投稿記事:「どうぞおはいりください」(おやつの会)

「どうぞおはいりください」
-お茶もお菓子もございます。お代はいただきません。-

関戸・一ノ宮地区 尾崎 ナオ

 「泣いた赤鬼」という童話をご存知ですか?
 村はずれに住む心優しい赤鬼は、鬼であるばかりに疎外され孤立していました。ムラビトたちと仲良くなりたくて、「おやつの会」という立て看板を出して、無料カフェを始めました。けれども、「行ったら最後、捕って食われる」と恐れられれただけで、ムラビトとの距離は開くばかりでした。
 山向こうに住んでいる青鬼は、赤鬼のムラビトに対する幻想を危惧しながらも、傷つき弱り果てた赤鬼のために一肌脱ぎます。「いい赤鬼」が「わるい青鬼」を退治するドタバタ芝居をプロデュースし、体を張って演じきります。赤鬼は、青鬼の目論見どおりムラビトたちのヒーローになります。

 「わるい青鬼」は棲家に居続けることはできません。芝居を打つことにしたときから決めていたとおり、赤鬼の望む幸せのために静かに消えます。
 一方赤鬼はムラビトにとって仲間ではなく、あくまでもまれびとなのでした。そのことを思い知ったとき、赤鬼は青鬼を山向こうに訪ねます。そこには青鬼からの思いやりあふれる手紙が残されていました。赤鬼は青鬼の無償の愛を知り、青鬼の友情を粗末にしたことに気づき、永遠に失った一番大切な友人との時間を悼みます。

 赤鬼も、2匹集まればムラを作り、3匹寄れば派閥を作る習性は、ムラビトと同じ。でもなぜか、鬼はムラビトよりも一人ぼっちが似合っています。
 青鬼は今日も旅しているかしら。雨に降られたら雨宿りしていってくれるかしら。
 赤鬼は今日もひとりお茶をしているかしら。お散歩ついでに、ふらりと多摩教会のおやつの会を覗いてくれるかしら。


※ 「おやつの会」
 毎週木曜日の午後3時から、信徒会館1階で開かれる、気軽な集い。お茶やおやつを囲んでおしゃべりを楽しみます。少しですが、詳しくは、→ こちらをご覧ください。

初金家族の会 10月例会報告

「初金家族の会」10月例会報告


広報: 志賀 晴児

 10月の例会は、14日、聖フランシスコの記念日でした。貧しさを選び、神様の愛と慈しみを全ての人にと説いた聖フランシスコの精神を学びたいと願いながら、初金のごミサに(あずか)りました。ごミサで晴佐久神父様は「フランシスコ教皇様の意向のためにも心をあわせてお祈りしましょう。意向のためにとは、《心をあわせて一緒にお祈りするという、祈りでのつながり、結びつき》を意味するのです」と説明され、この日に相応しいお説教でした。

 ごミサのあと、40人ほどの方が信徒会館に集まり、今回は11月のカトリック死者の月を前に、典礼、広報、霊園担当役員で前の委員長、竹内秀弥さんの教会葬儀とカトリック霊園についての卓話に耳を傾けました。葬儀、お墓のことは、いつの時代でも、どなたにとっても大きな関心事です。イエス・キリストの復活を信じるカトリック信者には、死は永遠の命への門出であり、約束された希望によって悲しみの中にも安らぎを覚える祈りのひとときですが、初めて教会の葬儀に参列された多くの方々にも、しばしば大きな感銘を与えています。卓話では葬儀の手順、慣例など具体的な説明をはじめ、五日市の教会霊園への毎年の共同墓参会のことなど多岐にわたるお話を伺い、出席者からの質問も相次ぎました。

 次回は11月1日(金)に開かれ、「介護について」を予定しています。人それぞれ何時かは、介護するか、介護されるかに直面します。経験者のお話を聞きながら話し合いできればと思っています。


11月の「初金家族の会」は、11月第一金曜日、1日の午前10時のミサ後、11時頃から、信徒会館1階で行われます。

皆さまのご参加をお待ちしております!!

