2011年12月号 No.460

発行 : 2011年12月17日

【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


福音の村

主任司祭 晴佐久 昌英神父

  晴佐久神父の説教を掲載するホームページ「福音の村」が、開設されました。すでに待降節第一主日の説教から載っていますので、ぜひ開いてみてください。
これは原則として、晴佐久神父の多摩教会の主日ミサでの説教を信徒有志が録音してテープ起こししたものを、晴佐久神父が校正し、もう一度有志が最終チェックして掲載するものです。説教というものは特定の共同体内の特定の信徒に向けて語られるものですから、昨晩だれそれさんが亡くなったとか、個人名等が出てくる場合もありますので、個人情報の保護には十分配慮して、少しでも問題がありそうな場合は校正の段階で削除したり、匿名にするなどしていくつもりです。

  私の説教に関するこのようなホームページは、初めてのことではありません。ちょうど10年前にお隣の高幡教会にいたときに、熱心な信徒のチームが「福音の森」というホームページを立ち上げて毎週の説教を載せていたことがありました。これは高円寺教会に転任してからも続きましたが、4年前に半年間日本を離れたときをきっかけに中止しました。正直言って毎週の校正は大変でしたし、そもそも私のような原稿・メモの一切ないひらめき系の説教が全世界に流れることについての気後れもあったので、中止したときは残念な思いと同時に、少しホッとしたものです。
そんなこともあったので、数ヶ月前、あのころと全く同じような熱心な信徒チームが多摩教会にも自然発生して、あのころと全く同じような説教ホームページを作りたいと言い出したときは「やっぱりきたか・・・」という逃げ腰な気持ちになってしまい、簡単には「はいどうぞ」と言えませんでした。
しかし、すでに説教集を4冊も出しておいてなにをいまさらの感もありますし、来春からはラジオでも放送するとかですでに局が録音に来ていますし、なによりも福音を語れ、語れと人には言っておきながら、自分が臆しているのでは筋が通りません。このようなホームページを待ち望んでいる大勢の人がいるのは事実ですし、このたび、「福音の村」の村人たちの福音に対する情熱に後押しされて、お応えすることにしたという次第です。

  やるからには、ちゃんとやりたい。今回、今までと違う点のひとつは、たぶん説教をアップするスピードでしょう。なにしろ、日曜日の説教のテープ起こしをしたものが、当日の夜には私のところに届いているのです。その熱意に応えるべくこちらもすぐに校正にかかるので、早ければ水曜、木曜あたりにはできあがって配信されるというわけです。その週の福音の説教をその週のうちに読めるということで、そうなると何かと便利なこともあります。それも含めて、福音の村の上手な使い方を3つにまとめてみました。

  1:復習 話というものは聞いているようで聞いていないものですし、聞いてもすぐに忘れてしまいます。もう一度確かめることで、いっそう理解が深まります。また、校正してある文章で読むととてもわかりやすく、聞いたときとは違った発見もあります。福音にはさまざまな側面がありますから、そのときはあまり必要ない内容でも、ずっと後になって必要となったとき、確認することができます。

  2:予習 事情があってミサにあずかれないとき、その週の説教を読むことができます。典礼の暦には流れがあるので、欠かさず読むことはその流れに加わることができますし、それは次週以降の準備にもなります。特にこの神父の説教は「先週お話したベテルギウスの方角に・・」などと、連続物になっていることがありますので、油断できません。毎週のチェックをお勧めします。

  3:宣教 いうまでもありません。だれかにこのホームページを勧めること、イコール福音宣教です。ブログやメールで、こんなページがあるよ、おもしろいよと、どんどん流してください。特にこの話はあの人に聞かせたいという時で、相手がパソコンを使わない場合は、プリントアウトして送るという方法があります。以前は、毎週プリントアウトして、コピーして配っている人もいました。

  実際にこのホームページを開く方はほとんど多摩教会には来られない方です。自宅から出られない方、入院中の方、海外で日本語の説教を聞けない方、耳の不自由な方、そしてなによりも、今苦しんでいて、必死に福音を求めている方。ぜひ、「福音の村」という天国の入り口を教えてあげてください。あなたに教えられて魂が救われたという人が、必ず現れるでしょう。このホームページを支える「村人」たちも募集しています。アドレス等、詳しくは「福音の村」のご案内をお読みください。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第18回

