◎『百万人の福音』9月号で関根牧師と対談

百万人の福音対談
関根弘興牧師×晴佐久昌英神父

『 百万人の福音 』9月号


この国のこの時代に、生きた信仰をもって、大胆に福音を伝えるために驚異的な受洗者数を生み出し、若い人々に絶大な支持を受ける神父と、放送伝道に携わってきた同世代の牧師が、初めて膝を交えて語り合った。

(Copyright(c)2010いのちのことば社 All Rights Reserved.)(写真撮影=小林恵)

プロテスタント福音派のキリスト教雑誌『百万人の福音』(いのちのことば社)9月号で、城山キリスト教会牧師の関根弘興(せきね ひろおき)先生とカトリック多摩教会の晴佐久昌英(はれさく まさひで)神父様の対談が8ページに渡って掲載されました。

牧師と神父の対談は、同誌では初の試みとか。

すでに「教えられた」、「気づいた」、「勇気が湧いてきた」、「多くのことを学んだ」、「感謝でいっぱい」という声があがっています。

大変興味深い内容になっていますので、ぜひ皆さまのご一読をお勧めいたします。

関根弘興牧師
関根弘興
(城山キリスト教会牧師)
晴佐久昌英神父
晴佐久昌英
(カトリック多摩教会神父)

◆購入を希望の方は、こちらの『百万人の福音』購読申込ページからどうぞ。
予約開始号を「9月号から」、注文期間を「1カ月」としていただくと、掲載号のみが購入できます。

( 対談、撮影場所は、カトリック多摩教会です。)

お知らせ:教会での葬儀について

教会での葬儀について

典礼委員会 竹内 秀弥

 この度、信徒の方から教会の葬儀について、一般的にどのように考えて行動すべきか教えて欲しいとの問い合わせがありました。地方によってまた教会によって多少の違いはあるようですが、多摩教会の典礼部として考えていること、実際に行っていることをお伝えします。

 キリスト者は、人間の死をイエス・キリストの死と復活に結ばれる出来ごととしてとらえ、永遠のいのちに招き入れる神のわざであると信じています。ですから、死者がキリストと共に永遠のいのちに迎え入れられるように神に祈ることは、キリスト者の使命でもあります。
 教会はひとつの家族ですから、たとえよく知らない間柄であっても、キリストによって結ばれた我が父母であり我が兄弟であるとの原点に立って、ご遺族やご友人と共に祈り、葬儀のお手伝いをすることを大切にしています。
 葬儀はご遺族の方の意向に沿って行われますから、時には近親者のみで見送りたいと希望される場合もありますが、それは教会の皆さんに迷惑をおかけしたくないと遠慮しての場合が多く、実際には多くの方が参列すると本当に喜ばれるものです。通夜、葬儀ミサに一人でも多くの信徒が参列し、共に祈り聖歌を歌うことによって共同体としての一致が生まれますし、そのような姿は一般の参列者に教会が本当の家族であることを知らせることにもなります。
 自分の葬儀のことを考えても、大勢の信仰の家族に囲まれて祈ってもらえるのはうれしいことなのではないでしょうか。
 多摩教会の葬儀には、イエスのカリタス修道会のシスター方が必ずと言って良いほど、参加されていることもあり、山口院長にどのように考えて参加されているのか伺ったところ、次のようにお返事くださいました。
 「私どもの創立者は、亡くなられた方のためにお祈りすることを勧めてくださっていました。教会の葬儀というものは、死者のために祈ることはもちろんのこと、悲しみの中にあるご遺族の方々に神が慈しみを注いでくださるように祈り、亡くなられた方がキリストの復活に参与されたことを想い起こし、私たちもキリストの死と復活に与ることが出来るよう、共に心を合わせてお祈りさせてもらっています。こういった観点から出来るだけ参加させていただいています。」
 親しかった方の時はもちろん、あまり交流のなかった方の時も、教会の葬儀には時間の許す限り参列して頂きたいと考えております。
 服装についてのご質問もありましたが、仏式神式のような厳格な決まりはありません。一般には黒色を基調としていますが、勤務先などから直接参列する時もあり、固く考える必要はありません。祭壇周りの生花などもご遺族の方の希望に合わせて、暖色系の明るい色が使われることも多い昨今です。お花料については、必ずしも必要ではありません。参加することがより大切なことと思います。
 いずれにしても、大切なのは、わたしたちは一つの家族だという信仰です。参列した人が皆、本当に神の愛と教会の暖かさを感じられるような葬儀を心がけたいと願っています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

