6月10日、「キリストの聖体」の主日に、5人の子どもたちが初聖体を受けました。
そのときのミサと祝賀会の様子をご紹介いたします。
野田町教会(福島市)訪問
2011年3月の大震災で、福島市の野田町教会の聖母像が倒壊してしまいました。
そこで多摩教会から聖母像購入資金として義援金をお贈りしたところ、この春、新しい聖母像と
聖ヨセフ像が届いたとのこと。
早速、晴佐久神父様が新しい聖母像の「祝福式」に招かれ、5月27日、十数人の信徒と共に
伺うことになりました。
そのときの様子を以下にご紹介いたします。
ミサの説教でも触れていますので、以下のサイトをご参照ください。
*ミサ説教(2012年6月3日三位一体の主日)→ こちら(「福音の村」:あったか〜い「交わり様」)
また、いきさつなどは、以下のサイトでお読みいただくことができます。
*「多摩カトリックニューズ」(2011年11月号)巻頭言:晴佐久神父「希望のシンボル」→ こちら
*ミサ説教(2012年5月27日聖霊降臨の主日)→ こちら(「福音の村」:天の国は0シーベルト)
◆画像をクリックすると、スライドショーでご覧いただくことができます。
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新刊のお知らせ:「天国の窓」
暗い気持ちのとき、心が不安なときは、この本を開いて、あなたにそっと語りかけてくるふしぎな光に耳を澄ませてほしい。 (著者あとがきより) |
※本書は、月刊誌『家庭の友』(サンパウロ)、2007年4月から連載中の巻頭詩「一行目は光」に、若干の変更を加えてまとめたものです。
詩:晴佐久昌英
写真:菅井日人
サイズ:198×198
ページ数:80ページ
ISBN:978-4-8056-6125-3
発行:サンパウロ
◆神父様が、「多摩カトリックニューズ4月号」の巻頭言「さあその日めざしてがんばろう」に、ご自身で紹介してくださっているので、ぜひ→ こちらをご覧ください。
◆購入を希望の方は、多摩教会でも、また、こちらのサンパウロオンラインショップ(Paulus shop)からも可能です。
ご参加、ありがとうございました!
「晴佐久昌英と愉快な仲間たち:福音コンサート」が
5月20日(日)、パルテノン多摩・大ホールで開催されました。
( 掲載済みの「開催のお知らせ」はこちらです。)
「司祭として生きてこられたのは神様と皆さんのおかげ」という神父様からの感謝のプレゼントは、
ご参加くださった お一人お一人の心にしっかり届けられたようです。
おかげさまで、大成功のうちに終了いたしました。
そのときの模様を、ぜひ皆さまと分かち合いたいと思います。
画像を別途掲載いたしましたので、ぜひご覧ください。→ こちらです。
以下の「ごあいさつ」は、プログラムの巻頭に、神父様から寄せられた一文です。
(クリックすると大きくご覧いただくことができます)
巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父
5月13日、司祭叙階25周年記念のミサを捧げることが出来て感無量でした。多摩教会としては、寺西英夫師が1983年に銀祝を迎えて以来ということになります。実はその折、師の銀祝記念の本の装丁をお手伝いしたのですが、その時の私はまだ駆け出しの神学生。将来叙階できるかどうかも分からない身にとっては、銀祝なんて遥か彼方に仰ぎ見る夢のまた夢というのが実感でした。それが巡り巡って、こうして多摩教会にて25周年を迎えることとなったのですから、み摂理に感動するばかりです。このお騒がせ神父を受け入れ、共に歩んでくださっている皆さんには改めて、心から、感謝いたします。
この25年を振り返っての感想は、「想定外」の一語に尽きます。自分なりの司祭のイメージは、ごく普通の教会を教区司祭がのんびり見守っているというもので、それは想定内でしたが、現実には小教区以外の奉仕が多く、それこそ想像もしていなかったことを次々と依頼されてきました。
ひとつは、青少年活動です。教区の青少年担当ばかりか中央協議会の青少年委員会のメンバーともなり、全国規模での青少年活動の活性化を工夫することとなりました。小教区の枠を超えた青年の集い「初金クラブ」、月に一度のライブスペース「ラスキンクラブ」、幅広く青年活動を支援する「東京教区青年ネットワーク」、オリジナルの福音の歌コンクール「スピリット・ソング・フェスティバル」、ライブしながら他教区を訪問する「ライブキャラバン」、教皇様の呼びかけに答えて世界の青年が集まる「ワールド・ユース・デイ」参加ツアー、そこから始まった「ジャパン・ユース・デイ」、そして25年間続いている「無人島キャンプ」などなど、すべて私の思いつきです。
