巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英

釜石ベースのために、中古ワゴンを贈りたい!

主任司祭 晴佐久 昌英

 いつも、被災地支援のためにご協力ありがとうございます。2月は福島を2回お訪ねし、3月は盛岡、宮古、大槌、釜石を周って来ました。
 福島の野田町教会でミサと講話をいたしましたが、震災で壊れた聖母像の代わりにと、昨年多摩教会が贈った聖母子像に再会することが出来ました。そのことでは信者さんも大変喜んでいて、1919年生まれという一人の女性は私の手を取って、「聖母子像の祝別式に多摩の皆さんが来てくれて本当にうれしかった、ご像にはいつも励まされています、今日こうして直接御礼が言えてうれしい」と、涙ながらにおっしゃってくださいました。

 岩手へは、皆さんからの義捐金を届け、各ベースのスタッフを励ましてまいりました。盛岡では、盛岡を基点にして三陸の被災地支援をしている信者のグループ「ナザレの会」のみなさんに義捐金を託し、宮古では2日間、一日目は宮古ベースのみなさんと、二日目は宮古教会のみなさんとそれぞれにミサをして、福音を語ることができました。
 宮古は3度目の訪問ですが、最初の訪問の時に知り合った中村せんべい店も訪問できました。ご存知、多摩教会の教会ショップで売っている南部せんべいを作っているお店です。津波で被災して一時はあきらめかけましたが、何とかお店を再開してがんばっています。でも、隣の人も去ってしまい、今が一番さびしいと言っていました。奥様はいつも晴佐久神父の本を被災者に配っている方なので、「恐れるな」などを十冊お届けしました。
 大槌ベースでは、私と叙階が同期の古木神父ががんばっています。大槌はまだベースが出来る前も含め4度目の訪問ですが、「こうして何度も来てくれるだけで、どんなに励まされるか」と言ってくださいました。多摩からの義捐金をお届けして、「神父さまご自身の裁量で必要な経費としてお使いください」と申し上げましたら、そういうのが何より助かると、大変喜ばれました。せっかく整備した大槌ベースですが、かさ上げのためにまた移転せざるを得なくなりました。ますますの応援が必要です。

 さて、釜石ベース、「カリタス釜石」ですが、ここへはもう10回近く来ていて何度目の訪問かも分からなくなってしまいましたが、相変わらずスタッフがみんな誠心誠意頑張っていて、本当に感心します。
 死者行方不明者1041名の街です。被災地が次第に忘れ去られていく中、被災者はいまだに癒えぬ傷を抱えて、孤独感をつのらせています。被災者間の格差も拡がり、弱者は取り残されていきます。釜石ベースは、そんな一人ひとりにていねいに寄り添う、「寄り添い型支援」を続けて、地元から圧倒的な信頼を勝ち得てきました。
 今回うれしかったのは、このたび、カリタス釜石がNPO法人として認可されたことです。私の親しい友人であり、ベースを実質的に支えてきた伊勢さんが副理事長として、ますます福音的な活動をしてくれることでしょう。このたび、その伊勢さんが私に、少し言いにくそうに、しかし「ノーとは言わせない」という眼力で、言いました。
 「ワゴン車が一台必要なんだけど・・・」
 わたしは反射的にお答えしました。「お任せください」。そう言うしかありません。そのためにお訪ねしているのですから。
 ということで、みなさんに呼びかけます。NPO法人カリタス釜石発足のお祝いに、ワゴン車を贈りましょう。必要なのは中古のハイエース(商用タイプ)で、後部座席がなく荷台が広いタイプのものです。現地にちょうどいい出物があって、それが180万円だということですので、みなさんのお志を託していただけませんでしょうか。なにとぞ、よろしくお願いいたします。
 もちろん、いつものように私が直接お届けします。4月は24,25日に釜石を訪問しますので、それまでに集めたいと思います。
 贈るのは単なる車ではありません。「あなたの悲しみを忘れていませんよ、祈っていますよ」という、まごころです。