ほら、オリンピックだよ!

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 1964年10月中旬。たぶん、日曜日の昼下がりだったと思います。父が突然言いました。「オリンピックを見に行こう」。
 当時6歳のぼくにはオリンピックが何であるかはわかりませんでしたが、父はぼくを連れていそいそと出かけました。そのころ住んでいたのは文京区の駒込ですから、たぶん山手線で代々木へ行ったのでしょう。国立競技場の外に着くと、ぼくを肩車して言いました。「昌英、ほら、オリンピックだよ」。
 父が指差した先を見ると、スタンドの一番高いところの大きなカップの上で火が燃えているのが見えました。その火が何を意味しているのかもやはり分かりませんでしたが、いつになくはしゃいだ感じの父がその火を見て高揚していることは、よく伝わってきたのを覚えています。
 貧しかった我が家にとって、チケットを買って競技を見に行くなどということはおそらく考えもしなかったことでしょうが、戦後の札幌で必死に働き、結婚して東京本社に栄転し、子供をもうけ、昭和30年代の高度経済成長時代を精一杯生きていた父が、戦後20年、ついに日本で開催された平和の祭典、東京オリンピックの聖火を一目見に行きたかったその気持ちはわかる気がします。歴史の証人として、せめて平和のシンボルである聖火だけでも息子に見せておきたかったという気持ちも。
 

 あれから半世紀。縁あってぼくは2012年7月のロンドンオリンピック開会式に参加する機会を得ました。
 そうでなくともイベント好きなぼくは、あらゆるイベントに参加してきましたが、なかでもぼくにとってスペシャルであり、いつか参加したいと願ってきたのは、オリンピック、しかも開会式です。
 中立であるはずのオリンピックですが、時に政治利用され、商業主義に支配されるなど、いまや純粋に平和の祭典とは呼べない側面があるのは事実ですが、少なくとも参加している選手たちはそんな不純な動機は持っていないでしょうし、見る側もそんな不穏なものは見たくないはず。人類は4年に一度、「ぼくらはもしかしたら本当に仲良くできるかもしれない」という希望を目にしたいのです。
 ロンドンオリンピックの開会式は、あきれるほど厳重な警備の中で行われました。会場近くの地下鉄ストラトフォード駅を降りてから、実際にオリンピックスタジアムの自分の席に座るまでの間、ゲートが4か所、チケットの確認が10回近くあり、会場入り口では空港のようなセキュリティチェックを受けて、ペットボトルまで取り上げられました。50年前には想像もつかなかったテロという現実を抱えている現代の平和の祭典は、平和の危うさと、それゆえのかけがえなさをいやおうなしに見せつけているのでした。
 

