連載コラム:「2018年のバザーを終えて」

人生の旅をいっしょに
= ウエルカムのサインをあなたからあなたに =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第93回
2018年のバザーを終えて

稲城・川崎地区 マルコ 高橋 岩夫

 10月21日(日)秋晴れの澄んだ空気の中、佐々木実行委員長の手によって、バザー開始の鐘の音が鳴り響きました。
 今年のバザー準備は、まだ少し寒さの残る4月からスタート。第1回実行委員会から活発な意見交換が重ねられました。まずは今年のスローガン。豊島神父様が東京教区ニュースのインタビューに答えておられた「皆が一つになるように」が候補にあがりました。多摩教会に集う人達、教会まで足を運べなくても祈りでつながっている人達、遠くや近くのあの人この人達が皆、イエス様の元に「一つになるように」と(私は解釈しましたが、もっと深い意味がありますね、きっと)満場一致で決定しました。その他、バザー収益金の用途から台所の使い方まで丁寧に話し合われ、今年は調理時の衛生面についても確認されました。食中毒対策は各地区からも様々な提案が出て、有効な情報交換が行われました。
 会場のレイアウトを決めるときは、早めに売り切るお店と最後まで残ってお客様を待つコーナーとのバランスなども配慮したレイアウトに決まり(その効果は後程報告します)、全6回の実行委員会は毎回濃密な話し合いとなりました。

 バザー前日は、恒例の手作りアート作品が搬入され、信徒館は早くもバザーのにぎやかな雰囲気になりました。2階では、これまた恒例の献品値段付け。例年、この値付け作業はたくさんの品物を相手に皆で苦戦(?)するそうですが、今年は献品数が例年よりは少なかったものの、多種多様な品物が集まり値段を付けるのが難しかったようです。続いて、会場設営です。こちらは、テントやテーブル等の準備で力仕事となるため、多くの奉仕者を募集しましたがなかなか集まらず、担当の寺田さんを中心に少人数による作業になってしまいました。次年度への課題の一つです。

 そしていよいよバザー当日。秋晴れの素晴らしい主日となりました。神に感謝、皆さんに感謝です。
 教会の周囲には「多摩教会バザー」ののぼり旗がはためき、入り口では昨年から出店を始めた「青果多摩」の新鮮野菜が多くの人々を出迎えます。その隣では、恒例の「焼きそば」が美味しそうなソースの香を運び、道行く人々を誘います。駐車場2階の献品コーナーは今年も掘り出し物がずらりと並び、お客様を待っています。準備がすべて整った午前11時、豊島神父様からの依頼を受け、実行委員長が開始を告げる鐘を響かせました。待ち構えていた多くの人たちが、一斉にあのコーナーやあの販売店へと流れ、バザーの盛り上がりはあっという間に最高潮です。
 皆さんは、お目当ての品物を手にし、食することが出来ましたでしょうか? 出店、出品された皆さんも、おいしい食べ物に手作り作品、手間暇に創意工夫、本当にお疲れさまでした。例年のことながら、共用の物品を大量に仕入れてくださる方々、実行委員の気づかない細やかな準備をさりげなくやってくださる方々、ここに掲げることが出来ないくらいのたくさんの方々の奉仕のおかげで、無事にバザーを終えることが出来ました。この場を借りて深く感謝申し上げます。

 最後に我が稲城・川崎地区が関わるエピソードを一つ。毎年、教会の近隣の方々に「バザーご招待券(飲食のみ無料券)」を配布しています。この券が、今年は60枚配布された内18枚ほど使用され、教会に足を運ぶ人が多かったことは嬉しいことでした(昨年の利用は2枚)。その中に、老人ホームから車いすでいらしたお客様がおられましたが、午後からゆっくりのご来場でした。早めに売り切れとなるお店が多い中で、ウチの地区は「まったり最後まで続く店」を掲げてやっていたので、遅めの到着のお客様に、温かな食べ物や飲み物を提供することが出来ました。売り方のバリエーションや、会場のレイアウトを丁寧に考えてきて良かったなーと思えたエピソードです。
 実行委員を2年続けてやらせていただきましたが、私にとっての「オアシス」は、ここ“カトリック多摩教会”であり、そこに集う多くの方々の温かな思いなのだなと、いま改めて感じています。ありがとうございました。