連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第27回

「オアシス広場」

一ノ宮・関戸地区 吉村 征哉

 多摩教会にはよその教会からも信者さんがたくさん訪問してくださいます。カトリックだけではなく、プロテスタントや聖公会の兄弟姉妹も遊びに来てくださいます。そして、いろんなお話をさせていただくのですが、初めて来られる方などは、信徒館よりも、オアシス広場のほうがリラックスできるようで、ベンチでお話させていただくことが多く、今ではオアシス広場は重要なコミュニケーションの場となっています。

 先日遠くのカトリック教会から来られた姉妹がこんなことをおっしゃるんです。
 「晴佐久神父様の福音はすばらしいんですが・・・。私少し怖いんです」
 「ええ? それはなぜですか?」
 「だってすべての人が救われるんでしょ? それだと、私困るんです」
 「どう困るんですか?」
 「あまり・・・向こうに行ってから、お会いしたくない方もいるからです・・・」

 なるほどなぁ、もっともだと思ってしまいました。私にも思い当たるふしがないわけではありません。しかし、これは少し違います、心配には及びません。天国というのは、魂の平安が完全に得られる場所ですから、その人にとってイヤなことは何ひとつ起こらないんです。逆に言えば、イヤなことが起こるような場所は天国ではないからです。ここまでは、確かなことですが、これを具体的(?)に説明するのは至難の技で、実際天国がどんなところか、どんな構造になっているかは、誰にもわからないので困ります。

 月並みですが、ダンテの神曲を例にひいて、「神様のご配慮で、天国は複数の階層に分かれていて、似たような境遇の人、近い思想、価値観をもつ人に分かれて住んでいるので、貴方にとって困る人と一緒に暮らさなければならないことはないと思いますよ」と、ご説明したものの、果たしてこれで良かったのか悪かったのか・・・。

 でも、その姉妹は「安心しました」とその後メールで伝えてくださいましたので、私もほんとうに、安心しました。

受洗に寄せて

平田 和美(仮名)

 いつもの場所で待ち合わせをした場所に、彼はいつものいたずら少年のような笑顔で立っていて手をあげました。
 「いやー、仕事が忙しくてさ、昨夜から何も食べてないからお腹空いたよ」
 本当はもういないはずなのに…。
 「何言ってるの、皆が心配してるのよ、もう勝手にどこかに行ったらダメじゃない」
 「悪い、悪い、わかったよ」
 「まったく、本当にわかってるの…?」
 そう文句を言いながら、彼の腕をつかまえました。
 「よかった、間に合った!」安堵が私を包んだ瞬間、目が覚めました。
 夢……「間に合わなかった…」
 思わず涙が溢れ出ました。「なぜ、手を離してしまったのか…」

 1週間前のあの日、彼はひとり、旅立ちました。誰にも何も言わず。
 この時、初めて心の中で尋ねました。
 「神様、私はどうしたらいいですか…」

 会社との経済的なトラブルに巻き込まれ、人の心の醜さを目の当たりにするようなことが続き、失意のまま地方から東京に戻った私たちが体験したのは、更に、信じていた会社の先輩や友人たちの追い打ちをかけるような言葉や態度でした。
 私は人を信じることができなくなり、自然と彼との仲もうまくいかなくなり、しばらく離れて気持ちを落ち着かせようということになりました。
 そんな時に私は体調の不調を感じ、病院にいくと即手術を勧められました。病名は「卵巣膿腫」。良性の腫瘍ですが、あまりの大きさに、悪性の可能性もないとは言い切れないとのことでした。幸い、悪性のものは発見されませんでしたが、結局仕事を辞めざるを得なくなりました。
 「なんで、何もうまくいかないんだろうね」
 時々、会って相談に乗ってくれた彼に、私はいつも愚痴ばかりこぼしていました。
 「僕たちはもう、若くはないんだよ。あせらずに落ち着いて働ける仕事を探してみたらいい」
 彼の言うことはもっともだと思いましたが、彼の言葉さえも、また、素直に受け止められなくなっていました。
 それから数年、心の中にわだかまりも抱えつつも現在の仕事につき、ようやく心の中に落ち着きを取り戻し、偶然にも彼の会社の近所に仕事が決まりました。
 彼はとても喜び、
 「近いのだからすぐに会えるじゃないか、落ち着いたらやり直そうよ」
 私もできるなら、それを一番望んでいました。贅沢などできなくてもいいから、休みの日には好きな料理を作って、ふたりでのんびり暮らせたらいいと思えるようにようやくなっていました。

