連載コラム:「石の門の聖マリア」

「荒野のオアシス教会を目指して」

やさしく、あたたかく、心からのオアシスづくり
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第78回
「石の門の聖マリア」

セシリア 仙石 つかさ

 5月の中旬、私は友人と、スロベニア、クロアチアを旅してきました。
 マロニエの花が咲き、石造りの建物が連なるスロベニアでは、9世紀に、砦として建てられた「リュブリャナ城」、城の中の静謐な「聖ジョージ礼拝堂」、バロック調の荘厳なお御堂の「聖ニコラス大聖堂」、可愛らしいピンク色の「聖フランシスコ会教会」、天に伸びる鐘楼をもつ「聖母被昇天教会」、澄み切った湖の湖畔に佇む「ブレッド城」と、行く先々で感激でした。また、暗闇でキラキラと輝き、動物や人の顔に見える多種多様な純白の石柱や、オーロラやダイヤモンドのような鍾乳石が全長21キロに渡り広がっている「ポストイナ鍾乳洞」では、まるで、ルーベンスの絵の中に迷い込んだようでした。
 アドリア海に面したクロアチアでは、バラの天窓や「涙の聖母」の祭壇画がとても美しかった「聖ヤコブ大聖堂」、キリスト教徒を迫害した皇帝の「ディオクレティアヌス宮殿」、男性合唱の奏でたハーモニーが心に染み入った伝統音楽の「クラパ」、まばゆく凜とした空気が漂う「聖母被昇天」の祭壇画を掲げた「ドゥブロヴニク大聖堂」の主祭壇、エメラルドグリーンに輝く「プリトヴィツェ湖群国立公園」、修復中にも関わらず、「お帰り」と招かれた「聖母被昇天大聖堂」など、さまざまなものにふれ、美味しいワインも堪能しました。

 紀元前から、ギリシャ植民都市として築かれたクロアチアは、長い歴史から、城壁に囲まれた市街地が多数点在し、首都リュブリャナでも、その面影を残す「石の門」と呼ばれるグラテツ地区と外界を隔てていた入口がありました。内部には「聖マリアの礼拝堂」があり、およそ300年前の大火災で奇跡的に無傷で残り、祭られていた「聖母マリア」のイコンの前に立ったとき、私は一瞬、幼子に戻り、マリア様に抱かれました。子どものことで悩み、受洗してなお、自分は愛情の薄い人間との思いを引きずっている私に、「そんなあなたでいいのよ」と溢れる愛を注ぎ、微笑んで、私をまるごと包んでくださることを感じました。

 この旅をともにした4人も、それぞれに子どものことで悩み、暗い迷路にいた時に出会った仲間です。苦しみ悲しみを共にし、分かち合ってきました。この仲間こそ、私にとってのオアシスだと気づき、このような友を与えてくださった主に、感謝の気持ちがふつふつと湧き出しました。
 私は、感謝の気持ちを忘れずに、このかけがえのないオアシスを大切にして、常に共にいてくださるマリア様を感じながら、祈りの日々を送りたいと思います。

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画像左は、「聖母被昇天」の祭壇画を掲げたドゥブロニク大聖堂の主祭壇(クロアチア)
画像右は、ブレッド城(スロベニア)
= 双方、記事投稿者提供 /画像はクリックで拡大します=

6月:「初金家族の会」からのお知らせ(次回は7/7・金)

「初金家族の会」からのお知らせ

 緑の季節、6月2日の初金ごミサで、豊島神父様は、「全てをご存知の神様の愛のど真ん中で私たちは生きています。貴い教えを大切に、従順に過ごしましょう。他人に対して従順であるよりも、むしろ自分に対して従順であることの方が難しいです。神様に愛されていることに気づかずにいる私たちのためにも愛が注がれていることを思い、熱心にごミサにあずかりましょう」と話されました。

 続いての初金家族の会では、去る3月末、10日間のイスラエル巡礼に多摩教会から参加なさった4人の信徒のうち、中嶋誠さんと岩藤大和さんのお二人が、旅のスライド写真を上映しながらご体験を話されました。

