ひとりぼっち・・・?(受洗者記念文集)

ブリジッタ 山下 大輔(あずさ)

 先日、4月19日に洗礼をお受けして、心の変化、受けるまでの気持ちを書かせていただきます。
 昨年、9月6日、8年間、私のことを理解し、共に暮らし、常に側で支えてくれていた、最愛の人が天に召されてしまいました。乳癌でした。
 1年半による苦しい投薬治療にもかかわらず、常に笑顔で、元気な時と同じように仕事から帰ってきた私を出迎え、仕事の愚痴やその日あった楽しいこと、悲しいことを、時に笑顔で、時に一緒に泣いてくれる優しい人でした。
葬儀が終わった後、私は、彼女と同じ場所に行くことしか考えていませんでした。富士山へ行こうか、彼女の実家の仙台の海に潜ろうか等考えていました。この海が、名取のゆりあげという地区で、とてもきれいな海で、よく二人でお散歩したんです。今はがれきもなくなり、思い出と共に更地になってしまいました。

 2週間ほど家に引きこもり、何もすることができず、毎日遺影とにらめっこ、泣き続けていました。遺品整理のため手伝いに来た彼女の親戚が心配し、「少し外、散歩しておいで」と言われ、あまり乗り気ではなかったのですが散歩に出ました。
 その散歩の途中、不意に見知らぬ女性に、声をかけられました。振り向くと見慣れないシスターが、私に、「つらかったでしょう。お疲れさまでした」と、いきなり言われ、ロザリオをくれました。そして、「一度、教会に来てごらんなさい」と言われ、去っていかれました。
 近くの修道女会で、その週の日曜日、高校以来のミサに参加しました。少し通ううち、「洗礼を受けてみては」と言われ、「きっと見える世界が変わるよ」と。でも受けるには教会の共同体に所属しなくてはいけないよと言われ、その週の日曜、近くの教会に足を運びました。
 受け入れてもらえませんでした。《白い羊の中の、黒い羊はいじめられるから》と・・・・。
 理由は、子どもやご近所に悪影響が出るかもしれないということでした。

 そのことを管区長様に伝えたところ、「一人面白い神父さんがいるから、そこに電話してみたら」と晴佐久神父様を紹介していただきました。
 電話で、かくかくしかじかと伝えたところ、「変わっててもいいじゃない! 一度来なさいな」と。私自身、神父様のお名前は、著書を持っていて10年ほど前から存じていましたが、イメージが少し違い戸惑いましたが、年明け、多摩教会に初めてうかがって、第一印象は(なんか自分の家みたい・・・)でした。
 皆さん優しく、子どもは元気で、神父様に初めてご挨拶した時は、「何だ、ふつうじゃん」と思わぬ返しを頂き、心で、(ただいま)って思いました。
 志願書を出し、神父様に許可を頂き、あと2カ月で彼女のいるお空に近づけるんだと思い、わくわくのんびり、準備をしてました。しかし、入門講座や他の所で、他の志願者の方の洗礼の思いや、心構えを聞いているうち、私の洗礼を受けたい理由が他の人ほど、熱くないんじゃないか? 受けるに値しないんじゃないか? と不安な日々を過ごしていました。
 辞退しようか考えてたとき、仲良くなった人に、「理由なんていいんだよ。あなたは、選ばれたんだから。あずはあずのままでいいんだよ」と言われ、(これが私の道なんだ)って思いました。

 洗礼式の日、味わったことのない緊張を抱え、席に着きました。自分の番が来るまで震えが止まらず、頭の中に、「お前なんかが受けていいの?」、「今ならやめれるよ」と、いろんな言葉が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え・・・・・・。
 いざ順番が来て、水をかけられたとき、不思議と震えは消え、頭に浮かんでいた言葉もどっかにいってました。
 他の皆さんほど、熱く燃える理由、想いにはかないませんが、何というかほっとして、この気持ちをいろんな人に知ってもらいたい、聞いてもらってもいいんだって。
 天の彼女も、「あら、いらっしゃい」って言ってくれてるみたいに、遺影の顔が笑顔になっていました。

 これからは、CN(クリスチャン・ネーム)に頂いた、「ブリジッタ」に恥じることなく、人のために、皆のために、できることをしていきたいと思います。かなりの変わり者ですが、皆さま、これからよろしくお願いいたします。
 まとまりのない文書ですが、お世話になります。

 みんな、ただいま!!

