巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

「想定外」の25年

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 5月13日、司祭叙階25周年記念のミサを捧げることが出来て感無量でした。多摩教会としては、寺西英夫師が1983年に銀祝を迎えて以来ということになります。実はその折、師の銀祝記念の本の装丁をお手伝いしたのですが、その時の私はまだ駆け出しの神学生。将来叙階できるかどうかも分からない身にとっては、銀祝なんて遥か彼方に仰ぎ見る夢のまた夢というのが実感でした。それが巡り巡って、こうして多摩教会にて25周年を迎えることとなったのですから、み摂理に感動するばかりです。このお騒がせ神父を受け入れ、共に歩んでくださっている皆さんには改めて、心から、感謝いたします。

 この25年を振り返っての感想は、「想定外」の一語に尽きます。自分なりの司祭のイメージは、ごく普通の教会を教区司祭がのんびり見守っているというもので、それは想定内でしたが、現実には小教区以外の奉仕が多く、それこそ想像もしていなかったことを次々と依頼されてきました。
 ひとつは、青少年活動です。教区の青少年担当ばかりか中央協議会の青少年委員会のメンバーともなり、全国規模での青少年活動の活性化を工夫することとなりました。小教区の枠を超えた青年の集い「初金クラブ」、月に一度のライブスペース「ラスキンクラブ」、幅広く青年活動を支援する「東京教区青年ネットワーク」、オリジナルの福音の歌コンクール「スピリット・ソング・フェスティバル」、ライブしながら他教区を訪問する「ライブキャラバン」、教皇様の呼びかけに答えて世界の青年が集まる「ワールド・ユース・デイ」参加ツアー、そこから始まった「ジャパン・ユース・デイ」、そして25年間続いている「無人島キャンプ」などなど、すべて私の思いつきです。
 また、映画とこれ程に関わることになろうとも思っていませんでした。たまたま映画評を一つ頼まれて書いたのがきっかけで、カトリック新聞の映画欄を担当することになり、試写室をめぐる日々が始まり、劇場パンフレットに原稿を書き、映画の分かち合いグループ「天国映画村」を立ち上げ、カトリック映画視聴覚協議会(現シグニス・ジャパン)の副会長(現顧問司祭)となり、日本カトリック映画賞の授賞式上映会を企画し、シグニスアジアの海外会議に参加し、大会の日本招聘にまでこぎつけました。シグニスの守備範囲をインターネットに広げてセミナーを取り入れるなど、そう得意でもないのにメディアの世界と深く関わることになってしまいました。
 執筆活動も、これまた想定外。最初は小さな連載コラムを担当しただけだったのがまとまって本になり、教会報に書いた詩が広まって詩集になり、ただ説教でしゃべっていただけなのに説教集になりと、次々と出版されていくのです。そうなると、あれを連載してくれ、これを出版したいと依頼が相次いで、今抱えているものを考えると気が遠くなりそう。執筆に充てられる時間って、それほど多くないんです。気づけば絵本3冊、エッセイ集3冊、聖書解説・神学関係書2冊、説教集4冊、詩集2冊、そして日めくりカレンダー2冊。サイン会とかしながら、心の中では「オレ、なにやってんだろ」と思ったりする日々なのです。
 想定外というなら、講演会もはずせません。司祭になったころは、じぶんがよもや大ホール満員の聴衆の前で90分喋ることになろうとは、思いもよらなかった。人前で話すのが苦手であがり症だというのに。でも、これも慣れですね。長崎教区のそうそうたる司祭たちの前で話したこともあるし、国際聖書フォーラムで聖書学者たちを前に話したこともあります。最近ではプロテスタント教会からの依頼が多く、牧師先生たちの集会で話すこともあり、これまた心の中では「あんた、よくやるねー」とつぶやいたり。
 他にも、「こんなにクラシックコンサートを主催することになろうとは」(ついには今回パルテノン多摩大ホールです)とか、「こんなに絵をかいたりデザインしたりすることになろうとは」(カード・紋章から、ステンドグラスまで幅広いです)とか、「こんなに海外に行くことになろうとは」(初海外は神父になってからなのに38回出かけてます)とか、「こんなに授業や講義をすることになろうとは」(いまや早稲田大学の講師までやってます)とか、「こんなにインターネットに露出するようになろうとは」(説教はその週のうちにアップされてます)とか、「こんなにラジオで放送されるようになろうとは」(番組は1年の放送に延長されてしまいました)とか、「こんなにブルゴーニュワインを飲むことになろうとは」(いい加減にしなさい)とか、キリがないのですが、では最も想定外だったのは何かと言われるならば、それは何と言っても洗礼の実りです。
 小教区内での活動はほぼ想定内でしたけれど、ただ一つ、受洗者の多さだけは予想だにしていませんでした。そして、それこそが一番うれしい悲鳴の想定外でした。ほかの想定外はすべて夢でしたというオチでも構いませんが、これだけは夢であってほしくない。そして、これからも夢を見ていきたい。主任司祭になってからの受洗者はおよそ850人ですから、多摩教会にいる間に1,000人を超えるかもしれません。イエスさま、美しい実りをありがとう。すべてあなたの御業です。
 さて次の25年、どんな想定外が待っているのでしょうか。

