人間は宇宙の愛

鴨田 英子(仮名)

 すべての明かりを消した真暗闇から突然天に突き抜けるような、神父様の力強く美しい祈りの声でスタートした洗礼の式典は、予想をはるかに超えた幻想的で厳粛なミサに感動しました。
 母の胎内にいる様な感じの温かさ、教会の皆様の心を尽くした最高のお世話、喜んでくださる微笑み、代親のシスターが折に触れ握り締めてくださる本当に温かい手の印象は忘れられない。何より10年も前に先に受洗し、家にあってもカトリックの話や、本の購入、教会への誘いと、陰の絶大な力添えをし続けた娘は、前夜に書いた喜びのカードを持参していて、式典後渡しながら抱きついてきた。
 そのカードの「大切なママ…」と始まる文章に、私は産んだ子どもに私が再び誕生させてもらった…という思いと、導きの方向に共に歩いてくれた10年の道のりを思い心からうれしかった。心から申し訳なく思った。

 娘が大学時代、講師としていらしていた40代の神父様の書かれた授業用の1枚のプリントの文章に強烈に心引かれました。ここまで謙虚に勇気を持って恐れず書かれる心根の純粋さに、母として受け入れ難い価値観に、時として闘うこともある生き方へ勇気の共感を覚えたこと。これが今この洗礼へと導かれた根底にあります。
 「母になることは、ひとりのいのちを神様からあずかること」と確信させられた、当時港区にあった病院の高層の窓から、産まれた「いのち」の塊の娘を抱き、下を歩く人達を見て、この小さな重みこそ、すべての真実、嘘のない絶対の信頼そのもの!と何か天の国から下界を眺める心境だったことを、心の核心として実感したことを、はっきり思い出すことができます。
 この核心とカトリックの洗礼は、一直線で結ばれていることを感じます。

 毎月サンパウロ発行の「家庭の友」の1ページ目に欠かさず詩を掲載されておられる神父様の詩の中に「人間は宇宙の愛」という言葉があった。
 私は本当にワクワクとうれしい気分で、宇宙を飛んでいるようなさわやかさを感じ、この世の出来事、悩み、恐れは「宇宙の愛は、人間にとってほんの石ころよ!」と大胆に心が据わった。神の子として宇宙に、親にゆだねることの天才!赤ちゃんのように楽々とした自由感!
 5月から受講した入門講座でも、最初の2〜3回目の頃、心の中にサラサラと水の流れる音をはっきり認識したことを思い出します。とても不思議な感覚だったので神父様にその席で質問した。「それはカトリックの本質です」とおっしゃった。私のわからない感覚をこれほど明確に答えてくださり、正直スゴイ感性の人と思いました。目に見えないことを言葉で最高に納得できるように証明できる方だと。
 そして、またある時は講座の話が「人間としてのありようの、普通で当たり前のことを話していらっしゃる」と感じた時、私はこの普通のことを、こんなに感動して聴いている自分の心の中の汚染を感じ、悲しくてならない思いがした時も「その普通が大切なこと…」とまたも明確な応答。

 その後は自分の生きて来た道を振り返り、逆廻しにグルグル巻きになっているゼンマイが少しづつゆるむような、苦しいような気持ちの時もあった。
 講座を休みひとりになって心を顧み、思い込みや人の言葉に支配され苦しい悲鳴を無視した自分が思い出された。そして汚い言葉でなく、本当に愛に溢れた神の言葉を「ミサ」で「講座」で繰り返す日々を重ねる体験の尊さ、大切さがはっきりわかった。

 「ミサは完全!」とおっしゃる神父様のミサの時の気迫は、時に前列に座っていると切腹を思わせる責任を一身に引き受けた厳しい冷風(霊風)を感じる。
 普段のリラックスされている時の姿との振幅はあまりにも大きい。「現状維持は死!」と説教でおっしゃる内面を伺い知ることは難しいが、毎週金曜日の夜受けた、夜間学校に通ったような1年近い講座の内容は、「やさしいことを深く、深いことを面白く」現実の「今」の問題を題材に、毎回楽しみになった。