多摩教会との出会い(受洗者記念文集)

アーデルハイト 川島 悠紀(仮名)

 息子が小学校6年生の時、DV・児童虐待・不倫を繰り返す夫から逃げて、関西から2005年の10月17日に東京に来ました。

 関西にいた頃、簡単には別れてくれない夫。不倫とDV・児童虐待、夫の日常にも似た度重なる行為で心身ともに疲れ切り、うつ病になってしまい、精神科で処方される精神安定剤を多量に摂取していました。精神科の主治医に、「先生もっと薬をください。このままじゃ生きていけませんっ!!」 と診察のたび泣きつき、切迫した状況が続く中、デパス(精神安定剤)を多く処方してもらいました。それでも精神安定剤が足りず、近所の心療内科へも行って、またそこでも多くのデパスを処方してもらっていました。精神安定剤をかき集めてもかき集めても足りず、かき集めた精神安定剤を少なくない量のアルコール度数35%の酒で流し込み、その薬の効き目を増幅させることを繰り返ししていました。身も心もボロボロ・・・地獄でした。

 ネット友達のプロテスタントのTさん、同じくネット友達のWさん、お二人の尽力のおかげで関西から関東へ逃げ、DV・児童虐待の苦しみから解放されました。ですが、うつ病は治りません。東京へ来て最初の頃、懸命に職探しをし、ホームヘルパーの資格を取り就職したものの、薬をなくしてしまい、すぐパニック状態に陥り外出する事ができなくなり、「今日、仕事を休みます。もう行けないかもしれません」と早朝6時に泣きながら事業所長へ電話をした事を思い出します。その後療養のため休職、そして仕事を辞めてしまうことになりました。
 以降、家に引きこもり、死ぬことばかりを考えていました。死ぬことばかりを考えているのに、精神科の主治医は30錠が致死量のべゲタミンA(睡眠薬)を月60錠も通院のたびに処方してくれます。大事な息子をおいては死ねないと踏んだのでしょうが。それが意外にも私には幸いしていたのです。「いつだって死ねる」

 そんな中、一昨年の秋頃、ネット友達のプロテスタントのTさんから、2011年7月26日(火曜日)、サクラファミリアにての聖トマス大学 夏期神学講座の晴佐久先生の講義 『俗は聖の器』の動画を見るように勧められました。それ以降、もう食い入るように何度もその動画を見ました。何度も何度も見ました。本当に素晴らしかった。私が求めていた素敵な優しい言葉ばかりで埋め尽くされていました。それが私とカトリックとの初めての出会いでした。
 晴佐久先生の動画を見るうちに、ネット友達のTさんから、メトロ東池袋(自宅近く)から数駅先のメトロ市ヶ谷駅からすぐのところ、援助修道会で第三土曜日、晴佐久先生の「お帰りミサ」 があるからと、ミサの2日前に電話で強引に誘われ、引きずられるようにして生まれて初めてカトリックのミサに参加しました。いつも支えてくださったネット友達のTさんとリアルでお会いするのも初めてで感動しました。そして、憧れていた晴佐久先生に念願かないお会いすることができました。
 援助修道会の 「お帰りミサ」では、晴佐久先生のお話で今の状況・古傷などを思い出し、涙が止まることなく困ったこともあります。

 「おかえりミサ」に行くようになった数カ月後、東京へ来て数年後に出会った千葉に住むネット友達から始まった彼に、晴佐久先生の講義の動画を見て欲しいと頼みましたが、宗教嫌いの彼は、なかなかその動画を見てくれることはありませんでした。大げんかになり、別れるのどうのというようになって初めて、晴佐久先生の 『俗は聖の器』を見てくれました。それは感動の出会いで。
 それから間もなく、彼と私は連れ立って、晴佐久先生の「おかえりミサ」に行くことになりました。ところが彼は私よりも熱心にメモ帳に何かを書き留めながら、晴佐久先生の説教を真剣に聞いていました。
 それが一年近く続いた頃、多摩教会の「ここクリ」に連れて行ってくれると彼が約束してくれました。とんでもなく嬉しいクリスマスプレゼントでした。初めて多摩教会を訪れ、それはそれは天国のような時間が過ぎました。後、入門講座に初めて行った時、「どうしても洗礼が受けたいです」と申し出、代母さんを教会員の方に引き受けていただき、4月19日カトリック多摩教会で洗礼を受け、今に至ります。(^-^)