 そして、去年の震災当日、会社に避難していた私を迎えに来てくれた時、こんな時に気を掛けてくれたと本当にうれしかったのです。
 でもそれが、彼を見た最後となるとは思いもよりませんでした。震災後の交通混乱などが続き、落ち着いたらまた会おうと約束をしてしばらくして思わぬ知らせが届きました。
 彼が亡くなったとの知らせでした。

 暗闇に突き落とされる、そんな感じがしました。ただ、年老いた義父がいたため、亡くなったのは義父ではないかと情報が錯綜し、混乱の中彼の実家に行くと、出迎えてくれたのは義父でした。部屋の中には白い布で包まれた小さな箱がひとつ置かれていました。
 1カ月ほど茫然自失の状態が続き、思わず車の前に飛び出したり、夜の街を気がつくと何時間も歩き回って、彼の姿を追っていました。
 「会社の経営サイドに携わると、どうしても言えないこともでてくるんだ。君に心配も掛けたくなかったかもしれない。今は、ようやく楽になったと思ってあげたらどうだろう」
 事情を打ち明けた上司から、そんな言葉をかけてもらいました。
 「楽になった」という言葉が心に残り、そこまで苦しんでいる彼の気持ちを理解できなかった私は、自分を責めることしかできませんでした。

 しばらくして、新聞の記事に目がとまりました。東日本大震災の復興に関わることになったとある政治家の記事に、クリスチャンの友人から送られた言葉として「平和の祈りの一節」が載っていました。

 慰められることより、慰めることを
 理解されることより、理解することを
 愛されるより、愛することを望ませてください

 この言葉が私の心に突き刺さりました。いつしか傲慢になり、相手を思いやることを忘れてしまっていたのでは、そう思ったのです。
 すぐにパソコンでアシジのフランシスコを検索し、保護聖人としている教会を探しました。偶然にも、会社の近くで入門講座を開いている教会が見つかりました。日を置かず教会を訪れると、修道会の教会でお御堂の上にはマリア様が上から迎えてくださっていました。
 「ようやく、ここまで来ましたね」
 そんな風に声をかけていただいたような気がして、目の前のベンチで泣き崩れました。

 それから、1日も休まず講座に通い、修道院の教会だったこともありミサの30分前から始まるお祈りにも与(あずか)り、聖母月にはできるだけロザリオの祈りにも参加しました。
 ミサに与っているうちに少しずつ気持ちが落ち着いてきたのですが、心の中のもやもやとしたものは、なかなか消えませんでした。

 そんなある日、仲良くなった教会のお友達から「いやしのミサ」があるということを聞き、「こちらのお話の方が、あなたには合っているかもしれないよ」と誘われて、参加をさせていただきました。他の神父様のお話を聞くのはこれが最初で、緊張をしてミサの始まりをまっていましたが、神父様のお話が始まった途端、私の心にわだかまっていたものが、少しずつ溶けていくのを感じました。

 こんな罪深い自分でも、イエス様は心に留めてくださっている。
 イエス様の望む完全な人間でなくても、愛してくださっている。
 皆、同じような苦しみや悲しみを抱えても、慈しんでくださっている。