11月:「初金家族の会」からのお知らせ

「初金家族の会」からのお知らせ

 11月2日の初金ミサで、豊島神父さまは、死者の日に因み、死のとらえ方について話されました。日本では葬儀は厳粛で悲しみを表すものでしたが、外国ではこれと異なる情景の葬儀も多く、これは死の受け取り方の違いによるものとの話をされました。煉獄と天国の話に関連づけ、死のとらえ方についての考えを示されました。死は悲しい、怖いとする人もいるが、生誕の時と同様、死を、希望を持って迎えることができるものです。

 初金家族の会では、中嶋 誠さんより、中東での現地ビジネスで経験した多様性についての話を聞きました。中東の概要に始まり、サウジアラビアでの大学プロジェクト推進で経験した実体験によるものを、約30ページの資料に基づき話されました。
 中東はキリスト教発祥の地ですが、今も旧約聖書を彷彿とさせる慣行が存在し、そのことがベースとなり、日本では考えられない、思ってもみない規制などが多数存在します。ビジネス・プロジェクトは、サウジアラビアで東京都23区の半分程度の広さの大学の新設に関連するものでした。プロジェクト推進に関し、仕事の進め方、ビジネス面での顕著な違いを感じたとのことです。それは、ビジネスでの組織行動の実務で、コンテキストと言われる社会文化の違いによる組織指揮命令での情報と行動、感性と問題意識のギャップでした。多様な中東の人々には、日本人同士の感覚では組織運営はうまくいかず、それなりの分析工夫が必要だったとのことでした。
 中嶋さんのお話で、生活面でも仕事の面でも、中東と日本はそれなりの違いがあり、今後増えることが予想される外国の人々と共に生きていくには、相互の理解、努力が必要なことを認識共有できたのではないでしょうか。

 初金家族の会、次回は12月7日の初金ミサの後、午前11時頃から、「貝取・豊ヶ丘地区の黒川 優子さんによる歌声コンサート」を予定しています。ご一緒に美しい歌声を楽しみましょう。
 「初金家族の会」は、初金ミサの後、貴重な体験を披露し、分かち合い、信仰を語り合う、信仰家族の絆を深め合う楽しい集いです。皆様、どうぞお気軽にお立ち寄りください。

11/11(日)特別入門講座:下川雅嗣神父様

20181111Frshimokawa
11月11日(日)11時から、「特別入門講座」を開催いたします。
 この講座では、通常の入門講座の時間に、外部から司祭・修道者をお招きし、経験・霊性に導かれたお話をお聴きします。
 入門講座を卒業された方も、ぜひ聞いて、知って、力にしてください。
 今回は、「教会(社会問題)入門講座」となります。
 
◎ 同日、13時半から行われる、福祉の集い、「夜回り神父さん トウキョーの街みて語る」(於:カトリック府中教会)とは別の集いですので、ご注意ください。
 共に、どなたでもご参加いただけます。
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 今回お迎えするのは、イエズス会の、下川雅嗣(しもかわ まさつぐ)神父さまです。
 宗教ではよく、平和や絆というような言葉を使います。しかし同時に、現実に格差があることの表明でもあります。現実を知ってから解決を見出すことは、大衆の世論に過度に依拠する現代社会においては大事な感性です。
 今回、現実の貧しさはどこからくるのか、この社会構造を実際見て、研究・熟考した司祭の目線でひもといて、わたしたちは目の前の出来事をどうみるのかを深めたいと思います。
 皆さまのご参加を、心からお待ちしております。

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💠 教会(社会問題)入門講座 💠
講 話: 下川 雅嗣 神父
演 題:「教会はなぜ社会問題とかかわるのか = 実践して語る =」
日 時: 2018年11月11日(日)10時のミサ後、11時から
場 所: カトリック多摩教会 聖堂
= 無 料*申込不要 =

下川雅嗣神父 略歴
 イエズス会会員。2001年司祭叙階、2002年上智大着任。
 毎週土曜日都会の夜回りに参加。現代社会の問題とつながって活動する。
 経済学部の教授を経て、現在、総合グローバル学部教授。研究関心分野は「国際貿易・発展論・貧困」。
 アジア各国の都市インフォーマルセクター、および、その経済発展に資する役割に関する経済的研究。
 また、アジア各国の貧困住民の様々な創造的取り組みと、その可能性、および、
 その国際的広がりと、国際機関・国家・NGOとの関係に関する研究。
 グローバリゼーションと貧困に関する経済学的研究。
 上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科国際関係論専攻の教授も務める。
 著書(含、共編)に、『貧困・開発・紛争 グローバル/ローカルの相互作用』(上智大学出版)など多数。
 『世界格差・貧困 百科事典』メフメト・オデコン編集代表。下川神父は監訳者の一人。

