「トマスのようですね」(受洗者記念文集)

増田 賢二(仮名)

 去年の復活祭に初めて多摩教会のミサを訪れました。その日が復活の主日であることも知らずに来たのですが、聖堂を埋め尽くす信徒の方々の熱気に圧倒されたことを覚えています。神様は、この教会で豊かな出会いを私に用意してくださいました。晴佐久神父様がおられるからこそ多摩教会に通い始めたのですが、今では、もし神父様が別の教会に移られても、ずっとこの教会に通い続けたいと思うようになりました。本当に神様の働きは計り知れません。

 入門講座の最初の日、これまで理性を頼りとして信仰を顧みて来なかった、と告白したところ、神父様は「トマスのようですね」と仰いました。およそ一年後、最後の入門講座で、どうしてイエス様は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのか、愛する我が子を決して見捨てない父なる神の御心をイエス様は揺るぎなく信じておられたはずなのに、と質問しましたところ、神父様は「人間側の考えだけで頭がいっぱいになっているから理解できないのです」と仰いました。そう言われても、引っかかるものは引っかかります。要するに、まだまだ私は入門講座を卒業してはいけない、ということなのでしょう。

 そんな私ですが、神様は一人ひとりにそれぞれ果たすべき役割に必要なだけの力をきちんと用意してくださったのだから、与えられた以上の力が自分にないからといって、悩んだり恐れたりしなくても良い、そのことだけは信じられるようになりました。心が焦りにとらわれそうになるときは、すべて御心のままに、と思えるようになりました。それまでの気負いがすっと抜けていくようでした。

 教会に妻や娘を連れて通い始めた頃、私は、彼女たちの足となって奉仕しているような気分でいました。しかし、いまはむしろ逆に、そのようにして教会に導かれたのは私の方なのだと知っています。大学院時代の留学先で親しくなった友人夫妻が敬虔なカトリック信者であることも、幼い日に母が買い与えてくれた『聖書物語』を読んだことまでも、何もかもが、気の遠くなるほど長い道程で、神様がここへ呼んでくださったのだ、と感じています。息子が「いまはいい」と言って一緒に受洗しなかったのは残念ですが、そのことにもきっと何か素晴らしい神様のご計画があるのだろう、とわくわくしています。

 ところで、洗礼式のとき、不思議な体験をしました。水をかけられる直前までは、確かに昇天するイエス様がもっと斜め前方に傾いて、まるで十字架から離れたばかりのようにおられたはずなのに、タオルで顔をふいて、眼鏡をかけ直してみると、十字架と並行に、まっすぐ天をめざして昇っておられるのです。それまで曇っていた私の眼が、洗礼の水とともに清められ、それまでの歪みが正されたのでしょうか。信仰の光と理性の光をともに与えてくださる神様を信頼して、まっすぐ生きていきなさい、と言われた気がしました。

神様に近づきたい(受洗者記念文集)

松嶋 信夫(仮名)

 私は2001年2月に最愛の母を肝細胞がんで亡くしました。当時、大学一年生であった私は悲しんでいる暇もなく、昼は大学の附属図書館で働き、夜は大学の講義を受け、何とか4年間で卒業しました。しかし、当時は就職氷河期で、就職もできずに大学を卒業しました。何か仕事をしなきゃと思っていた時に、大学の先輩が保育士を目指しているのを聞き、子ども相手の仕事も楽しそうと思い、都内の保育園でアルバイトを始めました。
 その直後すぐに、神奈川県内の公立小学校での障がいをもったお子さんの指導の仕事が入り、がんばって勤めました。平日の日中は、小学校の指導員として働き、夕方から深夜までは、スーパーの品出しとレジのアルバイト、土曜日は都内の保育園の一日保育のアルバイト、日曜はまた、スーパーでアルバイトをして生計を立てていました。