 ≪四旬節に聖地で黙想を≫と目指した巡礼で、ナザレ、ガリラヤ、ヨルダン川沿い、エマオほか、イエス様が誕生し、育ち、教え、歩かれた場所、そして受難の道や、数々の由緒ある教会を目の当たりにされた参加者として、「頭で描いていた聖書の中の風景とは全く違って、花咲き乱れ、野鳥の心地よい囀りも聞こえる楽園そのものの現地の姿でした。神様の愛がこの美しい地で育まれたのだ、風土が人を作るのだと実感しました。 イエス様が聖トマスに言われた、『あなたは私を見たから信じたのですか、見ないで信じる人たちは幸いです』(ヨハネ20・29)とのみ言葉を体感しました」など、実り豊かな巡礼の旅の報告でした。

 初金家族の会、次回の7月7日は、「海外で奉仕する宣教者たち」と題して、信徒の井上信一さんのお話を予定しています。ごミサのあと、信徒館で貴重な体験など聴いて語り合い、お互い信仰の絆を深め合う、楽しい集いです。皆さま、どうぞお気軽にお立ち寄りください。(11時ごろからです)

巻頭言:主任司祭 豊島 治「いのります」

いのります

主任司祭 豊島 治

 6月はみこころの月となっています。カトリック関連の店舗ではいわゆる「信心グッズ」が目立つように展示されており、雰囲気をだしています。安価なものから細かい装飾をほどこしたものまで並んでいます。でも飾って眺めるというのが第一義ではなく、祈りのために使われなければ本来の意味はありません。

 最近、小学校からの知り合いで長い間教会に通っていなかった方から連絡があり、ご両親が帰天されたので祈りを頼まれました。17年前に主の祈りの文言が変わったことも知らない彼が葬儀ミサの最前列に座り、ロザリオの珠をくくり祈っていた姿に放蕩息子の帰還がはじまっているような内面の変化を感じました。

 幼児洗礼である私や彼にとって教会はもう一つの家の感覚でした。小学生のころは「神父さん」は教会のお父さんみたいに思っていました。ミサを祝って分かち合うその繰り返しを過ごしてきた訳ですが、多くの恩人といえる神父様と出会いました。厳しさを感じる神父様や、こだわりを持っている神父様などいろいろでした。ある教会の神父様はとてもおっしゃることが厳しい方でした。常に教会の人はその神父様に注意をうけていました。しかし、ある日の夕方その神父様のお母様が母国で帰天されたという一報がはいりました。普段は元気いっぱいの、よくお話好きな神父様は聖堂後ろにあるマリア像のところに座り小さくなって肩を震わせて泣いておられるのを見ました。
 その影響でしょうか、私の父が亡くなった8年前から親の存在の偉大さを感じるとき十字架の前で、またはマリアさまに向かって小さく背中をまるめて祈るようになっていました。その静かな時間は忙しくしている時とは異なるまなざしを感じます。そして次へ向かう力となります。

 偶然ですが、多摩教会が誕生した1972年は私の生まれた年でもあります。多摩教会も出会いと別れを繰り返し、その祈りと行動によって支えられ生かされてきました。マリアさまの保護のもとに導かれ、歴史の重みと暖かさを多摩教会聖堂が献堂された今年5月14日の主日ミサで感じました。

 今年の12月には多摩教会にて初代主任司祭寺西神父様が主の降誕のミサを行います。神父様は今年ダイヤモンド祝である叙階60周年を迎えるのです。どうか司祭のためにお祈りください。

連載コラム:「神さまに招かれて」

「荒野のオアシス教会を目指して」

やさしく、あたたかく、心からのオアシスづくり
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第77回
「神さまに招かれて」

南大沢・堀之内地区 佐々木 由理子

 私が洗礼を授かったのは、2010年の4月3日のことでした。晴佐久神父様が多摩教会で最初に洗礼を授けたメンバーのひとりでした。
 字数が決まっているのであまり詳細は書けませんが、ひと言にまとめると、突然「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことに感謝しなさい」という声がはっきり聞こえて、「神様についに招かれた」と確信して、洗礼を決意しました。最初プロテスタント教会に行っていたのですが、大学のゼミのシスターから「どうしてもカトリックにして」と言われて、一度だけ行ってみる約束で多摩教会に行き、晴佐久神父様と出会って額に電気が走ってしまい、ここが私の場所だと確信しました。2009年11月から金曜日の入門講座に通い始めて、翌年の4月に受洗しました。

