12/23(火・祝)「祈りと聖劇の夕べ」

2014年版聖劇チラシna05_b1カトリック多摩教会では、
今年もクリスマスのちょっと前、
キャンドルサービスや、教会学校の子どもたちを中心に
「聖劇」を行います。
主任司祭、晴佐久神父の原作、
演出は大石まこと氏、音楽は小俣浩之氏が担当し、
教会の子どもも大人も参加して、
さらに、さらにのパワーアップ!
ミュージカル仕立ての、とっても楽しい、心あたたまる劇です。
ご家族おそろいで、お友だちと、そして、おひとりでも、
どうぞお気軽にお越しください。
お待ちしております。
(上のチラシはクリックすると大きく表示されます)na05_b1<多摩教会への交通アクセス>
(クリックすると、大きく表示されます)
もう少し詳しくは →こちらをご覧ください

永山駅バス停は「6番のりば」です
お車でのご来場はご遠慮ください
na05_b1場所・主催: カトリック多摩教会

住所: 東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2
<鎌倉街道・馬引沢橋(まひきざわばし)そば>

電話: 042-374-8668

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 「三ツ星」の教会をめざして

「三ツ星」の教会をめざして

主任司祭 晴佐久 昌英

  「最近、知らない人が増えた」
 多摩教会内で、そんな声を耳にすることが多くなりました。
 いいことです。そうでなければなりません。集まっている人が全員知り合いであるような教会に、未来はないからです。
 元気な教会であれば、当然のごとく、「知らない人」が多くやってきます。
 「よさそうなところだな」と興味を持って訪れた近所の人、「あそこがいいよ」と紹介されて訪ねてきた人、インターネットで調べて「ここならば」と期待して通い始めた人。
 受洗者や転会者、転入者も、数が増えればその中に知らない人も出てきますし、旅行中に立ち寄った信者さんや、一度は多摩教会を見学したいといって遠方からはるばる来られた方も、毎週必ずおられます。
 ただ、「最近、『知らない人が増えた』と言うだけで何もしない人が増えた」ということがあってはなりません。「知らない人」に声をかけてお迎えし、「知ってる人」にすることこそ、キリスト者の務めでしょう。この世に教会ほど素晴らしい出会いに恵まれた集いはないのですから、知らない人を見かけたら、これこそ神さまが出会わせてくださった特別な人だと信じて真っ先に声をかけるのは、義務というより特権ではないでしょうか。

 そもそも、だれもが最初は、互いに「知らない人」であったはず。
 思い出してください、多摩教会に初めて来たときのことを。知っている人が誰もいない中へ、小さな期待と大きな不安を持って足を踏み入れたのではなかったでしょうか。幼児洗礼の人も含め、だれかから最初に声をかけられ、だれかを最初に覚えたからこそ、お互いに「知ってる人」になってきたはずです。
 ところが、ひとたび「知ってる人同士」になると、悲しいかな、人はあっという間にそれに慣れ親しんで、知らない人のことを考えなくなります。確かに、知らない人に話しかけるのは勇気がいりますし、知らない人と交わるのは緊張を強いられますから、できれば知ってる人と安心して気楽に過ごしたいというのは、ある程度は理解できます。
 しかし、そうして「安心して気楽に過ごす」のは、教会の本来の姿ではありません。
 教皇フランシスコは、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、こう書いています。
 「わたしは、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです」
 実際、多くの教会が安全地帯に閉じこもって新しい人を招く工夫をせず、だれでも受け入れようとする気持ちがないために、「見知らぬ人がだれもいない教会」になっているのは事実です。そういう教会は、いわば、こんな看板を掲げているようなものです。
 「当教会は、仲のいい会員制クラブです。現会員の邪魔になる方や、安定した現状に変化をもたらす方は入会をお断りします。まずは、当教会暗黙のルールをお学びください」
 これを見て入ってくる人が、いるでしょうか。