また、映画とこれ程に関わることになろうとも思っていませんでした。たまたま映画評を一つ頼まれて書いたのがきっかけで、カトリック新聞の映画欄を担当することになり、試写室をめぐる日々が始まり、劇場パンフレットに原稿を書き、映画の分かち合いグループ「天国映画村」を立ち上げ、カトリック映画視聴覚協議会(現シグニス・ジャパン)の副会長(現顧問司祭)となり、日本カトリック映画賞の授賞式上映会を企画し、シグニスアジアの海外会議に参加し、大会の日本招聘にまでこぎつけました。シグニスの守備範囲をインターネットに広げてセミナーを取り入れるなど、そう得意でもないのにメディアの世界と深く関わることになってしまいました。
執筆活動も、これまた想定外。最初は小さな連載コラムを担当しただけだったのがまとまって本になり、教会報に書いた詩が広まって詩集になり、ただ説教でしゃべっていただけなのに説教集になりと、次々と出版されていくのです。そうなると、あれを連載してくれ、これを出版したいと依頼が相次いで、今抱えているものを考えると気が遠くなりそう。執筆に充てられる時間って、それほど多くないんです。気づけば絵本3冊、エッセイ集3冊、聖書解説・神学関係書2冊、説教集4冊、詩集2冊、そして日めくりカレンダー2冊。サイン会とかしながら、心の中では「オレ、なにやってんだろ」と思ったりする日々なのです。
想定外というなら、講演会もはずせません。司祭になったころは、じぶんがよもや大ホール満員の聴衆の前で90分喋ることになろうとは、思いもよらなかった。人前で話すのが苦手であがり症だというのに。でも、これも慣れですね。長崎教区のそうそうたる司祭たちの前で話したこともあるし、国際聖書フォーラムで聖書学者たちを前に話したこともあります。最近ではプロテスタント教会からの依頼が多く、牧師先生たちの集会で話すこともあり、これまた心の中では「あんた、よくやるねー」とつぶやいたり。
他にも、「こんなにクラシックコンサートを主催することになろうとは」(ついには今回パルテノン多摩大ホールです)とか、「こんなに絵をかいたりデザインしたりすることになろうとは」(カード・紋章から、ステンドグラスまで幅広いです)とか、「こんなに海外に行くことになろうとは」(初海外は神父になってからなのに38回出かけてます)とか、「こんなに授業や講義をすることになろうとは」(いまや早稲田大学の講師までやってます)とか、「こんなにインターネットに露出するようになろうとは」(説教はその週のうちにアップされてます)とか、「こんなにラジオで放送されるようになろうとは」(番組は1年の放送に延長されてしまいました)とか、「こんなにブルゴーニュワインを飲むことになろうとは」(いい加減にしなさい)とか、キリがないのですが、では最も想定外だったのは何かと言われるならば、それは何と言っても洗礼の実りです。
小教区内での活動はほぼ想定内でしたけれど、ただ一つ、受洗者の多さだけは予想だにしていませんでした。そして、それこそが一番うれしい悲鳴の想定外でした。ほかの想定外はすべて夢でしたというオチでも構いませんが、これだけは夢であってほしくない。そして、これからも夢を見ていきたい。主任司祭になってからの受洗者はおよそ850人ですから、多摩教会にいる間に1,000人を超えるかもしれません。イエスさま、美しい実りをありがとう。すべてあなたの御業です。
さて次の25年、どんな想定外が待っているのでしょうか。
投稿記事:1
今月5月13日、神父様の叙階25周年を記念ミサ・祝賀会という形で行いました。他の教会からも約20名を超える方々がお祝いに来てくださいました。
神父様も当日話されていましたが、確かに銀祝というのは個人的なことかもしれません。しかし、叙階式を教会全体でお祝いするのと同じように、司祭の銀祝も教会全体のお祝いだと思います。多摩教会は「オアシス教会を目指して」進んでいるわけですが、その中心に司祭はいるわけであって、まさにオアシスの源泉そのものではないでしょうか。その源泉と共に私たち信徒はあるわけですから、この25周年を素直に神父様と喜び合うことが大切だと私は思います。多摩教会での銀祝は初代の主任司祭の寺西神父様もマンションが教会の建物だったため、かおり保育園で行ったことを思い出します。私にとってはそれが司祭の銀祝に出席した最初でしたが、そのあと高幡教会でロアゼール神父様の銀祝にも出席させていただいた。その2つの銀祝のとき、親族の方が来られていたのを思い出します。 ご家族にとっても司祭としての生活を続け、25周年を迎えることは大きな喜びである、ということを実感しました。