 

花のしたにて(受洗者記念文集)

和泉 はるか(仮名)

 ねがはくは 花のしたにて 春死なん
  そのきさらぎの 望月の頃

 僧の西行の歌です。イースターは春分後の最初の満月の次の日曜ですから、旧暦では如月(きさらぎ)2月の満月の頃と申し上げても、特に今年の場合は差し障りはないでしょうか。復活徹夜祭は川べりの桜が見事な夕べでした。私は「花のした」でこの世の限りある命ではなく、新たな永遠の魂を授かりました。

 花の宵 光あれとの 声聞こゆ
  道進む本意 かなひぬるかな

 西行に倣って私も詠んでみました。拙い作ではありますが、受洗後の素直な気持ちです。
 ミサの説教の中でも取りあげていただいたのですが、私は中学生の頃にイエスさまの夢を見ました。当時の私はプロテスタント教会に通っていました。夢の中では、白い衣を着た方が白く続く道の入口に立っていらっしゃいました。道は緩やかな登り坂で左に折れ曲がり、その先は見えません。白い衣の方は名乗られたわけではありませんが、私は直感的にイエスさまであると思いました。
 イエスさまはおっしゃいました。
 「この道の先にあなたの未来がある。あなたはここを進みたいですか」と。
 しかし私は、逡巡の末に断ってしまったのです。
 するとイエスさまは、
 「それでは早くあなたの道にお戻りなさい。○○が来る前に」とだけお応えになり、その後は白い道の奥をご覧になったまま、もう何もおっしゃいませんでした。
 何が来る前になのか・・・聞き漏らしてしまいましたが、私はその場を走って逃げ去り、息を切らしながら目を覚ましたのです。

 それから30年が過ぎてしまいました。その間、神さまは、あの手この手で私の心に働きかけてくださっていたのだと今はわかります。幾度となく受洗の機会はありましたが、どうしても一歩を踏み出すことができませんでした。私は「一神教」にとらわれすぎていたのです。イエスさまの道に進みたいけれども、それは他の道をないがしろにしてしまうことのように考えていました。
 「家を継ぐことは墓を継ぐことだ。だから俺は家を捨ててきた」。通っていた教会には、このように言う青年もいました。わが家も祖父母のお墓は仏式です。私は自分が将来、墓守になることを自覚していましたから、キリスト教を信仰すると宣言しきれなかったのです。

 カトリック多摩教会に来ることになったのは、さまざまな偶然の結果のようにも見えます。でも、神さまのご計画どおりだったのかもしれません。つらくて悲しいこともたくさんありましたが、すべてが必然だったのでしょう。涙を流すことがなかったら、もっと遠回りをしていたと思うのです。そして、ここに来た最初の日に、すべての迷いは消えました。
 晴佐久神父さまは、「本物の宗教なら同じところに通じている。そしてこの世のことは形式的なもので、キリスト教を信仰しながら仏式の墓を守り続けても、まったく問題ではない」と教えてくださったのです。

 イエスさま、長いことお待たせいたしました。それとも全宇宙の時間からみれば、桜が咲いて舞い散るまでぐらいの、ほんのわずかな間だと言ってくださるでしょうか。
 私は「○○が来る前」に戻れたのですよね?

洗礼を受けて(受洗者記念文集)

本田 静香(仮名)

 洗礼式におきましては、晴佐久神父様をはじめ、入門係の皆様、代親のS様、信者の皆様に大変お世話になり、どうもありがとうございました。おかげさまで無事、晴れやかな御復活の日に、受洗させていただくことができました。
 私は一昨年のクリスマスの頃より、カトリック多摩教会での御ミサに参加させていただいておりました。カトリックの教会に伺った経験があまりなく、御ミサの形式も良く分からず、ご迷惑をお掛けしていたかもしれません。時折ご指導を賜り、進ませていただいて参りました。

 一昨年は、東日本大震災があり、私は、離婚後の5年間を、当時まだ小学校5年生だった息子と共に、東京武蔵野市より宮城県に移住して住んでいたことがございます。もう10年以上前のことではございますが、私にとって第二の故郷ともいえる、東北の悲痛な姿に、大きな衝撃を受けました。
 在住中には、ホールや図書館、公民館、小学校と、ありとあらゆる場所で、シンガーソングライターとして、歌や語りでのコンサートをさせていただいておりました。
 T市に約2年、Y町に3年在住しておりました。純朴で温かい人々、あの美しい海や山々、田園風景に離婚後の傷心を持って在住し、どれだけ癒しを頂いたかと思うと、何か私にできる事をと考え、日々を過ごしてまいりました。シンガーソングライターとして活動させていただいていた関係で、住居もお借りできておりました。
 私のコンサートが復興の助けになるかどうかはわかりませんが、昨年、とにかく皆さんにお会いしようと思い、W町・Y町に伺わせていただきました。コンサートは、小規模なものではございますが、何とか今年も伺えたらと思っております。