 このたび、ミサの前後に訪問者をご案内する、「案内係」が誕生しました。もちろん今までも、総務の担当者を始め数名の有志が奉仕しておりましたが、あまりにも「知らない人」が増えてきたということで、チームとして本格的に対応することにしたものです。
 入門係が中心になって、聖堂入口付近に腕章をつけて立ち、これはと思う方を見つけて声をかけ、お世話をいたします。その際、初めて来られた方には、「ミサ後の軽食無料サービス券」をお渡しすることにいたしました。ミサの後もぜひ残っていただき、食事を共にして親交を温め、互いに「知ってる人」になるためのものです。
 このサービス券は、運用を開始したその日からさっそく効果を発揮して、岡山から来られた方が一緒に食事をし、案内されて午後の入門講座にも出席して、参加者に「こんなに親切に迎えてくださって、うわさ通りの教会で感動しました」と話してくださいました。
 こうなったら、日本一のおもてなし教会をめざそうではありませんか。それこそ、ミシュランの「教会部門」でもできたら、真っ先に三つ星を頂ける日を夢見ていいんじゃないですか。教会のおもてなしは、神のおもてなしの目に見えるしるしなのですから。

連載コラム:「最期のプレゼント」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第48回
最期のプレゼント

南大沢地区 波多野 直子

  洗礼を受けて初めてのクリスマス。わが家にとっては母兄父の洗礼25周年のクリスマスでもあります。まさにワクワク待っている待降節第3主日。
 そんな今わたしは、伊豆で泳いできたお魚と旬の素材、おもてなし相手を思いながら、「右近の列福を願う茶事」の水屋を終えて、ひと休み。10月、「高山右近の列福祈願公式巡礼ツアー」で出逢った方々が再び集い、お濃茶でより結びつきを深める静かな時を感じつつ、書いています。
 人との出逢いに恵まれて生きてきました。父を早く亡くしたこと以外にこの降り積もるお恵みの要因はないように思います。
 天に帰った父が、天の住人同士で神さまに取り次ぎ、地上のものを結びつけてくれていると。今わたしが多摩教会にいることが何よりその証しと捉えています。神さまの近くで、神さまとともにこちらを見ていてくれる天の援軍を何よりの宝物と受けとめて欲しい。ワタシさえ気づけば、亡くしたその人は永遠に生きていることを伝える役目かと。わたしも伝えられ、守られてきたので、失敗続きの奮闘中です。

 25年前のクリスマス。父は洗礼式へと、ある教会のお御堂へ続く外スロープを兄に支えられながら上っていました。病身ながら教会へ行って、受けたいと。小学校からの親友である神父さまが手招きする扉へ。お御堂の中では、主任神父さまが、今ここに洗礼を受けるために向かっている方がいらっしゃいます。皆さんで待ちましょう、とお迎えくださったと聞き及びました。
 その3カ月後、お御堂の暖められた小聖堂に残された家族三人。安心して眠りに落ちた暖かい空気を今でも肌に感じられます。「病院の床で寝ていらしたなら、ここでも大丈夫でしょう」との神父さまからのうれしいお申し出。お御堂に立っていて、ふと気づくと神父さまが横に立っていらして。「…ピアノ…弾いていいですか?」「いいですよ。」
 バッハの平均律第一番アヴェ・マリアの旋律を父へはなむけることができました。
 遠くの親戚が帰ったあとも、うちに最後まで残ってくださったのは二人の神父さまでした。
 「何かあったら、この人たちに会いに行けばいい」と思えるだけで、その後の多難もあらたまって会いに行くこともなく過ごせました。支えとなってくれるそういう存在がアルと知っているだけで、大概のことはクリアできます。

 ご絵にのせるため用意してくださったふたつの言葉からひとつを選びました。
 「なすべきことはただひとつ…」〈フィリピ 3-13〜14〉
 後半の賞を得るためにという箇所はよくわからないし、賞なんかいらないけど、わたしたちはまだ若いから前を向いていたい、と選んだみ言葉ひとつで25年。
 昨日のごミサでもうひとつの「いつも喜んでいなさい」を聞き、ごミサは訪れたもの一人ひとりに、その時その時に響くみ言葉のオアシスであり、福音のあふれだすオアシスであると実感し、幸せでした。
 ただただ、そこにいるだけで。生で。ともに集う人の中で。
 全ての人の心の平安につながる暖かな空気を身にまとって、心のオアシスをなくした人のもとへ一歩だけでも近づき、「こんにちは」と結ばれたい。
 涸れない水をいただいたものは、オアシスの場所を知っている。今、星の見えない人をいざなう小さな満天の星のひとつになるべく、後ろのものを忘れ、前に向かってただひたすら走るのみ、あまねく全ては神さまのご計画のうち。イエス様を近づけてくださった神父さまに感謝。