 開会式は大変よく準備されていて、訓練を受けた7千人のボランティアたちのキビキビした動きは見ていても気持ちよく、英国の田園風景が産業革命で一変していくドラマチックな演出など、いかにもヨーロッパ的な洗練されたものでした。英国ロックの影響力にも改めて感銘を受けましたし、ミスタービーンの演技や女王陛下本人を用いたパロディなど、英国流ユーモアの懐の深さも実感できました。
 しかし、最も感動したのは、意外にも選手の入場行進でした。
 テレビで見ているときはどちらかというと退屈な印象でしたが、現場にいるとそれこそが最高のイベントだということが、ひしひしと感じられるのです。想像してください。全世界、今回で言えば204の国と地域の人たちが、同じく世界中の人が見守る中、実際に一か所に集まってくるのです。韓国も北朝鮮も、イラクもアメリカも、アラブもイスラエルも、みんな国旗を立てて、にこにこしながらゲートをくぐって入ってくるのです。最後にイギリスが入場してついに全世界がそろったとき、涙が出ました。目の前にあるのは理想ではありません。現実です。全世界の人口と同じ70億枚の紙吹雪が舞う中、ぼくは心の中で叫んでいました。「人類、やればできるじゃん!」。そこには確かに、天国が先取りされていたのです。
 もしもそこが天国ならば、父もいるはずです。みんなが見守る中、会場中央に聖火が灯されたとき、ぼくは、いつかは父に言いたかったことを、小さな声でつぶやきました。「父さん、ほら、オリンピックだよ」。

連載コラム:「犠牲の世代-西澤 成祐の周辺-」から

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第22回

≪「犠牲の世代-西澤 成祐の周辺-」から≫

佐倉 リン子

 きっかけは、西澤 邦輔訳のダンテの「神曲」だった。30年も前のことだが、次女の毬が6年間お世話になった高知医大で西澤先生は、英語を教える傍ら、聖書研究会を開いていらした。毬が熱心に参加している様子が印象深かった。
 最近私は「神曲」の一部を読み確める必要があり、毬の遺した本棚の前に座った。そして「神曲」の隣にあった同じ書き手の「犠牲の世代・・・」を手に取るや日の暮れるのもかまわず読み進んだ。それは毬が尊敬していた西澤先生についての謎が解けると同時に60余年前に体験した戦争と敗戦の記憶がどっとよみがえって来る圧倒されるような時間だった。
 オアシス考を書いてというカトリック多摩教会ニューズのお申し出に対するのに、この西澤先生の兄上である西澤 成祐少尉(戦死と同時に中尉に任官された)の遺稿集を全体からみるとほんの少しだが抜粋引用させていただきたいと思う。

 西澤 成祐氏は、大正12年高知県安芸郡に10人兄姉弟妹の二男として生まれ、昭和17年東京帝国大学法学部政治学科入学、同18年在学のまま学徒出陣、同年マニラ着任、同20年2月マニラよりマラリヤの高熱におかされながら、部下を率いてルソン島山岳地帯を越え、東海岸インファンタに到着。若い軍医の手当で、マラリヤは快方に向かったものの、食糧そして武器の不足に悩まされた。6月2日未明小隊を率いて軍刀を以って敵陣に斬り込み、被弾、戦死。享年21歳9ヶ月。
 昭和18年海軍予備学徒航空兵として成祐が南に向かってから、敗戦後7年余りの間、家族はその生死さへわからなかったが、昭和26年4月高知新聞に「死刑囚としてモンテンルパに収容されている椿 孝雄氏が、成祐の遺族を探している旨の記事が載った。
 括弧内は邦輔氏の文章そっくりそのままの引用である。
 「それによると、椿氏は比島からカトリック修道女を通じて(後の邦輔宛の手紙では『日本に行かれるキリスト教関係の米人の方に託して』となっているが)学友赤松氏を通して高知新聞に成祐の遺族の住所を尋ねるよう依頼した。」

 次は邦輔氏が新聞記事から赤松氏の手紙の文面と思われる部分を抜粋引用したものを更に引用させていただく。
 「西澤君は昭和19年末、母艦天城からマニラのニコラス飛行場に転勤、同じ学徒出陣の椿君と半か年余行動をともにしたもので、椿君の手紙には『西澤君の遺族たちが彼の戦死の状況を知らせてほしいと望むなら、私は命のある限り書きしらせたい』と結び、枯れぬヒューマニズムがにじみ出ている。」
 昭和28年(1953)7月22日、「椿氏等モンテンルパの生き残っていた死刑囚全員(学徒兵は8名)特赦により釈放されて8年振りに帰国。これは白鴎遺族会(海軍航空予備学生・生徒の遺族と同期生の会)を初めとする全国的な助命嘆願によって比島キリノ大統領を動かして実現したものであった。(元将校の死刑囚約300名中の約半数はすでに処刑されていた)」