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晴佐久神父様司祭叙階銀祝おめでとうございます

信徒代表 北村 司郎

 今月5月13日、神父様の叙階25周年を記念ミサ・祝賀会という形で行いました。他の教会からも約20名を超える方々がお祝いに来てくださいました。
 神父様も当日話されていましたが、確かに銀祝というのは個人的なことかもしれません。しかし、叙階式を教会全体でお祝いするのと同じように、司祭の銀祝も教会全体のお祝いだと思います。多摩教会は「オアシス教会を目指して」進んでいるわけですが、その中心に司祭はいるわけであって、まさにオアシスの源泉そのものではないでしょうか。その源泉と共に私たち信徒はあるわけですから、この25周年を素直に神父様と喜び合うことが大切だと私は思います。多摩教会での銀祝は初代の主任司祭の寺西神父様もマンションが教会の建物だったため、かおり保育園で行ったことを思い出します。私にとってはそれが司祭の銀祝に出席した最初でしたが、そのあと高幡教会でロアゼール神父様の銀祝にも出席させていただいた。その2つの銀祝のとき、親族の方が来られていたのを思い出します。  ご家族にとっても司祭としての生活を続け、25周年を迎えることは大きな喜びである、ということを実感しました。
 今回は残念ながら、ご両親とも亡くなられてお呼びすることができませんでしたが、神父様から皆さんへのお礼としてコンサートを行うことを計画してくださいました。皆さんでこのコサートに参加し、喜びを共にしたいと思います。
 今後、金祝に向かって歩んでいかれると思いますが、健康で、宣教活動の先頭に立って行かれることを望んでいます。

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大震災の犠牲者のために捧げるレクイエム

井上 信一

 私たちの共同体には色々なタレントを持っておられる方がおられますが、その中で作曲家として活躍されている方を二人ご紹介しましょう。しかもこのお二人が昨年の大震災の犠牲者に捧げるレクイエムを作曲されたお話です。