 叙階25周年の銀祝を迎えられた54才の神父様のことを初対面の人はほとんど30代〜40代と見間違う。20数年、毎夏、無人島(故郷とおっしゃる)で過ごされる古代人の生き残りのような感性の神父様。
 どうか金祝まで今のまま生き残り続けて、「多くの人、いやすべての人を僕は救う!!」とおっしゃる気概を持ち続けてくださるよう、洗礼を授かった感謝の気持ちを込め、心よりお祈りをいたしております。

祈られて

春野 優子(仮名)

 深々と降り続く雪の中を歩く3人の姉妹。
 これは、今から50年前の真夜中にクリスマスのごミサに向かう風景です。
 聞こえるのはキュッ、キュッと雪を踏む音だけで、子供ながら真っ白な雪に心が清められていく思いが今でも忘れられません。

 それから50年の長い年月が経って、ようやく洗礼を受けることができました。そして同じ日、同じ時間に姉は雪の札幌で洗礼を受けています。
 神様の計画は何て素晴らしいものと思うと同時に、50年間私たちの洗礼を祈り続けてくれたもうひとりの姉と洗礼名を付けてくれた友人家族、代母さんをはじめ多摩教会の方々の祈りに支えられてこの日を迎えられたことに改めて感謝しています。
 今までいつも、どんな時にも神様が側にいて助けてくれていると感じていたのに、なぜもっと早く洗礼を受けなかったのか。きっと、いつかこの計画も神様が明かしてくれると、今では楽しみにしています。

 長い間、憧れ続けた洗礼とご聖体ですから、きっと雷に打たれたように電流が流れ・・・と大人気なく期待していましたが、そんなドラマチックなことではなく、洗礼を授けていただいたあの聖水の冷たさは、真夜中の雪を思い出し、ご聖体は一生忘れることはないものとなりました。
 家で洗礼を受けられたことに感謝の祈りを捧げていると、心の底からじわーっと暖かいものが感じられ、自然に涙がこぼれ、神父様から言われていた「心を開いて神様を受け入れること」の意味が分かりました。いつのまにか神様から私の心に入ってくださったと、この温かいものが教えてくれました。

 翌日のご復活祭の日に、ウグイスが今まで聞いたことのないような長く長く、何回も何回も鳴いて、まるで洗礼を祝福してくれているように聞こえました。
 今までよく目を凝らして見て、耳を澄まして聴くと、いつも助けてくださっていた神様が側にいて、話しかけてくれていることに気づくはずでした。洗礼によって、私の目、耳、心を開かせてくださったのだと思います。
 たくさんの方々の祈りに支えられて心から感謝しております。

巻頭言:洗礼こそは神の愛の表れ

主任司祭 晴佐久 昌英 神父


 カトリック教会の活動の基本は、「洗礼を中心とした教会共同体づくり」にあります。
 洗礼の秘跡を教会活動の中心とすることで教会共同体が元気になり、それによって福音を語る教会の輝きがいっそう増すからです。
 神の愛を最高のかたちで表しているのはイエス・キリストであり、キリストのからだである教会ですから、その教会の原点である洗礼こそは、神の愛の目に見える最高のしるしなのです。
 現代の教会は、もっともっと洗礼の秘跡を大切にし、もっともっと人々を洗礼に招かなくてはなりません。メンバーが次第に減っていくチームを、誰が信頼するでしょうか。考えてみてください。もしも今後洗礼を受ける人が一人もいなければ、現在の信者の最後の一人が消えたとき、この世の教会も消滅するのです。

 25年前に司祭になった私は、神学校で習った通りに、ミサをすべての活動の源泉とし、ミサの根源である洗礼の秘跡を中心にして、教会共同体づくりに励んできました。信者たちに洗礼の意義を語り、入門講座を充実させ、入門係を集め育て、教会を訪れる人にひたすら福音を語って入信の秘跡に招き続けてきました。当然のことながらこの25年間、担当した小教区で信者の数が減るという体験を一度もしたことがありません。多摩教会の受洗者も、この3年で113人になりました。所属信徒が一割以上増えたことになります。
 これは、初代教会以来変わることなく、洗礼が神の国の目に見えるしるしの極みであることの証しです。神は、ご自分がどれほど一人ひとりの神の子を愛しているかということを、なによりも、闇から光へと導かれて救いの喜びに満たされている受洗者の顔の輝きによって示しておられるのです。