「初金家族の会」からのお知らせ

「初金家族の会」からのお知らせ

担当: 志賀 晴児

 待降節第一金曜日の12月5日、この日のごミサで晴佐久神父様はマタイによる福音から、「私に出来ると信じるのか」と問われて、「ハイ、主よ」とお答えした二人の目の不自由な人のように、本気で向かいあい、本気度を確かめておられる神様に対して、私たちも本気で「はい、主よ」と真面目にお答えしましょうと説かれました。

 続いての家族の会、今回は聖堂で、信徒の小俣 亜里さんがビオラ、波多野 直子さんが電子ピアノでクリスマスソングやアヴェマリアを演奏してくださり、目の前で聴くプロの奏でる美しい調べに一同耳を傾けました。

 1月は初金のごミサはお休みで、家族の会も休会。次回は2月6日の初金ごミサのあと茶話会を予定しています。
 「みんなちがって、みんないい」 楽しい初金家族の会に、どうぞお気軽にご参加ください。通常、月の第一金曜日、ごミサのあとお昼までの1時間です。

2014年「多摩カトリックニューズ」バックナンバー

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2014年


12月号

(No.496)

2014.12.20

「三ツ星」の教会をめざして晴佐久 昌英 神父
最期のプレゼント南大沢地区
波多野 直子
「初金家族の会」からのお知らせ


11月号

(No.495)

2014.11.22

たすき君と、哲学者晴佐久 昌英 神父
教会はイエス様の体、教会の母は聖母マリア、教会は私たちのオアシス諏訪・永山・聖ヶ丘地区
中嶋 誠
「初金家族の会」からのお知らせ


10月号

(No.494)

2014.10.25

暗闇の聖人晴佐久 昌英 神父
星に導かれた羊飼い関戸・一ノ宮・府中・日野・野猿地区 
原田 聖子
「初金家族の会」からのお知らせ


9月号

(No.493)

2014.9.20

乞田川散歩晴佐久 昌英 神父
荒れ野のオアシスにたどりついて稲城・川崎地区
岡田 恵子
武蔵野ダルク 渡邉 肇さんの講演会報告塚本 清
「初金家族の会」からのお知らせ


8月号

(No.492)

2014.8.23

ここヤシ キャンプ晴佐久 昌英 神父
心のオアシス稲城・川崎地区
酒井 眞知子
教会学校の合宿に参加して塚本 清
「初金家族の会」からのお知らせ


7月号

(No.491)

2014.7.19

さかさま社会晴佐久 昌英 神父
「マルタ、マルタ」と主は呼んでくださった貝取・豊ヶ丘地区
山藤 ふみ
「初金家族の会」:7月例会報告


6月号

(No.490)

2014.6.14

おうちミサ晴佐久 昌英 神父
私のオアシス諏訪・永山地区
小川 紀子
「初金家族の会」:6月例会報告


5月号

(No.489)

2014.5.24

お墓の上の列聖式 晴佐久 昌英 神父
2年生になりました。この1年を振返って!諏訪・永山地区
山本 博光
あかつきの村のリーさんのこと桜ヶ丘地区
佐倉リン子
「初金家族の会」:5月例会報告


4月号

(No.488)

2014.4.26

復活祭に思う司牧評議会委員長 塚本 清
気づかないとき、神様は常に私のそばにおられた南大沢地区
ウェケ・マイナ・アーネスト
「初金家族の会」:4月例会報告


3月号

(No.487)

2014.3.15

喜びの四旬節晴佐久 昌英 神父
6日+23時間はこの1時間のために諏訪・永山地区
浜野 美穂
「初金家族の会」:3月例会報告


2月号

(No.486)

2014.2.22

純白の鎮静剤晴佐久 昌英 神父
音楽と私 -音楽から授かる恵み-諏訪・永山地区
佐々木 邦雄
「初金家族の会」:2月例会報告


1月号

(No.485)

2014.1.18

霊的炎の発火点となりますように!晴佐久 昌英 神父
侍者席から見えるオアシス南大沢・堀之内地区
平井 達彦
「初金家族の会」からのお知らせ

帰るべき場所(受洗者記念文集)

