巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「さかさま社会」

さかさま社会

主任司祭 晴佐久 昌英

 「これは、日ごろつらい思いをしている、あなたたちのためのお祭りです。主催者は神さまです。信頼して、安心してお過ごしください」
 「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り(通称ここナツ)」の冒頭、そうご挨拶しました。日ごろ、自分なんかは楽しんじゃいけないんだとまで思っている方たちに、なんとか、いまここにある喜びを味わっていただきたいという企画です。
 当日は、100人以上の方たちが夕刻の癒しのミサに参加し、炭火の焼き鳥やかき氷をいただき、魚釣りゲームや花火を楽しみ、互いに紹介しあって友達を増やし、日ごろのつらい気持ちを語り合って過ごしました。落ち込みがちな気分や不安を抱えながらも、神さまに愛されているという喜びをわかちあったひと時は、まさに天国のようでした。
 有志で集まったスタッフは5月から話し合いを重ねてきましたし、当日も多くのボランティアに手伝って頂きましたが、参加者に少しでも「自分は大切にされている」と感じてもらえたなら、準備してきた者の苦労も報われるというものです。
 おみやげにお配りした聖句入りの手作りのウチワを手に、名残惜しそうに家路につく参加者を見送りながら、ああ、本当にやってよかったと思いました。

 心の病を抱えているひとりの青年が、「早く社会復帰したい」と言っていました。当然の願いですし、そのための協力も惜しみませんが、いったいどこに「復帰したい」と言っているのでしょうか。その「社会」とは、どんな社会なのでしょうか。
 心の病の苦しさは、まさに心の中のことと思われがちですし、本人も自分が病んでいると思い込んでいますが、実は相当程度、その人の育った環境、関わっている社会に問題があるのです。環境が過酷で、社会が病んでいるならば、その中で心が病むのは自然な反応だということもできます。そのような人は、病んでいる社会に適応しようと、無理に無理を重ねてきたわけですから。もしそうならば、安心できる環境を整え、ストレスのない社会を用意すれば、「病んでいる」人も、相当程度救われるはずです。
 教会家族という現場が目指しているのは、まさにそのようなくつろげる環境、だれでもホッとできる社会です。それは弱者の弱者による弱者こそが中心となる社会であり、この世から見れば「ちょっとおかしな」集いかも知れませんが、その現場にいる人からすれば、むしろこちらの方が本当の社会だ、ここにこそ健康な仲間がいると言える集いです。
 考えてみれば、だれもが本質的に「弱者」であるはずですし、みんな「強者」を振舞うことに疲れ果てているのですから、ある意味では、疲れ果てて壊れそうになっている人が、教会家族のような場へ「早く社会復帰したい」と言う時代が来ているのかもしれません。

 周りがみんな病んでいるときは、自分の病に気づかなくなります。
 「経済成長」が大事だと言えばだれも反対しません。しかしそもそも、経済は「成長」していいものかどうか、経済にとって、だれをも幸福にする真の成長とはどのような状態であるのか、だれも問いません。そこを問わない社会に必死に適応しようとして、若者たちは不条理劇のような就活で心身をすり減らし、何とか就職できた「勝者」も、非人間的な労働を強いられて、結果、優しい人から順番に壊れて使い捨てられていくのです。
 表向きは美論正論を述べながら、陰では自分の利益だけを追求する権力機構が巧妙に振る舞う社会は、まさに陰謀に怯える統合失調的被害妄想を増長させる、格好の環境です。一国の責任者が有事の恐怖を言い立てる被害妄想や、放射能を管理できると言い張る誇大妄想が、どれだけ人々の心を不安定にし、心の病を重くしていることか。

 教会は、神の国の目に見えるしるしです。現代社会に適応できずに心を病んでいる人ほど、実は霊的にはとても健康なのだという、「さかさま社会」です。たとえ社会からはじかれても、ここにこそ本当の社会があり、ここにこそ信頼できる仲間たちがいると感じられる恵みの場です。世界はこれを模範とし、希望とするべきです。
 世界中で「ここナツ」が開かれるときこそが、神の国の到来の時なのですから。