 次は邦輔氏のあとがきから引用させていただくことにする。
 「数年前に白鴎会で戦没者遺稿編集の企画がなされた時は、なぜかまだ故人の筆跡を正視する心のゆとりがなかったので、折角の御厚意にお応えすることができなかった。この度、再度の遺稿編集の企画に促され、はじめて亡兄の海軍時代の日記を通読し、ただに兄一人のみならず、同じ運命を辿った数多くの若者たちが偲ばれて、昼も夜も夢見る思いであった。」
 「この度しみじみ痛感したことであるが、人間の歴史の中には犠牲の世代がある。敵味方を問わず、ひたむきな精神を健やかな肉体がその青春の真っ盛りに幾十万となく捧げられ、彼らを哀惜する多くの人々の心の中に消し難い刻印を残すのである。辛うじて死を免れた人々も決して例外ではない。その体と心に障害の傷と痛みを負うているからである。この犠牲は、おそらくは、人間の歴史を潔めるためのものである。少なくともそう信じてはじめて、彼らの愚かしいばかりの献身と忠実は聖なる意義を取りもどし、それによって歴史の彼方に遙かに希望を見ることができるのである。」

 モンテンルパの死刑囚に寄り添って成祐の最後の様子を遺族に知らせる手助けをしたカトリックの修道女の優しさもオアシスであり、それはその手紙の行く先々で目に見えないオアシスを生んだと私には思われる。
 邦輔氏によれば、ご両親はご長寿だったが「成祐を失ったことについて・・・全くと言っていいほど感慨を漏らさなかった。その無言の深さを今ひしひしと感じる。」

 『犠牲の世代—西澤成祐の周辺—』    平成7年7月21日発行
 編集・発行  西澤邦輔  〒784 高知県安芸市本町1-15-8
 印刷・製本 高知印刷(株) 非売品