高山 光輝(仮名)

 愛人の子として生まれました。
 父の奥さんに母と自分の存在が知れ、無言電話が絶え間なくかかってきました。父の奥さんがアパートに押しかけてきました。母と父との間の口論が絶えず、母は情緒不安定になりました。その場しのぎの嘘の上塗りを重ねる父が汚らわしく思えました。
 中学校に入ると突然、人の目が恐くなり、自分の視線も制御できなくなり(目玉が自分の意に反して勝手に動き、人をジロリと見る感じになってしまう)、クラスメートから「ストレンジャー(変人)」と呼ばれ、電車では他校の生徒にも「変な奴」とからかわれ、まさに生き地獄の日々が続きました。
 就職すると、極度の対人緊張ですぐに疲労困憊(こんぱい)になってしまい、休職・退職・転職を繰り返すしかありませんでした。馬鹿正直で大人のコミュニケーションの取り方がよくわからず、職場でもプライベートでも孤立していきました。本当は寂しがり屋で人との繋がりを人一倍求めているのに。何度も自分を変えようと試みましたが失敗し、自己否定へと追い詰められていきました。苦しみから逃れたいあまり、大量服薬による自殺未遂を繰り返しました。
 父は奥さんに出て行かれ一人暮らしをしていましたが、両足に痛みを感じるのに病院に行くことを拒み、不審に思って父の部屋を尋ねると、健康保険に加入していないことが判明。それは、雪だるま式に膨らみ続ける借金があり、健康保険料を払っていないためであることが分かりました。父の借金を整理するための法的手続を取り、父に下肢静脈瘤の手術を受けさせました。そのような状況にも関わらず、父はさらに他の女性に毎月何万円ものお金を渡し続けていることが発覚。父に問うと、酒をあおってこちらに向き合おうとしない。気がつくと、僕は父のウイスキーグラスを奪って父の頭に叩きつけていました。血が流れ落ちました。
 僕と母は、父と別れて生きていったほうが、心の安定のためには望ましかったのかも知れません。しかし不安定な僕は自分だけで精いっぱいで、母を死ぬまで養っていける自信がなく、母のことを考えると、年金収入のある父を頼ってしまいました。父をあてにしているにもかかわらず、母と僕は、父のことを忌み嫌っていました。母は、安定して働けない僕に対して「お前はあの親父と一緒だ」と責めました。互いに相いれない母と父の血を引く自分の身を真っ二つに切り裂きたい、何度もそう思いました。

 ある自助グループで複数のカトリック信者と知り合ったことを契機として多摩教会を訪れました。入門講座では、神父さまや入門係の皆さん、先輩信者の方々にいつも優しく迎えていただき、心が少し温かくなりました。しかし、他の方が救われたというような神秘的体験を聞いても、「地の救い」を一向に感じられない自分とのギャップを痛感するばかりで、教会からの帰り道で落ち込むことも何度もありました。ただ、神父さまは本気で語っているとしか思えませんでした。「神はあなたを愛している」と神父さまが本気でおっしゃるならば、もう少し話を聞いてみようかな・・・、そのような感じで、半年間入門講座に通い続けました。
 神父さまは「あなたと友達になりたい」と言ってくださいました。うれしかったです。神様を実感できないことを率直に話したところ、神父さまは「仮にあなたが信じないと言ったとしても、私はあなたに洗礼を授けます。・・・なぜだか分かりますか?・・・それがあなたに必要なものだからです!」ときっぱりおっしゃいました。
 洗礼志願書を提出し、許可証にサインを受けたものの、中途半端な信仰心で洗礼を受けてよいものか悩み、またこんな自分が教会の皆さんと馴染めるのかについても不安になり、聖木曜日に教会に向かう道のりでは、洗礼の辞退も考えていました。しかし、教会に着くと、神父さまが笑顔で話しかけてくださり、辞退の言葉は口から出さずに終わりました。復活徹夜祭ミサを迎えました。額に受けるたっぷりの洗礼水に愛を感じました。教会のたくさんの方々が祝ってくださいました。ありがたく思いました。