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多摩教会への交通アクセス Google Map
教会簡易地図ペイント作成-2015ここナツ用-500

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遠方からお越しの方、
ご体調の関係で、車のご利用を考えておられる方は、
以下の近隣駐車場をご利用ください。

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巻頭言:主任司祭 豊島 治「歩いてみます」

歩いてみます

主任司祭 豊島 治

 10月のカレンダーが現れると、クリスマスや年末を思い起こします。実際、教会売店にもカレンダーや手帳が未来の持ち主を待つかのように店頭に並んでいます。教会学校の聖劇も練習が始まりました。クリスマスの場面を主に演じ、救い主が訪れるという喜びを伝えることが多いこの劇は、いつから始まったのか定かではありません。実際に演じてみたり、演じている人に共鳴することによって、メッセージを体感することになるといわれています。
 「むかし、せかいはまっくらで なにもみえませんでした」
 これが当時4歳だった私の、聖劇デビューの台詞でした。黒いタイツを身につけ、神さまの創造前の風景と、救い主が生まれたベトレヘムの町が小さいことと、寂しさを衣装で表したのです。明治時代の日本、とくに関東地方の宣教に身を捧げたフロジャック神父様は、「ベトレヘムという暗く小さなまちに救い主が生まれ、光輝いた。この暗さがあったからこそ、光がうまれたという喜びがある」と力説しました。光をより際立たせる暗さという存在を意識させました。一方、現代の都会では、逆に光が煌々と輝いています。眩しすぎて、ちゃんと見ることを邪魔するくらい光量が多い場所もあります。照明だけでなく、宣伝用看板、宣伝用の動画。夜にもかかわらず明るいのは、ここに住む人が元気で活発だということを表しているかのようです。

 11月11日に、多摩教会が属する多摩東宣教協力体(多摩・調布・府中教会で構成)は、秋の協力企画として東京教区福祉委員会の企画を誘致し勉強会をひらくことになりました。今回の表題は、「夜回り神父さん、トウキョーの街みて語る」。オリンピックのメインスタジアムができる周辺の原宿・渋谷は夜の時間であっても街は明るく、その対局にはいのちのすばらしさを輝かすことが叶わない人がいる。講話者の下川神父様がその現場での人とのかかわりから得たことを分かち合い、私たちの街を考えるものです。
 私も学生時代から夜の町をグループで歩き回って必要な助けを行うことをしていましたが、ある場所では役所の人からその夜回りの最中、罵声や脅しを受けたことがありました。深い事情はわかりませんが、褒めてもらいたいとは考えていないものの、脅されるということは想定外でした。そこから、世には「何かが違う&大切な事柄が見落とされる勢いや圧力を感じる」という疑問がでてきたのです。必死に生きている人は、他の場所にもたくさんおられます。今回はオリンピック・パラリンピックを成功させようとそれだけに突進しようとしている風潮に対して、排除される人のことを意識し、広い視野、神さまの目線に近づけて、私たちがさらに人にやさしくなれればと思います。
 私個人は、オリンピック、パラリンピックに賛成でも反対でもありません。パラリンピックについては、この機会に東京の町にある無数の段差がなくなるよう整備されればと願います。例えば、歩行者はまたいで通過できる小さな段差であっても、車いすで移動している人には体に多大な衝撃が伝わり、痛みや苦痛をもたらすものになります。原宿周辺は路面がタイル貼りになっているところがあり、走行する人の気持ちを考えると、改善されてほしいと思います。
 結果だけでなく、アスリートの輝きだけでなく、出来事によって神さまの目線で「よい」ことがおこるよう期待したい。その心と行動と表現する言葉の準備として、東京ならではのこの企画のために府中教会まで足を運んでくだされば幸いです。府中教会には駐車場はありません。駅から歩くことをお薦めします。

20181111YomawariFr-s(画像はクリックで拡大します)

連載コラム:「ジャネットのオアシス」

人生の旅をいっしょに
= ウエルカムのサインをあなたからあなたに =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第92回
ジャネットのオアシス