連載コラム:「『マルタ、マルタ』と主は呼んでくださった」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第43回
「マルタ、マルタ」と主は呼んでくださった

貝取・豊ヶ丘地区 山藤 ふみ

 受洗6年目になる山藤(さんとう)ふみと申します。よろしくお願いいたします。
 教会は祈りの場であるという方がいます。カトリック多摩教会の祭壇を納めた方に、大川さんという方がいます。その方の祈る姿を拝見したとき、まさしく「神に近づく」祈りを捧げている方だと見惚れてしまいました。私は、カトリックの場合は特に、教会活動全体が生涯教育の場であり、その活動を通して「祈り」と「心のオアシス」が広がっていくという印象を持っています。

 いつか何かお手伝いしたという気持ちは持っていましたが、現実の私は、土曜夜のミサ後は、ほうきにまたがる魔女よろしく、さっと暗闇に消えていました。その結果、ごく少人数の方のお名前と顔が一致するだけで、まずい状態でした。
 その少人数の中に、波田野洋子さんがいらっしゃいました。お会いするたびに印象に残りました。台所の作業台に大きなボウルを置き、一心にジャガイモの皮をむいていました。後で、有名な「波田野さんのコロッケ」の下ごしらえをしていたのだと知りました。
 夏祭りかバザーの当日でした。橋の下を荷物を持って歩いていらっしゃるのに出会い、声をかけると、「朝6時に田舎を出て、3回乗り換えて、やっとたどり着いたの。今日は、お昼で失礼しようと思って」と、おっしゃいました。夕方まで皆に声をかけられ大活躍されていました。
 次の日偶然、教会に立ち寄ると波田野さんも来られていました。「お疲れでしょう」と言うと、「まあね。昨日、大勢で台所を使ったので、ちょっと見に来たの」とおっしゃって、五徳を磨いたり、布巾を石鹸で洗ったりと、片づけものをされていました。私などは、当日、半日働くだけでも「面白かったけど大変!」と言ってしまうので、黙って頭を下げました。
 波田野さんが「コルベ会」の方であると知ったのは後のことです。

 カトリック多摩教会の「守護の聖人」は、ポーランド出身のマキシミリアノ・マリア・コルベ神父(1894年1月8日〜1941年8月14日帰天)です。
 コルベ神父の生涯は、波乱に満ちたものでありがながら、終生「無原罪の聖母マリア」の霊性の中にあり、「いつもみ心のうちに」と信仰を守りとおした生涯でした。「ペンは剣よりも強し」と言いますが、聖母の騎士社の出版物を通しての宣教と聖書のすべての聖句の信仰と実行が、アウシュビッツでの身代わりの申し出と死に、まっすぐつながった生き方を示した方でした。
 多摩近在のカトリック信仰をもつ方々が新教会を建てるにあたり、多くの方の御尽力と御縁があって聖コルベ神父を「守護の聖人」として掲げられたことは、不思議なお恵みを頂いたのだと、お御堂に入るたびに思います。

 「コルベ会」は10数人のメンバーが、数十年もの長い間、コツコツと研鑽を続けてきたグループです。
 メンバーの高齢化や、諸般の事情により、活動を縮小されて継続してきたものの、2014年3月で閉会を公表されました。「コルベ会」は、教会や福祉への協力と、自立や親睦を目的として活動してきたとのことです。
 甘夏ピールやソースづくりに参加されていたメンバーの方々は、「プロ集団」としての気迫がありました。一人ひとりの方が、仕事の流れの中で、ご自分の立ち位置を承知していて、手際よく働いていました。人によって「仕事に行く時間なので」と簡単に挨拶を交わし、出て行かれました。「必要なところに必要なだけ」が、長年の奉仕の中で身に付いている気持ちの良い、すがすがしさでした。

 「マルタ、マルタ、大切なことはひとつ」と主は言われました。
 「コルベ会」の継続は大切なことと考え、立候補にたどり着いた私です。

「初金家族の会」7月例会報告

「初金家族の会」7月例会報告

担当: 志賀 晴児

 梅雨空の7月4日、初金ごミサで晴佐久神父様は、「イエス様の、『私は正しい人を 招くためでなく、罪人を招くために来た』というみ言葉をマタイが耳にしたときの喜びはさぞや大きかったことでしょう。ダメダメ人間同士の私たちの集まりでも、神様は愛してくださっているのです」と話されました

