神様からの愛(受洗者記念文集)

光山 真理子(仮名)

 私が、多摩教会を初めて訪れたのは、4年前の春・・・。
 その日は、母の洗礼式の日でした。
 司式をされたのは、もちろん晴佐久神父様。

 以前から毎週末になると、母から教会や晴佐久神父様のことを聞かされていたのですが、この時の私はまだキリスト教というものにあまり「ピン! 」と来なくて、何が何やらよくわからず、ただ相づちを打つだけしかできませんでした。
 母の洗礼式の日、ウワサ(?!)の晴佐久神父様とお会いし、その説教の素晴らしさや、洗礼式の美しさなど、見るものすべてにとても感動し、衝撃を受けたことを、今でも鮮明に覚えています。水をかけられる時の母の顔は、緊張していながらも「やっと救われた!! 」という安堵の表情であると同時に、希望に満ちあふれたような表情にも見えました。
 そんな母の姿を見て、「いつの日か、私も洗礼を受ける日が来るのかなぁー? その時は、私も晴佐久神父様に司式をしていただけたらいいのになぁー」・・・と思うようになりました。
 そして、この後・・・母に付き添って土曜日の夜ミサに時々(あずか)らせていただき、祝福をいただけることに喜びを感じるようになりました。しかし、三日坊主な私は毎週ミサに通うことはできず、いつしか教会から離れてしまいました。
 2年前の夏・・・。母に勧められて信徒館で行われたパーティに参加し、そこで出会った信者さん達の優しさに触れ、気が付くと、いつの間にか教会へ行くのが楽しくなり、入門講座や、おやつの会などに自ら参加するほどまでになりました。
 しかし、昨年の春。またしても私は、教会から一時離れてしまいました。人間関係に悩み、すれ違ってしまったことが原因でした。
 子どもの頃、ずっといじめられていて友達がいなかった私は、人と接するということに、とても臆病になり、人とも自分とも正面から向き合うことができず、自分を守りすぎてしまっていつも本音を言えず、家族や周囲の人に助けを求めることができずにいました。そのため、コミュニケーションの取り方がよくわからず、誤解やすれ違いがたびたび起こるようになってしまいました。
 最初は、出られていたミサも、気がつくと出ることができなくなり、聖堂に入ることも、エントランスに入ることも、信徒館に流れるアナウンスでのミサすらも怖くなってしまったのです・・・。
 ミサに出ている時に、過去のつらかったことや、淋しかった思いが、(父や祖父母を次々に亡くしてしまったことなど・・・)フラッシュバックしてしまうようになり、目の前にいくつものフィルターのようなものが出てきて、胸がギュッ!と締めつけられて呼吸がしづらく、パニック状態になってしまうようになりました。
 毎晩のように泣きながら眠ったり、早朝に仕事に行くため、駅に向かって歩きながらも涙を流してばかりいました。
 それでも神様を信じていた私は、「これ以上悲しい思いはしたくない。何とかしなきゃ!! 」と思い、昨年のクリスマスパーティの日に、神父様に「私、洗礼を受けます」と思い切って伝えました。その宣言から、少しずつ周囲の皆とも和解をし、ずっと暗闇の中にいた私に光が射し始めました。
 受洗を決意してからの私は、今まで言いたくても言えなかったこと、やりたくても後回しにしてしまったこと、素直に言えなくて心に残してしまった言葉、伝えられなかった心の声・・・。
 そんな普段やり過ごしてしまうすべてのこと全部ひっくるめて「今を大切に生きよう!!! 」って思うようになりました。少しずつだけど、ポジティブになることで、気持ちに少しゆとりが持てるようになりました。

——そして、2013年春——。
 念願だった晴佐久神父様の司式のもとで、洗礼に与ることができました!!!
 水をかけられた瞬間・・・冷たいと感じるよりも、「やっと救われる!!! 神様ありがとう!!! 」と思う気持ちの方が大きかったです。
 洗礼名のマリア・クララは、自分で考えたのですが・・・、大好きな聖母マリア様と若くして教会のために尽くし続けたアッシジのクララを合わせて名付けました。それに、「アルプスの少女ハイジ」のクララからも付けています。足の不自由なクララは、ハイジやおじいさんなど、周囲の愛に救われ、いつしか自らの足で立ち上がり歩けるようになるんです!! 私も自分の足でしっかり大地に立ち、沢山の人に感謝しようと思い選びました。