 目からうろこが落ちたような気がしました。そして、それから神父様のお話に引き込まれ、あっという間にミサが終わりました。
 もっと、この神父様、晴佐久神父様のお話が聞きたいと思い、その後2、3カ月の「お帰りミサ」に参加させていただいて、私は決心しました。
 洗礼まで数カ月、ましてや遠距離からなので、ミサに参加させていただけるかどうか 私のわがままになってしまうかもしれないけれど、ぜひ多摩教会で洗礼を受けさせていただきたいと…。

 12月の子供たちのお芝居を拝見し、ますますその気持ちを強くし、そして明けてお正月、入門係の方に思い切ってお話を切り出したところ、神父様との面談の機会をいただけることとなりました。
 初めてお会いしたにもかかわらず、要領の得ない私の話をずっと聴いてくださり、気がついたときには2時間近くたっていました。ずうずうしいお願いかと思いましたが、神父様は洗礼を許可してくださいました。
 「今、彼はイエス様のもと、天国できっと幸せに暮らしています。次はあなたが新しい人生を幸せに暮らすことを望んでいると思いますよ。そうなるように、神様はここに来るようになさったんですよ。洗礼の頃は桜の季節ですね。笑顔で桜を見られるようになりましょう」
 ・・・涙が溢れて止まりませんでした。

 今、心の波が揺れることも多々ありますが、洗礼によって小さくともった神様の灯の温かさを少しずつ感じています。
 この、小さな希望の灯で心の目をくすませることなく、彼のために祈りながら第二の自分の歩き方をイエス様に導かれたら良いなと思っています。

 多摩教会の入門係の方、教会の先輩方そしてクリスチャンの先輩の友人、そして晴佐久神父様に改めて御礼を申し上げたいと思います。
 ここまで導かれたのはイエス様のお計らいでしょう。でも、その私を側で力強く支えてくださったのは、大勢の方の優しさと愛だと思います。
 以前の私でしたら、そこまで思いが至らなかったと思いますが、今は感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

神の御心に感謝

安田 光二(仮名)

 思えば先に転会をさせていただいた妻と共に私たちをこの多摩教会に導いてくださったのはひとえに神の御心と感謝しております。

 キリスト教との出会いは、妻が受洗したプロテスタント教会の日曜礼拝でした。
 何回か通ったのですがどうも肌が合わず疎遠になっていたところ、その教会の方から近くのカトリック教会に素晴らしい神父様がいらっしゃるとの話を聞き、そこで初めて晴佐久神父様と出会うことができました。
 お説教を聞くだけで何と表現したらよいかわかりませんが、何か「活力」をいただき、それからというものは教会に行くことがこんなにも楽しくなるとは思いもよりませんでした。一度だけのことですが、お説教をされている神父様の後ろに本当に神様がいらっしゃると思えたような、貴重な体験をもさせていただきました。

 その後、残念ながら神父様が転任され、これでご縁もなくなったと諦めていたら、あの大震災が起こりました。
 今までずっと心に抱えていたさまざまな苦悩が、この震災を機に一遍に表面化し、自ら解決できず、ついには永年住み慣れた土地を後にして引っ越してきたのが、この多摩の地でした。

 夫婦で新しく人生をやり直そうとやってきた初めての土地で、すぐそばに教会を見つけました。多摩教会です。のぞいたら何と晴佐久神父様がいらっしゃるではありませんか。
 何も考えず引っ越してきただけで、もうご縁もないと思っていた神父様と再会できるとは信じられませんでした。これも神の御心の証しと感謝しています。
 一番喜んだのは妻でした。心の傷が大きく不安な日々を過ごしてきましたが、この多摩教会の皆様と神父様に出会えたことで、すっかり元気になり転会をさせていただくまでになりました。