 ホームヘルパーをしている時に利用者様に言われました。「あなた、クリスチャンでしょ?? 私、病院の総婦長してたから人を見る目はあるのよ。(笑)」そう言われて何年経ったでしょうか。私は本物のクリスチャンになりました。もっともっと本物のクリスチャンになるように、皆さまのご指導のもと励みたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。

教会最高!(受洗者記念文集)

SENA ルイ(仮名)

 僕は小さいころから、調布教会のボーイスカウトに入っていて、ミサにも出たりしていました。
 多摩教会は、お母さんが楽しそうに行っていたので、僕も行ってみようと思いました。 晴佐久神父さまの話を聞いておもしろくて、また聞きたいなぁと思いました。
 ミサも教会によって違いました。多摩教会の方が気軽に行ける感じです。初めはただ教会なんだと思っただけだったけど、行ったらすごく楽しいことがわかりました。
 あんなに人と話をしたり、おやつ食べたり、フレンドリーな感じとは思ってなかったので、最初びっくりしました。でも僕はその感じがいいなぁと思いました。
 洗礼を受けたら、気持ちがスッキリして落ち着いた感じです。「ミサより大切なものはありません」という、晴佐久神父様の言葉が好きです!
 教会最高です!!

神様の愛に包まれて(受洗者記念文集)

KOKO マリア・クララ(仮名)

 洗礼を受けて、言葉にならないほど溢れる愛と、幸せに包まれています。
 目に見えない素晴らしいものをたくさん感じています。
 多摩教会との出逢いは、お友達に誘われて初めて訪れた、金曜日の入門講座です。昨年の秋のことです。
 初めての場所が苦手な私は、たぶん不安そうな顔でいたのでしょう。教会に入るとすぐに、入門係の人が優しく声をかけてくださいました。そして、晴佐久神父様の初めてのお話は「天の救いと地の救い」でした。
 この日のことは今でも忘れられません。難しいことは何もありませんでした。晴佐久神父様のお話が、すぐにすぅっと心の中に入って、今まで私の心の中にあった想いが、神父様の言葉になってあらわされたようでした。

 ちょうど1年前に私は離婚して、子供達を連れて家を出ました。それまで自分というものを、当たり前に押し込めて、家族のために仕事と家事育児をしてきました。長男にディスレクシアという発達障害があるとわかった時も、人ごとのように言う夫に頼ることもできず、一人でやってきました。
 こんなふうに、すべてのことにおいて、誰にも相談できず、時間がかかっても自分だけでなんとかしてきました。誰かに相談できていたら、もっといい結果になっていたのではないかと思うこともありました。自分を好きになれなくて認めてもらった経験がなく、自分のことを大切に思えなかったとき、「すべての人はすでに救われている」、「生まれながらにして神様の愛に包まれている」という晴佐久神父様の言葉に、とても驚いたと同時に、ホッとしてとても穏やかな気持ちになりました。神様がくださった私の命をもっと大切にしよう、と思えるようにもなりました。
 洗礼前の面接で晴佐久神父様が言ってくださいました。「今までつらい思いをたくさんしてよくがんばってきましたね。これからは何も心配しないで教会を自分の実家と思ってください。教会の仲間は家族ですよ」。息子のことも、「神様に選ばれた子。素晴らしいじゃないですか」って言ってもらえた時は、今までがんばってやってきたことが、間違ってなかったと思うことができました。そしてここが私の居場所だとわかって、今までにない安心感と幸せで満たされています。

 初めて多摩教会を訪れてから半年、神様のお導きによって洗礼を受けることができました。
 洗礼を受けて、晴佐久神父様が言っていたとおり、受ける前とはまったく違うと感じています。言葉では表せない、目に見えない愛で守られている感覚です。まだこれからの人生、つらいこともたくさんあると思いますが、もう大丈夫です。つらくても大変でも、大丈夫って思えるようになったこと、そんな時にこそ神様の愛を感じられるようになったことに感謝します。

KOKO

【目次】2014年 受洗者記念文集

カトリック多摩教会では、2014年復活徹夜祭に39名の方が受洗されました。
受洗を記念して作成された文集のうち、
ホームページに掲載を許可してくださった18名の方の文章をご紹介いたします。
ひとりでも多くの方と、福音の喜びを分かち合うことができますように。