 一昨年の震災の後、CDの販売をきっかけに、被災された方とのメールのやりとりをさせていただき、誠になんと言って励ましたらよいか、また私のような者で励ましになるのかと、パニックに陥りそうになりましたが、コンサートに伺い、実際にお会いできたら、何か私の方が励まされているような感じでした。
 昨年の、Y町仮設住宅の集会場と、W町Y館でのコンサートは、私のコンサート活動の中で、最も緊張したコンサートでした。まだ洗礼は受けておりませんでしたが、コンサートの最中何度も晴佐久神父様のお顔を思い浮かべ、歌わせていただきました。
 神様にお仕えになっていらっしゃる晴佐久神父様を具体的に思い浮かべることができることが、これほどありがたいことであるということを、あのコンサートで切実に知りました。

 神様を思い浮かべるのは、いざというとき、なかなか難しいことだと思えます。イエス様のことを思うことも、マリア様のことを思うこともできますし、大切で嬉しいことでありますが、晴佐久神父様は、私にとって非常にインパクトの強いお方であります。
 歌いながら、晴佐久神父様を思い浮かべると、何か少し笑みがこぼれます。泣きながら歌っていても、「そんなに泣かなくてもいいんじゃあないですか」とあの懐かしい柔らかいお声が聞こえてくるようでした。
 そんな訳で、何とか終了できたコンサートであり、すっかり震災で根性なしになっていた私は、晴佐久神父様の柔らかい御ミサで毎回救われております。

 私の日常の中でも、悲しい出来事は、震災の後も何度も訪れ、その度に晴佐久神父様や教会の皆様に相談させていただき、弱虫のうつ病になりかかりの私は助けていただいております。
 神様が私を愛してくださっているのだから、私も私をもっと好きになり、私を好きになれると、周りの人をもっと好きになれるのではないかと思えます。
 私も神様を愛してゆきたいと思い、洗礼を受けさせていただきました。勉強はこれからですので、失礼な表現がございましたらどうぞおゆるしください。
 稚拙な言葉で申し訳ございませんが、今の感想でございます。

父と子と聖霊のみ名によって アーメン

福音宣言(受洗者記念文集)

佐内 美香

 私は今、32年間の放蕩生活を経て、安心して父の家にいます。

 私がイエス・キリストに出会ったのは16歳の夏休みでした。
 映画「ナザレのイエス」を見てイエスの教えこそ私が求める生き方に必要な指針だと衝撃を受けました。その後、キリスト教(プロテスタント)の大学に進学し、そこで宗教部長に立候補し、学校内での礼拝を企画、進行、説教までして礼拝に出ない学生に、どうしたらキリスト教に興味を持ってもらえるのか、いつも考えていました。イエスの教えをどうしても伝えたかったからです。しかし、信者になることはできませんでした。私は「神」を完全に理解していない、イエス・キリストはあくまでも人間として尊敬していると考えていたからです。

 卒業後も相変わらず、キリスト教関連の本はよく読んでいましたが、教会に通うことは考えていませんでした。団体が苦手で「一人宗教」で良いと思っていました。結婚はもちろんキリスト教式で、出産するときに選んだ病院は「聖母病院」でした。キリスト教関係の施設は、私にとって居心地がよかったからです。
 娘たちの幼稚園を選ぶ基準もキリスト教教育をしているところでした。中学、高校も見学に行って、一目で気に入ったカトリック・ミッションスクールを選びました。

 ここでやっとカトリックとつながり、晴佐久神父様とつながったのです。そして晴佐久神父様の「神はあなたを愛しています。」という言葉を聴き、初めて私なんて神からしたら1/人類(人類分の1)の存在でしかないと思っていたのが、神対私=1対1であり、「あなた」とは「この私」であると自覚したのです。それでもまだ神の存在は霧がかかったような状態でした。決定的に心にひっかかるものがあったのです。

 「私には神の声が聴こえない」
 こんなに求めているのになぜだろう。私は初めて心から祈りました。その答えを神はある本の中に見つけるよう導いてくださいました。イグナチオの『霊操』です。神は外から来るものではなく、自分の中にいるというのです。自分の中の神―私は、私に現存する神の力を体験していました。ある日突然、私の心に浮かんできた受洗しようという気持ち、教会に行かなければという、マグマのように湧き上がってくる思い、あれは一体なんだったのか。
 「そうか、それが聖霊の働きだったのか」と気づいたのです。
 私は私の意志ではない何かに動かされてここまで来たのです。 32年かかりましたが、それは私に必要だった過程であり、神の方こそずっと私に語りかけ、働きかけ、私を求めてくださっていたのです。その気づきが「開心」です。今まで「回心」、神の方を向いていたかもしれませんが、心を開くことをしていなかったのです。
 それからの私の祈りは、お願いというよりも神について考え、神と1対1で対話することになりました。私が存在するのは神が求めてくださっている愛の証しです。その神の愛に応えて生きていきます。そしてこれからは体験者として福音宣言する者となります。

