連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第23回

≪ 優しい支えあいで育むもの ≫

志賀 晴児

 多摩教会に転入して先ずは晴佐久神父様の真摯な宣教姿勢、抜群の行動力と魅力的な個性に感動しました。日頃の出来事や感じたことなどを交えて、一人一人に率直に語りかけられる《オール・アドリブ》の生きたことばでのお説教に毎回聴き入っています。当意即妙、簡潔明解、優しさ、暖かさ、「これはホンモノだ!」と多くの人にお話の内容を理解、納得されるために、神父様はさぞや日常の心構え、準備に加えて、心身の健康を大事にしながら、みことばへの感性を磨いていらっしゃるに違いないとお察ししています。

 一信徒の自宅でのごミサからスタート、マンションの「一室聖堂」から現在の姿に至るまでの長い年月、大変な協力を積み重ねて今日の多摩教会を築いてこられた先達の方々のご努力に感謝しながら、様々な分野でのベテラン揃いのこの教会で、信仰はもとより人生の指針あれこれを是非学びとりたいと思っています。

 幅広い年齢層の信徒の中には一人で何役もの教会奉仕活動に専心されている働き盛りの若い方々も居られます。人生で誰でも避けられない辛い時、悲しいの時の心温まる支えあいも耳にします。これらはいずれも受洗からの長い年月、何か所もの信仰共同体を旅してきた私にとって正直、素晴らしく新鮮な印象です。

 マリア様と聖コルベに愛され、「荒野のオアシスを目指す多摩教会」は、今、着々と歩み続けています。数々の教会活動の中でもユニークな実例は、地区のご婦人方の献身的な奉仕で毎週提供されている軽食サービスです。全く初対面の方々とも同じテーブルで気軽に声をかけあえる雰囲気は素晴らしい! また、どなたでもどうぞと呼びかけ実施されている「おやつの会」では、共にわかちあい、心を通わせるオアシスがすぐ身近に存在しています。お互い直接顔を見合わせて、優しいことばを掛け合う小さな一歩がきっと大きな進歩へと広がります。
 繁栄の隅に追いやられている貧困、寂寥、恐れ、不安、孤独の現実社会にあって、神様への信頼の上に築かれる心のつながり、喜びの時にも悲しみの時にも継続する、暖かい、優しい支えあいこそが大切です。そこに心の安らぎの拠点、広い地域社会の希望のオアシス教会、愛の信仰共同体が実現することでしょう。

 内外ともに天災、人災相次ぐ厳しい現実の世界ですが、晴佐久神父様がよく口にされる「ホラ、ヤッパリデショ、モウダイジョウブデス」のことばに励まされて一致協力、岩手県大船渡の医師で信徒の山浦玄嗣先生が話されているように、心の耳を澄まし、イザという時にも絶対の信頼をもって天のお父さんに全てをお任せすれば、《ようがす、ひぎうげた!》と言ってくださるに違いありません。

 荒野の現状の全ては時の流れとともにやがては誰からも忘れ去られて行くでしょうが、共に築き上げる信仰の絆、眼には見えない健やかなつながりは、時空を越えた永遠の天国にしっかりと記録される筈です。「信頼と希望」をもって日々を過ごしましょう。

