連載コラム:「あなたのいきを」

「荒野のオアシス教会を目指して」

やさしく、あたたかく、心からのオアシスづくり
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第75回
「あなたのいきを」

マグダラの聖マリア 優 (ペンネーム)

 原っぱの真ん中にその教会は建っていました。教会の庭で色とりどりの玉子を探した幼い日を今でも鮮明に覚えています。
 私は小さい頃から日曜学校に通っていました。讃美歌が大好きでした。意味もよくわからずに覚えた使徒信条と主の祈りは、いつでもそらんじることができました。母からの進学祝い、夫の両親から贈られた結婚のお祝いも聖書。母も義父母もキリスト教徒でした。
 しかし、いろいろな出来事があり、私はもう二度と教会に行くことはないだろうと思っていました。

 あれから四半世紀・・・。生きる自信を失くして自暴自棄になっていた私に、友人が教会に行くことを勧めてくれました。
 桜が満開のある朝、私は友人に連れられて、初めてカトリック多摩教会を訪れました。友人は、まずマリア様の前で立ち止まり祈りました。私はとても不思議な気持ちで、その姿を見ていました。階段の上の大きな扉は開いていて、その奥のガラス扉の先にまだ人影も疎らなお御堂がありました。その日は復活祭。私はミサの始まりを待たずにお御堂を後にしました。
 それから一週間後、私は何かに導かれるように再び教会を訪れます。そして初めてカトリックの御ミサに与ったのでした。大好きだった讃美歌が一曲もない。覚えていた主の祈りも異なっていました。十字を切る人、ベールを被る女性信徒、会衆一人ひとりに渡されるご聖体。初めてのことばかりで私は大きな戸惑いの中にいました。しかし翌週もその次の週も・・・と私はいつしか教会に通うようになっていました。
 お御堂はオアシス。神様と私の二人だけの時間と対話がそこにはあります。自分自身と向き合う厳しさの中に、穏やかで心温まる時をいつも神様は与えてくださいます。祭壇の十字架とイエスさま。ひざまずいて祈る人の美しい姿。多摩教会の天井シェードの隙間から射し込む一筋の光や、ステンドグラスを通して入る柔らかい夕陽に、どれだけ心癒されたことでしょう。お御堂に響き渡る典礼聖歌は優しく私を包みこんでくれます。
 あなたのいきを おくってください
 すべてがあらたになるように

 初めてこの聖歌を歌った時は涙がとめどなく溢れました。神様は全てをあらたにしてくださる。生まれ変わって新しい自分になりたいと切に願いました。たくさんの素晴らしい出会いと励まし、お導きにより翌年、私は洗礼を授かりました。
空、光、風、木々の緑、花、水の音、私の大好きなものたち・・・。この世の全ての物をお造りになられた神様に、私は幼い頃から、そして教会から離れていた日々も賛美と感謝を捧げてきたことに改めて気づきました。

 今、神様はいつも私のそばにいてくださいます。神様に『おゆだね』することも教わりました。
 私は介護施設で歌わせていただいています。無表情だったお年寄りと目が合い、そして口元が動いた瞬間。暗く沈んだ顔に笑みがこぼれる瞬間。私の歌に涙する人に出会えた瞬間。『ありがとう』の言葉。こんな素晴らしい一瞬を神様は何度も示してくださいます。
 歌を通して神様のみ旨にかなう人となれますように。
 神に感謝。

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     〔写真はご本人提供〕

3月:「初金家族の会」からのお知らせ(次回は4/7・金)

「初金家族の会」からのお知らせ

 春まだ浅い3月3日初金の日、豊島神父様は、3月1日の灰の水曜日に因んでの教訓として、本当の意味の断食とは今日のイザヤの預言にあるように、「つぐないの断食を苦行としてでなく、愛のために、愛の行いとして行うこと、それが主の悲しみ、主の苦しみをわが身に受け止めることになるのです」と話されました。