 晴佐久神父様、私を目覚めさせてくださりありがとうございました。
 入門係の皆さま、多摩教会の皆さまのご尽力に感謝いたします。
 そして神に感謝―

9月15日(日):「シニアの集い」(フォトアルバム)

9月15日の主日に、「シニアの集い」が開かれました。
多摩教会所属の75歳以上の方をお招きしてのお祝いです。

教会の一人ひとりが、前々からの準備や当日のお手伝い、お祈りなどで、歓待しました。

前夜は台風による暴風雨で、影響が心配されましたが、翌日にはなんとか収まり、
お昼頃には日も差して、準備したお席もいっぱいとなりました。

そのときの様子を、少しご紹介させていただきます。

会食中に子どもたちが歌をプレゼントするシーンもあったのですが、これは掲載できませんでした。ご想像ください;

◆画像をクリックすると、スライドショー(手動)でご覧いただくことができます。
 クリックで表示された画像の左右にカーソルを持っていくと、矢印(左:戻る)(右:進む)が表示されます。

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受洗への思い(受洗者記念文集)

マグダラのマリア・飛鳥(仮名)

 幼稚園から高校までの14年間、自分はカトリックの学校で過ごしました。
 幼稚園では「おいしいごちそう今日もまた、お与えくださる神様にみんなでお礼を申しましょう」という食前の歌が大好きでした。小学校では「右の肩には天使、左の肩には悪魔がいて、迷ったときは右の肩をたたいて天使に助けてもらいなさい」と教わりました。これは不思議なことですが、今でも思わずやってる自分がいます(笑)。
 5月はマリア様の月。良いことをすると百合の花のスタンプを押してもらえたっけ。友達とけんかしたり、先生に怒られたりしたときは、よくお御堂(みどう)に寄って、お祈りして「ごめんなさい」をして帰りました。人として生きるために大切な柱、道しるべがカトリックの教えだったように思います。

 中学校では卓球が大好きで、学校帰りには教会にあった卓球台でよく遊びました。そんなことがきっかけで、受験勉強が始まるまでの中学校3年間と高校1年までは、毎週日曜日にはミサに行くようになりました。「公教要理」の勉強にも通いながら、聖書を読んだり、知らない聖歌を教わるのがとても楽しかったことを覚えています。
 兄が小学校のときに洗礼を受けたので、よもや自分の受洗を両親が反対するなど思ってもいませんでした。「女は結婚するときに不利になる」ということが理由で、何回頼んでも結局許可はおりませんでした。一緒に講座を受けていた友達は、一人、また一人とみんな洗礼を受けることができました。当時、勉強部屋の本棚に小さな祭壇を作って、よくお祈りをしたものです。

 大学進学で東京で暮らすようになって、まったく教会に行くことはなくなりました。祈ることも忘れました。本当に長いこと、忘れていました。たくさんのつらいことがあってもお酒に酔うことや、なんやかんやですり抜けてこられたのですが、とうとう仕事人間だった私は、四面楚歌、どうにもこうにも、何をどう動けばよいのかわからず、立ち尽くすような困難に陥りました。娘の病気でした。まったく先の見通しが付かないまま、ただ体が動いているのみという日が何年も続きました。
 10年が過ぎようとする頃、通勤途中の車の中でマリア様に「助けてください」「助けてください」ただ、そればかり叫んでいる自分がいました。

 再び、祈りが帰ってきました。
 ちょうどその頃、高校の担任のシスターが「祈りはどこでもしていいのよ。神様はいつもあなたのそばにいらしゃいます。でも一度高円寺教会にいらっしゃい」と言われました。でもそれからも仕事や家族のことがあって、教会に行くことがないまま数年が過ぎました。
 ご縁があって多摩教会でミサに行きました。そのときに、神様の中で優しさに包まれるように溶けていく自分がいました。涙が止まらず、さらに、そばにはマリア様が寄り添っていてくださると感じることができました。そして、苦しんでいる大切な人のために祈ることも思い出しました。故郷にもどってきたような、祈りの時間が甦りました。
 晴佐久神父様の「大丈夫。もう大丈夫」とミサでおしゃった時も涙が止まりませんでした。今は天国におられる、担任のシスターが私に高円寺にいらっしゃいと言われたのは、この出会いだったのだと確信しました。

 あんなに夢に見た45年前の洗礼。真っ白なベール。すべてが新しくはじまりました。故郷、神様のもとで、また生まれることができました。
 感想?「うれしい! 天にも上る思い!」多摩教会の皆様とファミリーの仲間入りができて、本当にうれしいです。
 どうぞよろしくお願いします。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「岩 波 ホール」

