天野 はるみ(仮名)
「あなたは羨ましいほど復活を信じられているのに、そんなことも知らないのね」と母に言われます。なんにも知らないので、吸い取り紙のように楽しんでいます。
「聖霊降臨は教会の誕生日だよ」と去年の入門講座で初めて知りました。
入門講座は天国です。まだまだ足りないお勉強中の身。
身近に起こる小さなお恵みが山のようにあり過ぎて、ご復活節の間中、喜びを噛み締めていました。寛容なキリスト者の集まりに感謝ばかりです。
今年の聖霊降臨はすごい一日でした。土曜の入門講座の始まりに、パパ様からのお手紙を神父様が読んでくださった。なんとも幸せなお手紙に頭がぴりぴりしました。カトリック教会とひとつになった者にとって、とってもわかりやすい素晴らしい誕生日プレゼントです。
世紀の瞬間? まさに平和の始まりになるやも知れぬ大きな祈りの輪に、今度はわたしも加わっている♪ 平和を願い祈る人が心をひとつにする。その手紙の「善意の人」に向けられている言葉の素敵さに、入門講座できいた素敵すぎるカトリックを思い起こしました。教会の外もカトリック。カトリックなキリスト者がひとりいれば、どんなつらく、ひどいと思われることをも、どんな絶体絶命の最悪としか思えないときをも、神さまに「よろしうに」と人事を尽くし天命を待つ。そこはもうパラダイスのはじまりにできる真逆スイッチなひとりひとり。
25年前、父の病室のテレビでベルリンの壁が崩されているのを遠いどこかのできごとと見ていたことを思い出します。同じ頃、やはり世の平和を願いつつも、身近なわたしの父のため家族のために何度も何度もごミサで祈ってくださった、たくさんの修道会のシスターや、たくさんの教会の方々の祈りがありました。「会ったことも見たこともない人が、自分のために祈ってくださっていた」その祈りの御礼に父も洗礼を受けました。
今度はわたしが、会ったこともない見ず知らずの今苦しむ人へ。愛する人たちのために祈る。そして身近な人の今耐え忍んでいる苦しみを、それがあったからこその越えた先の幸せを心から祈ることができる。越えさせてもらったからこそ祈りたい。洗礼によりパンにより、今得たココに集められた祈りあえる仲間の後ろ盾のなんと心強いことか。過去の祈りの感謝をも天から祈ってくれている感謝をも、今の祈りに溶けこませることのできる幸せ、そして、確かに祈られていると信じられる幸せをひしひしと感じています。
父なき後、復活の意味をわからせてくださったのは、「お墓の神父さま」でした。回を重ねた慰霊のごミサで、「わかった!」の瞬間がありました。父がいるのを感じて生きてこれた。「お墓の神父さま」が、わが家の教会の神父様となられ、「いきましょう」と力強く言われるミサの終わりに、また、「わかった!」の瞬間がありました。
ココに集まっているひとたちはいい話をきき、自分も癒され、いたらぬところも認め清められ、このいい話を心に持って強められ世の中をよくするために、この言葉をひろめるために、毎週ここに集まって派遣されているのか?! と納得しました。
それでも、洗礼は誰か大切な人の大変なときのために受けるものと思っていたわたしにとって、時はまだでした。
「初めての教会で願い事が三つかなう」というジンクスを母に聞いたことを思い出し、(近くの教会へ祈りにいこう。「多摩教会」ってあった!)と地図で探してやってきた御ミサで、「いきましょう」を聞き、(・・・あれ?!・・・こんな神父さまだったっけ・・・)と思いつつ、(二つの「わかった」を御ミサでわからせてくださった晴佐久神父様ならば入門講座に出てみよ♪)と。「ミサに出てるだけじゃね。仲間をね」と洗礼に導いてくださいました。洗礼を受けたらその言葉がよくわかるようになりました。
パンをいただいてみないとわからない心持ちがあり、いただいてこそわきあがってくる『一緒にいただこ♪』というつながり。
信じる人にとってのパンの凄さを目の当たりにしてきたけれど、自分の事になるとギリギリまで「パンがわからない」と言っている私に、神さまは私が信じる大切なヒトたちを通して何度も教えて下さいました。
初聖体でパンをいただいた小さな友達に「どうなるの?」と教えてもらい。受洗前に出かけた黙想会では「食べなさい」という声がきこえたというお話をきき。パンを大切にするヒトたちの揺るぎない姿をもって。
まだわからないわたしでも、自分のことはどうでもいいかになってしまうわたしでも、大切なヒトたちの大切を大切にまっすぐ受け止めたいという思いにこたえ「お食べ」と言ってくださる。
四半世紀の間ごミサで祝福されつづけ、心地好いぬるま湯にふやかされ続け、既に教会に受け入れられている家族である感覚の中、それだけで十二分にありがたく満足しそれ以上を求めたことのないわたしにも、「いいから早くお食べ」と神さまはおっしゃってくださる。
いただきま〜すと分け与えられるこの喜びを、ぜひご一緒にと申し上げたい。
まだパンをいただくだけで精いっぱいですが、「十字架あっての復活」、「なにも恐れなくてよい」というバージョンアップされ強められた復活信仰が、なにより嬉しく感謝しています。
パンはひとつ。教会はひとつ。なすべきことはただひとつ。みんなひとつ。
今の気持ちを忘れずに一日一日新たにいつも喜んでいたいと思います。
神父様の目のキラキラをみんなにわけてあげたい。目下の小さな目標です。