連載コラム:「2年生になりました。この1年を振返って!」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第41回
「2年生になりました。この1年を振返って!」

諏訪・永山地区 山本 博光

 新受洗者の皆さん、おめでとうございます。昨年受洗したばかりの私です。皆様、どうぞ宜しくお願いします。この一年を振り返り、併せて昨年の受洗者文集に載せられなかったこぼれ話をしたいと思います。

 私の受洗のきっかけとなった東京カテドラルでの東日本大震災被災者追悼と復興祈念コンサート。そこでの神秘体験、柔らかいスポットライトのような光を浴びて、何かが「わかった」と思った瞬間を文集に書きました。その後何人かの方から「そんなこと、起きるわけないよ」と言われました。全くです! 私もそう思います。今でもそう思います。
 しかし、身近な人々を通して、疑いようのないものとして、再確認させられる出来事が連続して起こりました。
 追悼コンサートでは「葡萄の枝」のお説教があると事前に聞いて、「不要な枝は火にくべられて、焼かれてしまう話? 追悼なのになんてひどい!」と、怒りを感じていました。でも、中学時代、修道士の先生から頂いた聖書は実家に置きっぱなしで、開くこともなく、記憶違いかもしれないから、じっくり読んでみよう、よし買いに行こうと四谷の書店へ。その時対応して下さったKさんから、「演奏会は、私も行きます。楽しみです。私も関口教会の聖歌隊で歌ってます」、こんな言葉を頂きました。

 ところで、カテドラルには素晴らしいパイプオルガンがあります。しかし大変残念なことに、祭壇に向かって指揮をすると、オルガン奏者からは、背中合わせで指揮棒は全く見えません。このままでは、伴奏には使えません。
 その難問をテレビ局で働く友人が、祭壇前に小型のカメラとオルガン奏者脇にモニター設置し、その間を150メートルのケーブルで見事解決してくれました。勿論無償で。教会関係者でない私、友人、彼の部下が演奏会の前日と当日、誰もいない聖堂に入り作業をするので、教会からFさんが、立会ってくださいました。2日間にわたり大変長い時間、お付合いいただきました。
 演奏会も無事終わり打上げで、Fさんから、「住まいはどこですか?多摩市なら、近くの多摩教会にはハレレと呼ばれている、とても素晴らしい神父様がいる。そこには兄もいますから、是非行ってみて下さい」と多摩教会へ行くことをすすめられました。
 私は、リハーサルに家族で来てくれた中学からの友人が多摩教会にいて、以前、彼に会うために教会のバザーへも、また彼の作曲した聖劇も見に行ったこと、晴佐久神父様にもご挨拶したことがあることを話しました。
 この後、私が一昨年の復活祭に多摩教会を訪れた時に、神父様銀祝のコンサートで一緒に歌うことになるのですが、そのメンバーのお一人Tさんが、Fさんのお兄さんであったとは、後から知って驚きました。しかもKさんは、Fさんの娘さん、つまりはTさんの姪子さんだったとは、さらにその後知って驚き2倍!
 また、友人と私が高校時代に始めた聖歌隊は、今もグリークラブとして活動を続け、昨年春には、私が追悼コンサートで共演した南相馬の合唱団と彼らも共演したとは! 更にこの演奏会ではSさんも、もうひとつの共演合唱団の一員として、一緒だったとは!

 でもなんといっても極めつけは、私自身受洗後一週も欠かさず、御ミサに与れたことです。何をしても長続きしない、この私が、です!
 私の場合、神父様のおっしゃる「信者の意地」そんなカッコいいものではありません。日曜日しか休みのない私は、身も心もボロボロで、マリア様に一週間無事過ごせたことを感謝し、御ミサの最後の言葉「行きましょう、主の平安のうちに!」を聞いて、これから一週間をやっていく、自信と元気を頂いて聖堂をあとにします。毎週「おすがり」しているだけなのです。
 なのに、聖書朗読も答唱詩篇も数回、やらせていただきました。しかもこの復活徹夜祭には代親、連願の詠唱というご褒美まで頂いてしまいました!
 希望してから受洗するまでの37年間を、一気に埋めんばかりのとても濃い、充実した、大きな喜びに満ちたこの一年でした。