 その頃から、体調に不調を感じ、近所の総合病院の精神科を受診したら、うつ状態ですねと医師の言葉がありました。その日から、何種類もの抗うつ薬、安定剤、睡眠薬を処方され、いわれるままに服用していましたが、何週間、何カ月たてども、症状が良くなりませんでした。
 母を亡くし、天涯孤独になったさびしさ、仕事の大変さ、唯一の親類であった叔父からの暴力と、私なりに大変きつい思いをしました。こんな人生だったら、いっそのこと生きるのをやめようと思い、何度も救急車で大学病院の救命救急センターに運ばれたことを覚えています。警察署に通報され、パトカーに乗せられて、神奈川県横浜市港南区にある県立精神医療センターに連れていかれ、医療保護入院(私の場合は横浜市長の同意のもと)も経験し、テレビも新聞も何もない部屋に鍵をかけられて入院しました。

 退院後、小学校の子どもたちの多くがかけよってきて、「死んじゃうんじゃないかと思った」と言いながら、涙目で近寄ってきてくれました。この頃から、いのちとは何か? 人生どのように生きるべきかを問うため、近所の教会に定期的に足を運びました。毎週ではなくても、ときどきは礼拝(プロテスタント教会なので)にも出ましたし、バザーなどではボランティアもしました。
 もっともっと神様に近づきたい、祈りを深いものとし、信仰を深めたいと思った私は牧師先生に受洗のお願いをしました。しかし、精神的な病をもっており、毎週の礼拝に出席が必ずしもできない私には、受洗の許可がおりませんでした。
 何年も何年も毎年のようにお願いしてきましたが、だめでした。そんな時、友人の神学生さんが多摩教会を紹介してくださり、今年、念願の受洗がかないました。晴佐久神父様をはじめ、受洗に導いてくださった多くの多摩教会の関係者の皆様に深く感謝いたします。今後ともひとつよろしくお願いいたします。

あたたかなまなざし(受洗者記念文集)

筒井 旬(仮名)

 無事、洗礼の恵みをいただき、ほっとしています。
洗礼を受けて劇的に変わったことはありませんが、これから信仰生活を送る中で、日々祈り、愛のある人になっていきたいという希望の光が心を照らしています。

 私が教会に通うようになったきっかけは、20代の終わりに経験した病気によって生じた心の変化によります。当時の私は、不安や恐れを抱きながらも平静を装い、早く病気を治して元に戻らなければという焦燥に駆られ、無理して頑張りすぎたのだと思いますが、次第に心を失っているように感じていました。心配をかけた両親に対してもずいぶんと横柄な態度をとり、自分の思いやりのなさに自分も傷つきました。
 こんなことではいけない、思いやりのあるやさしい人になりたいと思い、そうなるための心の拠り所を求めました。そんな時に、以前ミサで聴いた神父様の説教を思い出し、また話が聴きたくて、教会に通うようになりました。
 入門講座に通い、ミサに与り、福音を聴きました。
 やさしい言葉で語られる福音に心が満たされていったように感じます。
 そして、通い始めて半年くらいした時に、神様のあたたかなまなざしを感じる瞬間に出会いました。
 その日は病院の定期検診で、先生に「もう大丈夫ですよ、心配ありません」と言ってもらえた日でした。やっと病気から解放されたと思った時に、神様が「よかったね」とほほえみ、一緒に喜んでくださっているように感じました。
 病院のベッドで一睡もできずにただ天井を眺め、心細さや痛みに一人耐えていた夜も、神様は側にいてくださったのだと気づきました。そして私は神様の呼びかけに素直に返事をすることを決めました。

 ここまで来ることができたのは、たくさんの祈りに支えられていたからです。
 今までのたくさんの出会いに感謝しています。
 皆様、そして晴佐久神父様、ありがとうございます。
 これからは穏やかにゆっくりと祈りとともに生きていきたいと思います。

導かれて(受洗者記念文集)

奥山 美怜(仮名)

 「エクレシア・・・呼ばれた者の集まりへようこそ、と申し上げたい。神さまが、今日ここに私達を集めて下さいました」 母の葬儀ミサからまだ幾日も経たない1月末の夜、初めて参加した入門講座で晴佐久神父様がこう語りはじめられました。