 私に関わってくださっているすべての人達
 私のことを、いつも支えてくださっている人達
 離れていても見守っていてくれる人達

 私という人間に出会ってくれたすべての人達に
 心から感謝しています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「世界がガラリと変わる」

世界がガラリと変わる

主任司祭 晴佐久 昌英

 「うれしい! 天にも上る思い!」
 この試練の多い人生において、たとえ一度でもそんなひとことを口にできる人は、なんと幸いなことでしょうか。
 そんな幸いなひとことが、そう言った本人の言葉として実際に載っている小冊子があります。ほかならぬ、カトリック多摩教会2013年の受洗者記念文集です。このたび、多摩カトリックニューズ別冊としてお配りいたしましたので、ぜひお読みください。今春受洗した大勢の新しい教会家族の、それぞれの受洗の感想が載っています。いずれもまごころから溢れる真実の言葉で書かれた、喜びと感謝に満ちた内容で、読んでいて本当にうれしくなるし、感動するし、励まされます。
 冒頭のひとことは、その中のひとりの受洗者の感想で、喜びに舞いあがっている様子に思わず顔がほころびますが、これはたまたまアイウエオ順に並んだ文集の、最初の人の文章から引用したというだけで、他の人たちの感想も一様にそのような喜びと感動に満ちています。それまで苦しみを背負い、虚無感にとらわれていた人が福音に出会って救われ、時に劇的に生まれ変わっていく様子は、まさに驚異的と言っていいほどです。まあ、いいから読んでみてください。ここに、ほんの一部を抜粋してみます。

 「私の世界はガラリと変わりました。すべてを神様の御手に委ねて、軽くなって、こんなにあたたかくて、今本当に幸せです」
 「わたしは本当に変わりました。ミサに出る度に心身ともにどんどん楽になっていきました。『神は愛であり、私たちはその愛によって望まれて生まれ、その愛に救われます』ということを知った時、『これだ!』と思いました。これまで、『生まれたくなかった』と、自分の誕生や存在に嫌悪感を抱いていたけれど、ようやく自分の誕生を認めることができました」
 「今僕は、自分の将来が楽しみで仕方ありません。これからどんなお恵みを与えていただけるのでしょうか。本当に楽しみです。あのパン・・・今まで食べたどの食べ物よりも、おいしかったです。本当においしかったです」
 「『これ以上悲しい思いはしたくない。何とかしなきゃ!』と思い、『私、洗礼をうけます』と思い切って伝えました。その宣言から、少しづつ周囲の皆とも和解をし、ずっと暗闇の中にいた私に光が射し始めました」
 「導かれて多摩教会のミサにあずかりました。神様の言葉が直接私の魂に響き、その後も数日かけて愛と喜びが全身全霊に広がってきました。神様に愛されていることを初めて心と体と魂で感じました。今までの数十年は、洗礼に向けての準備期間で、すべては神さまのご計画だったと腑に落ちました」
 「ミサや入門講座で度々、『私たちはすでに許されている、だからもう大丈夫ですよ』とおっしゃっていました。私はその言葉にどれだけ救われたか・・・その言葉を聞いた時、『私、クリスチャンになる!』と決心がつきました。洗礼式を終えて、私は神の子となり今、自分にこう言い聞かせています。『もう大丈夫、私は許されている、だから生きていてもいいの・・・』と」

 これを神の業といわずしてなんというべきでしょうか。
 この文集を作ったのは、そんな神の業を教会家族で分かち合うため、そして多くの人にも伝えるためです。ぜひこれを活用してください。本人に「読んだよ」と声をかけ、親しくしてください。知り合いに「読んでよ」と渡して、福音を伝える道具にしてください。キリストの教会を知り、「世界がガラリと変わる」人が、身近に大勢いるはずです。
 受洗者の証言ほど、説得力のあるものはありません。文集の最後の人はこう書いています。
 「神様は、私が幸せになる機会を逃しても、私を一度も見捨てることなく何度も呼びかけて、導いて、招き入れて下さいました。私の罪を許し『あなたは私の目に貴い』と言ってくださいます。天の父は、御ひとり子イエス・キリストによって、全ての人を無条件の愛の内に招き入れて下さる事を、証しします」

連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第31回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第31回
「入門講座を垣間見て」