今回は残念ながら、ご両親とも亡くなられてお呼びすることができませんでしたが、神父様から皆さんへのお礼としてコンサートを行うことを計画してくださいました。皆さんでこのコサートに参加し、喜びを共にしたいと思います。
今後、金祝に向かって歩んでいかれると思いますが、健康で、宣教活動の先頭に立って行かれることを望んでいます。
投稿記事:2
私たちの共同体には色々なタレントを持っておられる方がおられますが、その中で作曲家として活躍されている方を二人ご紹介しましょう。しかもこのお二人が昨年の大震災の犠牲者に捧げるレクイエムを作曲されたお話です。
その1
昨年の復活祭で奥様と一緒に受洗された石島 正博さんです。石島さんは桐朋音楽大学作曲科の主任教授をされています。生まれ育った石巻の町と自然が震災で跡形もなく流され沢山の人たちが犠牲となりました。その深い悲しみを《REQUIEM for piano》という曲に込めて作曲されました。そして、この曲は日本だけでなく、海外でも演奏され、世界的に有名な作曲家からも高い評価を受けています。私は昨年の8月21日八王子で開催されたピアノ・コンサートでこの曲を聴く機会を得ました。ヨーロッパを中心に第一線で活躍されているハン・カヤさんとうピアニストの演奏でこのレクイエムが紹介されました。演奏の後、石島さんはステージに上り、この曲についての思いを次のように語られました。
「2011.3.11は特別な日でした。地震と津波によって壊滅的な被害を被った東北の小さな、美しい海辺の町、石巻は私の父の故郷、私自身も多感な少年時代を過ごした場所だったからです。
自らが流木になったような気持ちをどこかに繋ぎ止めなければならない必然を感じて、私は《REQUIEM》を書きました。それは、異常な緊張と押しつぶされるような情感の海に漂った1週間でした。目の前で無くなっていくものをどうにかしてとどめたい、しかしそれは叶わない。ならば、私自身の記憶をせめて音にとどめよう、そう強く思いました。
だから、という訳ではないのですが、第1曲目にはishinomakiを音列化(アルファベットを音変換)して全曲の統一モティーフを作り、第2曲にはわらべ歌をデフォルメしたモティーフを用いました。続く第3曲の最終小節の音は、実は楽音ではなくノイズによって表現されるのですがその音に私は dolorosamente「悲痛に」という発想記号を書き込みました。 悲痛な雑音! 第4曲は私自身の精神のある錯乱を presto(極めて速い)と pesante(重々しい)な時間の対比を表現しています。そして第5曲は嬰へ音のオスティナートで貫かれた《死の行列》です。その列の向こうから「嘆きの鐘」が聴こえてきて、やがて、その鐘の音に《子守唄》が重ねられますそして、曲は閉じられることなく終曲第6曲へと受け継がれます。
《波にさらわれた子供たちの霊》を慰める。その一念の子守唄。
しかし、その唄は最後まで唄われることなく虚空に消え去ります。」
その2
もう一人の作曲家はやはり10年ほど前に私たちの教会で洗礼を受けられた藤田 玄播さんです。特に吹奏楽の分野で数々の名曲を生み出し、その中には吹奏楽コンクールの課題曲として取り上げられたものもいくつかあります。洗足学園音楽大学で教鞭もとられていた方です。奥様は“ブドウの木”のグループで聖歌の奉仕をされています。藤田さんはこの数年来、厳しい闘病生活を余儀なくされていますが、そんな状況にあるにも拘わらず、昨年、宮城県気仙沼校の吹奏楽部の依頼で、震災の犠牲者へのレクイエムを作曲されました。曲名は「復活への道」ですが、「東北大震災のためのレクイエム」という副題がついています。
昨年末から練習を始めたこの部員たちによる演奏会は気仙沼市内のホールで4月8日、すなわちご復活の主日に開催されました。