 今回、私は洗礼にあたり、こんな不完全な自分でもよいのかと思いましたが、これから少しでもキリスト者の一員として社会の役に立つことを心掛けようと心に決め受洗をさせていただきました。
 神に感謝、皆様に感謝

習字教室

吉村 征哉

 文集に載せる感想文を書かなければいけないのですが、受洗された皆さん、大変な人生経験をお持ちの方ばかりで、とても気がひけて書けそうにありません。
 なので、子供の頃の思い出をちょっとだけ書きます。

 私の実家は代々、仏教徒でした。特に祖父母が熱心な仏教徒で、またその宗派が極度にキリスト教を恐れているのかなんなのか、幼い頃、祖父母に預けられて育った私は徹底的といっていいほどキリスト教に敵対することを叩き込まれました。
 祖父母は大好きでしたが、どうしても祖父母の話す反キリスト論には納得できない自分がいて、どういうわけだか、わからないのですがイエスという人が気になって、気になってしょうがないのです。
 「あそこんちは耶蘇
(やそ)だから近づいてはいけない」などと言うときの祖母は、見ていて悲しい気持ちになりました。

 ある日、そんな耶蘇んちの女の子に、声をかけられました。小学校の3年生位の頃だったでしょうか。
 「こひつじに行かない? ね? おもしろいよ!」
 「硬筆字??」
 てっきり習字教室かなにかと思い、無料だというので、のこのこと、ついて行ってしまいました。
 最初に紙芝居を見ました、ヨナ記を題材にしたものだったように思います。その後、みんなで歌を歌いました。これが私には、衝撃的でした。

 「主、われを愛す‥わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」

 西洋の神様なんて、遠い遠い存在の、それこそ天のはるか彼方に住んでおられて、人間のことなんか基本的に気にもかけてないような方で(私のイメージ)、そんな方が人間ごときを愛すとはどういうことだろう?
 「主、われを愛す」ではなくて、「われ、主を愛す」なら、まだわかるような気もするけれど‥。
 思わず連れて来てくれた子に、
 「この歌の歌詞、変じゃない?間違ってない?なんかおかしいよね?」と、問いただしてみるも、
 「ううん、イエス様はみんなを愛してくださるのよ」
 「神様の方が人間を?」
 さらにこの歌の歌詞は、人となられた神様が、私たちの罪をすべて背負って、私たちの身代わりとなられて死んで下さったことになっています。よほど私の頭が悪いのか、そもそも小学生には理解し難いことなのか、私は完全に混乱してしまいました。
 習字教室だと偽ってしばらく通っていたこの日曜学校も、祖母にばれそうになり行かなくなってしまい、その後はずるずると仏教徒を続けることになります。

 洗礼後の感想文なのに何だか、信仰告白みたいな変な文章になってしまったので、このへんでやめときます。
 そして今日、洗礼を授かり、このヘタな文章を書いているのですが、額に受けた洗礼の水の感触がまだ恐ろしいほどに残っています。
 たくさんの方から祝福のお言葉を頂き、感想なども聞かれましたがうまく言葉にできず、本当に失礼致しました。
 額の洗礼の水の感触が、召されるその日までずっと残っていればいいなと思います。
 主の平和

「多摩教会に来てみませんか?」

香山 奈々子(仮名)

 「奈々子先輩、元気がないようで心配です」華ちゃん(仮名)が声を掛けてくれたのは、数年振りに参加したゼミ会の帰り道でした。
 カトリック系の大学で、シスターのゼミに属していた私は、「神様が与えてくださった試練ですから、喜んで受け入れます」というシスターの言葉にあこがれを抱きつつも、私がそのような信仰を持つ自信などなく、苦しいときだけ神様を思い出して「助けて下さい!」とお願いしていました。
 「多摩教会に来てみませんか?うちの神父様のお話おもしろくて、きっと元気をもらえますよ」という華ちゃんの言葉をきっかけに、今までずっと気になりながら、あれこれ理由をつけて敬遠してきたけれど、キリスト教を知らないまま人生を終えたらきっと後悔すると考え、教会に通ってみることにしました。