投稿記事:教会学校の合宿に参加して

教会学校の合宿に参加して

豊嶋 太一

 今年の教会学校(小学生)の夏期合宿も、8月10日(金)から11日(土)に教会で行われました。参加者は、幼児5名と小学生13名と中学生2名とで昨年よりちょっと少なめでした。高校生〜社会人のお手伝いも直前にどどっと5名参加してもらえました。山川啓君(啓と書いて「ひらく」と読む)は、今年で3年連続神戸から参加、女性では笹田さん、男性は、正太郎、れん、優大と皆下の名前で呼び合っている仲間たちです。あとは、教会学校のリーダー、子供たちのパパ、ママ、それに晴佐久神父様とシスターで、最大人がそろった瞬間は、40人弱だったと思います。ご協力ありがとうございます。
 10日は府中の森公園周辺を散策しました。まずは公園の駐車場から、サントリー武蔵野ビール工場へ工場見学に行きました。こだわりの天然水は、なんと井戸を掘って、深層地下水からくみ上げているそうです。私の謎が一つ解けました。もう一つは、ビール以外のソフトドリンクも製造しているのか? ですが、答えはNoでした。そんな私の知りたい質問をミッション1として子供達に当日配布し、調べてもらいました。皆ミッション・クリアです。
 工場から公園に戻る途中に大東京綜合卸売センターを20分程見学し、公園の桜の木の下で昼食のお弁当を食べました。食事の後に、ミッション3の「ミッキーをレスキューせよ」の説明をしました。テニスボールサイズのボールを12個、府中市民プールに放出し、それを子供が捜し出すというものです。案の定、怖い監視員のお姉さんに注意されました。プールの中でボールを見つけられなかった子も、案内所に落し物として届けられていたボールをゲットしたりと、頭も使って必死に探してくれました。
 プールの後は教会に戻り、ミッション・クリアした数だけ、ぽいを渡して、30分間スーパーボールすくいをしました。ちょっと丈夫なぽいを選んだみたいで、みんなお椀にあふれるほどすくえていました。今回は6号ぽいを準備しましたが、次回やる時はもう少し弱い7号ぽいを準備した方がいいのかな?
 その後はお母さんたちが作ってくれたカレーライスを食べ、お風呂に入りに行き、教会に戻ってから去年と同じく焚き火をしました。
 きらきら光るおもちゃを準備していて、焚き火の時のテンションアップに使おうと思っていました。でも、事前 simulation が甘く、おもちゃを渡したら、おもちゃに集中してしまって、焚き火へ集中しなくなり、まとまりが無くなってしまいました。自分で光るおもちゃを渡しておきながら、集中しないと没収するよと、全く矛盾する発言をしてしまい、反省でした。
 なんとか焚き火でのジェスチャーゲームを終えた後は、子供たちの事前課題の「イエス様の火で燃やしたいもの」と「神父様へ質問したいこと」について、神父様からお話をしてもらいました。神父様のお話のお陰で、集中力に欠けた焚き火がよみがえりました。ありがとうございます。あと、もう一つ焚き火をよみがえらせたものがあります。それは、子供たちが事前課題で書いてきた内容そのものです。とても素晴らしいことが書かれていました。神父様に事前課題を渡す前に私も読みましたが、小学生らしい素直さの中にも、大人とほぼ変わらない目線で、自分の燃やしたい弱さをとらえていて、とても感心しました。また、神父様への質問では、こじかの連載記事の「司祭の独身制」についての記事を読んでの質問です。子供の書いた質問と、それに答える晴佐久神父様のお話は、2012年教会学校の焚き火に参加した子達の思い出になって、10年後にじわじわと効いてくることを望みます。この様子はビデオに撮って20分程に編集済みです。
 私は合宿初日の遊びプログラムが専門で、2日目の司牧プログラムは裏で休ませてもらっていました。2日目は、朝食後に切り絵、ゲーム、侍者練習、スイカ割り、ミサ、昼食、感想文作成と半日ですがたくさんプログラムをこなしました。
 最後に、2日間、怪我や病気になる子もでず、奉仕の方々とともに、神さまのお恵みの元、晴佐久神父様のお話のシャワーを浴びることが出来、無事合宿を終えることが出来た事を感謝致します。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

教皇のケーキ

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 ヨハネ・パウロ2世前教皇の故郷の町ヴァドヴィッチェを訪ねて一番驚いたことは、前教皇の生家が地元の小教区教会のすぐ隣の家だったことです。我が家の玄関を出たらもうそこは教会なわけで、カロル少年は毎朝、まず聖堂の聖母子イコンの前でお祈りしてから学校に行っていたそうですから、まさに将来の教皇を育てるには絶好の環境であったと言えるでしょう。わたしたちが聖堂を訪れた時も、ちょうどお昼のアンジェラスの鐘が鳴り響いて、ああ、パパ様も子供のころから朝な夕なにこの音を聞いて育ったんだなあと思うと、いっそう親近感が深まりました。

 カロル少年は7歳のとき、母親を亡くしています。多感な年ごろ、どんなにさみしかったことでしょうか。そんなある日、父親は息子を連れて近くの巡礼地であるカルヴァリオの修道院を訪れると、有名な聖母子イコンの前に立たせてこう言ったそうです。
 「カロル、これからはこの方がお前のお母さんだよ」
 この一言は前教皇にとっては預言的な一言となりました。前教皇にとってまさに聖母はまことの母となって、彼は生涯聖母を慕い続け、聖母は彼を教皇職にまで守り導いたのですから。
 今この修道院を訪ねると、ヨハネ・パウロ2世教皇が教皇に選ばれて最初にこの地を訪問した折にこの聖母子イコンの前にひざまずいて祈る写真が飾ってあり、前教皇の胸中を思うと胸に迫るものがあります。何を祈ったかは定かではありませんが、さしずめこんな感じではないでしょうか。
 「ママ、ボク、教皇に選ばれちゃったよ。精一杯がんばるから、ママ、守ってね・・・」
 この想像はあながち、的外れではないかもしれません。前教皇が世界平和のためにどれほど必死に努力したかについては誰一人異論のないところですが、それでも世界の情勢が悪化し、戦争が始まってしまい、市民が殺戮されるなんてことも現実にあり、そんなとき、身近な人は前教皇が涙を流しながらこう祈っている姿を目撃しています。
 「ママ、ママ、何故!」
 そういえば、ポーランドの巡礼地の土産物屋に大抵おいてあるヨハネ・パウロ2世前教皇の写真や絵の中に、聖母が前教皇を抱きしめている絵がありました。実際、今頃天国で聖母は自慢の息子を抱きしめていることでしょう。「よくがんばったね・・・」と。

