11/11(日)特別入門講座:下川雅嗣神父様

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11月11日(日)11時から、「特別入門講座」を開催いたします。
 この講座では、通常の入門講座の時間に、外部から司祭・修道者をお招きし、経験・霊性に導かれたお話をお聴きします。
 入門講座を卒業された方も、ぜひ聞いて、知って、力にしてください。
 今回は、「教会(社会問題)入門講座」となります。
 
◎ 同日、13時半から行われる、福祉の集い、「夜回り神父さん トウキョーの街みて語る」(於:カトリック府中教会)とは別の集いですので、ご注意ください。
 共に、どなたでもご参加いただけます。
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 今回お迎えするのは、イエズス会の、下川雅嗣(しもかわ まさつぐ)神父さまです。
 宗教ではよく、平和や絆というような言葉を使います。しかし同時に、現実に格差があることの表明でもあります。現実を知ってから解決を見出すことは、大衆の世論に過度に依拠する現代社会においては大事な感性です。
 今回、現実の貧しさはどこからくるのか、この社会構造を実際見て、研究・熟考した司祭の目線でひもといて、わたしたちは目の前の出来事をどうみるのかを深めたいと思います。
 皆さまのご参加を、心からお待ちしております。

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💠 教会(社会問題)入門講座 💠
講 話: 下川 雅嗣 神父
演 題:「教会はなぜ社会問題とかかわるのか = 実践して語る =」
日 時: 2018年11月11日(日)10時のミサ後、11時から
場 所: カトリック多摩教会 聖堂
= 無 料*申込不要 =

下川雅嗣神父 略歴
 イエズス会会員。2001年司祭叙階、2002年上智大着任。
 毎週土曜日都会の夜回りに参加。現代社会の問題とつながって活動する。
 経済学部の教授を経て、現在、総合グローバル学部教授。研究関心分野は「国際貿易・発展論・貧困」。
 アジア各国の都市インフォーマルセクター、および、その経済発展に資する役割に関する経済的研究。
 また、アジア各国の貧困住民の様々な創造的取り組みと、その可能性、および、
 その国際的広がりと、国際機関・国家・NGOとの関係に関する研究。
 グローバリゼーションと貧困に関する経済学的研究。
 上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科国際関係論専攻の教授も務める。
 著書(含、共編)に、『貧困・開発・紛争 グローバル/ローカルの相互作用』(上智大学出版)など多数。
 『世界格差・貧困 百科事典』メフメト・オデコン編集代表。下川神父は監訳者の一人。

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多摩教会への交通アクセス Google Map
教会簡易地図ペイント作成-2015ここナツ用-500

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遠方からお越しの方、
ご体調の関係で、車のご利用を考えておられる方は、
以下の近隣駐車場をご利用ください。

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巻頭言:主任司祭 豊島 治「歩いてみます」

歩いてみます

主任司祭 豊島 治

 10月のカレンダーが現れると、クリスマスや年末を思い起こします。実際、教会売店にもカレンダーや手帳が未来の持ち主を待つかのように店頭に並んでいます。教会学校の聖劇も練習が始まりました。クリスマスの場面を主に演じ、救い主が訪れるという喜びを伝えることが多いこの劇は、いつから始まったのか定かではありません。実際に演じてみたり、演じている人に共鳴することによって、メッセージを体感することになるといわれています。
 「むかし、せかいはまっくらで なにもみえませんでした」
 これが当時4歳だった私の、聖劇デビューの台詞でした。黒いタイツを身につけ、神さまの創造前の風景と、救い主が生まれたベトレヘムの町が小さいことと、寂しさを衣装で表したのです。明治時代の日本、とくに関東地方の宣教に身を捧げたフロジャック神父様は、「ベトレヘムという暗く小さなまちに救い主が生まれ、光輝いた。この暗さがあったからこそ、光がうまれたという喜びがある」と力説しました。光をより際立たせる暗さという存在を意識させました。一方、現代の都会では、逆に光が煌々と輝いています。眩しすぎて、ちゃんと見ることを邪魔するくらい光量が多い場所もあります。照明だけでなく、宣伝用看板、宣伝用の動画。夜にもかかわらず明るいのは、ここに住む人が元気で活発だということを表しているかのようです。

 11月11日に、多摩教会が属する多摩東宣教協力体(多摩・調布・府中教会で構成)は、秋の協力企画として東京教区福祉委員会の企画を誘致し勉強会をひらくことになりました。今回の表題は、「夜回り神父さん、トウキョーの街みて語る」。オリンピックのメインスタジアムができる周辺の原宿・渋谷は夜の時間であっても街は明るく、その対局にはいのちのすばらしさを輝かすことが叶わない人がいる。講話者の下川神父様がその現場での人とのかかわりから得たことを分かち合い、私たちの街を考えるものです。
 私も学生時代から夜の町をグループで歩き回って必要な助けを行うことをしていましたが、ある場所では役所の人からその夜回りの最中、罵声や脅しを受けたことがありました。深い事情はわかりませんが、褒めてもらいたいとは考えていないものの、脅されるということは想定外でした。そこから、世には「何かが違う&大切な事柄が見落とされる勢いや圧力を感じる」という疑問がでてきたのです。必死に生きている人は、他の場所にもたくさんおられます。今回はオリンピック・パラリンピックを成功させようとそれだけに突進しようとしている風潮に対して、排除される人のことを意識し、広い視野、神さまの目線に近づけて、私たちがさらに人にやさしくなれればと思います。
 私個人は、オリンピック、パラリンピックに賛成でも反対でもありません。パラリンピックについては、この機会に東京の町にある無数の段差がなくなるよう整備されればと願います。例えば、歩行者はまたいで通過できる小さな段差であっても、車いすで移動している人には体に多大な衝撃が伝わり、痛みや苦痛をもたらすものになります。原宿周辺は路面がタイル貼りになっているところがあり、走行する人の気持ちを考えると、改善されてほしいと思います。
 結果だけでなく、アスリートの輝きだけでなく、出来事によって神さまの目線で「よい」ことがおこるよう期待したい。その心と行動と表現する言葉の準備として、東京ならではのこの企画のために府中教会まで足を運んでくだされば幸いです。府中教会には駐車場はありません。駅から歩くことをお薦めします。