投稿記事

二口さんを偲んで

吉良 元裕

 去る8月19日、長い間、教会のために尽くしてくださった二口輝子さんが帰天されました。7月頃から体調を崩されていたので、しばしばお電話をしたり、時には部屋をお訪ねしたりしましたが、そのたびに「大丈夫だから心配しないで」とのことで、結局何もしてあげられませんでした。市の福祉関係の方も何度か部屋をお訪ねになったようですが、やはり同じ反応だったそうです。他人の援助を断って、たった一人で病気に挑んでいたことを思うと、切なさで胸がいっぱいになります。
 私が二口さんと最初にお目にかかったのは14年前、まだ聖堂ができる前のことでした。信徒館2階で開かれていた聖書講座を初めて訪れたとき、入り口でとまどう私に、「はじめて?」と声をかけてきたのが二口さんだったのです。二口さんは私を席まで案内して、講座の概要や教会のことなどを詳しく教えてくださいました。緊張しきっていた私は椅子に腰かけ、ひと息ついた時に、やっと「こんな自分でもここに来ていいんだ」と実感したものでした。
その後も折りにふれ神様との向き合い方などを分かりやすく指導して下さった二口さんは、まさにこの教会と私を結んでくださった方でした。
 今年の受洗に向けての個人面談では、晴佐久神父様にそんなお話をして許可を頂き、二口さんに代親をお願いすることになりました。異性の代親というのは異例のことだったようですが、今となっては貴重でかけがえのない素晴らしい思い出となりました。
 受洗後もたびたびお目にかかって、食事をしながら、たくさんのお話を聞かせて頂きました。毎週神父様にお弁当を届けていることや、夜になるとブルーに浮かび上がる多摩教会の大きな看板のことなど。中でも看板については「私が神父様にお願いしたのよ」と、とてもうれしそうに何度も話してくださいました。
 その他にも、フィリピンの貧しい子供たちのために毎月、大量の学用品、文房具を自ら箱詰めして送っていたことや、横浜の教会を通じてホームレスの方々のためにたくさんのお米を届けるなど、様々な奉仕をしていらっしゃることもこっそり話してくださいました。そのほとんどは生活を切り詰め、労力を惜しまず、見返りも一切求めない支援で、なかなか真似のできることではありませんが、これらの行いを他人に知られるのを非常に嫌う、謙遜な方でした。
 帰天された後、40年前二口さんに洗礼を授けた戸塚教会のバーク神父様をはじめ数名の神父様が二口さんのためにミサを捧げてくださったと聞いています。亡くなるときは一人だったけれど、多くの神父様や教会の皆さん、そして神様に愛されて、とても幸せな人生を歩まれたのだと今しみじみ感じています。
 生前よく「私は天国へ行けるかしら」とおっしゃっていた二口さん。もちろん今は天国ですよね。イエス様のスリッパの履き心地はいかがですか?
 私がこうしてこの教会の一員でいられるのは、すべてあなたのお陰です。本当にありがとうございました。あなたと過ごした日々は決して忘れません。
 いつかまた会いましょう。

◎『百万人の福音』9月号で関根牧師と対談

百万人の福音対談
関根弘興牧師×晴佐久昌英神父

『 百万人の福音 』9月号


この国のこの時代に、生きた信仰をもって、大胆に福音を伝えるために驚異的な受洗者数を生み出し、若い人々に絶大な支持を受ける神父と、放送伝道に携わってきた同世代の牧師が、初めて膝を交えて語り合った。

(Copyright(c)2010いのちのことば社 All Rights Reserved.)(写真撮影=小林恵)

プロテスタント福音派のキリスト教雑誌『百万人の福音』(いのちのことば社)9月号で、城山キリスト教会牧師の関根弘興(せきね ひろおき)先生とカトリック多摩教会の晴佐久昌英(はれさく まさひで)神父様の対談が8ページに渡って掲載されました。

牧師と神父の対談は、同誌では初の試みとか。

すでに「教えられた」、「気づいた」、「勇気が湧いてきた」、「多くのことを学んだ」、「感謝でいっぱい」という声があがっています。

大変興味深い内容になっていますので、ぜひ皆さまのご一読をお勧めいたします。

関根弘興牧師
関根弘興
(城山キリスト教会牧師)
晴佐久昌英神父
晴佐久昌英
(カトリック多摩教会神父)

◆購入を希望の方は、こちらの『百万人の福音』購読申込ページからどうぞ。
予約開始号を「9月号から」、注文期間を「1カ月」としていただくと、掲載号のみが購入できます。

( 対談、撮影場所は、カトリック多摩教会です。)

お知らせ:教会での葬儀について

教会での葬儀について

典礼委員会 竹内 秀弥

 この度、信徒の方から教会の葬儀について、一般的にどのように考えて行動すべきか教えて欲しいとの問い合わせがありました。地方によってまた教会によって多少の違いはあるようですが、多摩教会の典礼部として考えていること、実際に行っていることをお伝えします。

