巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「アンパンマンとイエスさま」

アンパンマンとイエスさま

主任司祭 晴佐久 昌英

 これを書いている今日、10月16日、やなせたかしさんが13日に亡くなったという報道が流れました。94歳でした。いうまでもなく、国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親であり、日本漫画界の最長老として多くの人に尊敬されていた方です。
 詩人でもありイラストレーターでもありましたが、やなせたかしが生み出す作品は、いずれも愛と優しさ、普遍的な正義に満ちていて、その作品やメッセージと本人の生き方が見事に一致しているという意味でも稀有な存在でした。彼の作品によって、どれだけ多くの人が優しい気持ちになり、どれほど多くの子どもたちが励まされたことでしょうか。

 わたしは、やなせさんと一緒にお仕事をしたことがあります。
 もう25年も前ですが、司祭になって間もなくの1989年、わたしの絵本の絵を描いてくださったのです。『みんなでうたうクリスマス』という絵本ですが、わたしにとっては人生初めての出版物であり、しかもやなせ先生が絵を描いてくださったということで、忘れることのできない、大切な絵本になりました。
 これは、クリスマスの物語を話し言葉でつづり、それにメロディーをつけて歌にするというミュージカル仕立ての絵本で、巻末には楽譜も載せ、合わせてスタジオ録音したCDも発売したということもあって、その後、多くの教会学校や幼稚園が聖劇として利用してくれました。今でも各地で親しまれていて、「ぜひ聞きに来て欲しい」と、幼稚園の発表会などに招かれることがあります。もっとも、つい先日、今年司祭叙階した若い神父さんから、「ぼくは子どものころ、あの絵本で育ちました」と言われて、もうそんなに年月が過ぎたのかと、感慨深いものがありました。
 この絵本が出たころは、ちょうどアンパンマンのテレビ放送が始まったころでしたが、わたしはまだ30歳そこそこ。若気の至りで、やなせ先生が最初に描いてくださったラフスケッチに、「自分のイメージと違う」などと意見したのを覚えています。よくあるような、飼い葉おけに寝かされているおさなごイエスを囲む聖家族の絵ではなく、大地から太陽のように顔をだした、あまりにも可愛くてあまりにも巨大なイエスさまの、まあるい顔だけが描かれていたからです。
 70歳の巨匠の大胆なアイディアにケチを付けるなんて今考えると冷や汗ものですが、先生はやんわりと、しかしハッキリとおっしゃいました。「これがイヤなら、降ります」。あわてて、「いえいえ、ぜひこれで」ということになりましたが、さて、出来上がった絵本を改めて眺めているうちに、なるほど、これこそまさにイエスさまだと気付かされたものです。すなわち、どこまでも優しくて、圧倒的に大きくて、すべてを超越する、救い主。

 実は、やなせたかしがクリスチャンであると知ったのは、ずいぶんたってからです。そう言われてみると、先生の作品の根底に、単なる善悪二元論を超えた超越的な正義感や、ひたすらに他者を喜ばせるという、キリスト教的な愛の精神が流れていることに気づかされます。
 以下、先生の語録です。
 「人生で何が一番うれしいかというと、人を喜ばせること。人を喜ばせることで、自分もうれしい」
 「お互いに相手を喜ばせれば、何もかもうまくいくはず」
 「アンパンマンは世界一弱いヒーローだけれど、自己犠牲の精神なんだよ」
 「自分はまったく傷つかないままで正義を行なうことは非常に難しい」
 「困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても、国が違っても『正しいこと』には変わりません」

 もしかすると、パンである自分を食べさせて他者を救うアンパンマンこそは、イエスさまなのかも知れません。先生が亡くなられたと聞いて、先ほど、久しぶりにこの絵本を開き、まあるいイエスさまを見ていましたが、なんだかアンパンマンに見えてきました。
 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6・51a)
 先生、ありがとうございました。先生も永遠の命に入られたのですね。
 もう絵本のことはお忘れかも知れませんが、先生のお描きになったイエスさまは、今もなお、大勢の子どもたちを喜ばせていますよ。


『みんなでうたうクリスマス』(表紙)
『みんなでうたうクリスマス』(表紙)

まあるいイエスさま
まあるいイエスさま

(上記画像はクリックすると大きく表示されます)


※『みんなでうたうクリスマス』 <絶版>
 絵:やなせ たかし 文:晴佐久 昌英 曲:塩田 泉 
 大型本(絵本) 
 出版社 : 女子パウロ会(1989/9) / 初版発行 : 1989年9月20日 

 