 前のプロテスタント教会には2年ほど通ったのですが、その間に洗礼に至らなかった最大の理由は、私が「今夜自分が死ぬとしても、天国に行けると確信していますか?」という質問にハイと答えられなかったことがあります。私には今、二人の大学生の子供がいますが、その上にもうひとり、妊娠38週、予定日目前に死産した息子がいました。彼を死なせてしまった私は人殺しだから、天国に行く資格はない、そう思っていました。
 初めて会った晴佐久神父様は、その超えられなかった壁をいとも簡単に取り払われました。「あなたがどれくらい信じているか、なんてどうでもいい。神があなたを招いているかを私は見る。あなたは間違いなく招かれていますよ」私の中で何かが変わりました。「今度の4月にこの聖堂で洗礼を受けましょう」との言葉に、思わず「ハイ」と返事をしていました。そして私は、「私のオアシス」に、ついにたどりついたのです。

 受洗した後は、目まぐるしい日々の中、晴佐久神父様が次々思いつかれるイベントのほとんどをスタッフとして駆け抜けてきました。去年、豊島神父様がいらっしゃってからも、相変わらずいろんなイベントのスタッフとして働いています。豊島神父様は、晴佐久神父様とはまた違ったタイプの、すばらしいタレントを持った神父様で、安心してついて行ける良い牧者です。いろんなことを深く考えていらして、とても信頼しています。

 2017年、下の息子が大学生になり静岡県での下宿生活が始まりました。突然私も半分一人暮らしのような生活が始まり、不覚にもちょっとウツ気味ですが、神様は私に次のステージを用意されているようです。
 受洗した日の日記に、「いろんな人にステキな贈り物をもらいましたが、なぜでしょう? 『花を咲かせてね』とか、『種まく人』とか、なんだかとっても植物を育てる人なコメントをたくさんの方にいただきました。信者になって、改めて周囲にお日様みたいな光りを注ぐ、種をまき、育てる人になりたい、としみじみ思います」、私はこう書いていました。
 人生も後半戦、元気に活動できる時間があとどのくらい残されているのかは分かりませんが、神さまのお仕事をこれからも精一杯つとめていきたいと思っています。

巻頭言:主任司祭 豊島 治「気づきます」

気づきます

主任司祭 豊島 治

 信徒館の外装塗装も復活祭までになんとか間に合い、外観がきれいになりました。近所の人も変化に気づいて声をかけてくださいます。改修の時期なのでこれから構内の整備がつづきます。

 その準備過程で司祭館内の棚移動などをしていたら、電話機棚でかくされた壁に:

 「御国がきますように」 と祈りながら、御国に呼ばれることを恐れるのはおかしい。
 《E assurdo dire “venga il tuo regno” e temere di essere esauditi.》

 という標語(?)が貼ってあるのに気づきました。前任の神父様が忘れて置いていかれたのか、後任の神父に気づかせたくてわざと残していったのかわかりませんが、私は日頃「恐れ」を感じたときにみることにしています。

 御国がきますように。
 私たちが常にささげている「主の祈り」にあることばであり、今年の主日は主にマタイ福音書が読まれていくことから、深めることができることばです。

 「さいわい(幸い)」という言葉もマタイ福音書を読むとその存在に気づきます。神の「さいわい」をうけると、安心し、更によき福音の光に照らされながら見て→聞いて→生きて→喜ぶといういのちの原則にかえることができます。人の良し悪しや、現在ただ今の状況と全く関係なくある不動のものです。

 マタイ福音書が「神は、わたしたちとともにある(1章23節)」という感動的な救い主の誕生の言葉ではじまり、「私は世の終わりまであなたがたとともにいる(28章20節)」という復活の救い主のことばでおわるのは、それらのことが共にあるという喜びを告げているかのようです。