その1
 昨年の復活祭で奥様と一緒に受洗された石島 正博さんです。石島さんは桐朋音楽大学作曲科の主任教授をされています。生まれ育った石巻の町と自然が震災で跡形もなく流され沢山の人たちが犠牲となりました。その深い悲しみを《REQUIEM for piano》という曲に込めて作曲されました。そして、この曲は日本だけでなく、海外でも演奏され、世界的に有名な作曲家からも高い評価を受けています。私は昨年の8月21日八王子で開催されたピアノ・コンサートでこの曲を聴く機会を得ました。ヨーロッパを中心に第一線で活躍されているハン・カヤさんとうピアニストの演奏でこのレクイエムが紹介されました。演奏の後、石島さんはステージに上り、この曲についての思いを次のように語られました。
 「2011.3.11は特別な日でした。地震と津波によって壊滅的な被害を被った東北の小さな、美しい海辺の町、石巻は私の父の故郷、私自身も多感な少年時代を過ごした場所だったからです。
 自らが流木になったような気持ちをどこかに繋ぎ止めなければならない必然を感じて、私は《REQUIEM》を書きました。それは、異常な緊張と押しつぶされるような情感の海に漂った1週間でした。目の前で無くなっていくものをどうにかしてとどめたい、しかしそれは叶わない。ならば、私自身の記憶をせめて音にとどめよう、そう強く思いました。
 だから、という訳ではないのですが、第1曲目にはishinomakiを音列化(アルファベットを音変換)して全曲の統一モティーフを作り、第2曲にはわらべ歌をデフォルメしたモティーフを用いました。続く第3曲の最終小節の音は、実は楽音ではなくノイズによって表現されるのですがその音に私は dolorosamente「悲痛に」という発想記号を書き込みました。 悲痛な雑音! 第4曲は私自身の精神のある錯乱を presto(極めて速い)と pesante(重々しい)な時間の対比を表現しています。そして第5曲は嬰へ音のオスティナートで貫かれた《死の行列》です。その列の向こうから「嘆きの鐘」が聴こえてきて、やがて、その鐘の音に《子守唄》が重ねられますそして、曲は閉じられることなく終曲第6曲へと受け継がれます。
 《波にさらわれた子供たちの霊》を慰める。その一念の子守唄。
 しかし、その唄は最後まで唄われることなく虚空に消え去ります。」

その2
 もう一人の作曲家はやはり10年ほど前に私たちの教会で洗礼を受けられた藤田 玄播さんです。特に吹奏楽の分野で数々の名曲を生み出し、その中には吹奏楽コンクールの課題曲として取り上げられたものもいくつかあります。洗足学園音楽大学で教鞭もとられていた方です。奥様は“ブドウの木”のグループで聖歌の奉仕をされています。藤田さんはこの数年来、厳しい闘病生活を余儀なくされていますが、そんな状況にあるにも拘わらず、昨年、宮城県気仙沼校の吹奏楽部の依頼で、震災の犠牲者へのレクイエムを作曲されました。曲名は「復活への道」ですが、「東北大震災のためのレクイエム」という副題がついています。
 昨年末から練習を始めたこの部員たちによる演奏会は気仙沼市内のホールで4月8日、すなわちご復活の主日に開催されました。
 大地震と津波の災害の荒々しさを表す序盤の演奏。そこでチューバを吹いた3年生の部は、「初めて演奏した時には、がれきだらけの自宅の前で立ちつくしたことを思い出した」と語り、犠牲者を悼むトランペットの独奏をした生徒は、犠牲になった親族の笑顔を思い浮かべながら、「音色がみんなの悲しみを癒せれば」と話しました。そして最後は復興に起ち上がる人の姿を思わせる闇から光への終盤につながります。この吹奏楽部の全員がそれぞれの苦い、そして悲しい体験を思い浮かべながらも、「聴く人にとっても新たな一歩を踏み出すきっかになれば」と思い、この曲を演奏したとのことです。(4月8日付読売新聞の記事に基づく)

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

さあその日をめざしてがんばろう

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 
  もう十年も前に生まれたぼく。
  学校にはりきって入学したぼく。
  そんなぼくは、今日もいろいろなことでしかられている。
  そのたびに決心しては、次にまたしかられる。
  こんなことではだめだ。
  よしこんどこそやるぞ。
  だめかもしれないけれどやってみよう。
  そしていつかできるようになったら
  先生やおとうさん、おかあさんにむねをはってやろう。
  さあその日をめざしてがんばろう。