 そして、初めて多摩教会に伺ったのが聖母の被昇天の御ミサでした。(その後のパーティーにもしっかり参加)
 神父さまが力強く宣言して下さる福音を毎週聴き、神様の愛の深さを知るたびに、新たな感動と感謝の思いがわいてきました。これまで、自分の意志や努力で生きてきたと思い込んでいましたが、神様に導かれ、豊かなお恵みと慈しみの中に生かされていたことに気付かされたのです。
 このような中で、ぜひ洗礼を授けていただきたいという思いが強くなりました。
 この思いに至るまでに長い年月がかかりましたが、これも神様のお計らいだったのだと思います。神様に感謝。

 大学の修道院創立者の洗礼名をいただき、代親になってくださったシスターから贈られたベールを着け、ゼミの仲間たちに見守られながらの洗礼式・・・、この幸せな日は一生忘れ得ぬものとなるでしょう。
 感謝の気持ちを忘れず、これからさらに信仰を深めていきたいと思っています。

 受洗に至るまで入門係の皆さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。 
 最後に・・・、私に「キリストの香り」を運んでくれた華ちゃん、あなたのあの時の言葉で新たな人生を歩み始めることができました。
 本当にありがとう!!

神様に呼ばれて

田島 優作(仮名)

 小学生の頃から原稿用紙に字などを書いたことが全くないので、うまく書けるかどうかわからないのですが頑張って書きます。

 4月7日、自分は洗礼を受けて神様の子にしてもらえたのを本当に嬉しく思います。まだ本当に神様の子になれたのかな?なんて考えてしまって信じられません。

 自分は、今まで、めちゃくちゃな人生をおくっていました。
 不安だらけで自分のことも全く信じてなく、人のことも全く信じてなく、神様のことなど頭には全くなく、人を悲しませたり傷つけたりを繰り返し繰り返し、していました。
 自分のことなんて、もうどうでもいいやって毎日思い、やけくそに今まで生き、そんな気分でいるのが心の底ではイヤだったのかもしれなく酒を飲んでごまかし、薬にまでも手を出して、気付いたら薬から離れられなくなっていました。自分の中で薬が生活の中で一番になり、自分のことを心配してくれる人や大事な友達も失い、一人になってしまいました。

 ある日、薬がきいている状態で何日も何日も寝てないときに車で薬を買いに行く途中で事故を起こしてしまい、運転していた仲間が大けがをしてしまいました。
 自分は、そのときやっと気付きました。このままじゃ絶対にダメになるっ!!もう止めなきゃ!!
 何だかわからないのですがその時に思い出したのが、自分が小学生の頃に無理やり母親に連れて行かされたサレジオの教会や日曜学校でした。子供だったので日曜は遊びたくて遊びたくて、いやいや日曜学校や教会に行っていたのですが、日曜学校の先生のことや、日曜学校で歌った神様の歌や、神父様のことを思い出して、神様を信じる気持ちっていいことだったんだなって思い、何十年ぶりに母親に会いに行って、母親に「教会オレも連れて行ってよ!!」って頼みました。母親はすごく喜んでくれて、母親の周りの人も全力で自分の教会のことで動いてくれました。

 去年の1月頃から教会に行き、仕事が忙しかったりして信者になるための勉強会にも出られず、信者になることを諦めていた頃に、シスターから多摩教会の晴佐久神父様のことを聞き、「神様があなたの事をここに呼んだのですよ」と言われ、自分も神様の子にさせてもらい、本当に嬉しく思っています。

 これからは、神様の子になったのだから、自分を信じて人も信じて、いつも自分の中にいてくれる神様を信じて生きて行きたいと思うようになっています。すぐには自分は変われないけど、できれば人に優しい気持ちを持てたりして生きたいと今は思います。
 神様のことを思い出せたことで母親とも何十年ぶりに会い、教会に来ていろいろないい人に会い、優しい気持ちをもらいました。
 神様のことを自分に思い出させてくれた神様に感謝します。
 「ありがとうございます」