 キリスト者は、人間の死をイエス・キリストの死と復活に結ばれる出来ごととしてとらえ、永遠のいのちに招き入れる神のわざであると信じています。ですから、死者がキリストと共に永遠のいのちに迎え入れられるように神に祈ることは、キリスト者の使命でもあります。
 教会はひとつの家族ですから、たとえよく知らない間柄であっても、キリストによって結ばれた我が父母であり我が兄弟であるとの原点に立って、ご遺族やご友人と共に祈り、葬儀のお手伝いをすることを大切にしています。
 葬儀はご遺族の方の意向に沿って行われますから、時には近親者のみで見送りたいと希望される場合もありますが、それは教会の皆さんに迷惑をおかけしたくないと遠慮しての場合が多く、実際には多くの方が参列すると本当に喜ばれるものです。通夜、葬儀ミサに一人でも多くの信徒が参列し、共に祈り聖歌を歌うことによって共同体としての一致が生まれますし、そのような姿は一般の参列者に教会が本当の家族であることを知らせることにもなります。
 自分の葬儀のことを考えても、大勢の信仰の家族に囲まれて祈ってもらえるのはうれしいことなのではないでしょうか。
 多摩教会の葬儀には、イエスのカリタス修道会のシスター方が必ずと言って良いほど、参加されていることもあり、山口院長にどのように考えて参加されているのか伺ったところ、次のようにお返事くださいました。
 「私どもの創立者は、亡くなられた方のためにお祈りすることを勧めてくださっていました。教会の葬儀というものは、死者のために祈ることはもちろんのこと、悲しみの中にあるご遺族の方々に神が慈しみを注いでくださるように祈り、亡くなられた方がキリストの復活に参与されたことを想い起こし、私たちもキリストの死と復活に与ることが出来るよう、共に心を合わせてお祈りさせてもらっています。こういった観点から出来るだけ参加させていただいています。」
 親しかった方の時はもちろん、あまり交流のなかった方の時も、教会の葬儀には時間の許す限り参列して頂きたいと考えております。
 服装についてのご質問もありましたが、仏式神式のような厳格な決まりはありません。一般には黒色を基調としていますが、勤務先などから直接参列する時もあり、固く考える必要はありません。祭壇周りの生花などもご遺族の方の希望に合わせて、暖色系の明るい色が使われることも多い昨今です。お花料については、必ずしも必要ではありません。参加することがより大切なことと思います。
 いずれにしても、大切なのは、わたしたちは一つの家族だという信仰です。参列した人が皆、本当に神の愛と教会の暖かさを感じられるような葬儀を心がけたいと願っています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

ほら、オリンピックだよ!

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 1964年10月中旬。たぶん、日曜日の昼下がりだったと思います。父が突然言いました。「オリンピックを見に行こう」。
 当時6歳のぼくにはオリンピックが何であるかはわかりませんでしたが、父はぼくを連れていそいそと出かけました。そのころ住んでいたのは文京区の駒込ですから、たぶん山手線で代々木へ行ったのでしょう。国立競技場の外に着くと、ぼくを肩車して言いました。「昌英、ほら、オリンピックだよ」。
 父が指差した先を見ると、スタンドの一番高いところの大きなカップの上で火が燃えているのが見えました。その火が何を意味しているのかもやはり分かりませんでしたが、いつになくはしゃいだ感じの父がその火を見て高揚していることは、よく伝わってきたのを覚えています。
 貧しかった我が家にとって、チケットを買って競技を見に行くなどということはおそらく考えもしなかったことでしょうが、戦後の札幌で必死に働き、結婚して東京本社に栄転し、子供をもうけ、昭和30年代の高度経済成長時代を精一杯生きていた父が、戦後20年、ついに日本で開催された平和の祭典、東京オリンピックの聖火を一目見に行きたかったその気持ちはわかる気がします。歴史の証人として、せめて平和のシンボルである聖火だけでも息子に見せておきたかったという気持ちも。
 