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 青柳 敏一

 受付係を兼ねて入門講座に参加させてもらっていると、いろいろ思うことがあります。例えばその参加メンバーを見ると、純粋にカトリックをめざしている方よりも、なぜかプロテスタントの方の参加が時として目立つ場合があります。
 カトリックだ、プロテスタントだ、・・・と言っても、同じキリスト教で「父と子と聖霊の御名による」三位一体の神を信じている仲間同士なので、一同に会しても何ら違和感もなく、プロテスタントの方も自然に溶け込んでいるのが目に見えるようです。
 入門講座終了後の懇親会でもお互いの教会のことを話題に、皆さん結構楽しんでいる様子。当然のことですが、皆さんは晴佐久神父様のご講話を聴きにこられていますが、帰られる時は、感激され以後、固定客のように毎週見える方も多くいらっしゃいます。

 お話によると、所属の教会では日曜日の礼拝(カトリックのミサにあたります)と週1〜2回の勉強会の日以外は教会の扉は閉まったままとのこと。この点については、すべてではないと思いますが、休みなく聖堂を解放しているカトリック教会の歴史というのか伝統の大きさに改めて感謝。

 神父様が力強く 「十字を切る」ことに皆さん最初は躊躇されていましたが、何回か通われると「十字を切る」ことに違和感もなくなるようで堂々と自ら実践され、所属教会の礼拝の場でうっかり十字を切ってしまわないかと気にされるくらいです。「十字を切る」ということがこんなにも素晴らしいことかとあらためて実感させられました。
 もしもうっかり十字を切ってしまい、それを牧師さんが見たらどういうことになるのでしょうか。一度その場面に立ち会ってみたい気もしますが、これはちょっと余計でした。

 多摩教会の入門講座がこれほどまでに好評なのは、もちろん晴佐久神父様の存在あってのことですが、それを支える入門係の方の「おもてなし」には頭が下がります。初めて教会にお見えになる方や、まだ教会に不慣れな方にとっては、とても心強い味方になっています。おかげで皆さん安心されて講座に参加されています。まさしく、ここは心のオアシスそのものではないでしょうか。

 晴佐久神父様が常日頃お話になり、かつ実践されているエキュメニズム(教会一致運動)が多摩教会の入門講座で実現しているのは当然のことと実感しました。

7/20(土)は入門講座交流会へ!<終了>

「入門講座交流会」へのお誘い

来たる7月20日(土)、カトリック多摩教会の入門講座で、交流会を開催いたします

もちろん、どなたでも大歓迎!!

夏休みの幕開けを楽しくステキに飾ってくれることでしょう。

皆さまを心からお待ちしております。

どうぞ、お誘い合わせのうえ、お気軽にお越しください。

もちろん参加費は無料です。




◎ 多摩教会への交通アクセス
(クリックすると、大きく見ることができます)
もう少し詳しくは →こちらをご覧ください。

カトリック多摩教会
住所: 〒206-0022東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2
電話: 042-374-8668



< 今後の予定 >

※ 8月15日(木曜日)(聖母被昇天の祭日)
   17時のミサ後、祝賀会。どなたでも参加可。
   ぜひ、お立ち寄りください。

※ 9月7日(土曜日)
   10時半より入門講座交流会
   (メニューはパエリア&ピザの予定♪)

※ 9月13日(金曜日)より2学期入門講座開始



☆「入門講座」については → こちら をご覧ください。
  神父様の「入門講座」についてのご紹介は → こちら の記事でお読みいただくことができます。

☆また、いきなり「入門講座〜?」という方には、多摩教会名物「おやつの会」が!
  どうぞ→ こちら をご覧ください。 神父様も → こちら でご紹介しています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「50年後の多摩教会」

50年後の多摩教会

主任司祭 晴佐久 昌英

 他の教会から主日のミサに来られた方が、多摩教会の印象についてよく言われることといえば、「明るい教会ですね」や「元気のある教会ですね」、そして「子どもや若い人が多いですね」でしょう。(「聖堂のイエスさまが浮いてますね」というのもありますが)
 ちょっとほめ過ぎな気がしないでもありませんが、正直な感想としてありがたく受け止め、いっそうそのような教会であるよう努めたいと思います。
 「明るい」というのは、文字通り聖堂が明るいというのもあるでしょうが、やはりみんなが笑顔で楽しそうにしているからでしょう。ミサの後、一緒ににぎやかに食事をしたり、オアシス広場でお茶を飲みながら談笑する姿は、本当に和やかでいいものです。
 「元気がある」というのは、ミサに参加する人がエントランスまで溢れたり、聖歌を元気いっぱい歌う様子をはじめ、それぞれの係が様々な奉仕をする姿や、入門講座など多くのミーティングを開いている様子が印象的だからではないでしょうか。
 さて、しかし。
 「子どもや若い人が多い」というのは、どうでしょうか。確かにいるにはいますが、現在の多摩教会の主日に見かける「子どもや若者」は、ぼくのイメージする普通の小教区教会からすればむしろ少なめであって、決して特別に多いとは思えないからです。多いと感ずる人がいるとしたら、それは自分の教会や他の教会に比べて、ということなのでしょうが、もしそうならば、そんな現状はとても残念なことでもあります。