≪多摩教会と私≫

松本 和子

  1967年、都内より引越してきた頃の聖蹟桜ヶ丘駅は踏切を渡って電車に乗る小さな駅でした。さて教会は何処が近いかしらと解らず、今まで通り上野毛教会に通って居りましたところ、北村氏、故八巻氏、今は転出された武井氏等の方々がご奔走下さり多摩の信徒百数十名に声をかけて下さり、聖蹟記念館の境内に集まり、白柳大司教様、寺西神父様そして多勢の神父様方もご参列下さって盛大なミサが行われました。
 聖母被昇天大祝日、そして多摩教会誕生のためでした。こうして多摩教会は建物はまだ無いながらスタートしたのです。「荒野に旅する教会」は多摩の各地区を毎週、回って下さいました。そして降誕祭、復活祭、被昇天祭等の大祝日は農協ホールを借りました。だんだん人数が殖え、一間の家、マンション2間の教会、マンション2室の教会、と旅する教会はだんだんと広くなってきました。そのために皆で積立貯金、教会債券の発行とコツコツ努力してきました。でも、時には皆で高尾山に行ったり、尾瀬沼、至仏山登りなど楽しい思い出もあります。
そして旅は続き、「聖ケ丘」の現在地に辿り着きました。私はここ、オアシスに着いてホッとしました。仮聖堂が建ち、軽食を各地区交替で作るのもお仲間と和気あいあい楽しく作りました。いよいよ聖堂工事、そして大聖年の2000年に献堂式。
宮下神父様にはお世話さまになりました。ご招待状を皆で書いて。当日は快晴の日で白柳大司教様はじめ聖職者の方々、お世話になった関係者の皆様方がお忙しい中を集まって下さり、盛大な献堂式、5月14日でした。階段一杯に並んで撮った記念写真の一同の明るい晴やかな笑顔。友人達と並んだ私も嬉しそうな顔で撮れて居ます。
コツコツと努力の旅、今は落着きました。当然の事ながら私は老婆となりヨタヨタと歩んで日曜日、有難くミサに与かり友人との語らいを楽しむだけで、何もお手伝いも出来ず、オアシスの広場でどんどん成長する可愛いい子供さん達を眺めたり、きびきびした若い方々を頼もしく眺めて居ります。    
心より神に感謝。

【 「福音の村」ご案内 】


「福音の村」のご案内

松原 睦(広報)

  晴佐久神父様の主日ミサの説教を「福音の村」と名付けてホームページで見ることが出来るようになりました。そのURLは: http://www.fukuinnomura.com/ です。「福音の村」と検索していただければ、見ることが出来ます。
この「福音の村」の前身は高幡教会、高円寺教会で「福音の森」として長く皆さんに親しまれたホームページです。晴佐久神父様が多摩教会へ赴任されましたので、「福音の森」の継続をお尋ねしたところ、しばらくお休みにしたいとのことでした。
 しかし、多摩教会の熱心な方が、多摩教会でも作りたいと神父様に強くお願いしたこともあり、この度、神父様の負担が大きくならないよう工夫して、教会活動としてではなく、一部の有志によるホームページならよかろうとのお許しがありました。録音、テープおこし、神父様の校正、HP掲載などのスタッフと一連の作業の流れができあがりました。
 教会活動としてではなく、自主的な運営なので、プロバイダー契約や維持費に費用が必要です。そこで有志による「福音の村」村人を募集することにいたしました。年会費1口1,000円です。ぜひご参加くださいますようお願いいたします。
 教会に来ることが出来ず、晴佐久神父様の説教を聞くことの出来ない方に、一人でも多く神父様の説教が伝わりますように、一人でも多くの人に福音が伝わりますように、このホームページが広く活用されることを願っています。
 「福音の村」を親しい方々に宣伝していただくようお願い致します。また「福音の村」についてのお問い合わせ、村人参加申し込み、またお気づきの点があればどんなことでもスタッフの小野原、片山、後藤、松原にお知らせ願います。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

希望のシンボル

主任司祭 晴佐久 昌英神父

  前回、9月に福島市の野田町教会を訪問したとき、市内でカーラジオから流れてくる異様な放送に驚きました。
「○○市、○○シーベルト。××町、××シーベルト。・・・」。
 言うまでもなく、福島各地の「本日の放射能」の数値です。アナウンサーがまるで天気予報のように淡々と読み上げるその放送は、SF映画の1シーンのようでした。
 野田町教会のトマス神父様とはその時初めてお会いしましたが、親切にもてなしてくださり、誠実なお人柄に大変好感を持ちました。神父様はポーランド出身で、故郷のお母様からの度重なる「帰っておいで」コールに参っているそうです。お母様は、息子の教会は事故を起こした原発の門のすぐ前にあると思い込んでいるそうで、遠い国で「フクシマの教会」と聞けばそう思うのも無理はないかもしれません。しかし、実際にその「フクシマ」に東京から来て、「本日の放射能」放送などを聞くと、まさに原発の門のすぐ前まで来たと言う実感を持ってしまったのも事実です。現にそこで暮らす人たちの怒りと苛立ち、不安と焦りはどれほどでしょうか。
 トマス神父様は教会に隣接する幼稚園の園長でもありますが、園児たちのことを大変心配していました。すでに県内外へ避難して行った子どもたちも多く、園生は半減していましたが、残っている子どもたちをどう守るかということに関して一幼稚園のできることには限界があり、行政も東電も当てにできず、それこそ途方に暮れるというご様子でした。
 何かお手伝いできることはありませんかとおたずねすると、ちょっと言いにくそうに、実は、震災で聖堂のマリア像が倒れて砕けてしまったのだけれど、こんな時だから再建もできずにいるのだと打ち明けてくださいました。さすがはポーランドの神父様、コルベ神父様もそうであったようにマリア様への崇敬がひとしおであることに感動しました。と同時に一瞬頭をよぎったのは「マリア像っていくら?」という、まことに恥ずかしくも現実的な思いでしたが、口では大見得を切ってしまいました。
 「こんな時だからこそ、むしろ聖母像は希望のシンボルになるでしょう。ぜひ、わたしたち多摩教会から、寄付させてください。多摩教会では被災地支援として、毎月目的を定めて献金を集めています。10月はこちらの聖母像のために集めます」