 続いての初金家族の会、卓話担当は多摩教会の広報で活躍中の小野原さんでした。小野原さんはこれまで、ニューヨークと南太平洋フィジーでの国際機関で9年間働かれ、その後東京の外国政府機関でも20年以上にわたり広報業務を担当されています。
 小野原さんは、滞在中のニューヨークでの、ジョン・レノンや郷ひろみさんにまつわる興味深いエピソードや、南太平洋のフィジーでは、「やったー!楽園パラダイスだー!」と喜んだのもつかの間、軍事クーデターに遭遇、兵士から頭に銃を突きつけられた事件など、わくわくドキドキのお話しがいっぱいでした。

 なお8月の家族の会はお休みとして、次は9月5日(金)午前11時からです。
 皆様、どうぞ初金ごミサのあとの、なごやかな「初金家族の会」にご参加ください。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「おうちミサ」

おうちミサ

主任司祭 晴佐久 昌英

 梅雨に入り、毎日雨が続いていますが、みなさん、体調はいかがですか。
 湿度が高く、温度や気圧の差が激しいこの季節は、体調の思わしくない方も多いのではないでしょうか。
 そういえば、つい先日、弟から電話がありました。
 「あるところで、『晴佐久神父が大変体調が悪いらしい』と聞いたけれど、大丈夫か」と。
 いったいどこでそんな噂が広まっているのか知りませんが、笑って即答しました。
 「聖書に手を置いて誓いますが、わたくしは今、申し訳ないほど体調良くて、すこぶる元気に過ごしております。どうぞご心配なく」。
 むしろ最近は、夕方に一時間ほど歩く習慣が身についたせいで、ますますいい感じです。
 たぶん、わたしの無愛想な表情や、弛緩した振る舞いのせいだと思うのですが、叙階してから27年間、わたしはずーっと、面白いほど同じことを言われ続けてきました。
 「顔色がお悪いですね」「お痩せになったみたい」「どこかお加減が悪いんじゃないですか」
 そんな病人が全国を飛び回って講演したり、大群衆の集まるローマの列聖式に出かけたり、毎夏無人島に大勢の青年を連れていったりしたら、とっくに命を落としていそうなものですが。「どうぞみなさん、むしろご自分の心配を」というのが正直な気持ちです。

 実際、調子が悪いときは無理をなさらずに、お体を大切になさってください。
 たとえば、ミサは大切ですが、ミサに集まれるのも体あればこそ。無理して出かけて体調を崩しては元も子もありません。この季節は、熱中症も心配です。体調すぐれないときは大事を取って、「おうちミサ」をすることを、主任司祭として許可いたしましょう。
 「おうちミサ」とは、ミサの時間に合わせて我が家でお祈りすることです。もちろん秘跡に代わるものではありませんが、やらないよりは100倍良いですし、イエスさまはちゃんと共にいて、特別の恵みを与えてくださるでしょう。

 準備するのは小さな十字架をひとつと、聖書と典礼があれば十分です。もしあれば、ろうそくに火をともし、聖歌集も用意します。
 ミサの時間が来たら、十字を切り、回心の祈りを唱え、憐みの賛歌と栄光の賛歌を歌い、集会祈願をお祈りします。
 続いて第一朗読を朗読し、答唱詩編を歌い、第二朗読を朗読し、アレルヤ唱を歌い、福音書を朗読します。聖書と典礼に全部載ってますから、出来るはずです。その日の説教は、翌週までにはホームページの「福音の村」に載りますから、後でお読みください。前週までの説教から選んで読むのも、いいかも知れません。それから信仰宣言をし、共同祈願を唱えます。おうちミサでは自由にお祈りできますから、たくさんお願いしたらいいと思います。
 ついで奉納祈願をお祈りし、感謝の賛歌(聖なるかな)を歌います。主の祈りを唱えて、平和の賛歌(神の小羊)を歌います。そうしていよいよ、霊的聖体拝領をします。霊的聖体拝領とは、信仰によって魂の世界でご聖体を拝領することです。「キリストのからだ、アーメン」と唱えて胸に手を置き、主をお迎えします。
 最後に拝領祈願をお祈りし、十字を切って終わりです。歌が苦手な方は歌のところを省いても構いませんし、得意な方は開祭や閉祭の歌も選んで歌ったらいいでしょう。
 ちなみに、そんなおうちミサのためにも、次週以降の聖書と典礼を持ち帰っておくことをお勧めします。これは、ミサに来られるときは忘れずにお持ちください。