 あれから半世紀。縁あってぼくは2012年7月のロンドンオリンピック開会式に参加する機会を得ました。
 そうでなくともイベント好きなぼくは、あらゆるイベントに参加してきましたが、なかでもぼくにとってスペシャルであり、いつか参加したいと願ってきたのは、オリンピック、しかも開会式です。
 中立であるはずのオリンピックですが、時に政治利用され、商業主義に支配されるなど、いまや純粋に平和の祭典とは呼べない側面があるのは事実ですが、少なくとも参加している選手たちはそんな不純な動機は持っていないでしょうし、見る側もそんな不穏なものは見たくないはず。人類は4年に一度、「ぼくらはもしかしたら本当に仲良くできるかもしれない」という希望を目にしたいのです。
 ロンドンオリンピックの開会式は、あきれるほど厳重な警備の中で行われました。会場近くの地下鉄ストラトフォード駅を降りてから、実際にオリンピックスタジアムの自分の席に座るまでの間、ゲートが4か所、チケットの確認が10回近くあり、会場入り口では空港のようなセキュリティチェックを受けて、ペットボトルまで取り上げられました。50年前には想像もつかなかったテロという現実を抱えている現代の平和の祭典は、平和の危うさと、それゆえのかけがえなさをいやおうなしに見せつけているのでした。
 

 開会式は大変よく準備されていて、訓練を受けた7千人のボランティアたちのキビキビした動きは見ていても気持ちよく、英国の田園風景が産業革命で一変していくドラマチックな演出など、いかにもヨーロッパ的な洗練されたものでした。英国ロックの影響力にも改めて感銘を受けましたし、ミスタービーンの演技や女王陛下本人を用いたパロディなど、英国流ユーモアの懐の深さも実感できました。
 しかし、最も感動したのは、意外にも選手の入場行進でした。
 テレビで見ているときはどちらかというと退屈な印象でしたが、現場にいるとそれこそが最高のイベントだということが、ひしひしと感じられるのです。想像してください。全世界、今回で言えば204の国と地域の人たちが、同じく世界中の人が見守る中、実際に一か所に集まってくるのです。韓国も北朝鮮も、イラクもアメリカも、アラブもイスラエルも、みんな国旗を立てて、にこにこしながらゲートをくぐって入ってくるのです。最後にイギリスが入場してついに全世界がそろったとき、涙が出ました。目の前にあるのは理想ではありません。現実です。全世界の人口と同じ70億枚の紙吹雪が舞う中、ぼくは心の中で叫んでいました。「人類、やればできるじゃん!」。そこには確かに、天国が先取りされていたのです。
 もしもそこが天国ならば、父もいるはずです。みんなが見守る中、会場中央に聖火が灯されたとき、ぼくは、いつかは父に言いたかったことを、小さな声でつぶやきました。「父さん、ほら、オリンピックだよ」。

連載コラム:「犠牲の世代-西澤 成祐の周辺-」から

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第22回

≪「犠牲の世代-西澤 成祐の周辺-」から≫

佐倉 リン子

 きっかけは、西澤 邦輔訳のダンテの「神曲」だった。30年も前のことだが、次女の毬が6年間お世話になった高知医大で西澤先生は、英語を教える傍ら、聖書研究会を開いていらした。毬が熱心に参加している様子が印象深かった。
 最近私は「神曲」の一部を読み確める必要があり、毬の遺した本棚の前に座った。そして「神曲」の隣にあった同じ書き手の「犠牲の世代・・・」を手に取るや日の暮れるのもかまわず読み進んだ。それは毬が尊敬していた西澤先生についての謎が解けると同時に60余年前に体験した戦争と敗戦の記憶がどっとよみがえって来る圧倒されるような時間だった。
 オアシス考を書いてというカトリック多摩教会ニューズのお申し出に対するのに、この西澤先生の兄上である西澤 成祐少尉(戦死と同時に中尉に任官された)の遺稿集を全体からみるとほんの少しだが抜粋引用させていただきたいと思う。