南大沢・堀之内地区 セツコ

 親という字は木の上に立って見ていると書く。まことに深い哲学をもつ一字である。
 喜寿を迎えた今でさえ、息子や娘を前にするといつの間にか木から見事に滑り降りて親風をふかしている自分を見出すのが常なのだから。
 54年ぶりにシカゴでジャネットに再会した。当時妊娠後期だった彼女は、にも拘らず学生だった私を数カ月ホームステイさせてくれたのである。
 「これから忙しくなることはわかっているから、一年に一度、たとえばクリスマス頃にカードを送ってくれると嬉しい。そしたら地球のどこかで元気でいることがわかって安心するから。」
 別れ際に、そんな慎ましやかな願いを口にしていた彼女の夫のボッブは一昨年亡くなった。あれだけ沢山のことをしてくれたのに、文字どおり青春の模索の中でそうしたカード一枚書く気持ちのゆとりすら見いだせなかった私は、結局そのままに……。若さとはそのように恩知らずなものなのだ。
 フェイスブックで近年彼らの行方を探し当てて半世紀ぶりに再び繋がった。すぐに出かけていれば会うこともできたのに……。ただ彼の一言だけは覚えている。どうやってそれまでの恩に感謝したらいいのか聞いた時、「僕たちではなく、君を必要としているこれから出会う人たちに返せばいい。」

 当時妊娠中だった子を含め、ジャネットは10人の子の母、孫を含めると総勢45名の一族の中心となっていた! 「なんて忙しい人生だったの?!と言うと、「子供が子供の面倒をみあって遊んでいたから簡単なものよ。子育てはホント楽しかったわ」とほほ笑んだ。
 国際結婚をした子供たちや、さまざまな問題を抱えた親族、孫たちの結婚式など、あちこちから声がかかって、81歳の彼女は今、世界を飛び回っている。静かで、それでいて率直で、でも相手を縛らない彼女を子供たちが歓迎するわけだ。不可能と思える約束も平気でする。シカゴに立ち寄った私にぜひ会いたい、最後の一日だけは泊りに来てと言いながら、私の到着のわずか10分前にクリーブランドから自宅に滑り込んで私を迎えるといった具合だ。
 驚いたのは、部屋がきれいに整えられ、私たちを待っていたことだ。留守の間に、孫とそのガールフレンドがやってきて掃除を担当したとのこと。10人の子供たちの成長に合わせて増築を重ねていった彼女の家は、さながら迷路のようだが、二つのバスルームは際立ってしっかり造られていた。優れた建築士が子供たちの中から輩出したからだ。
 30分もすると、近隣のあちこちの州に住んでいる息子夫婦や娘夫婦とその子供たちが次々到着し、リビングルームが再会の喜びに包まれた。心づくしの食事もすっかり用意されていたのは勿論である。ウイスコンシンからはるばるやってきた娘の一人とそのパートナーが、心を込めて私たちのために料理していたのだ。全て、「54年前の友人のセツコが来る。当日まで私は不在だから、手が空いてる人は手伝って」という彼女から子供たちへの一斉メールだけの力だ。
 幾組もの幸せな家族に混じって、痛ましい離婚を迎えた息子とその子供たちもいるし、社会でやっと認知されたLGBTのカップルもいる。敬虔な彼女に息を詰まらせて、娘の一人は17歳で家を飛び出している。やっと和解ができたのは、ボッブの死がきっかけだった。
 10人の子供を持つ母の心は、多様な現代世界の縮図さながらである。これまでどのようなドラマを抱えながら……どれ程傷つき、苦渋と喜びを織り交ぜて味わいながら、それでも希望をもってボッブと共に祈り、家族の歴史を築きあげてきたことだろう。

 皆が近くの公園に散歩に出かけた後、ジャネットは私を広い裏庭に招いた。子供たちの遊具がたくさん並んだその奥に、どっしりとしたブランコが置かれていた。
 「これだけは私のものなの。一緒に座ってみて。」
 不思議な体験だった。ゆっくりとした揺れに身をゆだねていると、家を取り巻く世界の喧騒も、そして、これまで彼女の子供たちが小さい頃から散々遊んできた種々の遊具も、一瞬シールドされ、徐々に別の世界に戻っていくかのようであった。
 この何気ない日常からの距離が、ジャネットをささえる貴重なオアシスだったのだ。
 中学時代から今に至るまで、日々のミサ出席を欠かしたことのない彼女が、日々の生活にみ言葉を重ね、再び力を取り戻すための「人里離れた場所」――総勢45人の子供と孫たちを木の上に立って見るためのささやかな高みなのである。