なお、無断でのコピーや転載は、
いかなるメディアにおいてもご遠慮くださいますよう、お願いいたします。

ご覧になりたいタイトルをクリックしてください

主任司祭巻頭言

更新日主任司祭巻 頭 言
2014年10月7日晴佐久 昌英 神父普遍的な救いの証し人として

新受洗者(2014年復活徹夜祭)のことば

更新日新受洗者氏名(仮名を含む)タイトル
2015年4月1日ブリジッタ 山下 大輔(あずさ)ひとりぼっち・・・?
2015年4月1日アーデルハイト 川島 悠紀(仮名)多摩教会との出会い
2015年4月1日SENA ルイ(仮名)教会最高!
2015年4月1日KOKO マリア・クララ(仮名)神様の愛に包まれて
2015年3月31日天野 はるみ(仮名)ひとつひとつ。
2015年3月31日外山 修一(仮名)巡り巡って示された道
2015年3月31日永田 友次(仮名)洗礼を受けて
2015年3月31日本多 聖子(仮名)生まれなおした喜び
2015年3月30日フェリクス(仮名)キリストに入る前と入った後
2015年3月30日ルフィナ(仮名)教会に入ったきっかけ
2015年3月30日響 めぐみ(仮名)洗礼を受けて
2015年3月30日海田 優二(仮名)感謝
2014年12月1日高山 光輝(仮名)帰るべき場所
2014年11月9日Elizabeth(仮名)天国への扉は開かれた
2014年10月28日倉田 麻理(仮名)洗礼を受けて
2014年10月28日音羽 美喜(仮名)洗礼を受けて
2014年10月15日鈴村 さくら(仮名)『十字を切る』を読んで
2014年10月7日デュナミス(仮名)懐かしい場所

 

ひとつひとつ。(受洗者記念文集)

天野 はるみ(仮名)

 「あなたは(うらや)ましいほど復活を信じられているのに、そんなことも知らないのね」と母に言われます。なんにも知らないので、吸い取り紙のように楽しんでいます。
 「聖霊降臨は教会の誕生日だよ」と去年の入門講座で初めて知りました。
 入門講座は天国です。まだまだ足りないお勉強中の身。
 身近に起こる小さなお恵みが山のようにあり過ぎて、ご復活節の間中、喜びを噛み締めていました。寛容なキリスト者の集まりに感謝ばかりです。

 今年の聖霊降臨はすごい一日でした。土曜の入門講座の始まりに、パパ様からのお手紙を神父様が読んでくださった。なんとも幸せなお手紙に頭がぴりぴりしました。カトリック教会とひとつになった者にとって、とってもわかりやすい素晴らしい誕生日プレゼントです。
 世紀の瞬間? まさに平和の始まりになるやも知れぬ大きな祈りの輪に、今度はわたしも加わっている♪ 平和を願い祈る人が心をひとつにする。その手紙の「善意の人」に向けられている言葉の素敵さに、入門講座できいた素敵すぎるカトリックを思い起こしました。教会の外もカトリック。カトリックなキリスト者がひとりいれば、どんなつらく、ひどいと思われることをも、どんな絶体絶命の最悪としか思えないときをも、神さまに「よろしうに」と人事を尽くし天命を待つ。そこはもうパラダイスのはじまりにできる真逆スイッチなひとりひとり。

 25年前、父の病室のテレビでベルリンの壁が崩されているのを遠いどこかのできごとと見ていたことを思い出します。同じ頃、やはり世の平和を願いつつも、身近なわたしの父のため家族のために何度も何度もごミサで祈ってくださった、たくさんの修道会のシスターや、たくさんの教会の方々の祈りがありました。「会ったことも見たこともない人が、自分のために祈ってくださっていた」その祈りの御礼に父も洗礼を受けました。
 今度はわたしが、会ったこともない見ず知らずの今苦しむ人へ。愛する人たちのために祈る。そして身近な人の今耐え忍んでいる苦しみを、それがあったからこその越えた先の幸せを心から祈ることができる。越えさせてもらったからこそ祈りたい。洗礼によりパンにより、今得たココに集められた祈りあえる仲間の後ろ盾のなんと心強いことか。過去の祈りの感謝をも天から祈ってくれている感謝をも、今の祈りに溶けこませることのできる幸せ、そして、確かに祈られていると信じられる幸せをひしひしと感じています。