連載コラム:「美味しいパスタスープの作り方」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第34回
「美味しいパスタスープの作り方」

桜ヶ丘地区 奥原 華

 どんな時もどんな所でも、だれかのオアシスであること・・・そんなことがすべての人の現実となって、世界がグンと平和になりますように。

 15年ほど前に小さな巡礼団に参加しました。
 成田を出発し、イタリアへ。ミラノの空港からクロアチアのスプリト空港へ。そこから戦火の傷跡もまだ生々しい旧ユーゴスラビア (ユーゴスラビア紛争:1991〜2001の間に旧ユーゴスラビアで民族紛争が起こり、6つの国に分かれる。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナは1995年に独立) のいくつかの町や村を通って、延々とバスに乗り、ようやく目的地のメジュゴリエに着いたのは、夜中のことでした。それは、ボスニア・ヘルツェゴビナの小さな村で、マリア様のご出現で知られているのです。
くたびれ果てて、口数も減り、やっとの思いで民宿にたどり着いた私たちを、宿屋の主人は人懐っこい笑顔で出迎え、開口一番、こう言ったのです。「勝っちゃってごめんなさい」
 ちょうど当時、サッカーのW杯が開催されていて、初参加の日本がやはり初参加のクロアチアに負けたばかりでした。みんな思わず笑い出し、脳みその緊張が一気にほぐれたように感じました。

 巡礼団は食堂に通されました。そこではちょっとシャイだけど頼もしい女主人がおいしいライ麦パンとスープを私たちのために用意して待っていてくれました。今思うと、とても素朴なパスタスープでした。
 「星」だったか、「アルファベット」だったか、細かいパスタが唯一の具材で、ごく普通のコンソメスープだったと思います。それでも、とてつもなく美味しいパスタスープで、あれから幾度かあの味を再現しようと試みましたが、成功したことがありません。
 ちょうどそのころのメジュゴリエは、若者の集いが催されていて、世界中のありとあらゆる国からやってきた若者たちの熱気であふれかえっていました。
 若者の集いの大会が盛大に開催されたマリア様の祝日の翌日は、ご変容の祝日で、マリア様のご出現の丘に夜中から登り、朝日を眺めるのが、メジュゴリエの恒例行事となっています。
 私たちも登りました。すがすがしい朝でした。メジュゴリエ全体がオアシスみたいなところでしたが、あの宿屋の主たちはオアシスを見事につくり、美味しいスープで私たちをもてなし、私たちは疲れもなんのその、世界中から来ていた大勢の若者たちとともに丘に登り、歩き回り、ミサに与り、讃美歌を歌い、平和のうちにメジュゴリエで過ごすことができました。

 最近、少しわかりました。美味しいパスタスープの作り方は、まずはオアシスをつくること。
 あのとき食べたスープは疲れた人を癒す、まさしく荒れ野のオアシスのスープだったのです。
 あれから洗礼の恵みも授かり、現在、多摩教会で「カフェ・オアシス」という、教会にいらした人にコーヒーをサービスするグループにも参加しています。ひたすら美味しいコーヒーを提供できるように、文字通り、オアシスであることを心がけたいものです。まずは身近なところから。

投稿記事:「どうぞおはいりください」(おやつの会)

「どうぞおはいりください」
-お茶もお菓子もございます。お代はいただきません。-

関戸・一ノ宮地区 尾崎 ナオ

 「泣いた赤鬼」という童話をご存知ですか?
 村はずれに住む心優しい赤鬼は、鬼であるばかりに疎外され孤立していました。ムラビトたちと仲良くなりたくて、「おやつの会」という立て看板を出して、無料カフェを始めました。けれども、「行ったら最後、捕って食われる」と恐れられれただけで、ムラビトとの距離は開くばかりでした。
 山向こうに住んでいる青鬼は、赤鬼のムラビトに対する幻想を危惧しながらも、傷つき弱り果てた赤鬼のために一肌脱ぎます。「いい赤鬼」が「わるい青鬼」を退治するドタバタ芝居をプロデュースし、体を張って演じきります。赤鬼は、青鬼の目論見どおりムラビトたちのヒーローになります。

 「わるい青鬼」は棲家に居続けることはできません。芝居を打つことにしたときから決めていたとおり、赤鬼の望む幸せのために静かに消えます。
 一方赤鬼はムラビトにとって仲間ではなく、あくまでもまれびとなのでした。そのことを思い知ったとき、赤鬼は青鬼を山向こうに訪ねます。そこには青鬼からの思いやりあふれる手紙が残されていました。赤鬼は青鬼の無償の愛を知り、青鬼の友情を粗末にしたことに気づき、永遠に失った一番大切な友人との時間を悼みます。