 続いての初金家族の会では、「現代に生きる私たちにとって、殉教とは・・・」という奥の深いテーマでのわかちあいをしました。中嶋 誠さんがキリシタン時代の西欧社会の信仰、思想の背景、宣教、布教の歴史の概要、国内外の様々な立場の人たちの心の葛藤、日本では圧政の下、多くの庶民が真剣に天国での救いを求めていた事実の数々などについて話され、参加者からも様々な感想をはじめ、話題の遠藤周作原作の映画「沈黙」の感想あれこれも出ました。

 豊島神父様は、「時代は移り変わっています。往年の、搾取され、極端な貧困にあえいでいた時代の人たちの姿に思いを馳せ、神様、私を今、この時、悲しみ、苦しみから救ってください、栄光を現してくださいという願いを学び、信仰を守り抜いてきたことで命を捧げた人たち、異なる道で信仰を後世に伝えた人たちすべては神様の慈しみの温かいみ手にあることを信じましょう」と話され、50人近くの参加者それぞれに様々な思いが深く心に残るひとときでした。

 次回、4月7日(金)、花や緑の季節の初金家族の会では、一品持ち寄りの楽しいお鍋を囲んで皆さんで歓談しましょう。午前11時前から会場は信徒館です。
 どうぞお気軽にご参加ください。

巻頭言:主任司祭 豊島 治「き ま す」

き ま す

主任司祭 豊島 治

 寒い日々、私が修道院のミサから帰るとオアシス広場に雀(スズメ)がいます。
 まだ人の往来の時間ではない静かな空間で元気に鳴いています。
 空が青くなり道路の往来がにぎやかになってきたころ、鶇(つぐみ)が舞い降ります。雀はその場をゆずり飛び立ち、鶇はオアシス広場の主(あるじ)となります。これが、今年「春一番」までの多摩教会・朝の風景です。

 「復活祭が遅い年は春がくるのも遅い。」といわれます。
 どうりで毎年多摩西部では復活祭の前に桜が満開になっているような気がします。
 3月1日から四旬節を迎えるにあたって、私たちは季節の「春」より上の「喜びの春」の体験を迎えるようになろうではありませんか。

 2月の25日の土曜日は黙想会をします。「多摩教会黙想会は初ではないか」とおっしゃった方がおられました。新しい人を招き常に宣教の熱意をもって歩んだ教会は一旦振り返ることが必要です。個人としても共同体としても。
 14時から17時半まで行います。その後ゆるしの秘跡があり、ミサへと続きます。

 2月26日には「列福記念特別講話」があります。福者ユスト高山右近が2月7日に列福されました。私たちにとって殉教はどんなふうにとらえているのか、30分くらいの短い講話をきいて今の私になにができるか身につけましょう。

 その一カ月後、4月2日にカリタスジャパンの瀬戸神父さまをお招きして四旬節特別講話があります。四旬節の期間中「愛の献金」がおこなわれます。四旬節メッセージに即して過ごすことをミサ後30分くらいの講話をきいて役立てましょう。喜びの春を体感するために。

連載コラム:「見返りを期待しない他者とのかかわり」

「荒野のオアシス教会を目指して」

一瞬の勇気で、一生の家族!
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第74回
「見返りを期待しない他者とのかかわり」

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 南部 憲克

 飛行場を出ると外は真っ暗だった。深夜の暑さと車のクラクションに排気ガス、私はインドに初めて降り立った。ここはムンバイ。後ろからほんのかすかに袖を引く者がいる。必ず振り向かせるとの強い意志を感じる。意志に振り向けば、腰骨に1歳ほどの子を乗せた母親が、すでに右手を差し出している。子は、じっと私を見つめて、まばたきもしない。明らかに母親に協力している。これが母子の職業。紙幣を握った右手は素早くサリーの中へ。言葉はない。高い方から低い方へ水が流れるのは当たり前なのだ。
 「見返りを期待しない他者との関わり!」これがインドの最初だった。