 西澤 成祐氏は、大正12年高知県安芸郡に10人兄姉弟妹の二男として生まれ、昭和17年東京帝国大学法学部政治学科入学、同18年在学のまま学徒出陣、同年マニラ着任、同20年2月マニラよりマラリヤの高熱におかされながら、部下を率いてルソン島山岳地帯を越え、東海岸インファンタに到着。若い軍医の手当で、マラリヤは快方に向かったものの、食糧そして武器の不足に悩まされた。6月2日未明小隊を率いて軍刀を以って敵陣に斬り込み、被弾、戦死。享年21歳9ヶ月。
 昭和18年海軍予備学徒航空兵として成祐が南に向かってから、敗戦後7年余りの間、家族はその生死さへわからなかったが、昭和26年4月高知新聞に「死刑囚としてモンテンルパに収容されている椿 孝雄氏が、成祐の遺族を探している旨の記事が載った。
 括弧内は邦輔氏の文章そっくりそのままの引用である。
 「それによると、椿氏は比島からカトリック修道女を通じて(後の邦輔宛の手紙では『日本に行かれるキリスト教関係の米人の方に託して』となっているが)学友赤松氏を通して高知新聞に成祐の遺族の住所を尋ねるよう依頼した。」

 次は邦輔氏が新聞記事から赤松氏の手紙の文面と思われる部分を抜粋引用したものを更に引用させていただく。
 「西澤君は昭和19年末、母艦天城からマニラのニコラス飛行場に転勤、同じ学徒出陣の椿君と半か年余行動をともにしたもので、椿君の手紙には『西澤君の遺族たちが彼の戦死の状況を知らせてほしいと望むなら、私は命のある限り書きしらせたい』と結び、枯れぬヒューマニズムがにじみ出ている。」
 昭和28年(1953)7月22日、「椿氏等モンテンルパの生き残っていた死刑囚全員(学徒兵は8名)特赦により釈放されて8年振りに帰国。これは白鴎遺族会(海軍航空予備学生・生徒の遺族と同期生の会)を初めとする全国的な助命嘆願によって比島キリノ大統領を動かして実現したものであった。(元将校の死刑囚約300名中の約半数はすでに処刑されていた)」

 次は邦輔氏のあとがきから引用させていただくことにする。
 「数年前に白鴎会で戦没者遺稿編集の企画がなされた時は、なぜかまだ故人の筆跡を正視する心のゆとりがなかったので、折角の御厚意にお応えすることができなかった。この度、再度の遺稿編集の企画に促され、はじめて亡兄の海軍時代の日記を通読し、ただに兄一人のみならず、同じ運命を辿った数多くの若者たちが偲ばれて、昼も夜も夢見る思いであった。」
 「この度しみじみ痛感したことであるが、人間の歴史の中には犠牲の世代がある。敵味方を問わず、ひたむきな精神を健やかな肉体がその青春の真っ盛りに幾十万となく捧げられ、彼らを哀惜する多くの人々の心の中に消し難い刻印を残すのである。辛うじて死を免れた人々も決して例外ではない。その体と心に障害の傷と痛みを負うているからである。この犠牲は、おそらくは、人間の歴史を潔めるためのものである。少なくともそう信じてはじめて、彼らの愚かしいばかりの献身と忠実は聖なる意義を取りもどし、それによって歴史の彼方に遙かに希望を見ることができるのである。」

 モンテンルパの死刑囚に寄り添って成祐の最後の様子を遺族に知らせる手助けをしたカトリックの修道女の優しさもオアシスであり、それはその手紙の行く先々で目に見えないオアシスを生んだと私には思われる。
 邦輔氏によれば、ご両親はご長寿だったが「成祐を失ったことについて・・・全くと言っていいほど感慨を漏らさなかった。その無言の深さを今ひしひしと感じる。」

 『犠牲の世代—西澤成祐の周辺—』    平成7年7月21日発行
 編集・発行  西澤邦輔  〒784 高知県安芸市本町1-15-8
 印刷・製本 高知印刷(株) 非売品