 父なき後、復活の意味をわからせてくださったのは、「お墓の神父さま」でした。回を重ねた慰霊のごミサで、「わかった!」の瞬間がありました。父がいるのを感じて生きてこれた。「お墓の神父さま」が、わが家の教会の神父様となられ、「いきましょう」と力強く言われるミサの終わりに、また、「わかった!」の瞬間がありました。
 ココに集まっているひとたちはいい話をきき、自分も癒され、いたらぬところも認め清められ、このいい話を心に持って強められ世の中をよくするために、この言葉をひろめるために、毎週ここに集まって派遣されているのか?! と納得しました。

 それでも、洗礼は誰か大切な人の大変なときのために受けるものと思っていたわたしにとって、時はまだでした。
 「初めての教会で願い事が三つかなう」というジンクスを母に聞いたことを思い出し、(近くの教会へ祈りにいこう。「多摩教会」ってあった!)と地図で探してやってきた御ミサで、「いきましょう」を聞き、(・・・あれ?!・・・こんな神父さまだったっけ・・・)と思いつつ、(二つの「わかった」を御ミサでわからせてくださった晴佐久神父様ならば入門講座に出てみよ♪)と。「ミサに出てるだけじゃね。仲間をね」と洗礼に導いてくださいました。洗礼を受けたらその言葉がよくわかるようになりました。
 パンをいただいてみないとわからない心持ちがあり、いただいてこそわきあがってくる『一緒にいただこ♪』というつながり。
 信じる人にとってのパンの凄さを目の当たりにしてきたけれど、自分の事になるとギリギリまで「パンがわからない」と言っている私に、神さまは私が信じる大切なヒトたちを通して何度も教えて下さいました。
 初聖体でパンをいただいた小さな友達に「どうなるの?」と教えてもらい。受洗前に出かけた黙想会では「食べなさい」という声がきこえたというお話をきき。パンを大切にするヒトたちの揺るぎない姿をもって。
 まだわからないわたしでも、自分のことはどうでもいいかになってしまうわたしでも、大切なヒトたちの大切を大切にまっすぐ受け止めたいという思いにこたえ「お食べ」と言ってくださる。
 四半世紀の間ごミサで祝福されつづけ、心地好いぬるま湯にふやかされ続け、既に教会に受け入れられている家族である感覚の中、それだけで十二分にありがたく満足しそれ以上を求めたことのないわたしにも、「いいから早くお食べ」と神さまはおっしゃってくださる。
 いただきま〜すと分け与えられるこの喜びを、ぜひご一緒にと申し上げたい。

 まだパンをいただくだけで精いっぱいですが、「十字架あっての復活」、「なにも恐れなくてよい」というバージョンアップされ強められた復活信仰が、なにより嬉しく感謝しています。
 パンはひとつ。教会はひとつ。なすべきことはただひとつ。みんなひとつ。
 今の気持ちを忘れずに一日一日新たにいつも喜んでいたいと思います。
 神父様の目のキラキラをみんなにわけてあげたい。目下の小さな目標です。

巡り巡って示された道(受洗者記念文集)

外山 修一(仮名)