 多摩教会、そこは兄弟達が集まるオアシスであることは勿論です。私にとってはワンダーランド。否、ミラクルが本当に自分に起きた、そして今も、これからも起こり続けるであろう、まさしく天国の入り口です。

投稿記事:「あかつきの村のリーさんのこと」

「あかつきの村のリーさんのこと」

桜ヶ丘地区 佐倉 リン子

 「あかつきの村の便り」はいつも感動をもって読むのですが、4月20日付けの最新号の1頁目、グエンバン・リーさんの文章には特に強い衝撃を覚えました。これは是非教会の皆様にも読んでもらいたいと思いました。

 4年前、家の中で集めた大型の不要品を取りに来ていただけるか、あかつきの村に電話して、初めてリーさんとお話をしました。
 日本人同士の会話とは違い、リーさんは極度に口数か少なく、ちょっと戸惑いましたが、こちらの意志が通じた感触はありました。ところが、一度目二度目と約束の日時に現れず、夜になってやっとリーさんと連絡が取れて、次のことがわかりました。都内の一カ所で荷物を積み込んでいるうちに、暗くなりそうで、帰り道が長いこともあり、群馬に戻ってしまったということ。都内の交通事情と12月下旬という条件を考えると、全く無理もないことと思われました。

 ベトナムの方はどうやって多摩まで来られるのか、私は少なからず心配しました。1丁目のTさんも不用になったが、まだ充分使える物を沢山玄関内に寄せて、待ってくださいました。このままお正月を迎えるのかと思っている時、リーさんから電話があり、「今日は多摩を目標とするので、昼過ぎには来られる」とのこと。約束の時間を過ぎてから電話が鳴り、「今、佐倉さんの家の前にいる。30分前からいるのだが、誰もいない」とのこと。今いる場所の番地を教えてもらい、I さんのお宅の前にいることがわかりました。I さん家は2丁目、私の家は3丁目だが、続く番地が同じで、道はカーブしているが、1分もかからない近さです。こんな複雑なことわかってもらえるかしらと思いながら、外に飛び出して行くと、左手のカーブから幽霊のような大型ダンプがゆらりと現れました。手作りと思われる「あかつきの村」の文字が幽霊の額の部分に大きく張り付けてあります。
 リーさんは中年の体格の良い方でした。手伝いもなく独りで荷物を積み込み、時間がないと、用意したおやつも辞退され、大急ぎで1丁目のTさん宅に、私が先導して行きました。同じようにてきぱきと落ち着き払って、荷物を積み込み、帰路に着かれました。薄暮の行幸橋を左に折れ、甲州街道に向かって、高い運転席から「もう大丈夫」と言うように、ちょっと合図をして去って行かれました。

 ベトナムを脱出して40年近く、あかつきの村の創始者・石川 能也神父の熱き思いを受け継いで、生きてきたその原点を今この「お便り」の文章に見ています。
 その文章に心を揺さぶられた私は、次の日奇しくも主日のミサで晴佐久神父の説教の中心が「熱き心」であったので、このリーさんの文章を多くの方に読んでいただきたいと思いました。

easterlinelong

「あかつき」

 夜、暗い内に国を脱出する計画は2回とも失敗しました。3回目は日が出るころ、あかつきの明かりの中、脱出することを計画しました。そして、あかつき「RANG DONG」のころ(一晩緊張して働いていた公安たちが寝るころ)、脱出に成功しました。