投稿記事:教会学校の合宿に参加して

教会学校の合宿に参加して

豊嶋 太一

 今年の教会学校(小学生)の夏期合宿も、8月10日(金)から11日(土)に教会で行われました。参加者は、幼児5名と小学生13名と中学生2名とで昨年よりちょっと少なめでした。高校生〜社会人のお手伝いも直前にどどっと5名参加してもらえました。山川啓君(啓と書いて「ひらく」と読む)は、今年で3年連続神戸から参加、女性では笹田さん、男性は、正太郎、れん、優大と皆下の名前で呼び合っている仲間たちです。あとは、教会学校のリーダー、子供たちのパパ、ママ、それに晴佐久神父様とシスターで、最大人がそろった瞬間は、40人弱だったと思います。ご協力ありがとうございます。
 10日は府中の森公園周辺を散策しました。まずは公園の駐車場から、サントリー武蔵野ビール工場へ工場見学に行きました。こだわりの天然水は、なんと井戸を掘って、深層地下水からくみ上げているそうです。私の謎が一つ解けました。もう一つは、ビール以外のソフトドリンクも製造しているのか? ですが、答えはNoでした。そんな私の知りたい質問をミッション1として子供達に当日配布し、調べてもらいました。皆ミッション・クリアです。
 工場から公園に戻る途中に大東京綜合卸売センターを20分程見学し、公園の桜の木の下で昼食のお弁当を食べました。食事の後に、ミッション3の「ミッキーをレスキューせよ」の説明をしました。テニスボールサイズのボールを12個、府中市民プールに放出し、それを子供が捜し出すというものです。案の定、怖い監視員のお姉さんに注意されました。プールの中でボールを見つけられなかった子も、案内所に落し物として届けられていたボールをゲットしたりと、頭も使って必死に探してくれました。
 プールの後は教会に戻り、ミッション・クリアした数だけ、ぽいを渡して、30分間スーパーボールすくいをしました。ちょっと丈夫なぽいを選んだみたいで、みんなお椀にあふれるほどすくえていました。今回は6号ぽいを準備しましたが、次回やる時はもう少し弱い7号ぽいを準備した方がいいのかな?
 その後はお母さんたちが作ってくれたカレーライスを食べ、お風呂に入りに行き、教会に戻ってから去年と同じく焚き火をしました。
 きらきら光るおもちゃを準備していて、焚き火の時のテンションアップに使おうと思っていました。でも、事前 simulation が甘く、おもちゃを渡したら、おもちゃに集中してしまって、焚き火へ集中しなくなり、まとまりが無くなってしまいました。自分で光るおもちゃを渡しておきながら、集中しないと没収するよと、全く矛盾する発言をしてしまい、反省でした。
 なんとか焚き火でのジェスチャーゲームを終えた後は、子供たちの事前課題の「イエス様の火で燃やしたいもの」と「神父様へ質問したいこと」について、神父様からお話をしてもらいました。神父様のお話のお陰で、集中力に欠けた焚き火がよみがえりました。ありがとうございます。あと、もう一つ焚き火をよみがえらせたものがあります。それは、子供たちが事前課題で書いてきた内容そのものです。とても素晴らしいことが書かれていました。神父様に事前課題を渡す前に私も読みましたが、小学生らしい素直さの中にも、大人とほぼ変わらない目線で、自分の燃やしたい弱さをとらえていて、とても感心しました。また、神父様への質問では、こじかの連載記事の「司祭の独身制」についての記事を読んでの質問です。子供の書いた質問と、それに答える晴佐久神父様のお話は、2012年教会学校の焚き火に参加した子達の思い出になって、10年後にじわじわと効いてくることを望みます。この様子はビデオに撮って20分程に編集済みです。
 私は合宿初日の遊びプログラムが専門で、2日目の司牧プログラムは裏で休ませてもらっていました。2日目は、朝食後に切り絵、ゲーム、侍者練習、スイカ割り、ミサ、昼食、感想文作成と半日ですがたくさんプログラムをこなしました。
 最後に、2日間、怪我や病気になる子もでず、奉仕の方々とともに、神さまのお恵みの元、晴佐久神父様のお話のシャワーを浴びることが出来、無事合宿を終えることが出来た事を感謝致します。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

教皇のケーキ

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 ヨハネ・パウロ2世前教皇の故郷の町ヴァドヴィッチェを訪ねて一番驚いたことは、前教皇の生家が地元の小教区教会のすぐ隣の家だったことです。我が家の玄関を出たらもうそこは教会なわけで、カロル少年は毎朝、まず聖堂の聖母子イコンの前でお祈りしてから学校に行っていたそうですから、まさに将来の教皇を育てるには絶好の環境であったと言えるでしょう。わたしたちが聖堂を訪れた時も、ちょうどお昼のアンジェラスの鐘が鳴り響いて、ああ、パパ様も子供のころから朝な夕なにこの音を聞いて育ったんだなあと思うと、いっそう親近感が深まりました。