 マタイ福音書をきいているうちに言葉のつかいかたに「縛りを感じる」という感想をいただきました。でもそのさきにある神様からの「さいわい」に心よせて、御国の本質に期待しながら秘跡を大事に、人との愛を尊びながら、与えられた一週間を大切に過ごしていきましょう。

連載コラム:「委員長2カ月を振り返って」

「荒野のオアシス教会を目指して」

やさしく、あたたかく、心からのオアシスづくり
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第76回
「委員長2カ月を振り返って」

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 中嶋 誠

 4月19日、「中嶋さん、『委員長就任3カ月を振り返って』で連載コラムの原稿をお願いできませんか?」と広報部からの依頼があった。「それでは」とばかり二つ返事で引き受けたものの、われに返って、「果たして、そもそも、私は委員長になって今日で何日になったの?」と文字通り指折り数えたら、ちょうど60日だった。「なんだ3カ月ではなくて2カ月なんだ」。
 2月19日多摩教会委員長に就任、24日聖書講座・友人と酒飲み、25日と26日鶴巻神父様指導の黙想会と「殉教者って?」の講演会に参加、
 3月1日灰の水曜日、3日初金家族の会での「沈黙」分かち合い会に参加、4日司牧準備会、12日司牧評議会、15日旧約聖書勉強会(於関口教会内)、17日歯科(チェック)、19日地区集会・多摩東宣教協力体会合、20日教区叙階式(於東京カテドラル)、21日カリタス・ジャパン(江東区潮見)訪問、23日病院(定期診断)、24日友人と飲み会、25日司牧準備会、
 3月27日~4月5日イスラエル巡礼旅行(成田→モスクワ→テルアビブ計16時間・カイザリア→ナザレ→ガリラヤ湖畔→ヨルダン川に沿って南下→エルサレム)、10日歯科(奥歯が欠けた)・車の定期点検、13日病院(風邪、喉ガラガラ)・主の晩餐、14日主の受難・聖書朗読A、15日復活徹夜祭・洗礼証明書授与式、16日復活の主日。
 この間の私のスケジュール表から項目だけをピックアップしただけでも、私は日々新たな、そして淡々とした、恵み豊かな信仰生活を送らせてもらっていると思う。一週間単位で新たな人との出会いがあり、気付きと発見があり、そして共感し、共鳴する日々を与えられている。心底そう思える。

 思い込みの激しい私は、そう思えるのもカトリック信者だからに違いないなどと、しなくても良い理由付けをしたがる。カトリック信者の責務? 職責?は、などと探究し解明したくなる。3年前に買った分厚い本『第二バチカン公会議公文書 改定公式訳』の教会憲章にある[信徒の定義]362にたどり着いた。

 「ここでいわれている信徒とは、聖なる叙階を受けた者ならびに教会において認可された修道身分に属する者以外の、すべてのキリスト信者のことである。すなわち、洗礼によってキリストのからだに合体され、神の民に組み込まれ、自分たちのあり方に従って、キリストの祭司職、預言職、王職に参与する者となり、教会と世界の中で、自分たちの分に応じて、キリストを信じる民全体の使命を果たすキリスト信者のことである。」

 ここで言う「王職」とはお世話役だ。考えてみれば、私はこの60日間、背中に腕を回し、かがみこんで畑地を見つめ、雑草があれば抜くも、その雑草の花に感じ入り、愛しむ隠居農夫のような世話役であった。心のオアシス、寄り道あればこその気付きと発見、共感と共鳴だったとそう思う。そう思いたい。皆さん、この隠居農夫をよろしくお願いします。

 イスラエル巡礼旅行の写真を一枚掲載します。ガリラヤ湖畔の草花、ガリラヤの風吹く丘の上で、こんな草花の上で、イエス様の山上の垂訓が行われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。イエス様はやさしい方であったに違いない。

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4月:「初金家族の会」からのお知らせ(次回は6/2・金)