  このたび、みなさんのご協力により献金が100万円集りました。心から感謝いたします。これくらいあれば、聖堂に見劣りしない聖母像を安置できるはずです。大見得切ったものとしてはほっとした、というのが正直な思いでもありますが、ともかくも11月はじめ、野田町教会に届けてまいりました。
 2ヶ月ぶりにお会いしたトマス神父様に「お変わりありませんか」とご挨拶すると「お変わりありました」とのお返事。なんと、幼稚園が閉鎖になるというのです。園児が減って立ち行かなくなったと言うことです。園児たちはもちろん、ご両親も職員も卒園生もショックを受けていて、園長としては何とか残したいと努力したのですが、修道会の決定なので仕方がないとのこと。
「わたしは、日本人がすぐに『仕方がない』というのが理解できなかった。原発のことでも、もっと怒りの声をあげ、反対し、行動すべきなのに、おとなしく『仕方がない』という姿に苛立っていた。しかし、今度という今度は、もうどうしようもない。まさに、仕方がない。わたしも日本人になりました・・・」
 返すことばもありませんでした。
 それでも、多摩教会からの献金をお渡しすると大変感激なさって、聖母像が安置されるときはぜひ、ミサを捧げに来てくださいとご招待されましたので、喜んでとお返事しました。都合が合えば多摩の信者さんたちも一緒に行けるといいなと思っています。そこでささやかな交流をして、互いに励ましあい、教会の喜びが生まれれば、まさに聖母像は希望のシンボルとして輝くでしょう。聖母は救い主の母、教会の母、被災地の母ですから。
 11月は、盛岡の信者さんたちの自主的な被災地支援活動である「ナザレの会」を応援することにいたしました。引き続き、献金をお願いします。

投稿記事

受付室窓口から

神田 高志

  受付室ガラス窓に本日の当番表氏名を表示している。初めて訪ねて来られる方々は先ずそれに目をやられ、それから声をかけてこられる。
 その一瞬の雰囲気を逃がさず判断して、窓をあけて応対する。先方様にいやがられないと判断したうえで、率先して聖堂など御案内することにしております。
 この頃の訪問者は広報部の成果といいますか、ホームページを見て来られた方が増えております。すでにコルベ神父様の聖なる御遺物は御存知の方も多く、又反対に全く知らなくて驚かれる方もおられるのは不思議ではないと思います。この事については少し詳しく書きたいと思っておりますが、紙面の都合であと回しにさせて頂きます。
 さて、先日午後五島出身の方で現在は栃木県に住んでいて、近くにいる御子息のお嫁さんのお産のおてつだいに来ているというMSさんが訪ねてこられた。この方の本当の目的は晴佐久神父様の主日のミサにあずかり、生の説教を聞きしたい。その為に前もって道順等下調べに訪ねて来られた由。
 永山駅から教会までの道すがら、初めての教会でどうか良きお話し相手にめぐり会えますようにと願いつつ来られたとお聞きして恐縮した次第ですが、小生こそ全く同じ様な思いでこの日勤めていたものであります。
 11月3日、休日で一日当番表が空白でした。この様な祭日に教会外からの訪問者が来られるにちがいない、このような日こそ小生の出番であると勇んで朝9時から夕方5時半迄一日勤めた次第です。ちなみに晴佐久神父様は12時頃高円寺教会へ出かけられた。澤田和夫神父様ダイヤモンド祝ミサの為に。
 澤田神父様といえば、多摩教会発足当初、農協でのミサ、関戸ビル505号室2DKマンションでの最初の黙想会。私的には家内と二人浅草教会を訪問した折、キリシタンの詩をうたって下さったなど、貴重な思い出を持っております。
 話は戻りますが、MSさんへ聖堂にコルベ神父様の聖遺物がございますよ、と告げると一瞬言葉がとぎれて「エー、エー、エー」。
 実はMSさんのお母様冨美子様は長崎から帰国されるコルベ神父様から直接マリア像を頂かれたそうです。その御像は現在妹さん宅にあって、3月11日の大地震に棚から落ちてもこわれなかったそうです。それをお聞きして、今度は小生の方が「エー、エー、エー」。この後台所に席を移して合わせて1時間30〜40分位も話し込みました。
 この日には他にも潮見教会の御婦人、前記MSさんお二人合わせて売店アンジエラでも合計7,000円近く買物して頂いた。午前の電話は宮古の御婦人、三軒茶屋の方他、もちろん当教会信徒の方々も4〜5名顔をみせられたし、本当に良い一日でした。
 訪ねて来られるのは、こんなにいい人達ばかりではありません。中にはサタンの回し者かと思われる様な人も入って来られます。デスク?から顔を上げて窓の外をみる時は緊張の一瞬です。最高に気が抜けないのは、二階から足早に音もなく来られる晴佐久神父様の時で、自分は何も隠れて悪い事をしていないにもかかわらず、神父様のスピードに巻きこまれてあわててしまう。
 やはり罪深い人間である証しなのでしょうか。