 子どもや若者のいない教会は、やがて衰退する運命にあります。
 特に、教会を我が家のように感ずる幼児洗礼の子どもが一定の割合でいなければ、その教会に未来はありません。教会員をすべて成人洗礼によってそろえるというなら別ですが、現実には小教区教会を支えているのは幼児洗礼者と成人洗礼者がおよそ半々です。
 成人洗礼者はその教会を支える上では即戦力であるのに対し、幼児洗礼の子どもたちが教会で活躍するには、時に半世紀近くかかるため、どうしても子どものことは後回しになってしまいがちです。原発問題などもそうですが、大人たちはいつも眼先のことで頭がいっぱいで、半世紀後のことをちゃんと考えていないのです。
 かくいう私も、物心つく前から教会の中を奇声をあげて走り回っていた幼児洗礼者ですが、半世紀にわたって教会を見続けてきて断言できるのは、奇声をあげて走り回る子どもは、教会の宝だということです。そして、それにやっと気づいてから子どもを取り戻そうとしても、もはや手遅れだということです。いわゆる少子化問題の一番の原因は、この「未来への想像力の欠如」なのです。

 「明るくて元気な多摩教会」がこれからもずっと続くためにも、ぜひ、「子どもがいっぱいの教会」を目指しましょう。もちろん、子どもの絶対数を急に増やすことはできませんが、まずは、子ども連れのお母さんが「来やすい環境」を整えることはできますし、また、お母さんたちの「子育て支援」をすることで、子どもを産み育てやすくし、孤立しがちなお母さんの悩みや負担を軽減し、教会と子育て家庭とのつながりを深めていくこともできるはずです。
 「来やすい環境」というのは、ミサや様々な集会、イベント時に、子連れで来ることのできる、いわば「乳幼児のバリアフリー」です。駐車場の優先、ミサの時に子どもが泣いても構わないという共通の了解、ベビーベッドやキッズコーナー、おむつ台や授乳室の設置、イベントの時の託児などが当たり前の環境である教会ならば、お母さんたちは足を運びやすくなります。
 「子育て支援」については、0〜3歳児くらいの子どもとお母さんを対象に、毎週もしくは月に2回ほど、週日の日中に開く集会が一つのイメージです。信者はもちろん、地域の方に広く呼びかけます。保育士やベビーシッターが子どもたちの面倒を見たり遊ばせたりして、その間お母さんたちは専門のスタッフから子育てのヒントを学んだり、お互いに心の問題を語りあったりします。神父の話を聞いて福音に触れたり、教会家族と出会うかけがえのない機会にもなるでしょう。
 「多摩教会の少子化対策」について、先日の司牧評議会でも呼びかけましたが、まずはこの二つを、少しづつでも具体化していければと思っていますので、ぜひご意見やご提案をお寄せください。実際に子育て中のお母さんたちの声を聴くなどしながら、奉仕チームを作ってチャレンジしていけたらと思います。
 まずはみなさん、50年後の多摩教会を思い描いてみてください!
 それは、どんな教会ですか?

連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第30回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第30回
「心のオアシスを求めて」

稲城地区 竹内 博年

 山歩きが好きな私たち夫婦。毎月1、2回は日帰り、あるいは3〜4日がけのハイキングに出かけます。
 重いリュックを背負い、汗みずくになり息を切らせながら足を引きずって一歩一歩頂上を目指して歩きます。喉はカラカラ。そんな時大好きな歌手さだまさしの「自分の重さを感じながら坂道を登る。いくつもの峠を越えて、もっともっと上を目指す」と心の中で唱えながら歩き続けます。
 それでも疲れきって、「もう一歩も歩けない」と、くじけそうになる頃、山あいの湧水に救われたことが何度もありました。(白馬、槍ヶ岳、燕岳、会津磐梯山、安達太良山、、。)冷たく清々しい湧水! 口いっぱいに含み喉をうるおし、顔を洗い、タオルを濡らし首に巻くと、不思議と元気が蘇り、再び歩き続けることができました。まさに「砂漠のオアシス」です。
 そして遂に頂上。雲上に見え隠れする山々、はるか下方に見晴らせる景色に、登りの苦痛は一瞬にして消え、天国に少し近づけたかのような神々しい気持ちがし、また次の挑戦へと誘われます。