 ポーランドを訪れたら、ぜひ召し上がっていただきたいケーキがあります。その名は「クレムフカ」。上下二枚のしっかりしたパイ生地に、これまたしっかりしたカスタードクリームがたっぷりと挟まっている素朴なケーキです。カスタードクリームが大好きな身としては、これがクレムフカかと、大変おいしく、かつ感銘深くいただきました。なぜ感銘深いかというと、このケーキがヨハネ・パウロ2世前教皇の大好物だったからです。
 それが明らかになったのは、1999年6月、前教皇がヴァドヴィッチェを訪問して生家の隣の教会前広場でミサをした折、前教皇は何気ない思い出話のつもりだったのでしょう、「小さいころ、この広場の一角のケーキ屋さんでよく大好きなクレムフカを食べたものです」と口走ったのです。そのケーキ屋自体はとっくに廃業していたのですが、さあ、大変。翌日にはヴァドヴィッチェ中のケーキが売り切れ、以降クレムフカは「教皇のクレムフカ」と呼ばれるようになって国中で大流行し、今やすっかりポーランドを代表するケーキになってしまいました。
 今年2月に前教皇を慕ってローマを巡礼した折に、ポーランド人神父や神学生が寄宿する神学校を訪れました。そこはローマに住むポーランド人聖職者にとってはある意味で最もくつろげる「小さな故郷」なわけですが、そこの院長様が思いがけないことを教えてくれました。なんと、ヨハネ・パウロ2世前教皇が、ヴァチカンをお忍びで抜け出して、宿舎のポーランド人シスターが作るクレムフカを食べに来ていたというのです。
 それを聞いてますますあのパパ様を身近に感じましたし、ぜひ食べてみたいと思ったのでした。そして、このたび実際に食べながら思ったのです。ああ、きっとパパ様は小さいころ、広場のケーキ屋で、このケーキをお母さんと一緒に食べたんだろうなあ、と。
 心労の絶えない激務の中、お忍びで食べに来たクレムフカは、ママの味だったのかもしれません。

投稿記事:南相馬への旅

南相馬への旅

佐々木 由理子

 7月14、15日の週末に、三線(さんしん 注記*参照)教室の仲間たちと、福島県の南相馬に「三線とフラダンスのライブ」をしに行ってきました。
土曜の朝7時36分東京発の新幹線に乗車。家が郊外にあるので、起きたのは5時前。今回は三線と衣装もあるので、それはもう大荷物です。福島までは2時間ほどで到着したけれど、バスの便がとても少なくて、福島駅から1時間待って高速バスに2時間乗りました。東京から南相馬まで片道5時間の旅。メンバーは三線スタッフ6人、フラチーム2人、総勢8人でした。
 2日間で5カ所の仮設住宅の集会所を回り、10曲ほどの歌と踊りでたくさんの笑顔をいただいてきました。私は主に客寄せ(ライブの前に仮設住宅の間を三線を弾きながら宣伝して回る)と、ライブでは「安里屋ゆんた」、「花」、「島人ぬ宝」の歌と三線、そして、「鳩間の港」の踊りを担当しました。
 今回すごく驚いたのは、私たちは三線教室の生徒で、素人の集団であるにも関わらず、相馬の人たちがすごく喜んで迎えてくれ、一緒に歌って踊って、「楽しみに待ってた」、「すごく楽しかった」、「また絶対来てくださいね」、「癒された」と口々に喜んでくださったことです。すべての集会所で20人以上の方が集まってくださり、毎回満員御礼。2日間で100人以上の方たちに参加していただくことができました。
 「遠くから来てくれてありがとう」と感謝され、本当にこっちのほうが「心からありがとうございました」と言わずにはいられない気持ちになりました。礼儀正しくて、我慢強くて、原発のために自宅に帰れなくても笑顔を絶やさない相馬の方達に、たくさんのエネルギーをいただきました。歌うのが本当に楽しかった。行って良かったと本当に心の底から思いました。メンバーたちもレンタカーの荷台(通称ドナドナ)で「喜んでもらえて良かった〜!!」と興奮気味です。