 小舟は段々と広い海へ進み、国を後にしました。船に乗る予定の人数がオーバーし、一時混乱状態となり、その間、船のエンジンも止まってしまい、何度も修理をしました。修理はうまくいきましたが、高い波にもまれ、ほとんどの皆が船酔いに苦しみました。
 船は公海に入り、安定した速度で到着予定地へ向かっていたと思うと、翌日は突然高波になって、皆また船酔いになり、またしても船のエンジンが止まってしまいました。いくら直しても直らず、高波で船が不安定なため、海水が大雨のように船の中に入ってきてしまい、とても危険な状態になり、船が海水でいっぱいならない様にするので精一杯でした。
 エンジンなしの小舟は海に流され、どこに行くのでしょうか・・・? すべて神様に任せて、昼も夜も絶えず祈り続けました。

 夜の海は真っ暗で、誰もが恐怖に襲われ、何一つ安心できることはありません。海はとても静かだと思うと、突然に怒るような高波になり、小舟を地獄の底に投げ込むような恐ろしい姿になります。小舟に乗った時に、それぞれが自分の命をかける覚悟は持っていたのでしょうが、それでも責任者として、自分以外の88人と、お母さんの体内に居る3人の赤ん坊の命に対して、重い責任を感じていたので、14回目のあかつきを迎えた15日目の午後の奇跡のような出来ことに、その責任から解放され、感謝の気持で一杯になりました。
祈りの声は、天に届いたのです。

 その日、海は非常に静かで何か奇跡が起こるのを待っているような感じでした。
 小舟の左側からノックの様な音が聞こえ、船に上がって見てみると、大きな一匹のウミガメが現われたのです。そして何回もノックの音が続き、一人の若い者が手を出すと、簡単にウミガメを船の中に入れることができました。10日間くらい食べ物がなかったので、皆の意見でウミガメのお肉を皆に配って食べ、皆元気になり、若い者たちは、静かな海に飛び込んで体を綺麗にしたりしました。
 その直後に、大きな船が私たちを助けてくれました。その船の船長の話しによると、その夜は大型台風が来ていて、一歩遅かったら私たちの命はなかっただろうということでした。私にとって、暗い海で14回あかつき「RANG DÔNG」を待ち望んだ思いは、一生忘れられません。

 その後、日本に入国できて、石川神父様と出会って、あかつきの村に入ったときは、楽園に入る様に感じられました、なぜなら暗い海で「あかつき」「RANG DÔNG」を待ち望んだ後、「あかつきの村」の「あかつき」をみることができたからです。

 今でも、色んな原因で難民になる人々の数は少なくありません。彼らは、どんな「あかつき」を見ることができるのでしょうか?神様に、彼らを助けてくださいと祈るしか方法がないかもしれません。
 「見よ、きょうだいがともにすわっている、なんというめぐみ、なんというよろこび」(塩田泉神父作曲)
 いつまでも、あかつきの村が明るい「あかつき」であることを深く望んでいます。

easterlinelong

(広報注記:文章は原文のままで複製しました。)

「初金家族の会」5月例会報告

「初金家族の会」5月例会報告

担当: 志賀 晴児

 5月2日初金のごミサでは、教皇ヨハネ23世とヨハネ・パウロ2世の列聖式参列の旅から元気に戻られた晴佐久神父様が、「サンピエトロ広場とその周辺に世界中から集まった何十万もの人たちが、一斉に聖体拝領をする姿に感動しました」と話されました。

 引き続きの家族の会、今回は、総合商社で長年海外勤務をされ、工場や大学キャンパスなど 大型の国家プロジェクト建設事業などに携わってこられた中嶋 誠さんの体験談でした。
 中南米、ヨーロッパ、アフリカ諸国など、70か国、100都市での駐在体験から、高速道で車が横転、かすり傷ひとつ負わず命拾いをしたこと、言葉がうまく通じないで気まずい思いをしたこと、「青信号は赤だと思うべし」という国があること、《聖霊》が働いたのではと思うほど突然、人物画を書くようになったというご自身のことなどのお話でした。
 「ウソのよう なホントの話」のタイトルそのままの珍談奇談を伺いながら、「グローバルに活躍された企業戦士」のご苦労や悩みのほどをお察ししました。
 中島さんは、去る3月19日、復活の聖なる徹夜祭ミサ中に多摩教会で受洗されました。