 長い闘病生活を送った母の最期を見守り、私は深い悲しみや寂しさを抱えながらも、それ以上にとても不思議な自分でも止めようのない、強く熱い思いに揺り動かされていました。私にとって決定的に大切な何か・・・。そのことに気付かされ始めていたのです。
 神父様のお話を聞きながら、私が本当に辿り着くべき場所はここだった・・・と静かな感動が押し寄せてきました。本当に大切なもの…でその場所は満ちていたからです。

 子供の頃から読書好きだった私の本棚には、八木重吉、遠藤周作、井上洋治などの本が増え、大学の礼拝堂で過ごす時間もとても好きでした。両親は私が20代の頃からそれぞれ洗礼を受けましたが、私自身はずっと中途半端なまま、自分と神との直接的な出逢いを求め続けていたように思います。
 20代から30代の希望に満ちて人生を切り開く時期に、私は大きな試練を受けました。将来を思い描き歩んで行きたかった道を進むことはできず、この世の思惑や定めに振り回されながら、曲がりくねった長い道を歩きはじめざるを得なくなったのです。でもその道はまた、私が自分自身を見失わないために敢えて自ら選んだ道でもありました。
 様々な思いに苦しみながら一人で未熟な祈りを続けていた私に、今振り返ると神さまはずっと寄り添っていてくださいました。そしていつの間にか、あの日々があったからこそ私が今ここに辿り着くことができ、その時に感じた痛みや苦しみはすべて、神さまの深い摂理の中にある恵みだったのではないかと、感謝のうちに思えるようになっていたのです。心細く悩みながら歩いていた人生の途中で遭遇した出来事や人、言葉は、神さまからのメッセージだったのでは・・・。神のみ旨は、私の願いや想像をはるかに超えた深いものでした。

 母のことを記すのはまだ少し勇気がいることなのですが、難しい病を得て最後には話すこと、食べること、自分の手足を動かすこともできない日々が長く続きました。その母がかろうじて声を出せた頃に、ゆっくりと私に伝えてくれた言葉は、

 「だい・・・じょうぶ」「お・ゆ・だ・ね」だったのです。

 晴佐久神父様の、福音を語られるまっすぐな言葉と祈りに導かれ、私は洗礼を授けていただくことが出来ました。ミサで包み込まれる歌声、合わせる祈りの力の素晴らしさ…その中の一粒になれた今、言葉に表すことのできない静かな安心感に包まれています。
 小さく、謙遜なものとなり、「神さま・・・」と無心に祈ることができますように。
 生まれたばかりの二十六つ子の一人として、皆様に導いていただけますように。
 入門係の皆様、代母のS様、そして晴佐久神父様 本当に有難うございました。

 そして、母に、心から感謝をこめて。

御心を信じて生きる(受洗者記念文集)

越川 麗花(仮名)

 洗礼を授けていただき、ようやく私もクリスチャンの仲間入りができたことを大変幸せに思います。

 20歳の頃、神様を求めカトリックの教会に通い、洗礼を受けるために勉強をしていた私でしたが、復活祭前になり一人で信仰をしていく自信がなくなり、洗礼を受けることを断ってしまったということがありました。その頃は、ミサに与っていても自分の罪の大きさばかりを感じ、神様が私を愛してくださっているということは全く感じられずにいました。自分とは何なのか、何のために生きているのか、どう生きればよいのか、自分の存在価値は……光の見えないトンネルの中にいるようでした。

 そんな私に、転機が訪れたのは、25歳の時でした。何でもない晴れた冬の日に、「今までも大丈夫だったし、これからもずっと大丈夫」という強いメッセージのようなものを感じました。私は、その日を境に神様に生きる希望のスイッチを押してもらったようでした。それまで暗闇のように思っていた日々も、神様の存在を全く感じられないような時も、神様はずっと私を愛してくれ、ずっと見守ってくれていたということに深く感動し、純粋に生きている喜びを感じられるようになりました。何の価値もないように思っていた自分を、神様はずっとずっと愛してくださっていたのだということは、私にとって大きな生きる自信となり、生きる意味を見出すきっかけとなりました。

