早稲田大学非常勤司祭
主任司祭 晴佐久 昌英
気がつけば、もう7年間も早稲田大学の非常勤講師をしています。
これまでも純心女子大学や、立教大学などで講義をしたことはありますが、天下の早稲田大学から、「世界の宗教」という教養課程の輪講で「キリスト教」を担当してほしいという依頼があった時は、驚きました。それが、理工学部からの依頼だったからです。
早稲田の理工学部といえば、まさに科学者、技術者のエリート養成機関です。おそらくは宗教を「非科学的」で「反知性的」な営みであると思い込んでいるであろう学生たちを前に、果たして晴佐久神父の取り柄である、直球の福音宣言はどう受け取られるだろうかと、正直言って怯む思いがありました
しかし、講義を始めてみてすぐに、そのような躊躇は全く無意味であったことを知りました。理系の学生であるにもかかわらず、いやたぶん、理系の学生だからこそ、理性的かつ誠実に「神」について考えていることが分かったからです。何系であれ、およそ二十歳前後の青年たちが最も知りたいことといえば、この世の本質についてです。
「宇宙はなぜ存在しているのか」
「人間が生きる意味は何か」
「科学の意義とは何か」
「神は存在するか」
そのような問いについて、講義で一つひとつ答えて行きます。
「宇宙は神の望みによって誕生し、神の愛の現れる場として存在する」
「人間は神の子として誕生し、神に愛されるために生きている」
「科学の意義は、神の愛の業に協力することにある」
「宇宙があり、人間が生き、科学が進歩することはすべて、神の存在を証ししている」
みんな目を輝かせて聞いていますし、中には涙を流す学生もいます。リアクションペーパーには、「この講義に出会えただけでも、ここに来てよかったと思います」とか、「自分が実は有神論者であったことに気づきました」などという感想が多く寄せられます。
実をいうと、科学と宗教は本来、非常に親和性の強い営みです。どちらも、普遍主義こそがその本質だからです。
科学は、徹底した普遍主義です。いつでもどこでもだれでもが同じ実験結果を得られるのでなければ、真に科学的とは言えません。ある人がいくら「ナントカ細胞はあります」と主張しても、みんながそれを確かめられなければ真理とは言えませんし、人類の役には立たず、単なる独りよがりの原理主義とみなされてしまいます。
宗教も、徹底した普遍主義でなければなりません。いつでもどこでもだれにでも通用する教えでなければ、真に宗教的とは言えません。ある人がいくら「この教えこそが真実です」と主張しても、みんながそれによって救われるのでなければ真理とは言えませんし、人類の役には立たず、かえって争いを生み出す原理主義になってしまいます。
徹底して全人類の共通善に奉仕し、究極の普遍主義を目指し続けるという意味で、科学と宗教は同じ目的を持っていると言っていいかも知れません。かたやそれを真理と呼び、かたやそれを神と呼ぶとしても。
そんな講義を続けて早7年、最近忙しいこともあって、この講義も今年限りにしようと思っていた矢先に、一人の学生が講義の影響を受けて多摩教会に現れ、毎週のミサと入門講座に通うようになり、夏の青年キャンプにまで参加することになりました。7年目にして初めてのことであり、今までの苦労がすべて報われたような思いです。
来年もまた、早稲田大学非常勤司祭として、入門講義を続けることといたしましょう。