大地震と津波の災害の荒々しさを表す序盤の演奏。そこでチューバを吹いた3年生の部は、「初めて演奏した時には、がれきだらけの自宅の前で立ちつくしたことを思い出した」と語り、犠牲者を悼むトランペットの独奏をした生徒は、犠牲になった親族の笑顔を思い浮かべながら、「音色がみんなの悲しみを癒せれば」と話しました。そして最後は復興に起ち上がる人の姿を思わせる闇から光への終盤につながります。この吹奏楽部の全員がそれぞれの苦い、そして悲しい体験を思い浮かべながらも、「聴く人にとっても新たな一歩を踏み出すきっかになれば」と思い、この曲を演奏したとのことです。(4月8日付読売新聞の記事に基づく)
巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父
もう十年も前に生まれたぼく。
学校にはりきって入学したぼく。
そんなぼくは、今日もいろいろなことでしかられている。
そのたびに決心しては、次にまたしかられる。
こんなことではだめだ。
よしこんどこそやるぞ。
だめかもしれないけれどやってみよう。
そしていつかできるようになったら
先生やおとうさん、おかあさんにむねをはってやろう。
さあその日をめざしてがんばろう。
母が亡くなる数年前だったと思います。ある日、母が「これ、ずっと仕舞ってあったんだけど、返すね」と言って、黄ばんだ一枚の紙を渡してくれました。そこには、鉛筆書きのていねいな字で10行ほどの詩が書いてあり、作者名は晴佐久昌英とありました。最初の一行から類推するに10歳の時の作品のようですが、本人は全く覚えていなかったので、突然昔の自分と出会ったような、何とも不思議な気持ちになりました。
上掲の詩が、それです。内容からして、たぶん国語の授業で「心で思っていることを素直に書きましょう」などと言われて書いたものではないでしょうか。まさに、毎日叱られて生きていたあの頃の正直な気持ちが書かれていて、いじらしいというか、切ないというか、思わず「がんばれ、自分!」と言いたくなるような詩です。たぶん、このけなげな詩を読んだ母も同じように思ったであろうことは、40年近くこの詩を捨てずに持ち続けていたことからもわかります。おかげさまで、詩人晴佐久昌英の処女作は、ちゃんとこの世に残された、というわけです。よく読むと体言止めや決意の独白、二行ずつの脚韻などのレトリックが施されてあり、独特のリズム感もあってなかなかの技巧派です。
今はこの詩は額に入れて、トイレに飾ってあります。毎日座るたびにこの詩を読んでは「だいじょうぶだ、晴佐久君、君はがんばってるよ。だれも君をしかったりしない、もうむねをはっていいんだよ!」と自らに言い聞かせるのですが、人の思いというものはそう簡単に変わるものではありません。結局は、10歳の思いからちっとも変わらずに、「でもまあ、そうは言っても、こんなんじゃまだまだだよね・・・もう少しがんばらなくっちゃ」という気になるのです。
このたび、晴佐久昌英の第2詩集「天国の窓」が発行されました。帯には「18刷、4万2千部のベストセラー『だいじょうぶだよ』から10年、待望の第2詩集」とあります。確かに詩集で4万部というのは立派なベストセラーでしょうし、ちゃんと第2詩集も発行されるなんて、詩人晴佐久君、できるようになったじゃないですか。むねをはってやろうじゃないですか。
この詩集は、言うなれば「写真詩集」とでも言うべきもので、見開きの片方のページに菅井日人氏の美しい写真、もう片方に詩を載せました。よく、「これ、写真が先なの? 詩が先なの?」と聞かれますが、思わずそう聞きたくなるほどに写真と詩が寄り添って一つの世界をつくりだしているところに、他とはちょっと違う面白さがあります。実際には、写真からインスピレーションを得て詩を書きました。それを並べると、写真と詩、つまり光とことばが絶妙に響きあって、心に深くしみこむ詩集になりました。
「だいじょうぶだよ」のときもそうでしたが、いつも詩を書くときには、特定のだれかを思い浮かべながら書きます。特に、今つらい気持ちでいる人や、困難の中にいる人のために、励ましとなり希望となるように書いているので、全体に癒しと慰めの香り溢れる詩集になりました。ぜひ、闇の中にいる人、救いを求めている人にプレゼントしてください。ひとつの詩を生み、育て、納得いくものに実らせるためには、大変な苦労と工夫、強い信念と忍耐が必要ですが、苦しんでいる人の気持ちがほんの少しでも和らいでくれるなら、がんばった甲斐があるというものです。
しかし、ここでいい気になってはいけません。まだまだむねをはったりしてはいけません。こんなことではだめだ。よしこんどこそやるぞ。だめかもしれないけれどやってみよう。さあその日をめざしてがんばろう(涙)。