 その後、教会とは関係ないところで出会った夫は、カトリック信者でした。結婚してからの15年は、8回の引っ越しで、生活に慣れることや子育てに追われ、あっという間に過ぎていきました。そして、昨年の春、夫の仕事の関係で、多摩に引っ越してきました。生活が落ち着いてきた秋頃、美しい景色に度々神様の愛を感じました。今、ここに自分がいることが、完全なる神の導きで、御心そのものであるという感覚があふれてきて、これからの人生を神様に全部委ね生きたいという気持ちが強く湧き出てきました。

 そして、迎えたクリスマス。夫の両親と家族4人で多摩教会のミサに与りました。久しぶりに与るミサに懐かしさと温かさを感じ、愛のあふれる晴佐久神父様のお説教に家族4人が、また来週もミサに与りたいと自然に思いました。今年の1月の半ばより入門講座に出るようになり、洗礼を受けたいという気持ちも芽生えてきました。そこには、自分の意志だけではない、大いなる力が働いていたように思います。

 子どもたちも、日曜学校で、改めてイエス様のことを知るようになり、それぞれに神様の愛を感じ、多くのことを学んでいきました。私も子どもたちも自然にイエス様を信じて生きていきたいと、それぞれに思うようになりました。

 そして、迎えた洗礼式、額に沢山の水を受け、生まれ変わったような清々しい気持ちになりました。ようやく私も神様を信じるものと受け入れられたのだと、本当に嬉しい気持ちでした。これからが、信仰生活のスタートです。いつも、どんな時も神様の愛を信じ、喜び、祈り、感謝して、これからの人生を生きていきたいと思います。

 最後に、力強い福音で私たちを洗礼に導いてくださった晴佐久神父様、洗礼を受けるにあたって優しく背中を押してくれた代母のKさん、信仰をともに深めていける家族、いつも私たち家族のために祈ってくれていた両親、私たちを温かく迎えてくださった多摩教会の皆様、本当にありがとうございました。

 そして、26人、一緒に受洗した良い仲間を与えてくださった神様に、心から感謝します。

2016年 聖週間・復活祭の典礼スケジュール

聖週間復活の主日

祭儀の時間

典礼・行事

受難の主日(枝の主日)

3月19日(土)18:30 ミサ各ミサにて枝の祝福
受難の朗読
3月20日(日)10:00 ミサ

聖木曜日

3月24日(木)19:00 主の晩餐の夕べのミサ/洗足式洗足式

聖金曜日

3月25日(金)19:00 主の受難大斎・小斎

聖土曜日/
復活の主日

3月26日(土)18:30 復活の聖なる徹夜祭洗礼式
3月27日(日)10:00 ミサミサ後パーティー

※参考※
典礼解説 過越の聖なる三日間」(カトリック中央協議会)

聖週間、復活祭は、教会暦の中心でもあります。
どうぞどなたでも、遠慮なくご参加ください。

この期間、教会駐車場は非常に混雑いたします。
お車ではなく、公共輸送機関をご利用ください。

41-001
多摩教会への交通アクセス
もう少し詳しくは →こちらをご覧ください。
教会簡易地図ペイント作成-2015ここナツ用-50041-001
遠方からお越しの方、
お体の具合などで車のご利用をお考えの方は、
以下の近隣駐車場をご利用ください。

(クリックで拡大表示)

場所・主催: カトリック多摩教会

住所: 東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2
<鎌倉街道・馬引沢橋(まひきざわばし)そば>

電話: 042-374-8668

 