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英

ここで葬儀ミサをしてほしい

主任司祭 晴佐久 昌英

 この巻頭言は教会HPに載りますし、個人的な事情も含まれますので洗礼名だけで表記することにしますが、ミカエル君が亡くなりました。まだ若かったのですが、身寄りもなく、一人暮らしの突然死だったので、発見されたのは亡くなった二日後でした。
 つい最近多摩教会に転入したばかりでしたが、持ち前の人懐っこさと世話好きの性格であっという間に教会内の知り合いを増やし、様々な集いに顔を出して賑やかにおしゃべりをしていました。おやつの会で、色々とうんちくを語りながら、うれしそうにみんなにおいしいコーヒーを振舞っていた姿が忘れられません。信仰深く、自分の洗礼名にもしたように大天使ミカエルが大好きで、部屋には大きなミカエルのポスターが貼ってあったそうです。

 警察の検視が終わり、さてご葬儀等をどうするかということになるわけですが、いくら本人がカトリック信者であり、教会で是非葬儀ミサをして差し上げたいと思っても、ご遺族の意向がまず第一ですし、今回のように身寄りがないという場合は、行政の意向もからんできますから、勝手にするわけにはいきません。
 実はこれを書いている今日、その件で、彼に関わる市役所の担当者と電話でお話しできました。それによると、「来週の月曜日の午前9時に、役所の取り決めによって火葬することが決まったので、もしも何かお祈りをするのであれば、火葬前の10分程度ならできますよ」ということでした。
 それで、「教会は信仰の家族ですし、ぜひ聖堂で葬儀をして差し上げたい。前日の日曜日に、当教会で葬儀ミサをすることはできないか」と聞いてみました。すると、「それは費用がかかるので、できません」と言うのです。「いえ、もちろん、費用は教会が負担しますからご心配なく」と言うと、「お骨はどうするのですか」と聞く。「当日私が引き取って教会に安置し、しかるべき時にカトリック霊園の多摩教会共同墓地に埋葬します」と答えると、また「費用はどうするんですか」と言う。「もちろん、教会が負担しますからご心配なく。あの、申しあげている通り、私たち家族ですから」と答えると、何と返事は「上司と相談します」でした。
 数時間後に「ではよろしくお願いします」という回答をいただいてほっとした次第ですが、ともかく、このニューズが印刷されて発行される日曜日の午後、聖堂でミカエル君の葬儀ミサが行われることになりました。ここに転入する前に所属していた教会の神父と友人も来ることになりましたし、障害を持っていた彼を支援していたセンターの方たちも来てくださるそうで、少しは賑やかに送って差し上げることが出来そうです。きっと、一足先に天に召されたあのスーパーお人よしのミカエル君と、神さまのはからいによって出会えたわたしたちが、天の家族としてひとつに結ばれる、素晴らしいミサが実現することでしょう。

 役所の方と話していて思ったのは、やはり「信仰の家族」、「天の家族」というような教会の感覚は、なかなか世間ではピンと来ないだろうな、ということです。しかし、このバラバラで冷たい時代に、一番求められているのは、その感覚ではないでしょうか。その人がどういう人かということとは関係なしに、神さまが洗礼で結んでくれたんだからキリストの家族なんだという無条件なる絆こそは、個人主義や効率主義が極まり、すべてが「費用」に換算されるこの時代の、暖かい希望ではないでしょうか。
 もちろん、本人はもう天国ですから、どんな葬儀だろうと救いには無関係です。しかし、どんな葬儀をしているかを見れば、それがどのような「家族」であるかは一目瞭然です。
 ああ、ここで葬儀ミサをしてほしい、みんながそう思う教会は、良い教会です。