 次回、6月6日(金)には、信徒の小林寛嗣さんにマザー・テレサゆかりの地、インドを旅された時のご体験を伺う予定です。
 初金家族の会ではお昼前の1時間、お茶を飲みながら盛りだくさんの話題と出会うことができます。どなたもどうぞご自由に、気軽にご参加ください。こんな楽しい話がありますよという方、係までお知らせください。

巻頭言:司牧評議会委員長 塚本 清「復活祭に思う」

復活祭に思う

司牧評議会委員長 塚本 清

 今回は、晴佐久神父様が巡礼旅行にお出かけのため、代わりに私がこのページを担当することになりました。

 今年も復活祭を迎えました。主のご復活おめでとうございます。そして、今回洗礼を受けられた39名の方々、おめでとうございます。
 復活の主日の前の主の晩餐夕べのミサ(4月17日木曜)、主の受難(18日金曜)、復活の聖なる徹夜祭(19日土曜)では、いつものミサとは異なる典礼が行われました。ここでは私が特に印象に残ったところをお話ししたいと思います。

 主の晩餐夕べのミサでは、司式司祭が会衆の中の12人の男性の足を洗う洗足式が行われました。これは言うまでもなくキリストが最後の晩餐で行ったことの再現ですが、自分の足を司祭に洗ってもらうなどふだんなら考えられないことだと思います。なお、この洗足式ですが、私は多摩教会に来る前には見たことがなく、初めて見たときに驚いたことを覚えています。

 また、主の受難の祭儀では、祭壇上のすべてのものを取り除き、キリストの受難の朗読や十字架の礼拝が行われました。キリストの受難と死とを思い起こすためです。とても厳粛な儀式だと思いました。

 そして、復活の聖なる徹夜祭では、復活ろうそくによる光の祭儀に始まり、ことばの典礼を経てから、この日まで準備をしてきた志願者に対して洗礼と堅信の秘跡が授けられ、感謝の典礼が行われました。この日はキリストの復活を祝い、私たちも新しいいのちに生きる決意をする日です。洗礼式のはじめに歌われる「諸聖人の連願」は諸聖人の取り次ぎを願うものですが、重厚でとてもいい祈りだと思います。叙階式のときカテドラルで歌うのもいいものです。
 これらは、すべてその日にふさわしい典礼であり、キリストの死と復活を思うのに最も適した祭儀であるのではないかと思います。

 そして、復活の主日のミサでは、復活と関連のある聖書の箇所が読まれ、復活を祝う歌が多く歌われますが、私はここでは続唱が印象に残りました。第2朗読のあとに復活の続唱が歌われますが、この続唱は復活の主日と、任意ですが復活節第2主日(神のいつくしみの主日)にも歌われます。主の復活をたたえる歌で、少し長い歌ですが、歌詞の意味をかみしめながら歌いたいと思いました。続唱とはアレルヤ唱へと続く歌という意味で、以前は多くあったようですが、第2バチカン公会議で復活と聖霊の2つの続唱以外は任意になったようです。1年の中で復活の続唱が歌えるのは、この時期だけです。復活の喜びをこめて歌いたいと思いました。

 このように主の晩餐夕べのミサから復活の主日までは、この期間にだけ行われる典礼が数多くあります。このほかにも復活祭には、卵が新しい生命のシンボルとして登場します。復活の主日のミサの最後に神父様が卵の祝福をなさったことは皆さんもご存知でしょう。

 年に一度の復活祭は私たちにとって大きな喜びです。それはキリストの復活を祝う喜びと洗礼により新しいいのちをいただいた方々を教会にお迎えすることのできる喜びなのです。このたび洗礼を受けられた方々、ようこそおいでくださいました多摩教会へ。

連載コラム:「気づかないとき、神様は常に私のそばにおられた」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第40回
「気づかないとき、神様は常に私のそばにおられた」