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「日本一の教会においでください」

日本一の教会においでください

主任司祭 晴佐久 昌英

 この巻頭言も、晴佐久神父としては最終回ということになりましたので、心置きなく、言いたいことを言わせていただきます。

 多摩教会は、日本一の教会です。まあ、「日本一」は言葉のあやにしても、少なくとも、「今の日本で、特別に聖霊の働きを感じられる教会」であることは、間違いありません。実際に多摩教会に出会って福音に触れ、多摩教会に歓待されて救われた人たちは、それを肌で感じているはずです。中でも、それぞれの闇の中から信仰の光へと導かれ、今年の復活祭に洗礼を受ける人たちは、その聖霊の働きの証し人です。
 その中には、幼いころキリスト教に出会ってから洗礼を求め続けて来たのに、どうしても救いを見出だせずに、長年にわたって苦しんできた人がいます。
 親に嫌われ、学校や職場ではいじめられ、家から一歩も出られずにいた人もいます。
 怪我と病気で苦しみ、激しい痛みのせいで生きる希望を失っていた人もいます。
 大学生の息子に突然先立たれて、絶望の淵をさまよっていた夫婦もいます。
 父親の介護と死をきっかけに、本物の宗教を求め始めた、全盲の男性もいます。
 何度も自殺未遂を繰り返しながら、自分の本当の居場所を求めて、様々なところをさまよい歩いてきた女性もいます。
 精神科の閉鎖病棟の中で多摩教会の信者と出会い、その信者を見舞いに来た神父に招かれて、教会に通いだした青年もいます。
 人生に行き詰って先が見えず、真っ暗な思いで教会を訪ねたのに冷たく対応されて傷つき、やっとの思いで暖かい教会を探し出して来た大学生もいます。
 最愛の夫を亡くしたことをきっかけにして、初めて真剣に自分の生き方を模索して訪ねてきた奥様もいます。
 つい最近、深刻なガンを宣告されて大きなショックを受け、一日も早く救われたいと願って、必死な思いで受洗を希望してこられたご婦人もいます。
 みんな、多摩教会で福音に出会って安心の涙を流し、教会家族に受け入れられてキリストと結ばれ、救いの喜びに目覚めて洗礼の秘跡を願い出た人たちです。
 今年が特別だということではありません。毎年、こうして闇から光へと、大勢の人が招き入れられてきました。今年の受洗者は37名です。晴佐久神父在任の7年間で、多摩教会創設以来の洗礼台帳ナンバーは、419番から721番まで、303人分増えました。

 すべては、聖霊の働きです。聖霊こそは、恐れと無知の闇の中にいる神の子たちをキリストのもとへ導いて、真理を教えてくれるのです。すなわち、この世界が生きるに値すること、この人生は決して無意味ではないこと、この命は死で終わるものではないこと、この私は天の父に、永遠に愛されていることを。
 確かに、世界は苦しみに満ちています。人生は無駄に過ぎていくように思われます。命はあまりに儚く、自分は誰からも見捨てられているように感じることさえあります。病気、障害、虐待、貧困、災害、不和、戦争。この世界を生きるということは、なんと過酷なことでしょう。確かに、この世界は苦難と苦悩に満ち満ちています。
 でも、ご安心ください。この世界には、多摩教会があります。福音を語る多摩教会のキリスト者がいます。福音を語る多摩教会のキリスト者たちという、日本一の教会家族があります。
 たとえ神父が代わっても、多摩教会に働く聖霊は決して変わりません。

 多摩教会の教会家族と共に働いた7年間は、我が司祭生活で、最も恵みに満ちた日々でした。教会家族のみなさんの愛情と忍耐のおかげです。感謝の言葉しかありません。みなさんは、本物の教会家族です。これからも、本当に多くの人を救うことでしょう。
 聖霊に導かれてこの文章を読んでいる、まだ福音を知らない方に、申し上げたい。
あなたは、神の子です。神に愛されています。あなたはもう、天の父の親心によって救われています。安心して信頼して、希望をもって、日本一の多摩教会においでください。

連載コラム:「神父さま、ありがとうございました!」

「荒野のオアシス教会を目指して」

一瞬の勇気で、一生の家族!
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第63回
神父さま、ありがとうございました!