 母が亡くなる数年前だったと思います。ある日、母が「これ、ずっと仕舞ってあったんだけど、返すね」と言って、黄ばんだ一枚の紙を渡してくれました。そこには、鉛筆書きのていねいな字で10行ほどの詩が書いてあり、作者名は晴佐久昌英とありました。最初の一行から類推するに10歳の時の作品のようですが、本人は全く覚えていなかったので、突然昔の自分と出会ったような、何とも不思議な気持ちになりました。
 上掲の詩が、それです。内容からして、たぶん国語の授業で「心で思っていることを素直に書きましょう」などと言われて書いたものではないでしょうか。まさに、毎日叱られて生きていたあの頃の正直な気持ちが書かれていて、いじらしいというか、切ないというか、思わず「がんばれ、自分!」と言いたくなるような詩です。たぶん、このけなげな詩を読んだ母も同じように思ったであろうことは、40年近くこの詩を捨てずに持ち続けていたことからもわかります。おかげさまで、詩人晴佐久昌英の処女作は、ちゃんとこの世に残された、というわけです。よく読むと体言止めや決意の独白、二行ずつの脚韻などのレトリックが施されてあり、独特のリズム感もあってなかなかの技巧派です。
 今はこの詩は額に入れて、トイレに飾ってあります。毎日座るたびにこの詩を読んでは「だいじょうぶだ、晴佐久君、君はがんばってるよ。だれも君をしかったりしない、もうむねをはっていいんだよ!」と自らに言い聞かせるのですが、人の思いというものはそう簡単に変わるものではありません。結局は、10歳の思いからちっとも変わらずに、「でもまあ、そうは言っても、こんなんじゃまだまだだよね・・・もう少しがんばらなくっちゃ」という気になるのです。

 このたび、晴佐久昌英の第2詩集「天国の窓」が発行されました。帯には「18刷、4万2千部のベストセラー『だいじょうぶだよ』から10年、待望の第2詩集」とあります。確かに詩集で4万部というのは立派なベストセラーでしょうし、ちゃんと第2詩集も発行されるなんて、詩人晴佐久君、できるようになったじゃないですか。むねをはってやろうじゃないですか。
 この詩集は、言うなれば「写真詩集」とでも言うべきもので、見開きの片方のページに菅井日人氏の美しい写真、もう片方に詩を載せました。よく、「これ、写真が先なの? 詩が先なの?」と聞かれますが、思わずそう聞きたくなるほどに写真と詩が寄り添って一つの世界をつくりだしているところに、他とはちょっと違う面白さがあります。実際には、写真からインスピレーションを得て詩を書きました。それを並べると、写真と詩、つまり光とことばが絶妙に響きあって、心に深くしみこむ詩集になりました。
 「だいじょうぶだよ」のときもそうでしたが、いつも詩を書くときには、特定のだれかを思い浮かべながら書きます。特に、今つらい気持ちでいる人や、困難の中にいる人のために、励ましとなり希望となるように書いているので、全体に癒しと慰めの香り溢れる詩集になりました。ぜひ、闇の中にいる人、救いを求めている人にプレゼントしてください。ひとつの詩を生み、育て、納得いくものに実らせるためには、大変な苦労と工夫、強い信念と忍耐が必要ですが、苦しんでいる人の気持ちがほんの少しでも和らいでくれるなら、がんばった甲斐があるというものです。
 しかし、ここでいい気になってはいけません。まだまだむねをはったりしてはいけません。こんなことではだめだ。よしこんどこそやるぞ。だめかもしれないけれどやってみよう。さあその日をめざしてがんばろう(涙)。

投稿記事

祈り

福井 英夫

 皆さまは毎日どんなお祈りをしていますか?
 私は、朝起床時に「今日もいち日何事もなく過ごす事が出来ますように」。朝食と夕食前、夫婦で祈りを唱えてから食事に入ります。寝る前は今日いち日の反省感謝のお祈りをしています。

【 朝の祈り 】

新しい朝を迎えさせてくださった神よ、きょう一日わたしを照らし、導いてください。

いつもほがらかに、すこやかに過ごせますように。
物事がうまくいかない時も、ほほえみを忘れず、いつも物事の明るい面を見、
最悪のときにも、感謝すべきものがあることを、悟らせてください。

自分のしたいことばかりではなく、あなたの望まれることを行い、
まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見い出させてください。