 もっとも、疲れているとき、気分のすぐれないときは、十字をひとつ切るだけで充分です。あとは聖堂で祈る仲間たち、また全世界のミサで祈っている仲間たちにお任せして、大船に乗った気持ちでお休みください。
 離れていても心はひとつ。体は聖堂に行くことはできなくとも、祈りのうちに霊的に一致していれば、ご自宅はもはや聖堂の一部です。逆に言えば、聖堂は体調の悪い仲間たちのご自宅の一部です。いつもそんな一致を意識しながらミサを捧げましょう。
 もちろん、長期にわたってミサに来られないときなどは、司祭がご聖体をお持ちしますから遠慮なくお申し出ください。ご聖体は、病床訪問グループのメンバーがお届けすることもできますし、司祭の許可があれば、信者のご家族が持ち帰ることもできます。これは、短期でも可能です。
 かくいうわたしも、いつかはホントに「大変体調が悪く」なり、それこそ「ベッドミサ」しかできなくなる日が来るかもしれません。聖堂でミサを捧げられる日々がどんなに恵まれているかをいつも忘れずに、一つひとつのミサを、感謝をこめてお捧げしようと思います。

連載コラム:「私のオアシス」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第42回
「私のオアシス」

諏訪・永山地区 小川 紀子

 皆様、こんにちは。私はカトリック多摩教会で、皆様のお仲間に入れていただいて3年少々です。まだまだ、カトリックについて分からないことも多く、諸先輩に伺ったり入門講座で神父様にお尋ねするという日々です。そんな私ですから大勢の先輩の信者さんの前で特に語るべき言葉もなく、この原稿を頼まれた時、心では「無理、無理、絶対無理!」と叫びつつ、でも断ったら係の方が困られるだろうなあと、つい格好をつけ引き受けてしまいました。「しまった!」その結果、パソコンの画面を睨みながら「うーん!」と言葉に詰まっている私です。

 今でこそ毎週末、いそいそと多摩教会のミサに通っていますが、それでも「人生、この年になってもまだ、何が起こるか分からないなあ!」というのが素直な気持ちです。
 私は多摩市に住んで久しく、家も偶然、多摩教会の近くにあります。四季折々、川辺を散歩して白く美しい多摩教会を見上げながら、「残念だけど、この教会に私が足を踏み入れることは、まずないなあ」とずっと思っていました。
 でも、特にカトリックというものに偏見を持っていたわけではなく、大好きな教会音楽、勝手に人生の師と仰ぐ犬養道子女史、そしてマザーテレサ、むしろ私の大好な方々は皆さんカトリックの方でした。そして、最近まで気づかなかったのですが、私が20代の頃からずっと大切に思っている日本二十六聖人もカトリックの信者さんだったのですね。

 私は、その昔、地方の片田舎で救世軍の路傍伝道に感化を受けクリスチャンになった父を持ち、幼い頃から日曜日は家族みなで教会に通う家に育ちました。そんなわけで、その後、大人になりあちこち転居しても、その地その地にあるプロテスタント教会にお邪魔して大変お世話になりました。
 親しい友人に誘われ一度だけのつもりで初めて多摩教会に伺った時、それこそ聖堂へ続く階段はアイガーの北壁のように高く思われました。それが、ひと言で言えば「神の摂理」ということでしょうか!全くもって人生何が起こるかわからない!今では帰るべき我が家が、カトリック多摩教会です。