入門係一同

◎ 「目の前にいる苦しんでいる人に福音を届けて救ってあげたい」という晴佐久神父様の優しい熱意は、この7年間、決して弱まることはありませんでした。神父様は目の前にいる人に、ひるむことなく宣言します。「神様はあなたを愛している!」と。神父様のこの優しさと確固たる信仰に引き寄せられるように、苦しんでいる多くの人が入門講座を訪れて、癒され、キリストに出会って、洗礼にまで導かれました。キリストを信じる一人の司祭が、彼の優しい心の「オアシス」から湧き出る“永遠の命に至る水”(ヨハネ4.14)を喜んで与え続ける場・・・。晴佐久神父様の入門講座はそのような場であったと思います。この恵みの場に7年間も置かせて頂けたことこそ、大きな恵みでした!本当にありがとうございました。 (本江 敏子)

◎ 求道者の皆様との素敵な出会いで、私の信仰の何かが大きく変わりました。このお恵みに心から感謝いたします。神父様、7年間有難うございました。 (マリア マグダレナ)

 ◎多摩教会の一歩外に出れば、悩み苦しむ心の内を話せる場所がどこにあるのか。入門係はやっとたどり着いた人に心のこもったお茶でもてなし、隣に寄り添い共に泣き、神に本当に愛されていると気付いた時、人は光輝くように変わる奇跡を神父様を通して体験しました。カトリックの真髄を教えて頂き、神父様に出会えたことに感謝しております。 (井関 起久子)

◎ 晴佐久神父様と出会わなければ、60年経っても神様の愛に気付かずにいたかもしれません。この多摩教会に来たことも、洗礼を受けて間もなく入門係の方のお誘いで入門係としてお手伝いしながら4年間神父様のお話を聞くことができたことも、晴佐久神父様を通して神様の計り知れない愛に感謝しています。ありがとうございました。 (大矢 むつみ)

◎ 毎週金曜日を心待ちに、語られる1時間半もの福音をブログに書くのが生きがいでした♪洗礼に関わるお手伝いを通しての学びは、一生の宝物です。ダメ出し、無茶ぶり、びっくり続きの刺激的な日々のなか、超怖かった神父様が随分平気になり、「恐れるな!」の御言葉を実体験した2年間でした。 (岡田 恵子)

◎ 「金曜入門のお茶入れおばさん」になりたくて毎週、教会にいそいそと通いました。神父様が語る福音に若い人たちと共に笑い感動で胸震わせ、美味しい手作りケーキを頂きながら分かち合いでも沢山の元気を頂きました。晴佐久神父様や皆様に心から感謝です。 (小川 紀子)

◎ 入門係にならなければ出会えなかった、入門者の方々との出会いに感謝します。大きな試練を抱えた人生が、入門者が口を開き、語ることで、そして聴かれることで、神の作品という、尊い物語となってゆく、そのような恵みの場面に、数多く立ち会うことができ、私自身励まされました。 (加藤 幸子)

◎ 日曜日の入門講座は、聖堂入口の行われ、神父様の恵みと、励まし、癒しの福音の話に皆さん、沢山の喜びを頂きました。今年10名の洗礼志願者を導いてくださいました。神父様、七年間の入門講座ありがとうございました。 (木戸口 育子)

◎ 多摩教会に来てすぐに、「やってみない?」とお声がけ頂き、端っこでやらせて頂いた入門係。お客さま気分でなくて家族の一員だから家業をお手伝いし、みんな気持ちを合わせて新しい家族を迎える。晴佐久神父さんは有名人というより心の中では尊敬してるけど熱血お父さん。もっと言葉を鍛えそしてもっと優しい人に、福音を生きて語れる人になりますから見守っていてください。 (笹田 彩子)

◎ 20年ぶりに不安いっぱいで来た教会が多摩教会だった事を、神様に感謝しています。「本当の信仰が分かるように」と入門係を勧めてくださり、不安の雲を取っ払い、天井の青い空「すでに救われていること」を教えてくれたのは晴佐久神父様です。神父様の語る福音の強さ、温かさに、皆さんと共に救われました。 (酒井 眞知子)