 静寂の中、晴佐久神父様の手から私の白髪頭に予想を超えた量の聖水が掛けられ、私は待ちに待ったキリスト者の仲間入りを果たすことができました。その瞬間、私の体中に、安堵感が駆け巡り、喜びで満たされました。入門講座に通う前の私には、こんな気持ちになるとは、考えられなかったことです。
 私は、今年68才になります。家内がミッション・スクールで学んだこともあり、教会で結婚式を挙げましたが、正月ともなれば神社に参拝し、また親族の法事に参加はするが、宗教の神髄やその教義には触れようとしない典型的な日本人でありました。それが、30代に入ると、仕事の関係で、外国企業と折衝することが多く、その結果にかかわらず相手の結論を導き出す思考プロセスや視点の違いが気になりだし、次第に、相手を理解するには思想基盤そのものとも言える信仰・宗教を持つことの必要性を痛感するようになりました。37才から65才で退職するまで、途切れることがなかった海外駐在生活の中で、歴史探究や観光で教会を訪れ、メキシコでは、家内が行く日曜礼拝の運転手として教会に出入りしていました。
 人間、年を重ねれば重ねるほど、何事においても、前に一歩踏み出すのにはそれなりの準備を要します。踏み出して振り返り、今の立ち位置を知るのではなく、踏み出す前に踏み出した後の立ち位置を知ろうとするものです。私の場合も例外ではありませんでした。まずは特定の信仰心を持たず比較研究しようとばかり、宗教社会学の本を数多く読みました。一時期、浄土真宗の信者としても有名な小説家の本を読んでいたこともあります。江戸後期に書かれたお経の論評書「出定後語」も手に取りました。研究を超え、達磨の教えの直指人心、見性成仏の禅宗にも魅かれるものがありました。
 サウジアラビアに長期出張した際のホテルのベッドの中では、街中に響き渡る朝のコーランの祈りで目を覚まし、比較研究の中にイスラム教も入れねばと自らの好奇心を掻き立てていました。このように比較研究の旅は続いていたのです。
 それが、これも家内の送り迎えの運転手として、参加した昨年4月の第一回入門講座の席での「我々は、神が会わせてくれた血縁を超えた家族」とのお話に、「これだ、この共同体に入りたい」との念がその場で芽生えました。それに加え、6月の第二バチカン公会議の教会憲章16項に関する神父様の説明で、「公会議で、カトリックの普遍性について語り始めた。すべての人は救われる。従来のカトリックの教会の外に救いなしは変わらないが、すべての人が救われるのは、いかなる意味においても、すべての人がカトリックの教会に属しているゆえにである」とあり、比較研究は止め、「カトリックの信者になりたい、ならせて欲しい」となりました。石橋をたたき理論先行の自分に柔らかい光がさし、運転手がもう完全な求道者になっていました。
 晴佐久神父様、入門係の皆さま、仲間の皆さま、お導きをありがとうございます。今や私は信仰を持った、それも世界人口の中で、マジョリティのキリスト者、イタリア人の友人から「これでお前のことは理解ができる」との受洗祝いのメールがありました。

洗礼を受けて(受洗者記念文集)

永田 友次(仮名)

 今回、洗礼を受けてみて、自分とキリスト教との出会いの変遷について考えてみた。自分がはじめて、キリスト教と出会ったのは、小学生のころのことである。5歳から9歳くらいまでの間、長崎県北松浦郡小佐々町(現在は、佐世保市に編入)というところに住んでいた。そこは、住民の多くが、漁業で生計を立てている漁師町であった。小学校では、私は近所に住む友人からいじめられ、泣かされて帰ってきたものである。
 そんななか、私は自分の住む地区と隣の地区(神崎)に住む子どもたちととても仲良くなり、日曜日には、自分が住む楠泊から神崎までよく遊びに行っていた。神崎に行くと必ず、朝にはその地区のカトリック教会のミサに友人たちが出席するため、私もその子たちとともに、ミサに参加していた。その地域は、かなり以前から(16〜17世紀から?)、地区全体がカトリック信者の多い地区だった。小学生だった自分にとって、カトリック教会のミサは、とても不思議なものに満ち溢れていた。ミサの最後には、神父さんからみんなパンをもらいに行くのだが、友人からは、「これはカトリック信者じゃないともらえないんだよ」と言われ、とても残念な気持ちになったものだ。
 神崎地区の子どもたちは、とても優しかった。家族で漁師をしているところが大半で、みんな海の湾に平気で飛び込み泳いでいた。私は、親から泳ぎを教わったこともなく、泳ぐことはできなかったが、そんな自分をバカにしたり、からかったりすることもなく、そんな自分でも、みんなに温かく受け入れられていたことを、昨日のことのように思い出す。その地区の子どもたちや大人たちが、カトリックの教えを信じ、キリストの導きの中で、他人に優しく接することができるとは、小学生の当時は考えていなかったけど、今から振り返ってみると、おそらくそういうことじゃなかったのかなと考えている。
 私たち家族は、その後、小佐々町から転居をし、私もキリスト教会に通う日々からは、離れることになった。それでも、当時の私が漠然と抱いていたキリスト教の「愛」の教えは、私の心の中に刻みこまれ、私自身が、落ち込んだり、悩みの中にあるとき、文学作品を通じて、そして、職場の同僚の生き方を通じて、イエスの生涯やキリストの教えにふれる機会がたびたびあった。
 今回、多摩教会の一員として迎え入れていただいたことを、とてもうれしく、また誇りに思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。