 ところで、「砂漠のオアシス」で思い浮かぶのはシルクロード。「もっと若ければシルクロードを巡る旅もしてみたかった」と夢を馳せます。
 その昔、世界交易の要地だったシルクロードのオアシス都市は、人種、国籍、宗教、老若男女を問わず、あらゆる人々が旅の途上で憩い、交流しあった平和な聖地だったのではないでしょうか。
 現代では宗教・人種・国籍、信条の違いから、共存さえできぬかのように争いが絶えないのは何故でしょうか。
 私たちの日々の暮らしでも貧富の差、考え方の違い、病気や怪我などの悩みや都会の喧騒・人間関係のストレスから、家族間でさえいさかいが増え、日々暗いニュースばかり目に付き心の傷が絶えません。
 一見仲良さそうに振舞っている私たち夫婦にも、ちょっとした揉め事が途絶えることがありません。でも毎週のミサで、晴佐久神父様のお話を聞くようになってから、何故か二人とも、心癒され「だいじょうぶだよ」と励まされ、新しい週を歩み続ける元気を得ることができるようになりました。
 多摩教会は、私たちの心のオアシスとなりました。このオアシス、自分たちが救われるだけでなく、ひとりでも多くの方に味わって貰いたく仲間を増やせたらと願っています。

 教会に通うようになって思い起こしたことに、ボランテイア活動があります。
 学生時代、長崎で英会話教室の教師だったフランス系米国人セイガン夫人の教えです。
 「奉仕活動をする時間のない社会人は寄付金や現物寄付を! 寄付できなくとも時間と力のある学生たちは労力奉仕を!」と呼びかけ、当時頻繁に寄港していた米国海軍の軍艦が港に着くたびに、水夫たちを募ってバスを仕立て、孤児院の建物のペンキ塗りや慰問に駆り出していました。
 われわれ学生は通訳兼助手として参加。英語の実習にもなり、楽しみながらみんなに歓迎されるボランテイア活動を体験しました。
 多摩教会でも活発に続けられているボランテイア活動に、改めて向き合ってみたいと思っているこの頃です。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 「一緒にいるよ」

一緒にいるよ

主任司祭 晴佐久 昌英

 3月に釜石を訪問した際、このたびNPO法人となった「カリタス釜石」から、被災地でのボランティア活動のために新たに必要となった中古のワゴン車購入資金を依頼されたため、この誌上でも皆さんにご寄付を呼び掛けましたが、ひと月で無事に予定金額が集まりました。おかげさまで4月24日に、釜石へ直接お届けすることが出来ましたのでご報告するとともに、ご協力いただいた皆さんに心より御礼申し上げます。

 「ひと月以内に耳をそろえて持ってまいります」と、釜石ベースのスタッフに大見得切ったはいいものの、希望額が180万円という大金でしたので、果たしてどうなるかと思っていましたが、予想以上に皆さんが協力してくださり、結果的には245万円集まりました。多摩教会の皆さんはもちろん、ホームページ「福音の村」でも呼びかけたため、全国から、また海外からも送金してくださり、中には「クリーニングを我慢して」とか、「ガソリン代を節約して」という方もいて、頭が下がりました。

 復興にはまだまだ程遠い現状ですが、一方で応援したいという思いもまだまだあるということを知らされて、うれしかったです。ずっと続けてきた「神父がみんなの義捐金を直接届けに行く」という方法も、そんな皆さんと被災地をつなぐという意味で、それなりに効果的であることも改めて実感しました。お訪ねするのは、「思っているよ、一緒にいるよ」という思いのしるしであり、それこそが最も必要なことなのです。

 ワゴン車資金を受け取ったカリタス釜石のスタッフ一同は大変喜んでおりましたし、あっという間に集まったことにとても驚いていました。そして何よりも、自分たちが忘れられていないと感じることができたと、感激していました。