連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第17回

≪私たちのオアシス≫

内山 啓子

  35年ほど前、関戸のマンション教会の頃、土曜日のミサは宮崎カリタス(今のイエスのカリタス)修道女会のかおり保育園の御聖堂で行われていました。ミサの後、私たちが集まる場所もなく、挨拶やお話しは階段の上下でなされていました。お互いの交流もなく、ミサの後は夕食の時間でもありましたので、すぐにそれぞれ家に帰って行きました。しかし週に一度は日中聖書の勉強会がありました。そんな時神父様がしびれを切らせて子供の教育についてそろそろ考えたらどうかと提案がありました。私たちも何かしたい気持ちはありましたが、教会ではないので保育園を自分たちの場所として使うことはできないと思っていました。そんな時一人の信者がこの教会は誰も話しかけてくれないといって「ものみの塔」に移って行ってしまいました。しかしその頃は誰もが他の地区から移ってきたばかりで、時間も場所もない状態で、ただミサに与っていただけですから、皆同じ気持ちだったと思います。
それでもマリア被昇天やクリスマス、復活祭はここでマンション教会の人たちと一緒に、シスターの多大な御協力を得て、盛大に行われていました。そんな頃近所同士の信者が3〜4人ほど、おやつを共にしながら、こんど家庭ミサをしてみない、ということになり、私の家でミサと食事会をしました。30人ほど集まり靴はお風呂場にまで並べ、カレーライスなどで食事をしました。そして月に一度は家庭ミサ、又は近くの里山などに出かけ一緒にピクニックをしたりしていました。そしてどんどん仲よくなり、お互いの家にいったりきたりして深い仲間意識が生まれてきました。
マンション教会の人たちから、かおり地区はみんな輝いているねと羨しがられましたが、そのうち新しい御聖堂づくりが始まり、今の信徒館ができて始めて一つになり、ミサが土・日ともここで行われるようになりました。そして家庭集会はなくなり、ミサ後は会議や教会学校などで集まっていましたが、宮下神父様の頃、軽食サービスをしようということになり、最初は大変という気持ちが強かったですが、二ヶ月に一度ということもあり、皆協力して働きはじめました。今は一人暮らしのお年寄りや精神的不安定な方、又教会になれていない人たちのよりどころになっているようです。
私は土曜日のミサに出ているので、その恩恵にはなかなか与れませんが、土曜日のミサの人たちもこんな交流が出来たらいいなとは思いますが、みんな家族が待っているので、すぐに帰る人が圧倒的です。そして私たち数人が残って祈りの集いを長い間行ってきました。土曜日の夜は誰もいない御聖堂と静けさがあります。祈りをするのに最高です。私たちのオアシスとなっています。

2011年11月号 No.459

発行 : 2011年11月19日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


希望のシンボル

主任司祭 晴佐久 昌英神父

  前回、9月に福島市の野田町教会を訪問したとき、市内でカーラジオから流れてくる異様な放送に驚きました。
「○○市、○○シーベルト。××町、××シーベルト。・・・」。
 言うまでもなく、福島各地の「本日の放射能」の数値です。アナウンサーがまるで天気予報のように淡々と読み上げるその放送は、SF映画の1シーンのようでした。
 野田町教会のトマス神父様とはその時初めてお会いしましたが、親切にもてなしてくださり、誠実なお人柄に大変好感を持ちました。神父様はポーランド出身で、故郷のお母様からの度重なる「帰っておいで」コールに参っているそうです。お母様は、息子の教会は事故を起こした原発の門のすぐ前にあると思い込んでいるそうで、遠い国で「フクシマの教会」と聞けばそう思うのも無理はないかもしれません。しかし、実際にその「フクシマ」に東京から来て、「本日の放射能」放送などを聞くと、まさに原発の門のすぐ前まで来たと言う実感を持ってしまったのも事実です。現にそこで暮らす人たちの怒りと苛立ち、不安と焦りはどれほどでしょうか。
 トマス神父様は教会に隣接する幼稚園の園長でもありますが、園児たちのことを大変心配していました。すでに県内外へ避難して行った子どもたちも多く、園生は半減していましたが、残っている子どもたちをどう守るかということに関して一幼稚園のできることには限界があり、行政も東電も当てにできず、それこそ途方に暮れるというご様子でした。
 何かお手伝いできることはありませんかとおたずねすると、ちょっと言いにくそうに、実は、震災で聖堂のマリア像が倒れて砕けてしまったのだけれど、こんな時だから再建もできずにいるのだと打ち明けてくださいました。さすがはポーランドの神父様、コルベ神父様もそうであったようにマリア様への崇敬がひとしおであることに感動しました。と同時に一瞬頭をよぎったのは「マリア像っていくら?」という、まことに恥ずかしくも現実的な思いでしたが、口では大見得を切ってしまいました。
 「こんな時だからこそ、むしろ聖母像は希望のシンボルになるでしょう。ぜひ、わたしたち多摩教会から、寄付させてください。多摩教会では被災地支援として、毎月目的を定めて献金を集めています。10月はこちらの聖母像のために集めます」