 今、私が多摩教会で一番好きな場所は祈りこめられた聖堂です。
 そして、聖堂に掲げられている十字架とキリスト像を見つめながら、神父様のお話を伺っている時は、まさに心安らぐ至福の時です。日常の雑事を忘れ、心のエネルギーとして御言葉を蓄えます。ひたすら「主よ、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え。と皆さんと一緒に声を合わせ祈る時、まさにここが私のオアシス」の瞬間です。
 神父様のお話を伺いながらそっと目を閉じます(決して眠くなったわけではありません)。2000年前のイエス様もイスラエルのガリラヤ湖畔で、こんな風に語られていたのでしょうか。イエス様を慕うたくさんの信者さんと一緒に私も野の花が咲く草の上に腰を下ろし、顔にそよ風を受けながら、一心不乱にその福音に耳を傾けているような錯覚を覚えます。
 美しいミサに毎週通い、神父様が語られる福音を聞き続けて最近思うことは、昔より生きることが楽になったということ。
 3度もイエス様を知らないと言ってしまったペトロを、それでも赦しながら見つめておられるイエス様の深いまなざし、「あのまなざし」は、まさに私のためのまなざしです。
 これからも健康を許され、なんとか万障繰り合わせては、いそいそとミサに行きたいと願っています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「お墓の上の列聖式」

お墓の上の列聖式

主任司祭 晴佐久 昌英

 午前2時に起きて、午前3時にホテル出発。
 ヨハネ・パウロ2世教皇の列聖式に参列するために、巡礼団はまだ暗い道を歩き出しました。バチカン近くのホテルをいち早く押さえた巡礼団としての使命感もあり、異例の早朝出発となりましたが、すでにバチカン近くの道は各国のグループで溢れ、サンピエトロ広場とその前のコンチリアツィオーネ通りは徹夜組でいっぱいでした。
 ぎゅうぎゅう詰めの人込みの中、なんとか遠くに祭壇の見える正面まで進むことができましたが、結局、式が終わるまでの9時間、全く身動きが取れずに立ちっぱなしという、極限体験をしました。満員電車に9時間乗っていると想像してください。80歳を越えた参加者も含め、全員その間トイレにもいかずに過ごしたのです。もっとも、トイレを使わずに済むようにと、みんな起きてから飲まず食わずだったのですが。
 全世界の信者たちがひしめきあう中、押すなとか割り込むなとかの小競り合いはいくつかあったものの、全世界から集まった信者たちが互いに譲り合い、祈り合いながら、家族的な気持ちで集まっている様子は、さすがは列聖式と言うべきでしょう。
 特に聖体拝領の時、ご聖体を持った司祭たちが来る通路付近は大混乱になりましたが、それでもなんとか一人でも多く拝領させてあげようと、互いに協力しあう様子は感動的ですらありました。すでに拝領が終わった人たちが、まだの人の体を支えて持ち上げ、その手を引っ張って司祭のほうに差し出す姿を見た時は、秘跡を信じる仲間たちの熱い思いが胸に迫って、涙が出そうになりました。

 みんな、あの教皇様が大好きだったのです。あの旅する教皇、空飛ぶ秘跡の使徒が。
 私にとってのヨハネ・パウロ2世教皇は、人生において教皇というものを意識した、最初の方です。それまでは教皇なんて、どこか遠くの世界の人で、正直どうでもいい存在でした。しかし、ポーランド出身の若きパパさまは、全世界129か国を飛び回り、人々に福音を語りかけ、日本にまで来て神の愛を証ししたのです。たぶんそのとき、幼児洗礼の私は、教皇というものを始めて意識したと同時に、「カトリック教会」の本質を始めて意識したのだと思います。イエスさまからペトロを頭とする使徒へ受け継がれ、今日のこの私の信仰へと連なる、聖なる普遍教会の本質を、誇りと共に。

 列聖式はそのような思いを新たにするのには格好の場でした。
 なにしろ、第261代教皇ヨハネ23世を列福したのは、第264代教皇ヨハネ・パウロ2世であり、この第264代教皇を列福したのは、第265代教皇ベネディクト16世で、その第265代教皇が共同司式する中で、第266代教皇フランシスコが、第261代と第264代教皇の列聖式を司式しているのです。
 第1代のお墓の上で。

