洗礼を受けて(受洗者記念文集)

音羽 美喜(仮名)

 このたびはカトリック多摩教会に温かく迎えていただき、どうもありがとうございました。

 去年の5月に初めて入門講座に顔をだし、それから1年経たないうちに自分が洗礼を受けるとは1年前までは全然想像していませんでした。これも神様のお導きというのでしょうか。
 初めて入門講座に行った日のことをよく覚えています。最初に神父様に年齢や住んでいる所、来た理由などを聞かれ、その時に、「教会には今若者が少ないから、今日だけにしないで、ぜひこれからも来てね」と何度も言われ、しまいには「羊羹あげるから」と言われ、本当に講座が終わった後、こっそり羊羹を私の前に置いてくださり、ビックリしました。
 もちろん、お話が心にくるものがあり、また聞きたいなと思ったのもありますが、何より神父様自身面白いお人柄だな〜と思い、それから毎週入門講座に通うようになりました。お説教を目当てにミサにも行くようになりました。入門講座の仲間たちや雰囲気、そして神父様のお話が、1週間の私の楽しみであり、心のオアシスでありました。
 もともと遠藤周作や三浦綾子の作品が好きで、それがきっかけでキリスト教に興味を持ち、神父様のお話が無料で聞ける入門講座、どのようなものか1回だけ参加してみようか、という軽い気持ちで足を運んだのに、まさかこんなにどっぷり教会に浸るとは思いませんでした。

 正直、洗礼を受けたことによって、「救われた!」や「楽になった!」とうような実感を2カ月たった今でも持てず、良いご報告ができなくて申し訳ないのですが、教会に通い始めていろんな方と知り合い、お話し、苦しかった時も福音によってたくさん勇気づけられたのは、洗礼による救い以前に、とても良い実りでした。この教会に出会えて良かったです。私は、洗礼はゴールではなくて神様の愛をより感じられるためのひとつのステップだと思っています。これから先振りかかるさまざまな試練、困難の時も、神様はずっと見守っていてくださっている、すべて大丈夫、ということだけは忘れずに、時間かかってでも少しずつ信仰を深めていけたらいいなと思います。

『十字を切る』を読んで(受洗者記念文集)

鈴村 さくら(仮名)


 4月19日、無事洗礼を受けることができました。晴佐久神父さま、そして関わってくださったすべての方に、心から感謝申し上げます。
 自分でも驚いたことに、聖木曜日から熱を出してしまい、復活徹夜祭当日は39度以上ありました。どうにか洗礼式に出席した、という状態でしたが、ともかく、無事水をかけていただくことができました。本当に嬉しく思います。
 私が洗礼を受けたいと思ったきっかけは、晴佐久神父さまの『十字を切る』でした。
 一昨年の年の瀬、なぜか、ふと「十字ってどうやって切るんだろう?」と思ったのです。
 インターネットで調べてみると、すぐにわかりやすい解説が、いくつか見つかりました。と同時に、ヒットしたのが『十字を切る』でした。
 気軽な気持ちで購入し、読み始めました。そして、〈はじめに〉に書いてあった「それは、あなたが神に愛されているしるしです」という文章を読んだところから、もう泣き出していました。
 そのまま泣きながら、読みました。読み終えると、また最初から読み始めました。
 自分でも気がつかないくらい深いところにあった悲しみを、なぐさめてもらった気がします。
 10回以上繰り返して読みました。文字通り、風呂場まで持ち込んで、ぽろぽろと涙を流しながら読み続けました。

 当時、私は大阪に住んでいました。が、生活を大きく変えなければならない状況に陥り、埼玉の実家に戻ることを決めたところでした。ですので、「埼玉に帰ったら、絶対に晴佐久神父さまの話を聞きに行こう」と心に決めました。そして、その希望通り、一年間入門講座に通うことができました。
 『十字を切る』には、さほど書いてあるわけでもないのに、読み終わってすぐに洗礼を受けたいと考えていたように思います。でも、頭では必死で抵抗しました。その理由はいくつかありますが、一番悩んだのは、「楽をしたら悪いかな」ということでした。「洗礼を受けたら、ある部分、すごく楽になるんだろう。でも、それは、自分ときちんと向き合っていないことになるのではないか」という思いです。
 でも、それもそのうちに「楽をしてしまってもいいかな」という考えに変わりました。悲しいこと、つらいことはこれからも起こります。それと向かい合うとき、神さまと一緒だからということで、逃げていることにはならないだろうと。
 それに、頭で一生懸命否定しても、こんなにも洗礼を受けたいと思っているのだから、そこにも意味はあるのだろう、と考えました。