アーメン。


 2000年9月。“長崎・平戸・生月巡礼団”に参加した折に団長のカトリック瀬教会主任司祭(当時)のケンズパリ神父さまから、この朝の祈り、夕べの祈りカードをプレゼントされて、巡礼中、朝食前と夕食前にはツアー参加者全員で唱えてから食事に入りました。私達夫婦は毎日朝食前と夕食前には、この祈りを唱えてから食事のお恵みを頂きます。

【 夕の祈り 】

一日の働きを終えたわたしに、やすらかな憩いの時を与えてくださる神よ、
あなたに祈り、感謝します。

きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちにたくさんのお恵みをお与えください。

わたしの思い、ことば、おこない、おこたりによって、あなたを悲しませたことがあれば、
どうかおゆるしください。

明日はもっとよく生きることができますように。

悲しみや苦しみの中にある人たちを助けてください。
わたしが幸福の中にあっても、困っている人たちのことを忘れることがありませんように。

アーメン。


今日いち日ありがとうございました。神様に感謝”

いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

(テサロニケの信徒への手紙)

                   

2012年 3月号 No.463

2012年 3月号 No.463

発行 : 2012年3月24日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 神父 】


そういうことだよね

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 大西 勇史神学生の助祭叙階式が、3月18日高円寺教会にて行われました。
 大西神学生は、私が高円寺教会の主任司祭だった時に、私が推薦して神学校に入学したので、出身教会は高円寺教会、召命の上での親代わりとなる推薦司祭は晴佐久神父ということになります。それで、叙階式では新助祭に助祭のストラと祭服を着せる役を仰せつかり、当日、今まさに助祭の秘跡を受けたばかりのわが子に祭服を着せることができました。上気した顔のわが子の祭服姿はふしぎにまぶしくて、なるほど親心というものはこういうものかと感無量でした。
 残念ながら、自分の助祭叙階式のときはだれが祭服を着せてくれたのか覚えていません。着せてくれるはずの推薦司祭小林五郎神父は、その3年前に亡くなっていたのです。叙階式が行われたのは、私の出身教会である小平教会ですが、そこはその7年前に私の父親の葬儀ミサがあり、3年前には親代わりの神父の通夜式のあったところでもありました。
 1986年の3月23日の自分の助祭叙階式は、十字架のイメージがくっきりと残る叙階式でした。なにしろ、受難の主日に行われたのです。その年は珍しく5人の助祭叙階式があったので、復活祭前の主日に順番にやっていくと、その日しか残っていなかったのです。当然、式は枝の行列で始まり、受難の朗読が行われ、会衆は前に亡くなっていたので、どなたかが代役をしたからです。叙階式が行われたのは私の出声を合わせて叫びます。「十字架につけろ、十字架につけろ」。その声をわが身に受け止めながら、「そういうことだよね」と、身の引き締まる思いをしたものです。
 さらにその日は、記録的な豪雪だったのです。朝方から降り始めた雪はみるみるうちに積もり、教会へ向かう私の乗った車は交差点の真ん中でストップ、参列者もタクシーで駆けつけるなど何とか来れたものの、式が終わるころには見たこともないほどの積雪となって交通機関がすべて止まり、お祝いもそこそこにみんなあわてて帰ったけれど、中にはその日はついに教会に泊まった人も出るという騒ぎとなりました。また、西武線が積雪によるポイント故障の事故を起こして、それに乗っていたシスターが怪我をするということもあり、まさに受難の主日の受難の叙階式でありました。でも、十字架から復活へ向かう主の後を慕うのですから、まさに「そういうことだよね」ということでしょう。
 大西新助祭の叙階式は何事もなく無事に終わり、これからの活躍に大いに期待ですが、あれから26年たった親代わりとしては、心から祈るばかりです。
 「神さま、すべてはあなたの恵みのうちにあります。どうか新助祭が、どこまでも秘跡の恵みを信じ、ひたすらに秘跡に奉仕し、秘跡そのものとなりますように。すべての十字架は復活に向かうという、真の希望の証し人となれますように」