 洗礼の恵みを受け、教会家族に加わることができ、うれしく思います。受洗の数日後、そばにいた方の携帯の着メロが鳴りました。笛の音で静かに奏でられるアメイジング・グレイスでした。心の中で歌詞を口ずさみました。「驚くべき恵み なんて甘い響きなのだろう それは私のような哀れな人間を救ってくれた かつてはさまよっていたけれど、もう神様が見つけてくださった 神様の愛が見えなかったけれど、今は見える」という内容です。これ、今の自分のことなのかも? そう思いしみじみ。
 洗礼志願書のコピーを読み返すと、「人と分かり合える喜びを味わえるようになりたい」と書いてあります。不器用で自己表現が苦手な自分は、よく誤解もされますし、人と通じ合うのに人一倍時間がかかると思いますが、教会の皆さんと仲良くなれたなら、本当にうれしく思います。そして、一歩ずつでも神様との絆を深め、神様の愛を感じ、御心により自分を通じて他の人にも愛を分け与えられるようになりますように。
 時間をかけてじっくり向き合ってくださった晴佐久神父さま、ありがとうございました。いつも温かく接してくださった入門係の皆さん、代父のYさん、入門講座同期の皆さん、そして教会の皆さん、ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。
 多摩教会に導いてくださった、皆さんと出会わせてくださった、神に感謝!

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「たすき君と、哲学者」

たすき君と、哲学者

主任司祭 晴佐久 昌英

 ふと街角で見かけた、まったく見知らぬ人のことが、なぜかいつまでも心に残っていることってありませんか。
 たとえば、あれは確かまだ神学生のころ、羽田空港からモノレールで浜松町に向かう途中、窓の外をぼんやり見ていた時のこと。倉庫街の殺風景なビルの裏手の、錆びた鉄製の非常階段の途中に、作業着を着た中年男性がポツンと腰かけて、遠くの空を眺めている姿が見えました。
 (どんな暮らしをしているんだろう。何を考えているんだろう。これからどんな人生を歩んでいくんだろう・・・)
ほんの数秒見かけただけですし、普通に考えたら何の関係もない人にすぎませんが、そのときはなぜか、いろいろと想像してしまったのです。
 (たとえ一瞬でも、こうして見かけて、気に留めてしまったからには、何かの縁があるはずだ。もしかしたら、神さまが用意してくれた大切な出会いかもしれない・・・)
 そんな思いにさえなって、以来、その時の光景が、ふとした折に甦るのでした。
 (あの作業服の人、どうしているだろう。ただの通りすがりの人として、二度と会えないなんて、なんだかさみしいな)というような、ちょっと切ない気持ちと共に。

 聖書を読んでいると、イエスと関わって救われる多くの人が、「通りすがりの人」であることに気づかされます。
 イエスが旅に疲れて井戸のそばに座っているところへ、たまたま水をくみに来たサマリアの女。イエスが町の門に近づいたとき、ちょうど一人息子を亡くして泣いていたナインのやもめ。イエスが町を通っていたとき、イエスを見ようとして木に登っていたエリコのザアカイ。そもそも、ペトロもヨハネも、最初は、イエスが「湖のほとりを歩いておられたとき」に声をかけられたのでした。
 イエスは、「たまたま」、「目の前にいる」、「救いを求めている人」を救います。
 それこそが、キリスト教の、最も基本的なあり方なのです。
 神の摂理のうちにあっては、この世に無縁な人など一人もいないのであり、たとえ「通りすがり」であったとしても、出会った人はだれでも「神の結んだ家族」だと信じて関わっていくことこそが、神の国を作っていく最高の道なのです。

 かつて、多摩修道院での早朝ミサに車で向かう途中、必ず見かける青年がいました。修道院近くの交差点で信号待ちをしているとき、毎朝、6時13分きっかりに目の前の横断歩道を渡って行くのです。いつも大きな肩掛けカバンをたすきにかけていたので、勝手に「たすき君」と名付け、毎朝会うのを楽しみにしていました。
 たすき君が前を通るとき、車の中で勝手に話しかけます。
 「たすき君、おはよう! どうしたの、この暑いのにマスクなんかして。夏風邪でもひいた? 無理しないで休みなよ」
 「お、新しいダウンジャケットだね。似合うよ。寒いねえ、今度、教会に飲みにおいでよ。ナベでもつつきましょう」
 四季折々に話しかけているうちに、一方的に親近感も増し、いつしか、たすき君を教会に誘うチャンスはないものかと、本気で考え始めていました。
 ところが、あの3・11の日以来、たすき君は、ぱったりと姿を見せなくなってしまったのです。放射能が怖くて関西に引っ越してしまったのか、親が心配で東北の実家に帰ったのか。なんにせよ、ついに声をかけることもできないまま、二度と会えない人になってしまい、小さな後悔だけが残りました。
 神が出会わせてくれた人。
 勇気を持って関わることで始まる神の国。

