて、いじらしいというか、切ないというか、思わず「がんばれ、自分!」と言いたくなるような詩です。たぶん、このけなげな詩を読んだ母も同じように思ったであろうことは、40年近くこの詩を捨てずに持ち続けていたことからもわかります。おかげさまで、詩人晴佐久昌英の処女作は、ちゃんとこの世に残された、というわけです。よく読むと体言止めや決意の独白、二行ずつの脚韻などのレトリックが施されてあり、独特のリズム感もあってなかなかの技巧派です。
 今はこの詩は額に入れて、トイレに飾ってあります。毎日座るたびにこの詩を読んでは「だいじょうぶだ、晴佐久君、君はがんばってるよ。だれも君をしかったりしない、もうむねをはっていいんだよ!」と自らに言い聞かせるのですが、人の思いというものはそう簡単に変わるものではありません。結局は、10歳の思いからちっとも変わらずに、「でもまあ、そうは言っても、こんなんじゃまだまだだよね・・・もう少しがんばらなくっちゃ」という気になるのです。

 このたび、晴佐久昌英の第2詩集「天国の窓」が発行されました。帯には「18刷、4万2千部のベストセラー『だいじょうぶだよ』から10年、待望の第2詩集」とあります。確かに詩集で4万部というのは立派なベストセラーでしょうし、ちゃんと第2詩集も発行されるなんて、詩人晴佐久君、できるようになったじゃないですか。むねをはってやろうじゃないですか。
 この詩集は、言うなれば「写真詩集」とでも言うべきもので、見開きの片方のページに菅井日人氏の美しい写真、もう片方に詩を載せました。よく、「これ、写真が先なの? 詩が先なの?」と聞かれますが、思わずそう聞きたくなるほどに写真と詩が寄り添って一つの世界をつくりだしているところに、他とはちょっと違う面白さがあります。実際には、写真からインスピレーションを得て詩を書きました。それを並べると、写真と詩、つまり光とことばが絶妙に響きあって、心に深くしみこむ詩集になりました。
 「だいじょうぶだよ」のときもそうでしたが、いつも詩を書くときには、特定のだれかを思い浮かべながら書きます。特に、今つらい気持ちでいる人や、困難の中にいる人のために、励ましとなり希望となるように書いているので、全体に癒しと慰めの香り溢れる詩集になりました。ぜひ、闇の中にいる人、救いを求めている人にプレゼントしてください。ひとつの詩を生み、育て、納得いくものに実らせるためには、大変な苦労と工夫、強い信念と忍耐が必要ですが、苦しんでいる人の気持ちがほんの少しでも和らいでくれるなら、がんばった甲斐があるというものです。
 しかし、ここでいい気になってはいけません。まだまだむねをはったりしてはいけません。こんなことではだめだ。よしこんどこそやるぞ。だめかもしれないけれどやってみよう。さあその日をめざしてがんばろう(涙)。

【 投稿記事 】


祈り

福井 英夫

 皆さまは毎日どんなお祈りをしていますか?
 私は、朝起床時に「今日もいち日何事もなく過ごす事が出来ますように」。朝食と夕食前、夫婦で祈りを唱えてから食事に入ります。寝る前は今日いち日の反省感謝のお祈りをしています。

【 朝の祈り 】

新しい朝を迎えさせてくださった神よ、きょう一日わたしを照らし、導いてください。

いつもほがらかに、すこやかに過ごせますように。
物事がうまくいかない時も、ほほえみを忘れず、いつも物事の明るい面を見、
最悪のときにも、感謝すべきものがあることを、悟らせてください。

自分のしたいことばかりではなく、あなたの望まれることを行い、
まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見い出させてください。

アーメン。


 2000年9月。“長崎・平戸・生月巡礼団”に参加した折に団長のカトリック瀬教会主任司祭(当時)のケンズパリ神父さまから、この朝の祈り、夕べの祈りカードをプレゼントされて、巡礼中、朝食前と夕食前にはツアー参加者全員で唱えてから食事に入りました。私達夫婦は毎日朝食前と夕食前には、この祈りを唱えてから食事のお恵みを頂きます。

【 夕の祈り 】

一日の働きを終えたわたしに、やすらかな憩いの時を与えてくださる神よ、
あなたに祈り、感謝します。

きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちにたくさんのお恵みをお与えください。

わたしの思い、ことば、おこない、おこたりによって、あなたを悲しませたことがあれば、
どうかおゆるしください。

明日はもっとよく生きることができますように。

悲しみや苦しみの中にある人たちを助けてください。
わたしが幸福の中にあっても、困っている人たちのことを忘れることがありませんように。

アーメン。


今日いち日ありがとうございました。神様に感謝”

いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

(テサロニケの信徒への手紙)