 もう27年も前になる。NGOの主宰者とインドやバングラディシュを訪問することになった。
 小さなビニール片を重ねた屋根のスラム街。たくさんの子どもたち。恐る恐る1人が寄ってきて、私の受け入れを見るとたちまちとり巻く。元気が私をとり巻く。貧しさには負けていない。失礼がないように大声で叱る父親、母親は、土間の片隅で夕食の支度をしている。これが家族。
 ささくれた黒板でチョークの授業が進む。40人ほどの教室。中学生のような女の子のそばには1年生のような男の子もいる。それだけではない。ガラスのない窓から重なるように顔、また顔、顔がのぞいている。外の子どもたちは、仕事をしていて、学校には行けないのだ。
 生まれてから死ぬまで固定化された格差社会。だが、子どもたちには屈託がない。NGOはこの壁を取り崩そうと子どもたちに「教育」を贈り、学校を建設し、井戸も掘り、病気の子を救うこともしてきた。

 私の里子の1人は、南インド・チェンナイにある「マルコホーム」の少女だ。デカン高原の南端、大きな岩に小さな灌木の不毛の地。5人のシスターが、大きなマンゴーの木の下で、鍬を振り上げて、井戸を掘り、学校を作ってきた。25人ほどの子どもたちは、玄関先で勉強の最中だった。「ホールへ集まりなさい」シスターの声。誰も立ち上がらない。だけど動き出している・・・。皆手で体を引きずって移動している。誰も手助けしない。マルコホームは、ポリオなどで親から捨てられた子どもたちが暮している。
 NGOが、毎年手術費を届け、順に手術を受けて歩けるようになった。中には麻酔を断った子もいた。麻酔代を他の子の手術費に充てたのだ。
 数年後、女の子に再会した。しきりに目をこすった。親と呼べる人を持たない。親に会えたうれしさに涙が出て止まらないのだ。女の子は、手術を受けても自分の足で立つことはできなかった。やがて女の子は17才になった。「私は弁護士になって、障害を持った人や貧しい人や女性のために闘いたい」と表明した。少女は、飛び抜けて成績が良く、六年制の大学へ入学した。しかし、その先は難関らしい。女の子は銀行員になった。眼鏡の奥には柔和な目があり、動作は落ち着き払っている。きっと人の苦しみや悲しみに寄り添うように生きているに違いない。

 「日本の家族が幸せで健康でありますように!」里子たちは祈ってくれている。皆、毎日、早朝からのミサを欠かさない。期待しないのに届けられる見返り。オアシスはこんな人と人との関わり。
 NGOの名は、「エスナック」。主宰者独りで1人の里子から始めて35年、巣立った子は6000人を超える。主宰者はシスター藤田。私の代母だ。

2月:「初金家族の会」からのお知らせ(次回は3/3・金)

「初金家族の会」からのお知らせ

 北風の冷たかった節分の2月3日、初金ミサで豊島神父様は「世間的には損な生き方、茨(いばら)の道かもしれませんが、沢山のお恵みを受けている私たちです。 真っ直ぐな道を歩きましょう。神様はきちんと支えてくださいます」と話されました。

 続いての初金家族の会では、ニューヨークの国連日本政府代表部で7年間、そして、国連児童基金(ユニセフ)の南太平洋フィジー事務所で2年間、帰国後は東京の在日外国大使館で20年以上勤務されている多摩教会信徒の方がお話ししてくださいました。外国からの在日政府高官の間で、日本人そして、日本料理やテレビ番組などの日本文化に対し、いかに関心が強く人気があるかについて、また異文化のなかでのご自分の失敗談など、ユーモアを交えた貴重なお話を披露なさり、初参加の8名も交えて40数人が集まって盛会でした。

 初金家族の会、次回3月3日には、遠藤周作原作、スコセッシ監督が映画化した「沈黙」をめぐって、現代に生きる私たちにとって「殉教」とは・・・との問いかけをテーマに、信徒の中嶋 誠さんにお話ししていただき、ひき続き豊島神父様を交えてみんなで自由に意見交換、わかちあいをする予定です。
 映画をご覧になった方も、見ていない方も、この機会にどうぞご参加ください。

巻頭言:主任司祭 豊島 治「チャンスに乗じます」

チャンスに乗じます

主任司祭 豊島 治

 皆様は、年末年始をどのようにお過ごしになられたことでしょうか。私は多摩教会で初めてのクリスマス。そして大晦日から元旦と皆様と祈りを共に出来ましたことを特にありがたく感じました。また、元日ミサの中で、皆様の幸いと平和をお祈りいたしました。 皆様方も、それぞれの場で一年のことを祈願なさったことでしょう。時間の流れは速いもので、今年ももうずいぶんと過ぎていってしまいました。