  このたび、みなさんのご協力により献金が100万円集りました。心から感謝いたします。これくらいあれば、聖堂に見劣りしない聖母像を安置できるはずです。大見得切ったものとしてはほっとした、というのが正直な思いでもありますが、ともかくも11月はじめ、野田町教会に届けてまいりました。
 2ヶ月ぶりにお会いしたトマス神父様に「お変わりありませんか」とご挨拶すると「お変わりありました」とのお返事。なんと、幼稚園が閉鎖になるというのです。園児が減って立ち行かなくなったと言うことです。園児たちはもちろん、ご両親も職員も卒園生もショックを受けていて、園長としては何とか残したいと努力したのですが、修道会の決定なので仕方がないとのこと。
「わたしは、日本人がすぐに『仕方がない』というのが理解できなかった。原発のことでも、もっと怒りの声をあげ、反対し、行動すべきなのに、おとなしく『仕方がない』という姿に苛立っていた。しかし、今度という今度は、もうどうしようもない。まさに、仕方がない。わたしも日本人になりました・・・」
 返すことばもありませんでした。
 それでも、多摩教会からの献金をお渡しすると大変感激なさって、聖母像が安置されるときはぜひ、ミサを捧げに来てくださいとご招待されましたので、喜んでとお返事しました。都合が合えば多摩の信者さんたちも一緒に行けるといいなと思っています。そこでささやかな交流をして、互いに励ましあい、教会の喜びが生まれれば、まさに聖母像は希望のシンボルとして輝くでしょう。聖母は救い主の母、教会の母、被災地の母ですから。
 11月は、盛岡の信者さんたちの自主的な被災地支援活動である「ナザレの会」を応援することにいたしました。引き続き、献金をお願いします。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第17回

≪私たちのオアシス≫

内山 啓子

  35年ほど前、関戸のマンション教会の頃、土曜日のミサは宮崎カリタス(今のイエスのカリタス)修道女会のかおり保育園の御聖堂で行われていました。ミサの後、私たちが集まる場所もなく、挨拶やお話しは階段の上下でなされていました。お互いの交流もなく、ミサの後は夕食の時間でもありましたので、すぐにそれぞれ家に帰って行きました。しかし週に一度は日中聖書の勉強会がありました。そんな時神父様がしびれを切らせて子供の教育についてそろそろ考えたらどうかと提案がありました。私たちも何かしたい気持ちはありましたが、教会ではないので保育園を自分たちの場所として使うことはできないと思っていました。そんな時一人の信者がこの教会は誰も話しかけてくれないといって「ものみの塔」に移って行ってしまいました。しかしその頃は誰もが他の地区から移ってきたばかりで、時間も場所もない状態で、ただミサに与っていただけですから、皆同じ気持ちだったと思います。
それでもマリア被昇天やクリスマス、復活祭はここでマンション教会の人たちと一緒に、シスターの多大な御協力を得て、盛大に行われていました。そんな頃近所同士の信者が3〜4人ほど、おやつを共にしながら、こんど家庭ミサをしてみない、ということになり、私の家でミサと食事会をしました。30人ほど集まり靴はお風呂場にまで並べ、カレーライスなどで食事をしました。そして月に一度は家庭ミサ、又は近くの里山などに出かけ一緒にピクニックをしたりしていました。そしてどんどん仲よくなり、お互いの家にいったりきたりして深い仲間意識が生まれてきました。
マンション教会の人たちから、かおり地区はみんな輝いているねと羨しがられましたが、そのうち新しい御聖堂づくりが始まり、今の信徒館ができて始めて一つになり、ミサが土・日ともここで行われるようになりました。そして家庭集会はなくなり、ミサ後は会議や教会学校などで集まっていましたが、宮下神父様の頃、軽食サービスをしようということになり、最初は大変という気持ちが強かったですが、二ヶ月に一度ということもあり、皆協力して働きはじめました。今は一人暮らしのお年寄りや精神的不安定な方、又教会になれていない人たちのよりどころになっているようです。
私は土曜日のミサに出ているので、その恩恵にはなかなか与れませんが、土曜日のミサの人たちもこんな交流が出来たらいいなとは思いますが、みんな家族が待っているので、すぐに帰る人が圧倒的です。そして私たち数人が残って祈りの集いを長い間行ってきました。土曜日の夜は誰もいない御聖堂と静けさがあります。祈りをするのに最高です。私たちのオアシスとなっています。