 バチカンは言うまでもなく、歴代の教皇のお墓であり、歴代の教皇の誕生の地でもあります。列聖式の翌々日、そのお墓と、誕生の場を巡礼しました。
 サンピエトロ大聖堂に入ってすぐ、右側のピエタ像の隣の脇祭壇に、聖ヨハネ・パウロ2世教皇の石棺が安置してあります。また、その先、秘跡の小聖堂の先に、聖ヨハネ23世教皇のガラスの棺が安置してあり、ご遺体を見ることができます。その先、教皇祭壇の下が、聖ペトロのお墓です。
 また、裏手からバチカン美術館に入館すると、システィーナ礼拝堂にも入ることができます。言うまでもなく、教皇選挙の行われる、教皇誕生の場です。入って奥の左側、再び美術館へ戻る方の出口の上の壁に、イエスさまが聖ペトロに天国の鍵を渡している絵が描かれています。イエスさまがペトロに「あなたの上に教会を建てる」と宣言している場面です。まさにそのペトロのお墓の上に、サンピエトロ大聖堂が建っているわけですが、歴代の教皇は、選ばれた直後、この絵の下で祈るそうです。絵の中のペトロは、片手で鍵を受け取り、「この私が?」と言うように、もう一方の手を胸に当てています。
 新しい教皇の誕生は、第一代から続いてきた天国の鍵が、また新しい世代へと受け継がれる瞬間でもあるのです。



◆巡礼旅行の画像です。それぞれ、画像をクリックすると、拡大表示されます。◆

列聖式巡礼 列聖式巡礼2


連載コラム:「2年生になりました。この1年を振返って!」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第41回
「2年生になりました。この1年を振返って!」

諏訪・永山地区 山本 博光

 新受洗者の皆さん、おめでとうございます。昨年受洗したばかりの私です。皆様、どうぞ宜しくお願いします。この一年を振り返り、併せて昨年の受洗者文集に載せられなかったこぼれ話をしたいと思います。

 私の受洗のきっかけとなった東京カテドラルでの東日本大震災被災者追悼と復興祈念コンサート。そこでの神秘体験、柔らかいスポットライトのような光を浴びて、何かが「わかった」と思った瞬間を文集に書きました。その後何人かの方から「そんなこと、起きるわけないよ」と言われました。全くです! 私もそう思います。今でもそう思います。
 しかし、身近な人々を通して、疑いようのないものとして、再確認させられる出来事が連続して起こりました。
 追悼コンサートでは「葡萄の枝」のお説教があると事前に聞いて、「不要な枝は火にくべられて、焼かれてしまう話? 追悼なのになんてひどい!」と、怒りを感じていました。でも、中学時代、修道士の先生から頂いた聖書は実家に置きっぱなしで、開くこともなく、記憶違いかもしれないから、じっくり読んでみよう、よし買いに行こうと四谷の書店へ。その時対応して下さったKさんから、「演奏会は、私も行きます。楽しみです。私も関口教会の聖歌隊で歌ってます」、こんな言葉を頂きました。

 ところで、カテドラルには素晴らしいパイプオルガンがあります。しかし大変残念なことに、祭壇に向かって指揮をすると、オルガン奏者からは、背中合わせで指揮棒は全く見えません。このままでは、伴奏には使えません。
 その難問をテレビ局で働く友人が、祭壇前に小型のカメラとオルガン奏者脇にモニター設置し、その間を150メートルのケーブルで見事解決してくれました。勿論無償で。教会関係者でない私、友人、彼の部下が演奏会の前日と当日、誰もいない聖堂に入り作業をするので、教会からFさんが、立会ってくださいました。2日間にわたり大変長い時間、お付合いいただきました。
 演奏会も無事終わり打上げで、Fさんから、「住まいはどこですか?多摩市なら、近くの多摩教会にはハレレと呼ばれている、とても素晴らしい神父様がいる。そこには兄もいますから、是非行ってみて下さい」と多摩教会へ行くことをすすめられました。
 私は、リハーサルに家族で来てくれた中学からの友人が多摩教会にいて、以前、彼に会うために教会のバザーへも、また彼の作曲した聖劇も見に行ったこと、晴佐久神父様にもご挨拶したことがあることを話しました。
 この後、私が一昨年の復活祭に多摩教会を訪れた時に、神父様銀祝のコンサートで一緒に歌うことになるのですが、そのメンバーのお一人Tさんが、Fさんのお兄さんであったとは、後から知って驚きました。しかもKさんは、Fさんの娘さん、つまりはTさんの姪子さんだったとは、さらにその後知って驚き2倍!
 また、友人と私が高校時代に始めた聖歌隊は、今もグリークラブとして活動を続け、昨年春には、私が追悼コンサートで共演した南相馬の合唱団と彼らも共演したとは! 更にこの演奏会ではSさんも、もうひとつの共演合唱団の一員として、一緒だったとは!