◎ 「いいこと思いついちゃった!!」という晴佐久神父様のあふれるアイディア(聖霊のはたらき、とも言う)に「え〜!!」と叫びながら、実現するのに必死の駆け抜けた6年間でした。大変なこともありましたが、福音が奇跡を起こすのを神父様のすぐそばでたくさん見てこられた、すばらしい恵みの時でもありました。ありがとうございました。 (佐々木 由理子)

◎ 晴佐久師にはスイッチがある。ミサではそれがオンになり、聖霊が降りて神の御言葉を語り、神はすべての人を救うと言い切る。終わるとオフになり、やんちゃな少年になる。ローマ巡礼で聖ヨハネ・パウロ二世の墓前でひざまづき真剣に祈る師の後姿に、どれだけ多くの人の想いを背負っているのかと感銘を受けた。どうぞ健康で。神の国のために。 (佐内 美香)

◎ 晴佐久神父様、入門講座日曜日の係を7年間させていただき沢山の導きに感謝です。毎回、入門者と同じ気持ちになって講座を聞かせていただき、素朴な質問に優しい言葉で、分かりやすく答えていただけるので、どんな方でもキリストに出会えた喜びの歓喜の涙を流されます。私も神様がどれだけ愛を持って導いてくださっていると、心から信じることができました。上野、浅草教会姉妹としても宜しくお願い致します。 (三浦 智津子)

◎ 入門講座は福音の入り口です。晴佐久神父様はこの世で傷つき、疲れはてて教会に来た方々に「あなたは必ず救われる」と宣言し続け、入門係もそれに奉仕してきました。そしてその福音は多くの実りを結び、その実りを見て私も多くの励みを頂きました。晴佐久神父様お疲れ様でした。今後とも教会を問わず全世界で福音が実を結びますように。 (ヨハネ)

◎ 傷つき、自分を責め、やるせなさや虚無に苛まれ、たどり着いた迷路の果て。きっとそこが晴佐久神父様の入門講座です。ただ一つの福音、神の愛を知ることで世界が変わる。心を閉ざしていた人の柔らかい笑顔。泣くことさえできなかった人の再び流した涙。入門係が出会える美しく尊い瞬間です。これからも、つながろう・つなげようと思います。神父様、安心してくださいね。もう、だいじょうぶぅ! (松澤 郁子)

◎ 「なんか感動した♪ アンコールないの?みんなでやるとか」新年会余興への神父様の言葉。キラキラトリオ組もうよ☆求道中の口約束も実現。アンコール所望でクインテットに膨らみ、前年の拙い演奏は大初笑いを誘い「あれでいいんですね♪楽かった」を喜ぶ入門係達。逆転の発想。1.2倍。みかん星人なソコの30番☆求めよ♪さらばじゃ?なくて?つ♪づ♪く♪ (◯子)

◎ 神父様には二人の子供の結婚式、主人の亡くなる直前の終油そして葬儀と、人生の最も大きな秘跡を授けていただきました。入門係に入れていただき、支え励ましてくれる仲間ができたこと、神父様の力強い福音宣言を繰り返し伺い、勇気をいただいたこと、多くの方々との出会い、教会家族の一員である幸せに感謝です。 (山下 眞由美)

◎ 多くのことを学びましたが、特に良かった点は2つあります。皆で一緒に学ぶことができたこと。金、土、日の受講者がどの講座を受けても、同じ内容を聞くことができ、終わったあと、コーヒーとお菓子でそれぞれ雑談することはお互いの関係を深め、心を癒すことができます。洗礼の後、知り合いがいれば孤独にならず、信仰が浅くても教会に来ることができます。そのうち信仰を深めてゆけるでしょう。もっとお聴きしたかったことは、掟とゆるしの秘跡についてです。悔い改めはとても大切なことと思います。 (マリア)