【 投稿記事 】


受付室窓口から

神田 高志

  受付室ガラス窓に本日の当番表氏名を表示している。初めて訪ねて来られる方々は先ずそれに目をやられ、それから声をかけてこられる。
 その一瞬の雰囲気を逃がさず判断して、窓をあけて応対する。先方様にいやがられないと判断したうえで、率先して聖堂など御案内することにしております。
 この頃の訪問者は広報部の成果といいますか、ホームページを見て来られた方が増えております。すでにコルベ神父様の聖なる御遺物は御存知の方も多く、又反対に全く知らなくて驚かれる方もおられるのは不思議ではないと思います。この事については少し詳しく書きたいと思っておりますが、紙面の都合であと回しにさせて頂きます。
 さて、先日午後五島出身の方で現在は栃木県に住んでいて、近くにいる御子息のお嫁さんのお産のおてつだいに来ているというMSさんが訪ねてこられた。この方の本当の目的は晴佐久神父様の主日のミサにあずかり、生の説教を聞きしたい。その為に前もって道順等下調べに訪ねて来られた由。
 永山駅から教会までの道すがら、初めての教会でどうか良きお話し相手にめぐり会えますようにと願いつつ来られたとお聞きして恐縮した次第ですが、小生こそ全く同じ様な思いでこの日勤めていたものであります。
 11月3日、休日で一日当番表が空白でした。この様な祭日に教会外からの訪問者が来られるにちがいない、このような日こそ小生の出番であると勇んで朝9時から夕方5時半迄一日勤めた次第です。ちなみに晴佐久神父様は12時頃高円寺教会へ出かけられた。澤田和夫神父様ダイヤモンド祝ミサの為に。
 澤田神父様といえば、多摩教会発足当初、農協でのミサ、関戸ビル505号室2DKマンションでの最初の黙想会。私的には家内と二人浅草教会を訪問した折、キリシタンの詩をうたって下さったなど、貴重な思い出を持っております。
 話は戻りますが、MSさんへ聖堂にコルベ神父様の聖遺物がございますよ、と告げると一瞬言葉がとぎれて「エー、エー、エー」。
 実はMSさんのお母様冨美子様は長崎から帰国されるコルベ神父様から直接マリア像を頂かれたそうです。その御像は現在妹さん宅にあって、3月11日の大地震に棚から落ちてもこわれなかったそうです。それをお聞きして、今度は小生の方が「エー、エー、エー」。この後台所に席を移して合わせて1時間30〜40分位も話し込みました。
 この日には他にも潮見教会の御婦人、前記MSさんお二人合わせて売店アンジエラでも合計7,000円近く買物して頂いた。午前の電話は宮古の御婦人、三軒茶屋の方他、もちろん当教会信徒の方々も4〜5名顔をみせられたし、本当に良い一日でした。
 訪ねて来られるのは、こんなにいい人達ばかりではありません。中にはサタンの回し者かと思われる様な人も入って来られます。デスク?から顔を上げて窓の外をみる時は緊張の一瞬です。最高に気が抜けないのは、二階から足早に音もなく来られる晴佐久神父様の時で、自分は何も隠れて悪い事をしていないにもかかわらず、神父様のスピードに巻きこまれてあわててしまう。
 やはり罪深い人間である証しなのでしょうか。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

ようこそ、多摩教会へ

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 神父になってから、講演というものを頼まれるようになりなりました。自分が講演をするなど、それこそ想定外のことだったので戸惑うことも多く、もともと人前で話すのが苦手だということもあって、初めのころはすいぶん気後れしていたものです。
 とはいえ、何しろ聖霊の働きを信じて福音を語るわけですから、そこには当然驚くべき救いの実りがたくさん生まれるわけで、その後に届くお礼の手紙や感動的な報告に励まされるうちに、次第に出かけることが苦ではなくなって来ました。
 本を出版するようになってからは依頼も増え、気がつけば全国区になっていて、先ほど過去の講演依頼のファイルで数えてみたら、北は旭川から南は那覇まで、東京以外で講演した場所が67ヶ所ありました。どんな所かというと、たとえば去年は九州から呼ばれる機会が多かったのですが、一年間で、九州だけで福岡、諫早、別府、熊本、鹿児島(北薩地区)の5箇所でお話しています。
 最近ではプロテスタント教会からの講演依頼も増えて、今年は聖公会の教区大会と牧師の研修会、日本基督教団の婦人大会、ナザレン教団の教役者研修会でお話しました。
今年と言えば被災地での講演もありましたし、先日の茅ヶ崎での講演会は、震災の時代にあって、不安や緊張で心を病む人もいる現実の中、希望の福音を語ってほしいという依頼でした。

 いつでも、どこでも、だれでも、どんな状況でも、人々は福音を必要としています。それは水や空気にも似て、人間は福音なしには生きていけないのです。多摩教会の方はご存知でしょうが、わたしの話は初めから終わりまで全て福音です。それしか話せませんし、話すつもりもありません。
 茅ヶ崎の講演会でも、もちろん全体として福音を語っているわけですが、1分間にひとつは、直接的な福音を織り込むように工夫しながらお話しました。
 「神さまは100パーセント愛であり、あなたのことを100パーセント愛しています」
 「神はあなたを喜ばせるために生みました。決して怖がらせるためではありません」
 「どれほどの災害であっても、どれほどの放射能であっても、神の愛から私たちを引き離すことはできません」
 「わたしたちの目には恐ろしい悪と見えるものも、神は善に変える力をお持ちです」
 「すべては途中であり、誕生へのプロセスであり、産みの苦しみに過ぎないのです」
 「あらゆる試練には聖なる意味があります。それを知らないから苦しむのです」
 「神を信じるならば、なにひとつ失っていなかったことに気づくでしょう」
 「今こそ、イエスの言葉を信じましょう。『恐れるな!』というイエスの宣言を」
 「今、ここで、こうして福音を聞いているあなたのうちに、救いは実現しています」
 「あなたはすでに永遠の命を得ています。いずれあなたは、天に生まれるのです」
 「そろそろ講演も終わりの時間になりました。続きは天国で」(笑)
とまあ、そんな感じです。
 しかし、これってわざわざ、特別な人が特別な場で話すようなことでしょうか。頼まれた以上講演しますが、これまたご存知の通りわたしは話の準備ができませんし、その場で聖霊の働くままに目の前の人に単純な福音を語るだけなわけで、「準備なしに聖霊の働くまま単純に」なんてことなら、信者ならだれでも、日常していることであるはずではないでしょうか。上記のようなワンフレーズを話せないという人はいないでしょう。そして、そんなひとことを、いまの時代にどれほど多くの人が必要としていることでしょうか。