 でもなんといっても極めつけは、私自身受洗後一週も欠かさず、御ミサに与れたことです。何をしても長続きしない、この私が、です!
 私の場合、神父様のおっしゃる「信者の意地」そんなカッコいいものではありません。日曜日しか休みのない私は、身も心もボロボロで、マリア様に一週間無事過ごせたことを感謝し、御ミサの最後の言葉「行きましょう、主の平安のうちに!」を聞いて、これから一週間をやっていく、自信と元気を頂いて聖堂をあとにします。毎週「おすがり」しているだけなのです。
 なのに、聖書朗読も答唱詩篇も数回、やらせていただきました。しかもこの復活徹夜祭には代親、連願の詠唱というご褒美まで頂いてしまいました!
 希望してから受洗するまでの37年間を、一気に埋めんばかりのとても濃い、充実した、大きな喜びに満ちたこの一年でした。

 多摩教会、そこは兄弟達が集まるオアシスであることは勿論です。私にとってはワンダーランド。否、ミラクルが本当に自分に起きた、そして今も、これからも起こり続けるであろう、まさしく天国の入り口です。

投稿記事:「あかつきの村のリーさんのこと」

「あかつきの村のリーさんのこと」

桜ヶ丘地区 佐倉 リン子

 「あかつきの村の便り」はいつも感動をもって読むのですが、4月20日付けの最新号の1頁目、グエンバン・リーさんの文章には特に強い衝撃を覚えました。これは是非教会の皆様にも読んでもらいたいと思いました。

 4年前、家の中で集めた大型の不要品を取りに来ていただけるか、あかつきの村に電話して、初めてリーさんとお話をしました。
 日本人同士の会話とは違い、リーさんは極度に口数か少なく、ちょっと戸惑いましたが、こちらの意志が通じた感触はありました。ところが、一度目二度目と約束の日時に現れず、夜になってやっとリーさんと連絡が取れて、次のことがわかりました。都内の一カ所で荷物を積み込んでいるうちに、暗くなりそうで、帰り道が長いこともあり、群馬に戻ってしまったということ。都内の交通事情と12月下旬という条件を考えると、全く無理もないことと思われました。

 ベトナムの方はどうやって多摩まで来られるのか、私は少なからず心配しました。1丁目のTさんも不用になったが、まだ充分使える物を沢山玄関内に寄せて、待ってくださいました。このままお正月を迎えるのかと思っている時、リーさんから電話があり、「今日は多摩を目標とするので、昼過ぎには来られる」とのこと。約束の時間を過ぎてから電話が鳴り、「今、佐倉さんの家の前にいる。30分前からいるのだが、誰もいない」とのこと。今いる場所の番地を教えてもらい、I さんのお宅の前にいることがわかりました。I さん家は2丁目、私の家は3丁目だが、続く番地が同じで、道はカーブしているが、1分もかからない近さです。こんな複雑なことわかってもらえるかしらと思いながら、外に飛び出して行くと、左手のカーブから幽霊のような大型ダンプがゆらりと現れました。手作りと思われる「あかつきの村」の文字が幽霊の額の部分に大きく張り付けてあります。
 リーさんは中年の体格の良い方でした。手伝いもなく独りで荷物を積み込み、時間がないと、用意したおやつも辞退され、大急ぎで1丁目のTさん宅に、私が先導して行きました。同じようにてきぱきと落ち着き払って、荷物を積み込み、帰路に着かれました。薄暮の行幸橋を左に折れ、甲州街道に向かって、高い運転席から「もう大丈夫」と言うように、ちょっと合図をして去って行かれました。