 赤鬼も、2匹集まればムラを作り、3匹寄れば派閥を作る習性は、ムラビトと同じ。でもなぜか、鬼はムラビトよりも一人ぼっちが似合っています。
 青鬼は今日も旅しているかしら。雨に降られたら雨宿りしていってくれるかしら。
 赤鬼は今日もひとりお茶をしているかしら。お散歩ついでに、ふらりと多摩教会のおやつの会を覗いてくれるかしら。


※ 「おやつの会」
 毎週木曜日の午後3時から、信徒会館1階で開かれる、気軽な集い。お茶やおやつを囲んでおしゃべりを楽しみます。少しですが、詳しくは、→ こちらをご覧ください。

初金家族の会 10月例会報告

「初金家族の会」10月例会報告


広報: 志賀 晴児

 10月の例会は、14日、聖フランシスコの記念日でした。貧しさを選び、神様の愛と慈しみを全ての人にと説いた聖フランシスコの精神を学びたいと願いながら、初金のごミサに(あずか)りました。ごミサで晴佐久神父様は「フランシスコ教皇様の意向のためにも心をあわせてお祈りしましょう。意向のためにとは、《心をあわせて一緒にお祈りするという、祈りでのつながり、結びつき》を意味するのです」と説明され、この日に相応しいお説教でした。

 ごミサのあと、40人ほどの方が信徒会館に集まり、今回は11月のカトリック死者の月を前に、典礼、広報、霊園担当役員で前の委員長、竹内秀弥さんの教会葬儀とカトリック霊園についての卓話に耳を傾けました。葬儀、お墓のことは、いつの時代でも、どなたにとっても大きな関心事です。イエス・キリストの復活を信じるカトリック信者には、死は永遠の命への門出であり、約束された希望によって悲しみの中にも安らぎを覚える祈りのひとときですが、初めて教会の葬儀に参列された多くの方々にも、しばしば大きな感銘を与えています。卓話では葬儀の手順、慣例など具体的な説明をはじめ、五日市の教会霊園への毎年の共同墓参会のことなど多岐にわたるお話を伺い、出席者からの質問も相次ぎました。

 次回は11月1日(金)に開かれ、「介護について」を予定しています。人それぞれ何時かは、介護するか、介護されるかに直面します。経験者のお話を聞きながら話し合いできればと思っています。


11月の「初金家族の会」は、11月第一金曜日、1日の午前10時のミサ後、11時頃から、信徒会館1階で行われます。

皆さまのご参加をお待ちしております!!

 

花のしたにて(受洗者記念文集)

和泉 はるか(仮名)

 ねがはくは 花のしたにて 春死なん
  そのきさらぎの 望月の頃

 僧の西行の歌です。イースターは春分後の最初の満月の次の日曜ですから、旧暦では如月(きさらぎ)2月の満月の頃と申し上げても、特に今年の場合は差し障りはないでしょうか。復活徹夜祭は川べりの桜が見事な夕べでした。私は「花のした」でこの世の限りある命ではなく、新たな永遠の魂を授かりました。

 花の宵 光あれとの 声聞こゆ
  道進む本意 かなひぬるかな

 西行に倣って私も詠んでみました。拙い作ではありますが、受洗後の素直な気持ちです。
 ミサの説教の中でも取りあげていただいたのですが、私は中学生の頃にイエスさまの夢を見ました。当時の私はプロテスタント教会に通っていました。夢の中では、白い衣を着た方が白く続く道の入口に立っていらっしゃいました。道は緩やかな登り坂で左に折れ曲がり、その先は見えません。白い衣の方は名乗られたわけではありませんが、私は直感的にイエスさまであると思いました。
 イエスさまはおっしゃいました。
 「この道の先にあなたの未来がある。あなたはここを進みたいですか」と。
 しかし私は、逡巡の末に断ってしまったのです。
 するとイエスさまは、
 「それでは早くあなたの道にお戻りなさい。○○が来る前に」とだけお応えになり、その後は白い道の奥をご覧になったまま、もう何もおっしゃいませんでした。
 何が来る前になのか・・・聞き漏らしてしまいましたが、私はその場を走って逃げ去り、息を切らしながら目を覚ましたのです。