 水をかけていただいた時には、やはり感動して涙が溢れてきました。確かに力をいただいたように思います。
 晴れてキリスト者となりました。十字を切って、ご聖体をいただいて、いつも自分の中に神さまがいてくださると信じて、毎日を過ごしていきます。
 晴佐久神父さまの言葉が、私を、生きている神さまのところへと導いてくれました。
 本当にありがとうございました。

普遍的な救いの証し人として (受洗者記念文集:晴佐久神父巻頭言)

主任司祭 晴佐久昌英

 「洗礼を受けたから救われるのではない。救われたから洗礼を受けるのだ」
 入門講座では、よくそのようにお話しします。
 洗礼は救いの条件ではなく、救いの結果だからです。
 救いとは、「神と人が親子として永遠の愛で結ばれている」状態です。それは、およそこの世に生まれたすべての神の子に、すでに、初めから与えられているものです。人はそれを知らないから苦しみますし、それを知って信じた者は心から安心し、喜びと希望に満たされ、それを信じる教会の一員となるために洗礼を受けます。
 その意味では、「救われたから洗礼を受ける」というのもまだ不正確で、正確に言うならば「すでに、初めから救われていることに目覚めたから洗礼を受ける」というべきでしょう。
 わが子を救えない神を神と呼んでも意味はありません。神はすべての人を救う神であり、神の子たちはそれを知って喜ぶために生きています。つまり人は、洗礼を受けるために生きていると言ってもいいのです。

 今年の新受洗者の記念文集をお届けします。
 39人の受洗者一人ひとりが、洗礼への熱い思いを語っています。皆、かつては自分が救われていることを知らずに苦しんでいましたし、福音に出会って救いに目覚める喜びを体験してきましたし、その救いの証しとして、洗礼を受けた人たちです。
 この受洗者たちを見れば、神さまは本当にまことの親であり、私たちは皆共に天の父と親子として永遠の愛で結ばれていることを確信できるでしょう。
 すでに洗礼を受けて久しい人たちも、自らの存在そのものが救いの証しとなっているのだという誇りを取り戻して、いっそう普遍的な救いの証し人としての使命を果たしていただければと、願ってやみません。

懐かしい場所(受洗者記念文集)

デュナミス(仮名)

 プロテスタントの友人と一緒に初めてカトリック教会のミサに行った時、なぜだかとても懐かしく感じ、涙が出ました。初めて行った場所なのに、まるで故郷(ふるさと)に帰ってきたかのような不思議な思いがしましたが、そうしてミサにとても魅力を感じた私は、その後、時々一人で晩のミサに通いました。とはいえ、以前居た、とある諸派ではカトリック等の正統教会に対しての偏見を教えられていたため、カトリックで求道すること、まして入門講座に通うのには非常に大きな抵抗がありました。

 やがてネットで多摩教会の晴佐久神父のことを知り、その話を聞くうちに、どうしてもその教会に行ってみたいという思いが強くなり、勇気を出してようやく入門講座に通うことができました。そして、ミサというものを神学的な意味でも理解できました。初めて経験したミサは、私にとってはまだ知らずしてずっと憧れた故郷(天国)の先取りだったのです。(カテキズム1090 地上の典礼は天上の典礼にあずかる)

 この春の復活徹夜祭で、洗礼を受けることができました。洗礼によって消えない霊印を受け、神の子の一人としてご聖体にあずかれることに、大きな喜びと満足、そして安心感を抱いています。それと同時に、できればもっと早く、人生の若い頃にカトリック教会で洗礼を受けたかったという思いも強く、それまでの人生で大きな回り道をし、健康も損ねてしまったことが残念です。過去はもはや変えられないので、仕方ないことですが、辛いことが多かった回り道の人生にも、キリストが共にいて、導いてくれたのだと思っています。

 「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(ヨハネ6章44節)