 ある日曜、主日のミサに観想修道会で過ごしている方が、北海道からわざわざ私に会いたいということで多摩教会にいらしてくださいました。彼は車の免許を取得せよという命令をうけたためしばらく東京にいて、その都内滞在先からわざわざ3時間もかけて10時のミサに間に合うようにいらしたのです。普段は北海道の山のなかで、祈りと労働の日々を過ごし、気分転換になる刺激的な出来事もあまりないところで生活しているのに、とても充実している表情をされていました。

 「幸せになりたい」という願いは、私たちに共通する根源的な欲求です。何を買うか、何を着るか、どこに住むか、どれを食べるか、誰と暮らすか。どれも「もっと幸せになるために」選び、決断します。多摩教会では今年結婚式が予定されていますが、結婚とは「幸せになるために」するとても大きな決断でしょう。結婚式というイベントでなくとも、私たちは毎日、いや毎瞬、毎瞬、幸せを願い、探し、選んでいると言えるかもしれません。では、「何が私を本当に幸せにしてくれるもの」なのでしょうか。社会や世間がもてはやしているものを手に入れることが、本当に私にとって価値ある幸せの保証なのでしょうか。それがないと不幸なのでしょうか。

 もし、神様に、「がんばっているあなたにご褒美として、幸せになるために三つの願いをかなえてあげよう」と言われたら、私は悩むでしょう。何を求めたらよいのかと。どうなったら幸せになれるかと。
 次のように即答できれば幸せです。「このままにしておいてください。いまある人との絆を大切にできれば」。それは世間から見たらちっぽけな、ささやかな幸せかもしれませんが、現状の自分を受け入れられることは本当に「幸せ」なことだと思います。

 自分は「幸せになってはいけない!」と決めてしまっている方がおられます。あんな事をした自分は、あんな否定的な扱われ方をした自分は幸せになる資格がないと決めてしまっている人がいます。
 神の赦しと慈しみから除外されている人はいません。救いの泉から外されてしまっている人は一人もいません。
 まずは、私を赦してくださっている神に自分で安堵することから始めましょう。そして自分を赦すこと、自分を認め受け入れることができたら、隣人へのまなざしが優しくなることでしょう。 そしてより多くの人を招きましょう。
 2月からはゆるしの秘跡や再認識のチャンスが多くあります。赦しと和解の恵みが皆さんのうえにありますように。

連載コラム:「生後三日目の洗礼」

「荒野のオアシス教会を目指して」

一瞬の勇気で、一生の家族!
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第73回
「生後三日目の洗礼」

落合・鶴牧・唐木田・町田地区 日野 美津子

 去年の10月、私はふるさとの平戸に行ってきました。年老いた兄夫婦が元気なうちにという思いと、懐かしさで、長崎で行われた研修会を終えて、バスと車で3時間もかかる平戸に向かいました。親はもういなくて、家もありませんが、まず自分が育った家の跡地だけでも見たくて、目的の兄の家より先に行きました。
 私が育ったところは、左前方に生月島(いきつきしま)、右前方に度島(たくしま)が見える平戸島の最北端です。この2つの島を毎日見て育ち、行くことなど考えたことがありませんでした。ところが、だいぶ前に平戸と生月を結ぶ橋が出来ていたことは聞いていたので、今回チャンスと思い、私は初めて、何回か行ったことのある兄夫婦と、ワクワクして出かけました。私は、過去の生月での出来事は何も知りませんでした。