南大沢地区 ウェケ・マイナ・アーネスト

 皆さん、こんにちは。多摩カトリックニューズに書くのは初めてなので、この場を借りて自己紹介と感謝するエピソードを短くご紹介したいと思います。
 私は1967年にケニアの首都ナイロビで生まれました。両親は熱心なカトリック信者で、私は生まれてから1カ月も経たないうちに幼児洗礼を受けました。しかし、それは面白い方法でした。生まれた時の名前をそのまま洗礼名にするというやり方でした。今思えば名前変更の登録の手間を省こうという両親の狙いがあったのかもしれません。
 小学生の頃は、毎週日曜日に母親と兄弟たちで教会に行きました。家から教会までは歩いて15分ほどでした。近所の子供たちは教会学校でシスターたちからカテキズムを学びました。ミサが終わると男の子たちはサッカーで遊びました。サッカーの他には音楽のバンドもありましたが、私は参加しませんでした。多摩教会のようにお菓子はもらえませんでしたが、小学校時代の教会は非常に楽しかったです。

 カトリック信者としてこれまでで一番嬉しかった思い出のひとつは、1980年にありました。教皇になって3年目のヨハネ・パウロ二世が私の故郷ナイロビに来られたときのことです。
 当時、中学1年生だった私に夢にも思わないことが起きました。教皇のミサに参加することができたのです。とはいえ、それはナイロビ中心部にある「ウフルパーク」という名前の大きな公園でのミサでした。恐らく10万人以上の信者がミサに与ったのではと思います。当時、大きな野外用モニターは普及しておらず、祭壇から遠く離れたところにいた私にはパパ様の顔をはっきり見ることはできませんでした。たまたま横に座っていた人が双眼鏡を持っていて、それを貸してくれたので、パパ様の顔が「手に触れるほどに」非常に真近に見えたことをはっきり覚えています。教皇の御ミサに与ったのはこの1回のみでしたが、ヨハネ・パウロ二世はその後も1985年と1993年にナイロビを訪問されました。

 恐らく、初めて信仰について深く考えさせられたのは、「オプス・デイ」と呼ばれるカトリック組織が運営しているカトリック高校に進学した時でした。その学校ではカトリック信者の生徒たちのために毎日、ミサがありました。そして学期の初めには2泊3日の黙想会がありました。告解も1週間で何回もできたので大変充実した信仰生活でした。
 ケニアの大学では、学生カトリックのサークルに入りました。そこで友達を集めて聖書朗読会をつくりました。毎週金曜日の午後8時に集まり、聖書を読むことにしました。朗読会を3年間行い、その中で何度も聖書に書かれている文章の美しさに感動しました。

 日本に来てから独身だった頃は都心の教会に通っていました。
 カトリック信者は少ないだろうといわれていたので、カトリックの友達(女性に!)に出会うことは諦めていました。しかし、そこで「普遍的な神様」が現れて、私の考えが間違っていることを示されました。そう、日本でカトリック信徒の女性(妻の暁子)と知り合ったのです。結婚式はカトリック目黒教会で行い、2人の娘に恵まれました。

 目黒教会から多摩教会に転入したのは2000年のことでした。それから14年間、教会学校をはじめ、いろいろなかたちで私たち家族は多摩カトリック教会の皆さんに大変お世話になっています。
 そして喜ばしいことは、主任司祭である晴佐久師の下で福音に目覚める新しいたくさんの仲間が増えていることです。そして、教会は楽しく賑やかになってきました。私にとって、多摩教会は心のオアシスであり、神様の恵みを共有する場所です。その仲間が増えてきたのは大変嬉しいことです。
 個人的な活動は何もしていませんが、これからも皆さんと一緒に神様に祈りを続けたいと思います。

「あなたは必ず救われる」-晴佐久神父、東京新聞・中日新聞に寄稿(「宗教の普遍性」)

晴佐久神父
東京新聞・中日新聞に寄稿
「あなたは必ず救われる」
-「宗教の普遍性」(上)・(下)-

 晴佐久昌英神父の寄稿文、「『宗教の普遍性』(上)=すべての人は救われる、分け隔てなく愛す」が、3月15日(土)付の東京新聞および中日新聞に、また「『宗教の普遍性』(下)=すべての人を救う宗教、共感、共生する道へ」が3月22日(土)付の同紙にそれぞれ掲載されました。