10月:「初金家族の会」からのお知らせ

「初金家族の会」からのお知らせ

 すっきりした秋晴れとならないうちに、10月の初金の日を迎えました。豊島神父さまはミサの説教で、「近々の嵐により、多摩教会も被害を受けました。気象変動の結果、今後もこのような災害が、各地で発生することが予想されます。神様が私たちを拒んでいるのとかと考えてしまいますが、逆に、私たちが神を拒んでいないか反省する必要があります。悪魔は神と私たちを引き離そうと働きます。教皇様がロザリオの祈りを唱えることを呼びかけています。神から引き離そうとする悪魔からの保護を、聖母と、大天使聖ミカエルに祈りましょう。偶然ですが、10月にミカエル鶴巻神父が多摩教会に来訪、講話の予定です。
 神様の目線に合わせ、災害に遭わずに幸せだと考えるのではなく、人の力の及ばない困難な時、被災者、声をあげられない弱い立場の人に何ができるか考えるのが、神様を拒まずに繋がっていくことになるのです」と話され、共同祈願として、「困難な時、正しい方向に導いてください」との思いを込め、福者ペトロ岐部の取り次ぎを願う祈りとなりました。

 初金家族の会では、井上信一さんより、教皇フランシスコの言葉として、カテキズムを改訂し、「死刑は容認できない」との立場を明確にしたことを、カトリック新聞の記事など10ぺージの資料で説明がありました。そのあと、参加者からの質疑応答討論で、「教皇様の言葉に共感できるが、日本では80%の人が死刑制度の存続を容認している。これは、『凶悪犯罪の防止』『被害者感情の癒やし』『死をもって罪を償う』『因果応報』などの意識によると推察される」と、また、今回オウム真理教関連者13名の死刑執行について、人命とその尊厳に関連し、批判がありました。
 この逆の事例として、1970年のよど号ハイジャック事件が思い出されます。人の命は地球より重いとする人命原理主義ともいえる声もあってか、超法規的処置、高額な身代金での収拾となり、人命を危険にさらす強行処置を採用している欧米より、テロの拡散幇助との批判がありました。「地球より重い命」、ことわざ「罪を憎んで人を憎まず」(論語由来)などの言葉が生きていれば、教皇様の言葉は深く重い言葉として、日本に浸透するのではないでしょうか。
 今回の話し合いで、極刑に関するカテキズム2267について理解を分かち合い、深めることができました。

 初金家族の会、次回11月は、2日の金曜日、ミサの後、午前11時頃から1時間ほど信徒会館で行われます。中島誠さんに、「中東の実地ビジネスで経験した多様性-情報ギャップ、行動ギャップ、文化、社会の違いによる感性、問題意識のギャップ」について話していただきます。多様性を具体的に理解する参考なればと企画しました。皆様に参加していただき、皆で話し合い、分かち合うことを期待しています。多数の皆様の参加をお願いします。
 「初金家族の会」は、初金ミサの後、貴重な体験を披露し、分かち合い、信仰を語り合う、信仰家族の絆を深め合う楽しい会です。皆様どうぞお気軽にお立ち寄りください。

巻頭言:主任司祭 豊島 治「仲良くします」

仲良くします

主任司祭 豊島 治

 記録的な猛暑と度重なる災害に見舞われた夏でしたが、今なお復興に向けて困難の途上にある被災地の方々に心を向け、できる限りのサポートに力を合わせてまいりましょう。

 7月に起こった「西日本豪雨災害」については、朝日新聞や日経新聞の情報によると、避難勧告・指示の対象は6万人にものぼる大きなものでした。200カ所以上で川の水が溢れ、被害が出ました。現在、カトリック教会として広島教区の設置した各所のボランティアセンターが機能し、継続的に支援しています。
 9月4日の台風21号では、大阪湾の高潮が3.7メートルに達したと推定されると発表されました。空港の機能改善状況が多く報道されていますが、大阪だけでなく、四国・近畿地方を含めた広域で、建物損壊・土砂崩れなどの打撃を受け、今も停電の中で過ごしておられる方もいらっしゃいます。
 9月6日の地震は、北海道はじめての震度7という恐怖もさることながら、土砂崩れ・液状化による生活基盤のダメージや、広い範囲で起こったインフラのダメージも大きく、気温の低下も今後に響いていくといわれています。カトリック教会では、札幌教区のカリタス札幌が、ボランティア派遣をしています(参加できる方は北海道内在住の方に限られています)。