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第21回

≪「荒れ野のオアシス教会」を目指して≫

中原 信一郎

 今回、このコラムを書いて欲しいとのお話を頂いた時は、ためらいを感じましたが、自分の心の内にいるイエス様、また父なる神様にさまざま問いかけた中、光栄に思い一筆書かせて頂くことにしました。
 人は生きている限り、心から『オアシス』を求めるものだと思っています。なぜなら、日々の生活において、渇きや苦しさを覚える時に『心の潤い・安らぎ』を求めることは自然なこと、少なくとも、私はそのように感じています。
 私自身にとって、「オアシス=心の潤い・安らぎ」とは、あるがままを受け入れてくれる「イエス様の愛の泉」、つまり「慈しみ」であると感じます。そういう意味で、私が両親の愛と神様の愛の「結晶」として生まれ、4歳の時に幼児洗礼を四谷のイグナチオ(麹町)教会で与かり、信仰生活を続けられることは大きな恵みです。これまでの信仰生活を振り返って見ると、幼児洗礼を授かってから、かれこれ40年近く経つなかで、私と関わってくださり、育ててくださった方々や出来事から、たくさんの影響を頂いたと深く感じています。中でも、私が通学していたプロテスタントの中学・高校のモットーである『敬神愛人』の精神が基盤となっていることも大きなことの一つと言えます。
 私は初聖体を7歳に受け2年後から侍者をし始めましたが、子供の頃は母親の命じるままに、いやいやしていたのを覚えています。でも、教会のお兄さんと一緒に侍者をし、神父さまにも可愛がってもらい(もちろん、なってないとかなり叱られました!)、愛情を持って接してくれたおかげで、居心地の良さを知らず知らずのうちに覚え、大人になってから、神様・イエス様のはかりしれない愛を意識して、感じることができました。姉の勧めでCLC(クリスチャン ライフ コミュニティ)と関わりを持ち、夫婦共に歩む日々は、「神に感謝」です。また、主なる神の御手に委ねながら、一時一時を大切にしていこうと思います。
 さて、東日本大震災から1年経ち、被災された方々が求める「オアシス」、またその方々に「オアシス」を与えたいと様々な形で、支援をされている方々がおられます。私自身も妻と共に、3日ほど釜石ベースにてボランティアとして参加してきました。被災された方々に「心のオアシス」を・・・という思いはあるものの、私達にできたことはほんの僅かにすぎません。しかし、少しでも力になりたいという思いの中で各地から来られていたボランティアの存在は大きくたくましいものでした。   
 教会での奉仕では、憂い・患いの中でもがき苦しみ教会に助けを求める方々のためにも、祭壇奉仕や祈りを通して「心のオアシス」という恵みが与えられるように、聖霊の働きと共に助けになれればと願っています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

そういうことだよね

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 大西 勇史神学生の助祭叙階式が、3月18日高円寺教会にて行われました。
 大西神学生は、私が高円寺教会の主任司祭だった時に、私が推薦して神学校に入学したので、出身教会は高円寺教会、召命の上での親代わりとなる推薦司祭は晴佐久神父ということになります。それで、叙階式では新助祭に助祭のストラと祭服を着せる役を仰せつかり、当日、今まさに助祭の秘跡を受けたばかりのわが子に祭服を着せることができました。上気した顔のわが子の祭服姿はふしぎにまぶしくて、なるほど親心というものはこういうものかと感無量でした。
 残念ながら、自分の助祭叙階式のときはだれが祭服を着せてくれたのか覚えていません。着せてくれるはずの推薦司祭小林五郎神父は、その3年前に亡くなっていたのです。叙階式が行われたのは、私の出身教会である小平教会ですが、そこはその7年前に私の父親の葬儀ミサがあり、3年前には親代わりの神父の通夜式のあったところでもありました。
 1986年の3月23日の自分の助祭叙階式は、十字架のイメージがくっきりと残る叙階式でした。なにしろ、受難の主日に行われたのです。その年は珍しく5人の助祭叙階式があったので、復活祭前の主日に順番にやっていくと、その日しか残っていなかったのです。当然、式は枝の行列で始まり、受難の朗読が行われ、会衆は前に亡くなっていたので、どなたかが代役をしたからです。叙階式が行われたのは私の出声を合わせて叫びます。「十字架につけろ、十字架につけろ」。その声をわが身に受け止めながら、「そういうことだよね」と、身の引き締まる思いをしたものです。
 さらにその日は、記録的な豪雪だったのです。朝方から降り始めた雪はみるみるうちに積もり、教会へ向かう私の乗った車は交差点の真ん中でストップ、参列者もタクシーで駆けつけるなど何とか来れたものの、式が終わるころには見たこともないほどの積雪となって交通機関がすべて止まり、お祝いもそこそこにみんなあわてて帰ったけれど、中にはその日はついに教会に泊まった人も出るという騒ぎとなりました。また、西武線が積雪によるポイント故障の事故を起こして、それに乗っていたシスターが怪我をするということもあり、まさに受難の主日の受難の叙階式でありました。でも、十字架から復活へ向かう主の後を慕うのですから、まさに「そういうことだよね」ということでしょう。
 大西新助祭の叙階式は何事もなく無事に終わり、これからの活躍に大いに期待ですが、あれから26年たった親代わりとしては、心から祈るばかりです。
 「神さま、すべてはあなたの恵みのうちにあります。どうか新助祭が、どこまでも秘跡の恵みを信じ、ひたすらに秘跡に奉仕し、秘跡そのものとなりますように。すべての十字架は復活に向かうという、真の希望の証し人となれますように」