 それから30年が過ぎてしまいました。その間、神さまは、あの手この手で私の心に働きかけてくださっていたのだと今はわかります。幾度となく受洗の機会はありましたが、どうしても一歩を踏み出すことができませんでした。私は「一神教」にとらわれすぎていたのです。イエスさまの道に進みたいけれども、それは他の道をないがしろにしてしまうことのように考えていました。
 「家を継ぐことは墓を継ぐことだ。だから俺は家を捨ててきた」。通っていた教会には、このように言う青年もいました。わが家も祖父母のお墓は仏式です。私は自分が将来、墓守になることを自覚していましたから、キリスト教を信仰すると宣言しきれなかったのです。

 カトリック多摩教会に来ることになったのは、さまざまな偶然の結果のようにも見えます。でも、神さまのご計画どおりだったのかもしれません。つらくて悲しいこともたくさんありましたが、すべてが必然だったのでしょう。涙を流すことがなかったら、もっと遠回りをしていたと思うのです。そして、ここに来た最初の日に、すべての迷いは消えました。
 晴佐久神父さまは、「本物の宗教なら同じところに通じている。そしてこの世のことは形式的なもので、キリスト教を信仰しながら仏式の墓を守り続けても、まったく問題ではない」と教えてくださったのです。

 イエスさま、長いことお待たせいたしました。それとも全宇宙の時間からみれば、桜が咲いて舞い散るまでぐらいの、ほんのわずかな間だと言ってくださるでしょうか。
 私は「○○が来る前」に戻れたのですよね?

洗礼を受けて(受洗者記念文集)

本田 静香(仮名)

 洗礼式におきましては、晴佐久神父様をはじめ、入門係の皆様、代親のS様、信者の皆様に大変お世話になり、どうもありがとうございました。おかげさまで無事、晴れやかな御復活の日に、受洗させていただくことができました。
 私は一昨年のクリスマスの頃より、カトリック多摩教会での御ミサに参加させていただいておりました。カトリックの教会に伺った経験があまりなく、御ミサの形式も良く分からず、ご迷惑をお掛けしていたかもしれません。時折ご指導を賜り、進ませていただいて参りました。

 一昨年は、東日本大震災があり、私は、離婚後の5年間を、当時まだ小学校5年生だった息子と共に、東京武蔵野市より宮城県に移住して住んでいたことがございます。もう10年以上前のことではございますが、私にとって第二の故郷ともいえる、東北の悲痛な姿に、大きな衝撃を受けました。
 在住中には、ホールや図書館、公民館、小学校と、ありとあらゆる場所で、シンガーソングライターとして、歌や語りでのコンサートをさせていただいておりました。
 T市に約2年、Y町に3年在住しておりました。純朴で温かい人々、あの美しい海や山々、田園風景に離婚後の傷心を持って在住し、どれだけ癒しを頂いたかと思うと、何か私にできる事をと考え、日々を過ごしてまいりました。シンガーソングライターとして活動させていただいていた関係で、住居もお借りできておりました。
 私のコンサートが復興の助けになるかどうかはわかりませんが、昨年、とにかく皆さんにお会いしようと思い、W町・Y町に伺わせていただきました。コンサートは、小規模なものではございますが、何とか今年も伺えたらと思っております。

 一昨年の震災の後、CDの販売をきっかけに、被災された方とのメールのやりとりをさせていただき、誠になんと言って励ましたらよいか、また私のような者で励ましになるのかと、パニックに陥りそうになりましたが、コンサートに伺い、実際にお会いできたら、何か私の方が励まされているような感じでした。
 昨年の、Y町仮設住宅の集会場と、W町Y館でのコンサートは、私のコンサート活動の中で、最も緊張したコンサートでした。まだ洗礼は受けておりませんでしたが、コンサートの最中何度も晴佐久神父様のお顔を思い浮かべ、歌わせていただきました。
 神様にお仕えになっていらっしゃる晴佐久神父様を具体的に思い浮かべることができることが、これほどありがたいことであるということを、あのコンサートで切実に知りました。

 神様を思い浮かべるのは、いざというとき、なかなか難しいことだと思えます。イエス様のことを思うことも、マリア様のことを思うこともできますし、大切で嬉しいことでありますが、晴佐久神父様は、私にとって非常にインパクトの強いお方であります。
 歌いながら、晴佐久神父様を思い浮かべると、何か少し笑みがこぼれます。泣きながら歌っていても、「そんなに泣かなくてもいいんじゃあないですか」とあの懐かしい柔らかいお声が聞こえてくるようでした。
 そんな訳で、何とか終了できたコンサートであり、すっかり震災で根性なしになっていた私は、晴佐久神父様の柔らかい御ミサで毎回救われております。