 晴佐久神父の説教を掲載するホームページ「福音の村」で、東京新聞を発行する中日新聞社の許可を得て、転載しております。

 以下、それぞれのタイトルをクリックしていただくと、「福音の村」内の該当ページにジャンプします。
ぜひご一読ください。

(PDFファイルでご覧になれない方は、JPEGファイルでご覧ください。)

※「宗教の普遍性」(上)- 「すべての人は救われる:分け隔てなく愛す
  
〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
   
(中日新聞・東京新聞 2014年3月15日付)

※「宗教の普遍性」(下)- 「すべての人を救う宗教:共感、共生する道へ
  
〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
   
(中日新聞・東京新聞 2014年3月22日付)

 
 

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「喜びの四旬節」

喜びの四旬節

主任司祭 晴佐久 昌英

 教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」の冒頭部分(6)に、次のようなユニークな表現があって、思わずニヤリとしてしまいました。
 「復活祭なしで四旬節の節制をするように振舞うキリスト者がいます」。
 確かに、復活祭なしの四旬節ほど滑稽なものはありません。四旬節はあくまでも復活祭の準備期間なのであって、復活の喜びへの希望に支えられて過ごす、恵みの時だからです。
 しかし、実際には、救いの喜びを知らずに暗い顔で信仰生活を送る人が少なからずいるのが事実です。自らの罪を呪い、自らの滅びを恐れ、自らを責め続ける人たちです。それにはそれぞれのつらい事情があってのことでしょうから、一概に本人のせいだとも言えませんが、仮にも洗礼の秘跡を授かったものとして、まずは復活という栄光の輝きをしっかり見つめて、キリスト者においてはすでに復活が始まっているのだという、誇りと喜びを取り戻してほしいのです。
 フランシスコ教皇は、続けて次のように言っています。
 「もちろん、深刻な困難のために悲しみに落ち込む人々がいることを私は理解しています。しかし、たとえ最悪の心配ごとを抱えていても、心に秘められた確かな自信として、ほんの少しずつでもいいから、信仰の喜びを目覚め始めさせなければなりません」
 四旬節は、信仰の喜びに目覚め、福音の喜びを再発見するときなのです。

 「復活祭なしの四旬節」のようなキリスト者は、おそらくは「復活祭なしの四旬節」のような教会によって育てられたのでしょう。復活の喜びよりも十字架の苦しみに焦点を合わせ、復活による救いよりも罪と裁きを強調する教会です。
 まさにそのような罪と裁きの律法主義の桎梏から、すべての人類を解放したのが主キリストの死と復活であったはずです。そうして「もはや死は滅ぼされた、我々は罪も死も恐れない、まことに主は復活された、アレルヤ!」というのがキリスト教の出発点であったはずなのに、いつのまにか、罪に苦しみ、裁きを恐れる旧約時代に逆戻り、というような教えや信仰が存在するのはどうしたことでしょうか。
 理由はただ一つ、本当の意味で、主の復活を信じていないからです。
 復活の主を信じ、復活の主と共にいる人が、それほどまでに罪を強調するはずはありません。逆に言えば、復活の主に出会った喜びを知らない人ほど、罪を強調するのです。
 まずは、「主は復活した」という福音の原点を、信じてください。
 弟子たちの証言を、教会の生きた証しを、ミサにおける主の現存を、信じてください。
 復活の主に出会った人、その証言を信じた信者たちは、一つになってすべてのものを共有し、「喜び」と真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたと使徒言行録にあります。(2・44‐47参照)
 そのような喜びと一致があったからこそ、信者たちは「民衆全体から好意を寄せられ」たのであり、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」のです。