 その夜、ベースのスタッフみんなをお寿司屋さんに連れて行って激励会をしましたが、席上、ベース長がしみじみと言っていました。
 「活動が理解されずに落ち込むことや、先が見えずに不安になることもあるけれど、こうしてみんなに支えられていることを知ることで、何よりも元気が出ます。こうして会いに来てくれるだけで、どんなに大変でも大丈夫、きっとやっていけるって思えるんです」

 試練のとき、人は無力感にとらわれます。その試練が長く続くと、被災者はもちろん、被災者支援をしているスタッフやボランティアたちの心にも、無力感や徒労感が忍び込んできます。そんな現実を前に何もできない私たちもまた、いつしか無力感に支配されていきます。そんなときに何よりも大切なのは、「直接会うこと、一緒にいること」です。
 「人が独りでいるのは良くない」(創世記2.18)
 これからも、訪問し続けようと思っています。

連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第29回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第29回
「歌は最高の祈り、音楽は聖霊の湧き出るオアシスの泉」
私の信仰告白として

稲城地区 小俣 浩之

 聖霊降臨の祝日を迎える頃の季節が大好きです。
 瑞々しい若葉が生い茂り、優しい日の光がきらきらと輝いて、新しい息吹に満ち溢れ、まさに聖霊が天から降り注いでくるようです。そんなとき、天上で奏でられる優しい音楽に包み込まれるような気持ちになります。
 そして多摩教会というオアシスに近づけば、噴水のように飛び散る聖霊の飛沫をいっぱい浴びることになります。

 元来怠慢な私は、ときどきいろんなことがものすごく億劫になったり、煩わしくなったりもします。
 「このところ仕事、決して暇ではないしね、仕方ないよ」とか自分で言い訳を勝手に作りながら、ときには重い足を引きずりながらも、なんとか多摩教会にたどり着く。
 マリア様の前で挨拶をし、ミサにあずかり、次第に心が軽やかになっていく。ミサの後には教会学校の子供たちに囲まれて、一緒に歌を歌う。教会学校の子供たち、目をきらきら輝かせながら座っている。子供たちのすぐそばにイエス様がいらっしゃるのを感じる。聖霊に満たされる瞬間。
 そして疲れていた私はいつしか再生している。

 歌は祈り。
 祈る心とともに歌を歌うと、ものすごく透明な気持ちで神様の前に立てます。
 そんな心を子供たちの中にも育みたい。音楽を通して子供たちの感性も磨きたい。人々を柔らかく包み込む音楽のような優しい心を持ち続けて欲しい。
 そんな想いもあって、もう10年以上、多摩教会の聖劇を子供たちと一緒に作ってきました。

 新しい曲を作ろうとして恵み豊かな歌詞の言葉を前にしたとき、突如として優しい旋律が聖霊とともに天から降りてきます。
 天が開き、天上の音楽が微かに聞こえてくるようなその一瞬が訪れるまで、ピアノの前で悶々とする。聖劇の練習開始が迫っている。けっこう苦しい時間となります。しかし、この作業は召命だと思い、聖霊とともに運ばれてきた旋律、どこかに飛んで行ってしまう前に、なんとか音符というかたちに置き換えていく...。
 「ああ、この旋律、この歌は教会学校のあの子の声にぴったりだ」、
 「このメロディを教会学校の子供たちが全員で合唱したら、イエス様もきっと喜んでくれるだろう」、
 そんなことを思いながら、聖霊が耳元まで運んでくださった旋律をひたすら楽譜に書き留める。
 聖霊の湧き出る泉となる音楽の力、信じています。

 先日、多摩教会で洗礼を受けたばかりの旧友が、初めてミサで答唱詩編を独唱しました。たまたまその日は私がオルガンを担当。
 数十年前、高校時代に彼と始めたささやかな聖歌隊。いまは建て替えられてしまった昔の校舎の片隅にあった小さな聖堂での練習のことがよみがえる。あのときも私はオルガンを弾いて、彼の伴奏をしていた。
 私は自分の信仰を見つけ出す苦労を知らない幼児洗礼。彼は長い間探し続け、悩み続けていた。
 長い長い道のりを経て、その彼がいまや洗礼を受け、ミサで答唱詩編を歌っている。多摩教会の聖堂全体に彼の声が響き渡る。満を持して洗礼を受けた彼の歌声、祈りと信仰の証しに聞こえました。

 歌は最高の祈り。神に感謝。