 信者のみなさんの存在自体が福音です。神さまは、みなさんのことばと行いをとおして、福音を世界に広めようとしておられます。それこそは、全国を講演して回ることなんかよりいっそう本質的で力があり、多くの実りをもたらして人々を救う、福音宣教の王道なのです。講演はむしろ、そのような信徒を励ますためにあるのです。
 講演会の参加者で、東京に来たついでに多摩教会に寄った、という方が多くいます。主日のミサにも、毎週必ずと言っていいほど、そういう方が来ています。福音をさらに確かめ、いっそう深めたいという切実な思いで来ているのです。ミサで見慣れない方を見かけたら、ぜひ声をかけてください。そして、軽食サービスに招き、お茶を飲み、福音を語ってください。必ず共通の話題が見つかり、心が通い合い、聖霊の働きを実感でき、「さすが多摩教会」と喜んでもらえるはず。そしてそれが、平日の福音宣言への入り口にもなるはず。
 「ようこそ、多摩教会へ」。そういうみなさん自身が、多摩教会なのです。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

つながりの創造

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 9月初めに、2ヶ月ぶりに釜石を再訪しました。5月から始めた毎月の被災地めぐりもこれで5回目になりますが、どこへ行っても同じように強く感じることがあります。それは、言うなれば「つながりの創造」というようなことです。
 神さまは人と人をつなぐことで、人と人の間に愛を生み出し、その愛のネットワークをもって、目には見えない神の国を創造しておられます。ですから、わたしたちが他者と出会って愛し合ったり、他者を許して受け入れたりするとき、実は神さまの創造の業に協力していることにもなるのです。
 けれども現代の都市社会は、この創造の業にまことに非協力的です。つながりどころか、むしろ面倒な関りを避けるシステムをつくりあげ、独りでも快適に生きていける中毒的環境で人を孤立させ、人のつながりを限りなく阻害してきました。
 そんな中、このたびの大震災において、神さまは圧倒的な御業によって人と人を出会わせ、共感させ、かけがえのない友として結び合わせてくださっています。事実、被災地では人と人のつながりこそが最高の宝です。震災直後は人とのつながりがなければ身体的に生き延びられませんでしたし、たとえ身体的に生き延びても、人とのつながりがなければ精神的に生き延びられなかったでしょう。
 人が独りでは生きていけないようにお創りになった神さまは、このたびの大震災をきっかけにして、わたしたちを人間の原点、すなわちつながりの原点へと立ち返らせようとしておられるのです。

 その意味では、本来的に愛のネットワークである教会こそは、いま最もその真価を発揮すべき時だと言えるでしょう。実際、被災地での教会の働きには、本当に感動させられますし、特にボランティアベースのある教会は現実に人のつながりを生み、育て、つながりの創造に大いに寄与する現場になっています。
 塩釜教会のベースでは、ベース長自ら「何かお手伝いできることがありますか」と、御用聞きのように被災地を回っています。釜石教会のベースは、ベース自体が被災者のサロンとなっていて、心のよりどころになっています。米川教会のベースは小さいながらとても家族的で、ボランティア同士の福音的な出会いの場ともなっています。宮古教会のベースは、仮設住宅の各集会所にテレビを取り付けたり、近隣の被災者の自宅にお弁当を届けたり、本当に細やかなサービスを続けています。どこのベースも大変評判よく、地元から絶大な信頼を寄せられていることを、同じキリスト者として本当に誇らしく感じます。9月から大槌町に長崎管区のベースが開所しましたのでこちらも訪問して来ましたが、壊滅的な現場の真ん中に開所したベースの正面には巨大な垂れ幕がかかっていて、大きく「祈」と書かれた文字が、苦難の現場に希望の福音として輝いていました。

 ご存知の通り多摩教会では、このような現場を毎月、月代わりで応援しています。現地に出向くことのできる人は限られていますが、現地と心をひとつにして祈り、犠牲を捧げ、援助を送ることなら誰にでもできますし、わたしなんかは、そんなみなさんと現地の仲立ちをするのが使命なのでしょう。そのためにわたしは、直接現地に出向いてお話を伺い、戻ってきてみなさんからの援助を募り、再び現地に赴いて直接お届けするという関り方を大切にしています。じかに顔をあわせることが、つながりの創造に参与するための大きな力になると信じているからです。
 今回、釜石教会のベースにみなさんからの義捐金をお届けしてまいりましたが、ベース長が感に堪えないという様子で言ってくださいました。「こうして遠いところを、わざわざ来てくださるというだけで、本当に励まされます。私たちの判断で、被災者のために有効に使わせていただきます」。
 9月の献金は宮古教会のベースのためです。来月、直接お届けにまいりますので、ぜひ今後ともご協力をお願いいたします。