 ベトナムを脱出して40年近く、あかつきの村の創始者・石川 能也神父の熱き思いを受け継いで、生きてきたその原点を今この「お便り」の文章に見ています。
 その文章に心を揺さぶられた私は、次の日奇しくも主日のミサで晴佐久神父の説教の中心が「熱き心」であったので、このリーさんの文章を多くの方に読んでいただきたいと思いました。

easterlinelong

「あかつき」

 夜、暗い内に国を脱出する計画は2回とも失敗しました。3回目は日が出るころ、あかつきの明かりの中、脱出することを計画しました。そして、あかつき「RANG DONG」のころ(一晩緊張して働いていた公安たちが寝るころ)、脱出に成功しました。

 小舟は段々と広い海へ進み、国を後にしました。船に乗る予定の人数がオーバーし、一時混乱状態となり、その間、船のエンジンも止まってしまい、何度も修理をしました。修理はうまくいきましたが、高い波にもまれ、ほとんどの皆が船酔いに苦しみました。
 船は公海に入り、安定した速度で到着予定地へ向かっていたと思うと、翌日は突然高波になって、皆また船酔いになり、またしても船のエンジンが止まってしまいました。いくら直しても直らず、高波で船が不安定なため、海水が大雨のように船の中に入ってきてしまい、とても危険な状態になり、船が海水でいっぱいならない様にするので精一杯でした。
 エンジンなしの小舟は海に流され、どこに行くのでしょうか・・・? すべて神様に任せて、昼も夜も絶えず祈り続けました。

 夜の海は真っ暗で、誰もが恐怖に襲われ、何一つ安心できることはありません。海はとても静かだと思うと、突然に怒るような高波になり、小舟を地獄の底に投げ込むような恐ろしい姿になります。小舟に乗った時に、それぞれが自分の命をかける覚悟は持っていたのでしょうが、それでも責任者として、自分以外の88人と、お母さんの体内に居る3人の赤ん坊の命に対して、重い責任を感じていたので、14回目のあかつきを迎えた15日目の午後の奇跡のような出来ことに、その責任から解放され、感謝の気持で一杯になりました。
祈りの声は、天に届いたのです。

 その日、海は非常に静かで何か奇跡が起こるのを待っているような感じでした。
 小舟の左側からノックの様な音が聞こえ、船に上がって見てみると、大きな一匹のウミガメが現われたのです。そして何回もノックの音が続き、一人の若い者が手を出すと、簡単にウミガメを船の中に入れることができました。10日間くらい食べ物がなかったので、皆の意見でウミガメのお肉を皆に配って食べ、皆元気になり、若い者たちは、静かな海に飛び込んで体を綺麗にしたりしました。
 その直後に、大きな船が私たちを助けてくれました。その船の船長の話しによると、その夜は大型台風が来ていて、一歩遅かったら私たちの命はなかっただろうということでした。私にとって、暗い海で14回あかつき「RANG DÔNG」を待ち望んだ思いは、一生忘れられません。

 その後、日本に入国できて、石川神父様と出会って、あかつきの村に入ったときは、楽園に入る様に感じられました、なぜなら暗い海で「あかつき」「RANG DÔNG」を待ち望んだ後、「あかつきの村」の「あかつき」をみることができたからです。

 今でも、色んな原因で難民になる人々の数は少なくありません。彼らは、どんな「あかつき」を見ることができるのでしょうか?神様に、彼らを助けてくださいと祈るしか方法がないかもしれません。
 「見よ、きょうだいがともにすわっている、なんというめぐみ、なんというよろこび」(塩田泉神父作曲)
 いつまでも、あかつきの村が明るい「あかつき」であることを深く望んでいます。

easterlinelong

(広報注記:文章は原文のままで複製しました。)