「初金家族の会」からのお知らせ

 多摩教会脇を流れる乞田川沿いの桜花が爛漫と咲き誇った、四旬節第5金曜日の4月7日、豊島神父様はごミサの説教で「私のことば、私の差し出す手、私の祈りに、愛がこもっているでしょうか。今日のヨハネによる福音にあるように、様々な人の恨み、痛み、誤解、ねたみがイエス様を十字架に追いやったのです。御父が今、私たちを愛しておられることを感謝し、私の言葉が、家族に対して、人に対して、愛があるかどうか、いつも心に留めることが大切です」と話されました。

 続いての「初金家族の会」では、久々に一品持ち寄りのお鍋料理を囲みながら歓談のひと時を過ごしました。集まった心づくしの旬の食品数々は奥様方パワーで温かいうどん汁に変身、楽しく賞味しながら、初顔合わせの方々とも話がはずみ、信仰家族の絆を深めましました。

 5月5日には、初金ごミサはありますが、家族の会はお休みで、次回は6月2日に開催の予定です。
 「みんな違って、みんないい」、気楽な雰囲気の中で、諸先輩の貴重な体験談も聞ける1時間の「初金家族の会」です。どうぞ、どなたさまも初金ごミサのあと、信徒館にお立ち寄りください。

巻頭言:主任司祭 豊島 治「桜 咲きます」

桜 咲きます

主任司祭 豊島 治

 現在多摩教会信徒館は外壁塗装をはじめとする修繕工事をしています。
 周囲は足場で囲まれ、復活祭までの完了にむけて朝から夕方まで作業が進められているのです。
 夜は時々多摩教会駐車場を我が家にしている白い猫たちが運動不足を解消するように作業足場をつかって上り下りする光景となります。かなり真剣です。

 外壁の工事と併せるかのように、教会の暦も四旬節にはいりました。復活祭までの四旬節の最中、洗礼志願者とともに過ごすのと同じく、愛の献金がよびかけられ、献金袋・箱、趣意書を含めたよびかけの文書がキャンペーンとして皆さんに渡されます。特に復活祭にむかう聖週間、木曜夕に教会で行われる(今年は13日19時から)「主の晩餐の夕べのミサ」奉納の式文朱書きには以下のように記され、典礼とのつながりも感じます。

 『感謝の典礼のはじめに、信者は(供え物といっしょに)貧しい人を助けるために集めたものを行列して運ぶことができる。その間「愛といつくしみのあるところ」を歌うことができる』

 この愛の献金は毎年12月の司教総会で採択され教会の皆さんにつたえられます。カリタスジャパン担当者会議において趣旨を定め、全司教の決議をもって実施されるのです。カリタスジャパンのベテラン委員さんは「昔、償いの献金といわれて長く続いている四旬節の愛の行為だよ」と教えてくださいました。私は子どものころからあのデザインの献金箱に記憶がありますが、そこまでとは知りませんでした。
 4月2日にカリタスジャパン援助部会秘書の瀬戸神父さまにいらしていただいて、具体的な四旬節の過ごし方や、カリタスジャパンについて教えてもらえる機会、そして黙想につながる講話をお願いしています。午前中聞き逃した方、確認したい方のために午後「補講」という時間を設定しています。カリタスジャパンは共催という形で協力し、他のサポートもしてくださるでしょう。ご参加ください。

 復活祭が近くなると桜の開花が期待されます。
 「桜の時期に多摩教会にいってみたくなる」と多摩教会を知っている人は、よく話してくださいます。もっとも期間限定しなくても、いらしてほしいのですが。

 多摩センター駅から歩き始めて乞田川(こったがわ)沿いの桜並木をながめて多摩教会のミサにいらしてはいかがでしょうか。聖橋までの乞田川両脇約3キロにわたり、500本以上の桜が咲き誇ります。並木道のおよその終点が多摩教会なので、いわば折り返し点として考えられます。反対側の道をつかえばミサ行きと帰り道では別の眺めが楽しめます。川面の様子もオススメです。日頃、運動不足の方は片道3キロコース所要時間約一時間の散歩となります。普段使う交通手段をかえて遠回りもいいものです。桜のつぼみを愛(め)でながら、春の喜びを祝う準備を大事にしましょう。

201703jyokai-M2017年3月20日 東京教区司祭叙階式 : 新司祭に按手する豊島神父(中央)〕