 今回は、福島の被災地にも足を運びました。野田町教会でお会いしたトマス神父様のひとことが耳から離れません。「福島はもはや、日本ではありません」。
 東京の繁栄のために植民地のように犠牲を強いられた福島。いまや誰も責任を取らず、誰もつながらず、誰もそこの農産物を買わない福島。「汚れた福島は、お祓いされてしまいました」。
 来月10月は、バザーの収益金を含め福島のために義捐金を集めますので、みんなで心をひとつにして応援しましょう。福島とつながるために。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

充 満 観

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 月初めに塩釜を2ヶ月ぶりに再訪してきました。
 塩釜教会のベースは相変わらず元気一杯で、夏休みということもあって東京から学生たちがボランティアに駆けつけていました。ちょうど着いたばかりの学生たちとおしゃべりしていてつくづくと思ったのですが、ボランティアに来る人ってみんな本当にいい顔をしています。目に、光がある。被災した暗い現場が必要としているのは、まさにそんな光なのでしょう。信者ではない学生たちでしたので、ボランティアの原点はキリストの教えと生き方にある、東京に戻ったらぜひ多摩教会を訪ねてほしいとお誘いしました。
 前回お世話になり、共にミサを捧げた信者さんたちとも再会して、多摩教会からの義援金を直接お渡ししたら本当に喜んで、とても助かります、と言ってくださいました。それにしても、教会をボランティアベースとして提供し続けるのは大変でしょうねと言うと、「最近では、自分の教会なのに、すいません、お邪魔しまーすって感じで入るんですよ」と笑っていました。そんな謙遜と忍耐のエピソードを聞くと、これからもますます応援したくなりました。
 七ヶ浜も再訪しましたが、壊滅的な光景は相変わらずでした。それなりに以前よりは瓦礫の片付き始めているところもありましたが、まだまだ手付かずのように見えるところもあります。同行した青年が、「インターネットのユーチューブで見るのと、ナマで見るのとは全然違う」とつぶやきながら、流された家の跡にポツリと残された炊飯器をじっと見つめていたのが印象的でした。

 確かにナマの現場に立つと、そこでしか感じられないある独特の気配というものがあります。ひとことで言ってしまうとやはり虚無感とか喪失感ということになるのでしょうが、そういう言葉だけではすくい取れない、あまりにも空っぽな気配です。石巻でも釜石でも、南三陸でも宮古でも田老でも、その気配は共通していました。
 あえて具体的なことを言うならば、なにしろまず、とても静かです。本来ならば街が賑わい、車が行き交い、船が出入りして威勢のいい掛け声が響くはずのところが、不気味な静けさに包まれているのです。聞こえる音といえば瓦礫を片付ける重機の鈍い音と、海鳥の声。何かが風にはためいてハタハタと鳴っていると思ったら、いまだに樹上に引っ掛かっている白いシャツ。なるほど、「無常観」というのはまさしくこのような現実の中からつむぎだされた言葉なのでしょう。
 日本人の特徴のひとつと言われているこの無常観は、あまりにも激甚な災害や理不尽な災難から弱い心を守るために、長い年月の中で培われてきたある種の防御反応かもしれません。事実、耐えられない現実を前にして「仕方がない」というあきらめの境地になる以外には、人は生きていくことができないようにも思えます。その意味では、無常観がひとつの救いの道であることは確かです。
 しかし、それに関して、キリスト教はさらなる明確な救いの道を主張しています。あえて造語するならば、「充満観」とでもいうべき信仰の感覚です。要するに、キリストにおいて全存在は神の恵みに満たされており、信じるものはなにひとつ欠けていないという信仰の世界観です。聖書においては、ギリシャ語の「プレローマ(満ち満ちているもの)」がこれにあたります。
 「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)
 「わたしたちは皆、キリストの満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」
 (ヨハネ1・16)
 「こうして、時が満ちるに及んで救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つ にまとめられます」(エフェソ1・10)
 これらの「満ちる」・「満ちあふれる」が、プレローマです。
 キリスト教は、イエス・キリストにおいてこの世界は満たされたと信じます。逆に言えば、キリストにおいて満たされない限り、この世界は欠けた世界なのです。この世においてどれほど富んでいても、それは本質的には欠けた存在であり、逆にすべてを失っても、キリストに満たされているならばなにひとつ欠けていない。
 この天地はすべて、過ぎ去ります。その意味で言うならば無常です。しかし、天地の創造主の愛と、キリストの言葉は決して過ぎ去りません。それを信じるならばわたしたちは充満しています。
 イエスの死後、すべてを失って絶望していた弟子たちに、復活の主が現れて言います。「あなたたちに平和があるように」。この「平和」こそは、何一つ欠けたところのない神の充満です。イエスは弟子たちに、「だいじょうぶだ、あなたたちはなにひとつ失っていない、わたしがいる」と宣言しているのです。
 打ちひしがれている被災地に、地の復興とともに、主の復活をもたらしましょう。究極的にはそれが何よりの支援となるのではないでしょうか。
「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる(プレローマ)豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ3・18-19)