岩 波 ホール

主任司祭 晴佐久 昌英

 岩波ホール。
 その名を聞いただけで、ある特別な感情が沸き起こってきます。ときめき、感謝、そして、敬意。およそ200席の、こじんまりとしたこの映画ホールで、私たちはどれだけ感動し、学ばされ、そして生きる力をもらったことか。靖国通り、神保町交差点角に立つ岩波神保町ビル10階は、映画ファンにとってはもはや、聖地にほかなりません。

 この聖地で最初に観た映画は、宮城まり子監督の「ねむの木の詩がきこえる」という、セミドキュメンタリー作品。1977年夏、ぼくが二十歳の時です。自閉症児の「やっちゃん」と、ねむの木学園の創始者である宮城まり子さんの交流に、心ふるえる感動を覚えました。人と人がつながること、それ以上に貴いことはなく、それこそがキリスト教のすべてだと直感した瞬間であり、自分自身の司祭召命においても大きな影響を受けた映画です。
 そして、何と言っても1979年の「木靴の樹」。エルマンノ・オルミ監督珠玉の名作であり、カンヌ国際映画祭のグランプリ受賞作品です。この映画からは、感動を超えた、聖霊体験ともいうべき影響を受けました。イタリア北部ロンバルディア地方の農夫たちの日常を淡々と描いたドキュメンタリータッチの作品ですが、そこには、目には見えない神のみ心と人間の信仰が、目に見えるごく普通の生活として、奇跡のごとく映っていたのです。素人だけを使った素朴な情景を、自然光だけで撮ったフィルムはあまりにも気高く、ああ、映画の本質は秘跡体験なんだ! と知ったのでした。
 その翌年神学校に入ってからは、なかなか映画も観に行けなくなりましたが、司祭になってからは堰を切ったように聖地巡礼を再開したものです。「TOMORROW/明日」、「八月の鯨」、「サラーム・ボンベイ!」、「コルチャック先生」、「ミシシッピー・マサラ」、「ジャック・ドゥミの少年期」、「森の中の淑女たち」、「山の郵便配達」、ケン・ローチの「大地と自由」、アンジェイ・ワイダの「聖週間」・・・ああ、書ききれない! なんというラインナップ、なんという幸福! 映画評論などを手掛けていたせいもあり、このころは年間100本は見ていましたが、ぼくにとっては、岩波ホールにかかる映画は、特別でした。

 岩波ホールは知る人ぞ知る「ミニシアター」の先駆けであり、日本で初めて定員制・完全入れ替え制を導入したホールです。予告篇のときに企業コマーシャルを流さないとか、一度公開日程を決めたらどんなに客が入らなくとも決して途中打ち切りをしないとか、ともかく映画を愛し、映画を愛する人を愛するという姿勢を徹底して打ち出した、まさに「ほんもの」を感じさせるホールなのです。
 上映される機会の少ない作品をていねいに選び、アジア・アフリカ・中南米の名作に目配りし、女性監督の作品も積極的に紹介することなども岩波ホールの特徴ですが、それらはすべて、創立以来の総支配人を務めてきた高野悦子さんの功績です。残念ながら高野さんは今年の早春亡くなりました。生前、ていねいなお手紙までいただいたことがあります。高野さん、「ある老女の物語」をかけてくれてありがとう! 東京国際映画祭で観て以来、いつかかるかと心待ちにしていたのに、何年たってもどこもかけてくれなかったのを、5年後についに公開してくれたのは、やっぱり岩波ホールでした。

 このたびその岩波ホールから、「木靴の樹」のエルマンノ・オルミ監督の最新作「楽園からの旅人」上映後のトークショーに招かれて、観客の皆さんにお話しできたことが、ぼくにとってどれほどうれしく、誇らしいことであったか、ご理解いただけると思います。
 高野さんの後に支配人を引き継いだのは、岩波ホール前社長の長女、岩波律子さんですが、トークショー当日、岩波さんにお会いしたときに、真っ先にひとこと、申しあげました。「これは恩返しです」、と。
 実際、この日は期間中最高の入りになったことも恩返しでしたし、詰めかけた皆さんに福音を語ることができたことも、何よりの恩返しでした。客席には若い観客もいましたが、あれはかつてのぼくだと思いつつ、心こめてお話ししたのでした。

 「楽園からの旅人」10月4日金曜日まで。岩波ホールにて上映中です。


※:『楽園からの旅人』
 ・ 『楽園からの旅人』公式サイト : http://www.alcine-terran.com/rakuen/