 あれから3年たち、最近、同じく6時13分に目の前を渡って行く、二代目たすき君とでもいうべき60代?の男性が現れました。白髪交じりの紳士で、いつも空を眺めたり、花に見入ったり、落ち葉を拾って物思いにふけったりする様子がなんともユニークで、勝手に「哲学者」と名付けて、車の中で話しかけています。
 「何をお探しですか? お望みなら、福音についてお話ししましょうか?」
 神が出会わせてくれた人。
 今度は、後悔したくありません。

連載コラム:教会はイエス様の体、教会の母は聖母マリア、教会は私たちのオアシス

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第47回
教会はイエス様の体、教会の母は聖母マリア、教会は私たちのオアシス

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 中嶋 誠

 来年の3月17日は、日本カトリック史上の奇跡とまで言われた、あの浦上の老婦人、杉本百合が、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と大浦天主堂のプチジャン神父にささやいた信徒発見から150年を迎えます。詳しいことは知りませんが、さまざまな記念行事が行われるものと思われます。フランシスコ教皇もこの機に訪日して、いただきたいと祈念しているところです。

 私は、今年4月に洗礼を授かりました。一昨年の11月と今年の6月と、受洗の前後2回、この信徒発見の地、長崎を訪れました。初めは外海と五島列島、2回目は生月島と平戸島を訪れました。この10数年、私は、日記帳の余白に、目にした興味ある人物やそのしぐさ等を描き、またスケッチブックに、旅で巡り合い感じ入った風景や物を描き、評を加えては絵日記としてきました。この「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の旅では、禁制の高札撤去後にパリ外国宣教会神父の手で建てられた教会、そして踏絵などのキリシタン迫害の遺品、生月島の隠れキリシタンの「お掛け絵」などをスケッチし、他の旅では持ち得ない歴史感と殉教したキリシタンに対する同情の念を持つことになりました。
 二度の旅では、主に教会を、ガイドの方からその歴史について案内してもらった上で、スケッチをする対象を定めて描き、後で色付けをしました。この中で、皆さんにご紹介したいのが、下のスケッチです。平戸島の山野教会の玄関口に貼られていた小学生が描いた聖家族と聖母子の絵。そして掃除が行き届いたお御堂内の棚にきちんと並べられた典礼聖歌集です。

 この山野教会は、江戸幕末の時代に、迫害から逃れるため、長崎外海から五島列島に移住したものの、安住の地は見つけられず、平戸島に移り住み着いた人たちの子孫の教会です。明治35年に仮教会が建てられ、現在の教会は大正13年に建てられたものを、15年ほど前に改築したものとのことです。
 車で訪問した6月6日、その朝は霧に包まれていました。周りもよく見えない、誰ともすれ違うこともない山道を登ったところに、やっと広い畑が見えました。そして霧の向こうに突然教会が現れました。この村落は20戸余り、村民すべてが同じ苗字だと聞きました。教会の前に立った私は、この村民の祖先が経験した苦難と教会設立、献堂の強い念を、一部なりとも感じ取ることができました。
 教会内部に入ると、絵と典礼聖歌集が目に入り、村民の教会を大切にする思いが胸に沁みてきました。典礼聖歌集には、一冊一冊、村民が真心を込めて丁寧に作ったと分かる布のカバーが掛かっています。子供が描いた聖家族、聖母子の絵とこのカバーが「教会はイエス様の体、教会の母は聖母マリア、教会はオアシス」と言っているように、私には聞こえました。

平戸の山野教会
平戸の山野教会

50冊の典礼聖歌集には手作りのカバーが
50冊の典礼聖歌集には手作りのカバーが

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