 2014年の四旬節が始まりました。復活の喜びを新たにする、恵みのときです。
 四旬節第一主日の洗礼志願式では、38名の求道者が洗礼志願者となりました。まさに主は、「救われる人々を日々仲間に加え一つにされ」ています。カトリック多摩教会は、初代教会のような喜びに満たされている教会なのです。それはすなわち、主の復活を信じる仲間たちの教会である、ということです。そうでなければ、だれが仲間に加わりたいと思うでしょうか。
 洗礼はイエスの死と復活に与かることであり、やがて天に召されるときの真の復活の先取りでもあります。その意味では、人生は、天における復活祭を準備する四旬節、それも喜びの四旬節なのです。真の復活祭を待ち望みつつ、生涯キリスト者として、使徒言行録のペトロのように喜びと情熱をもって、主の復活を宣言していきましょう。
 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは今、このことを見聞きしているのです」(使徒言行録2・32‐33)

連載コラム:「6日+23時間はこの1時間のために」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第39回
「6日+23時間はこの1時間のために」

諏訪・永山地区 浜野 美穂

 皆さん、こんにちは。私は2010年4月4日に多摩教会で洗礼を授かりました。私たちが「晴佐久1期生」と呼ばれていることをあとで知りました。受洗までの道のりは感想文集に書きましたのでここでは述べませんが、とにかく「導かれた」としか言いようのない不思議な経過でした。偶然に見える出来事の偶然に見える積み重ね……しかしそれこそ神さまの計らい、必然だったのだと感じています。
 受洗してからもうすぐ4年になります。人間の恋愛モードは脳内ホルモンの分泌の仕組みにより3年が限度だそうですが、幸いに信仰の喜びはますます新鮮です。人生の半ばを過ぎて初めて出会ったカトリック、まだまだ知らないことばかりで、受洗後も入門講座に出続けています。できる時には真生会館の森司教さまの講座に出たり、いろいろな修道会の黙想会に参加したりしています。ご縁があってカトリック学校で2年間働くことができたのは人生の大切な思い出となるでしょう。

 以前の私も含めて多くの日本人は「特定の宗教に入ること」イコール「それ以外の宗教を否定すること」と思い込んでいて、だから家に仏壇がありお寺にお墓があり、初詣に神社に行き受験の時はお守りをいただき、結婚式は教会で……という生活を「クリスチャンになったら、すべて改めなければいけない。けれどそれはできない」と思いながら、何となく続けているのではないでしょうか。
 しかし洗礼とは、そのように服を脱いだり着たりするような生活様式のことではなく、自分の存在そのものの本質に気づくことだ、というのが私の実感です。神は愛であり、私は神に愛されてこの世に生まれ、「今日この時も生かされている」と知って感じる時に、心から喜びが湧いてきます。40代後半で私がやっと出会ったイエスさまの眼差しは、12年の長血を患ってイエスさまの服に触れた女性を見つめた、その愛の眼差しでした。そして神さまが私たちに望んでおられるのは「互いに愛しあいなさい」ということです。細かいことはどうでもよくなってきます。

 ミサに出始めた頃、晴佐久神父さまが「1週間の6日と23時間は、このミサの1時間のためにある」と仰ったのを聞き、さすがにそれはちょっとオーバーな表現ではないかと感じたことを覚えています。
 神父さまは最近のミサでもそう仰います。しかし今の私は「そうそう、そのとおり」と思って聞いています。これは私の信仰が成長した証しでしょうか?入門講座とミサというオアシスで、たくさんの恵みの水をいただいて、日々を支えられている私です。
 しかしそれに終わらず、私につながる多くの方を、もっとこのオアシスへいざないたいと思います。
 以下はある方がくださった言葉です。「あなたに会えて人生が好転したという人が現れたら、それは話を聞いてあげたからでも、良い言葉のアドバイスからでもなく、誰がそれを言ってくれたかなのです。あなたの人格に触れるからなのです」。
 もちろん、私の人格など欠点と弱点でいっぱいですが、私という一人の人間を通して、少しでもオアシスの風と香りを運ぶことができればうれしいな、と思っています。