 カロル少年は7歳のとき、母親を亡くしています。多感な年ごろ、どんなにさみしかったことでしょうか。そんなある日、父親は息子を連れて近くの巡礼地であるカルヴァリオの修道院を訪れると、有名な聖母子イコンの前に立たせてこう言ったそうです。
 「カロル、これからはこの方がお前のお母さんだよ」
 この一言は前教皇にとっては預言的な一言となりました。前教皇にとってまさに聖母はまことの母となって、彼は生涯聖母を慕い続け、聖母は彼を教皇職にまで守り導いたのですから。
 今この修道院を訪ねると、ヨハネ・パウロ2世教皇が教皇に選ばれて最初にこの地を訪問した折にこの聖母子イコンの前にひざまずいて祈る写真が飾ってあり、前教皇の胸中を思うと胸に迫るものがあります。何を祈ったかは定かではありませんが、さしずめこんな感じではないでしょうか。
 「ママ、ボク、教皇に選ばれちゃったよ。精一杯がんばるから、ママ、守ってね・・・」
 この想像はあながち、的外れではないかもしれません。前教皇が世界平和のためにどれほど必死に努力したかについては誰一人異論のないところですが、それでも世界の情勢が悪化し、戦争が始まってしまい、市民が殺戮されるなんてことも現実にあり、そんなとき、身近な人は前教皇が涙を流しながらこう祈っている姿を目撃しています。
 「ママ、ママ、何故!」
 そういえば、ポーランドの巡礼地の土産物屋に大抵おいてあるヨハネ・パウロ2世前教皇の写真や絵の中に、聖母が前教皇を抱きしめている絵がありました。実際、今頃天国で聖母は自慢の息子を抱きしめていることでしょう。「よくがんばったね・・・」と。

 ポーランドを訪れたら、ぜひ召し上がっていただきたいケーキがあります。その名は「クレムフカ」。上下二枚のしっかりしたパイ生地に、これまたしっかりしたカスタードクリームがたっぷりと挟まっている素朴なケーキです。カスタードクリームが大好きな身としては、これがクレムフカかと、大変おいしく、かつ感銘深くいただきました。なぜ感銘深いかというと、このケーキがヨハネ・パウロ2世前教皇の大好物だったからです。
 それが明らかになったのは、1999年6月、前教皇がヴァドヴィッチェを訪問して生家の隣の教会前広場でミサをした折、前教皇は何気ない思い出話のつもりだったのでしょう、「小さいころ、この広場の一角のケーキ屋さんでよく大好きなクレムフカを食べたものです」と口走ったのです。そのケーキ屋自体はとっくに廃業していたのですが、さあ、大変。翌日にはヴァドヴィッチェ中のケーキが売り切れ、以降クレムフカは「教皇のクレムフカ」と呼ばれるようになって国中で大流行し、今やすっかりポーランドを代表するケーキになってしまいました。
 今年2月に前教皇を慕ってローマを巡礼した折に、ポーランド人神父や神学生が寄宿する神学校を訪れました。そこはローマに住むポーランド人聖職者にとってはある意味で最もくつろげる「小さな故郷」なわけですが、そこの院長様が思いがけないことを教えてくれました。なんと、ヨハネ・パウロ2世前教皇が、ヴァチカンをお忍びで抜け出して、宿舎のポーランド人シスターが作るクレムフカを食べに来ていたというのです。
 それを聞いてますますあのパパ様を身近に感じましたし、ぜひ食べてみたいと思ったのでした。そして、このたび実際に食べながら思ったのです。ああ、きっとパパ様は小さいころ、広場のケーキ屋で、このケーキをお母さんと一緒に食べたんだろうなあ、と。
 心労の絶えない激務の中、お忍びで食べに来たクレムフカは、ママの味だったのかもしれません。