連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第21回

≪「荒れ野のオアシス教会」を目指して≫

中原 信一郎

 今回、このコラムを書いて欲しいとのお話を頂いた時は、ためらいを感じましたが、自分の心の内にいるイエス様、また父なる神様にさまざま問いかけた中、光栄に思い一筆書かせて頂くことにしました。
 人は生きている限り、心から『オアシス』を求めるものだと思っています。なぜなら、日々の生活において、渇きや苦しさを覚える時に『心の潤い・安らぎ』を求めることは自然なこと、少なくとも、私はそのように感じています。
 私自身にとって、「オアシス=心の潤い・安らぎ」とは、あるがままを受け入れてくれる「イエス様の愛の泉」、つまり「慈しみ」であると感じます。そういう意味で、私が両親の愛と神様の愛の「結晶」として生まれ、4歳の時に幼児洗礼を四谷のイグナチオ(麹町)教会で与かり、信仰生活を続けられることは大きな恵みです。これまでの信仰生活を振り返って見ると、幼児洗礼を授かってから、かれこれ40年近く経つなかで、私と関わってくださり、育ててくださった方々や出来事から、たくさんの影響を頂いたと深く感じています。中でも、私が通学していたプロテスタントの中学・高校のモットーである『敬神愛人』の精神が基盤となっていることも大きなことの一つと言えます。
 私は初聖体を7歳に受け2年後から侍者をし始めましたが、子供の頃は母親の命じるままに、いやいやしていたのを覚えています。でも、教会のお兄さんと一緒に侍者をし、神父さまにも可愛がってもらい(もちろん、なってないとかなり叱られました!)、愛情を持って接してくれたおかげで、居心地の良さを知らず知らずのうちに覚え、大人になってから、神様・イエス様のはかりしれない愛を意識して、感じることができました。姉の勧めでCLC(クリスチャン ライフ コミュニティ)と関わりを持ち、夫婦共に歩む日々は、「神に感謝」です。また、主なる神の御手に委ねながら、一時一時を大切にしていこうと思います。
 さて、東日本大震災から1年経ち、被災された方々が求める「オアシス」、またその方々に「オアシス」を与えたいと様々な形で、支援をされている方々がおられます。私自身も妻と共に、3日ほど釜石ベースにてボランティアとして参加してきました。被災された方々に「心のオアシス」を・・・という思いはあるものの、私達にできたことはほんの僅かにすぎません。しかし、少しでも力になりたいという思いの中で各地から来られていたボランティアの存在は大きくたくましいものでした。   
 教会での奉仕では、憂い・患いの中でもがき苦しみ教会に助けを求める方々のためにも、祭壇奉仕や祈りを通して「心のオアシス」という恵みが与えられるように、聖霊の働きと共に助けになれればと願っています。