 私の日常の中でも、悲しい出来事は、震災の後も何度も訪れ、その度に晴佐久神父様や教会の皆様に相談させていただき、弱虫のうつ病になりかかりの私は助けていただいております。
 神様が私を愛してくださっているのだから、私も私をもっと好きになり、私を好きになれると、周りの人をもっと好きになれるのではないかと思えます。
 私も神様を愛してゆきたいと思い、洗礼を受けさせていただきました。勉強はこれからですので、失礼な表現がございましたらどうぞおゆるしください。
 稚拙な言葉で申し訳ございませんが、今の感想でございます。

父と子と聖霊のみ名によって アーメン

福音宣言(受洗者記念文集)

佐内 美香

 私は今、32年間の放蕩生活を経て、安心して父の家にいます。

 私がイエス・キリストに出会ったのは16歳の夏休みでした。
 映画「ナザレのイエス」を見てイエスの教えこそ私が求める生き方に必要な指針だと衝撃を受けました。その後、キリスト教(プロテスタント)の大学に進学し、そこで宗教部長に立候補し、学校内での礼拝を企画、進行、説教までして礼拝に出ない学生に、どうしたらキリスト教に興味を持ってもらえるのか、いつも考えていました。イエスの教えをどうしても伝えたかったからです。しかし、信者になることはできませんでした。私は「神」を完全に理解していない、イエス・キリストはあくまでも人間として尊敬していると考えていたからです。

 卒業後も相変わらず、キリスト教関連の本はよく読んでいましたが、教会に通うことは考えていませんでした。団体が苦手で「一人宗教」で良いと思っていました。結婚はもちろんキリスト教式で、出産するときに選んだ病院は「聖母病院」でした。キリスト教関係の施設は、私にとって居心地がよかったからです。
 娘たちの幼稚園を選ぶ基準もキリスト教教育をしているところでした。中学、高校も見学に行って、一目で気に入ったカトリック・ミッションスクールを選びました。

 ここでやっとカトリックとつながり、晴佐久神父様とつながったのです。そして晴佐久神父様の「神はあなたを愛しています。」という言葉を聴き、初めて私なんて神からしたら1/人類(人類分の1)の存在でしかないと思っていたのが、神対私=1対1であり、「あなた」とは「この私」であると自覚したのです。それでもまだ神の存在は霧がかかったような状態でした。決定的に心にひっかかるものがあったのです。

 「私には神の声が聴こえない」
 こんなに求めているのになぜだろう。私は初めて心から祈りました。その答えを神はある本の中に見つけるよう導いてくださいました。イグナチオの『霊操』です。神は外から来るものではなく、自分の中にいるというのです。自分の中の神―私は、私に現存する神の力を体験していました。ある日突然、私の心に浮かんできた受洗しようという気持ち、教会に行かなければという、マグマのように湧き上がってくる思い、あれは一体なんだったのか。
 「そうか、それが聖霊の働きだったのか」と気づいたのです。
 私は私の意志ではない何かに動かされてここまで来たのです。 32年かかりましたが、それは私に必要だった過程であり、神の方こそずっと私に語りかけ、働きかけ、私を求めてくださっていたのです。その気づきが「開心」です。今まで「回心」、神の方を向いていたかもしれませんが、心を開くことをしていなかったのです。
 それからの私の祈りは、お願いというよりも神について考え、神と1対1で対話することになりました。私が存在するのは神が求めてくださっている愛の証しです。その神の愛に応えて生きていきます。そしてこれからは体験者として福音宣言する者となります。

 晴佐久神父様、私を目覚めさせてくださりありがとうございました。
 入門係の皆さま、多摩教会の皆さまのご尽力に感謝いたします。
 そして神に感謝―

9月15日(日):「シニアの集い」(フォトアルバム)

9月15日の主日に、「シニアの集い」が開かれました。
多摩教会所属の75歳以上の方をお招きしてのお祝いです。

教会の一人ひとりが、前々からの準備や当日のお手伝い、お祈りなどで、歓待しました。

前夜は台風による暴風雨で、影響が心配されましたが、翌日にはなんとか収まり、
お昼頃には日も差して、準備したお席もいっぱいとなりました。

そのときの様子を、少しご紹介させていただきます。

会食中に子どもたちが歌をプレゼントするシーンもあったのですが、これは掲載できませんでした。ご想像ください;

◆画像をクリックすると、スライドショー(手動)でご覧いただくことができます。
 クリックで表示された画像の左右にカーソルを持っていくと、矢印(左:戻る)(右:進む)が表示されます。

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