 多摩教会では、8月末から2週間、インド、ケララ州の水害に対しての緊急募金を行いました。8月の中旬ミサの参加者が、スマートフォンの翻訳アプリを使って、現地への祈りのお願いをされていました。日本ではほとんど報道されていない災害ですが、国際カリタスの情報をみると緊急メッセージとなっており、多摩教会内での呼び掛けとなったものです。短期間の呼び掛けでありましたが、90人弱の方が応えてくださいました。カリタスジャパンを通じて現地に送られました。

 日常の中で与えられている情報が、いかにほんの一部で偏っていたかということを、災害が起こると感じることがあります。報道情報が多い地域とそうでない所。わかりやすい映像が重視され、映像化しづらい所は伝えられていない伝達の限界。それは、「行ってみないとわからない」ということなのでしょう。そうかといって、各々は、日常で動ける範囲が限られています。唯一だれでもできること、それは、私たちは「これでおわり」という自分で定義づけして感心にリミットを設けることではなく、起こっている出来事を記憶し寄り添っていきましょう。その前向きになる姿勢は私達の信仰にある十字架にあります。わたしたちの「どうしようもない」というあきらめの気持ちは、十字架を見上げるとき、「まだ、いける」という意識を起こします。

 私は夏の終わりに、短い時間でしたが福島のカリタス南相馬に行ってきました。今まで車で行っていましたが、仙台から常磐線を使って、最寄り駅の原ノ町駅に向かいました。休日の常磐線は、若い人が仙台に遊びに行った帰りでしょうか、多くいました。仕事で旅行で来た方もおられました。被災した山元、亘理にも多くの乗降がありました。
 カリタスのボランティアベースは、有名なスーパーボランティアさんみたいに、黙々と作業するだけでなく、地域の方々とつながりをもってきました。今年で5年。被災者の方々が地域の人々の集まりの奉仕をしてくださる場にカリタス南相馬がなっていました。現地のスタッフにもなっていただき、会議のときにも、話してみなければわからない心情を吐露していただき、それを受け止め、今後の展開を考えて、共に歩もうとしています。現地で話して受け止めたのは、「こんな悲惨なことは二度と起こらないでほしい」と「生きる喜びを皆が感じてほしい」です。愛の奉仕という意味のカリタス。この言葉をかみしめて帰りました。

 災害は他人事でありません。多摩教会では大掃除の日に「避難訓練」を行っています。意識して参加を願います。次回は大掃除のあと、救命や災害防止の勉強の場を設けることになっています。どうぞ参加してください。知っていて損はない事柄です。
 でも、東日本大震災のあと、仙台教区の災害対策本部長がおっしゃったことが記憶から離れません。とっても大事な言葉だったからです。それは、
 「一番の災害対策は、『日ごろからみんな仲良く』だよ」

連載コラム:「神の生命と、私たち人類の憧れ」

人生の旅をいっしょに
= ウエルカムのサインをあなたからあなたに =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第91回
神の生命と、私たち人類の憧れ

福音史家ヨハネ 山口 泰司

 私たちは、日々、様々な想いの中に生きている。差し迫った現実の問題から、とりとめのない夢想に至るまで、私たちの多様な想いは、千変万化で止むところを知らない。だがしかし、いまだ手にしていないものを、何とか手にしたいという切なる願い、問題解決への止みがたい憧れなど、人間の表層から深層にわたる多種多様な営みの一切を、均しく根底で突き動かしているのは、ただ一つ、聖なる「神の国」への憧れに他ならない。
 私たちが、自然の美しく荘厳な姿を前にして息を呑んだり、自然や社会の隠れた法則の発見に心躍らせたり、紛争国が矛を収めて握手するニュースに胸をなでおろしたりするのは勿論のこと、和やかな音楽の一節に心を奪われたり、白熱のスポーツ競技に興奮したり、お笑い芸人の冗談に腹をよじって笑ったり、はたまた山海の珍味を仲間と味わう幸せに、生きる喜びを味わったりするのも、すべて、私たちの「神の国」への憧れが、部分的に成就したことによるのである。