 ここに、新受洗者の言葉をお届けします。これらの言葉は、私たちの教会が確かに福音を語っていること、その福音が本物であること、洗礼こそは福音の実りであることの証しです。
信者はもちろん、まだ福音を知らない人にぜひ読んでいただきたいと願っています。

十字を切る

伊藤 英美(仮名)

 正直に言います。
 洗礼を受ける前と受けた今では何も変わったことはありません。
 私が洗礼を受けるきっかけとなったのは、夫の実家がクリスチャンだったというのと、十字を切るのがかっこいいとあこがれていたからです。
 神父様との面接の時にそう伝えると「愛だね」と言われました。そのときはピンとこなかったけれど、愛なのか?…そもそも愛って何だ?と考えているうちになんだかそう思えてきました。
 神父様はずるいと思いました。「もう大丈夫、救われた」と晴佐久神父様に言われるとそんな気がしてきます。イチコロです。
 特に悩みなんてないような私でさえも、何となくコロッといきました。しかし、気持ちの上では何も変わっていないのです。まだまだ洗礼を受けたばかりの赤ちゃん状態の私ですので、これから神様のことを知って行きたいと思います。

 洗礼式で水をかけられているとき、「霊的な願い事をすると叶う」と言われていましたが、すっかり忘れてただただ手はどうするんだっけ?どこで「アーメン」だったっけ? ということにとらわれすぎていたので、少し損した気分になりました。

 洗礼式以来ひとつだけやっていることがあります。食亊の前と夫の運転する車に乗ったときなどに得意気に十字を切っています。(もちろん神様にお祈りしながら)念願の十字を切ることができました。

受洗を終えて

吉良 元裕(きら げんゆう)

 中学2年のクリスマスのころ、はじめてプロテスタントの教会を訪ねてから数十年、迷いながらもやっとここまでたどり着きました。長い間かかって生コンクリートが固まるように徐々に自然に信仰が堅くなってきたように思います。
 もう二度と神様のもとから離れないと堅く決心して13年ぶりに訪ねたこの教会で、とある機会にあっけなく決まってしまった今回の洗礼。
 「聖心(みこころ)にかない時が満ちれば道は開かれる」のを実感しました。14年前この多摩教会を初めて訪れた際、緊張のあまり入口で固まってしまった私に声をかけ、不安で帰りかけていた私をこの教会に導いてくださった方に代親をお願いすることもできました。その方は信仰の心構えも分かりやすく教えてくださいました。あの日この方と出会えなかったら、私は二度とこの教会へ足を運ぶことはなかったでしょう。もちろん洗礼を受けることも。不思議な出会いと再会でした。
 洗礼の日、その方が後から肩に手を置き、しっかり見守ってくださっているのを肌で感じた時、すべてはこの日この時のためだったのだと知りました。

 「昨日までのすべてはきょうのため、きょうのすべては明日のため」
 
 出会いも別離も喜びも悲しみも苦しみも病いも何もかも、経験してきたことすべてが今この瞬間に繋がっている。人生のすべてに意味があることを知ったのです。完璧な神のご計画、み恵みの深さに心から感謝です。
 
 これからは、かつての私自身のように、暗闇の中で迷い、哀しみや苦しみの底であえぎ、孤独と絶望の淵で虚しさと闘っている方々や、その他どんな形であれ、現代の荒野をさまよう多くの方々と共に、歩み寄り添う人生を送りたいと願いながら、神様から進むべき道が示される日を楽しみに待ちたいと思っています。受洗してますますこの気持ちが強くなりました。
 また最後になりますが、素晴らしい準備をして下さった入門係、洗礼係の皆様、温かく迎え入れてくださった全教会員の皆様、本当にありがとうございました。カトリック教会の一員としては、まだ一歩を踏み出したばかりの新参者です。これからもよろしくご指導のほどお願いいたします。