 初めて見る水色で塗られた橋は、空と海と大自然に溶け込んだ美しい橋でした。丘の上の教会の庭に設置されたファティマの聖母と牧童たちが私たちを迎えてくれました。お御堂の中は、左右と後ろの壁はステンドグラスを思わせるような南米から取り寄せたという色とりどりのちょうちょの羽で飾られていました。毎日見慣れていた島は、教会も庭も聖堂内も、また島全体もオアシスでした。
 この教会の出身者の中に、毎年、9月28日に祝われる聖トマス西がいます。1634年11月11日に処刑された69人の中に、二人の神父様がいました。その中の一人です。この69人の殉教者たちは、26聖人たちと同じ西坂の丘で斬首、火あぶりで殉教し、二人の神父様は穴吊りにされて殉教しました。教会の近くには、「黒瀬の辻殉教地」があり、神父様のお父様が殉教したところでした。目の前には、海と無人島が見え、この島で大勢の人の拷問、処刑が行われたそうです。
 何も知らずに、この島に来た私は、恵みとショックを同時に受けて、生月を後にしました。やがて、見慣れた平戸の無人島の前を通るとき兄が指さして、この島でも大勢の人たちが拷問処刑されたと教えてくれました。私の生家の近くの浜でも、殉教者の血で海が染まったといわれている場所があります。

 久しぶりのふるさとにワクワクしながら旅立った私は、一週間後には、多摩の自宅で400年前に起こっていた出来事に深い感銘を受け、殉教者の苦難と受難を思い、祈りのうちに、涙と恵みに浸されました。ましてや、私たちがキリストの受難を思うとき、どれほどの恵みが注がれてくることでしょう。
 主が聖ファウスティナにおっしゃった言葉が思い出されます。「私の受難を1時間黙想する方が、血を流す鞭打ちを1年間行うより、もっと多くの功徳がある」。

 私の田舎では、赤ちゃんが生まれると、洗礼はいつ授けていただくかと、まず洗礼のことを心配していました。私は生後3日目にその恵みをいただきました。第一に信仰、死ぬも生きるも、主のためとの先祖の思いの行動だったのだと感謝しています。
 この世のものにはとらわれず、主と聖母を愛した殉教者、聖人たちにならい、この世で最高のオアシスである主と聖母の二つのみ心の中にいつもとどまり、養い育てていただきたいと思います。

      

カトリック山田教会(蝶の装飾画)
生月島「カトリック山田教会」(蝶の装飾画)
   
生月島「黒瀬の辻殉教地」
生月島「黒瀬の辻殉教地」(ガスパル様)

寄稿:「巡 礼」

= 寄 稿 =
巡 礼

加勇田 明子

 きっかけは、昨年、巡礼で八王子教会を目指した方が誤って多摩教会に来てしまい、「八王子教会への行き方教えて」と声をかけられたことでした。その時初めて、平成28年が巡礼の年であること、指定された教会がいくつかあることを知り、是非行ってみたいと思いました。昨年3月のことです。
 それから半年以上たった11月16日、TさんとUさんと3人で出かけました。3人で出かけるのは初めてでしたが、電車に乗った途端おしゃべりが始まりました。各々の信仰との出会いとか、通っていた教会のこととか、とりとめなく話は尽きませんでした。昼食は築地でお寿司と決めていましたが、お店がなかなか見つからず困りました。でも一番の楽しみだったので執念で見つけました。とっても美味しかったです。
 築地教会は3人とも初めてでした。立派な聖路加病院の傍らにひっそりと建っている姿、ギリシャ建築のような4本の柱が印象的でした。
 16、19日と2日間、カテドラル、イグナチオ教会の納骨堂、神田教会の強烈なステンドグラス、歴史を感じる八王子教会の聖堂。ミサに出席するのではない見学は新鮮でした。
 昨年夏、夫と巡礼教会のひとつである西千葉教会を訪ねました。久しぶりに会う旧知の小林神父様からお話を伺いました。「今年は、50年に1度の巡礼の年で、巡礼に行くとすべての罪が消えるの。素晴らしいでしょ」。まったく意味が分かりませんでした。帰る途中、夫に聞きました。「あれってどういうこと?」「そういうこと。誰でも罪があるから。罪のない人はいないから」やっぱりわかりませんでした。
 11月の巡礼が終わって2、3日して、ふわっと浮かびました。「リセット」、このことかな? 神父様の言われたことって。「これだ!」と思いました。
 新しい自分。過去に執着しない日々。巡礼ってこういうことかと思いました。行かなかったらわからないことでした。
 数日後、私たちが巡礼の計画をしていた時に、そばで聞いていた人に会いました。「巡礼に行ってきたのよ」と話したら、「お寿司美味しかった?」と言われました。楽しい教会です。