 しかし、今回のツアーを企画してくれたメンバーが、1日目のライブが終わったあとに、私たちを海まで連れて行ってくれたときのことです。海辺が近づくにつれて、私たちは言葉を失っていきました。
 震災が起きてから、もう1年半近くがたとうとしているのに、壊れた防波堤。寸断されてねじりあがった道路。折れた防風林。曲がった信号、看板。中身がむき出しの家。地盤沈下のために、残った防波堤の中から引かない水。そして、一面の野原。そこにはきっと、かつてたくさんの家や畑、田んぼなどがあったのでしょう。でも、今はただ、一面の野原。津波に飲み込まれて何もなくなった大地。震災と津波の傷跡をまざまざと見せつけられて、「ああ、まだ全然終わってない。支援はずっと必要なんだ」と実感することができました。
 海辺で「花」をそっと歌って、十字を切り、祈りを捧げてきました。この海で亡くなったたくさんの魂のなぐさめに少しでもなることを願って。
 仮設住宅の皆さんは、明るくしていらしたけれど、「相馬にはボランティアの人が他よりも来てくれない。放射能を怖がって、なかなか来てくれない。だから、あなたたちが遠くから来てくれて、すごくうれしい」とおっしゃっていました。
 自分たちの無力さと、でも歌の持つ力と、人々の生きる力、自然の脅威。いろんなことを感じることのできる濃密な2日間でした。この先の私の人生に、大きな足跡を刻んだに違いない2日間でした。
 すべてのライブを終えて、南相馬のバス停でバスを待つ1時間ほどの間に、地面にシートを広げて乾杯をしていると(笑)、道行く車や人々に大爆笑されました。教室のメンバーとも、いろいろ話せて楽しかった。でも何より、あの仮設住宅の皆さんの笑顔に、必ずまた戻って来ようと強く思いました。
 家に着いたのが深夜で、大荷物なのに満員電車でクタクタ、翌日は半日寝たきりでしたが、すばらしい旅でした。

 わが多摩教会の皆さんも、まだ被災地に行っていない方は、可能ならばぜひ自分の目で見てきてほしいです。私自身、恥ずかしながら震災後1年が過ぎて、樽献金が封筒での献金へと移行し、御ミサの共同祈願の祈りが通常のものに戻って、いつの間にか、ある程度の区切りがついたように思っていました。でも、本当は何も終わっていないし、何も解決してはいないのです。現地の空気に触れ、人々と話して、自分の目で見て初めてわかることもあると思いました。そして、「継続した息の長い支援をずっと続けていけたらいいな」と、心から思いました。

注:三線(さんしん)は、弦楽器の一種。沖縄県および琉球文化(沖縄音楽)を代表する楽器である。

主任司祭霊名記念日をお祝いしました

6月24日の主日に、主任司祭である晴佐久神父様の霊名記念日を祝い、
霊的花束をお贈りしました。(霊名は「ペトロ」です)

◆画像をクリックすると、スライドショーでご覧いただくことができます。

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