 では、そうした聖なる世界への憧れは、私たちのどこからやってくるのだろうか。私たちの頭(理性)からでも、私たちの胸(情緒)からでも、私たちの体(感性)からでも、私たちの動物的ないしは植物的な神経(本能)からでもないことは、確かである。これらは、その願いや憧れを、この世で成就したり表現したりするときの、ただの道具でしかないからだ。私たちの全ての憧れは、人間の理性と情緒と感性と本能のすべてを貫いて、これらを根底から突き動かしている、これら一切より無限に深いところに発し、これら一切より無限に高いところにまで及ぼうとする、私たち自身の生命より生まれてくるのだ。
 では、その生命は、どこから生まれてくるのか。それは、直近のところでは、この世の一切万物が生まれたとされる138億年前の天地創造の時からだとも言えるが、それは、本来、姿なき生命が、物質的な形態をとった時のこのことでしかない。私たちの姿なき生命は、元々、永遠の神の生命とともにあって、生まれることも死ぬこともない存在として、おのずからなる歓びを、無限の意識とともに湛えていたのだ。
 では、その生命が、私たち自身の内なる願いとして、すべての願いと憧れを根底から突き動かしているというのは、いったい何故なのか。それは、神の姿なき永遠の生命が、物質的形態をとってこの世に降り、順に、大自然の物理的生命進化、化学的生命進化、生理的生命進化、情動的生命進化、情緒的生命進化のプロセスなどを経た末に、その総決算として、理性的生命進化の受け皿として人間の肉体を準備したとき、神ご自身が、再び、私たち自身の姿なき魂となって、私たちの肉体に直々に降り立ったからだ。

 このようにして、私たちは、神の〈聖なる大自然〉の一環としての人間の、〈聖なる肉体〉の最奥の至聖所に、神の今一つの姿、神ご自身の〈永遠の生命〉として、つまりは神の超自然的な〈魂〉として、ひそかに息づいているのであるが、この霊的〈魂〉は、神ご自身の無限の叡智(真)と愛(善)と力(美)の一切をそのまま湛えた〈聖なるもの〉として、私たち自身のかつての原型である〈受精卵〉に降り立ったあと、自らの変容を通して、私たちのその後の成長を一貫して内側から支え、促し、導き続けて今日に到り、私たちに、更なる進化を迫って止まないのである。そのわけは、愛そのものである神ご自身が、自からの独り児である人類に、更なる進化を通して〈神人一体の栄光〉を輝かせ、一切万物の先頭に立って、愛に基づく麗しい霊的共同体を、この地上に結ばせたいと願っているからに、他ならない。
 したがって、私たちの魂の切なる願いも、内なる神ご自身の願いそのままに、自らを包んでいる物質的な本能と感性と情緒と理性の衣を、慎重に一枚一枚脱ぎ捨てながら、それらの制約から自らを一歩一歩解放して、さらなる高みに達することにあるのだと言ってよい。言い換えるなら、私たち人類の根源的な願いは、こぞって天使的存在へと進化を遂げて、地上に「神の国」を樹立し、そこで、神と自然と人間が不可分一体の中で真に調和する世界を、心から満喫することにあるのである。
 それなのに、私たち人類は、人類としての、民族としての、国家としての、個人としての、長く苦難に満ちたプロセスをたどるうちに、いつしか人類と民族と国家と個人に固有な、〈エゴイズム〉という名の〈無知なる想い〉を育ててしまい、その結果、魂自身の栄光への道を、我知らず妨げているのである。私たち人類が、自らの隠れた本質的な願いと憧れに従って、魂本来の輝きを発揮するためには、あらためて、内なる神の永遠の生命は即ち、自らの魂に一重に帰依して、その表面に付着した蜃気楼のようにはかない諸々の利己心を、日々の瞑想と祈りと精進によって、ひたすら浄化していくしかない・・・。

 以上が、私の専攻するインドの、古代以来、現代に到るまで連綿と続く〈ヴェーダーンタ哲学〉の、神の生命と人類の願いをめぐる理論の概要であるが、これは、昨年暮れ以来、私が教会のミサに出席することを通して、イエス様御自身の教えの本髄として感じ取ったことと、見方を変えれば、本質的には、そのまま重なり、そのまま通じるようにも思われて、4月に受洗したことの深い意義に、ますます大きな喜びと感謝を、あらためて感じている次第である。