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連載コラム:「ジャネットのオアシス」

人生の旅をいっしょに
= ウエルカムのサインをあなたからあなたに =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第92回
ジャネットのオアシス

南大沢・堀之内地区 セツコ

 親という字は木の上に立って見ていると書く。まことに深い哲学をもつ一字である。
 喜寿を迎えた今でさえ、息子や娘を前にするといつの間にか木から見事に滑り降りて親風をふかしている自分を見出すのが常なのだから。
 54年ぶりにシカゴでジャネットに再会した。当時妊娠後期だった彼女は、にも拘らず学生だった私を数カ月ホームステイさせてくれたのである。
 「これから忙しくなることはわかっているから、一年に一度、たとえばクリスマス頃にカードを送ってくれると嬉しい。そしたら地球のどこかで元気でいることがわかって安心するから。」
 別れ際に、そんな慎ましやかな願いを口にしていた彼女の夫のボッブは一昨年亡くなった。あれだけ沢山のことをしてくれたのに、文字どおり青春の模索の中でそうしたカード一枚書く気持ちのゆとりすら見いだせなかった私は、結局そのままに……。若さとはそのように恩知らずなものなのだ。
 フェイスブックで近年彼らの行方を探し当てて半世紀ぶりに再び繋がった。すぐに出かけていれば会うこともできたのに……。ただ彼の一言だけは覚えている。どうやってそれまでの恩に感謝したらいいのか聞いた時、「僕たちではなく、君を必要としているこれから出会う人たちに返せばいい。」

 当時妊娠中だった子を含め、ジャネットは10人の子の母、孫を含めると総勢45名の一族の中心となっていた! 「なんて忙しい人生だったの?!と言うと、「子供が子供の面倒をみあって遊んでいたから簡単なものよ。子育てはホント楽しかったわ」とほほ笑んだ。
 国際結婚をした子供たちや、さまざまな問題を抱えた親族、孫たちの結婚式など、あちこちから声がかかって、81歳の彼女は今、世界を飛び回っている。静かで、それでいて率直で、でも相手を縛らない彼女を子供たちが歓迎するわけだ。不可能と思える約束も平気でする。シカゴに立ち寄った私にぜひ会いたい、最後の一日だけは泊りに来てと言いながら、私の到着のわずか10分前にクリーブランドから自宅に滑り込んで私を迎えるといった具合だ。
 驚いたのは、部屋がきれいに整えられ、私たちを待っていたことだ。留守の間に、孫とそのガールフレンドがやってきて掃除を担当したとのこと。10人の子供たちの成長に合わせて増築を重ねていった彼女の家は、さながら迷路のようだが、二つのバスルームは際立ってしっかり造られていた。優れた建築士が子供たちの中から輩出したからだ。
 30分もすると、近隣のあちこちの州に住んでいる息子夫婦や娘夫婦とその子供たちが次々到着し、リビングルームが再会の喜びに包まれた。心づくしの食事もすっかり用意されていたのは勿論である。ウイスコンシンからはるばるやってきた娘の一人とそのパートナーが、心を込めて私たちのために料理していたのだ。全て、「54年前の友人のセツコが来る。当日まで私は不在だから、手が空いてる人は手伝って」という彼女から子供たちへの一斉メールだけの力だ。
 幾組もの幸せな家族に混じって、痛ましい離婚を迎えた息子とその子供たちもいるし、社会でやっと認知されたLGBTのカップルもいる。敬虔な彼女に息を詰まらせて、娘の一人は17歳で家を飛び出している。やっと和解ができたのは、ボッブの死がきっかけだった。
 10人の子供を持つ母の心は、多様な現代世界の縮図さながらである。これまでどのようなドラマを抱えながら……どれ程傷つき、苦渋と喜びを織り交ぜて味わいながら、それでも希望をもってボッブと共に祈り、家族の歴史を築きあげてきたことだろう。

 皆が近くの公園に散歩に出かけた後、ジャネットは私を広い裏庭に招いた。子供たちの遊具がたくさん並んだその奥に、どっしりとしたブランコが置かれていた。
 「これだけは私のものなの。一緒に座ってみて。」
 不思議な体験だった。ゆっくりとした揺れに身をゆだねていると、家を取り巻く世界の喧騒も、そして、これまで彼女の子供たちが小さい頃から散々遊んできた種々の遊具も、一瞬シールドされ、徐々に別の世界に戻っていくかのようであった。
 この何気ない日常からの距離が、ジャネットをささえる貴重なオアシスだったのだ。
 中学時代から今に至るまで、日々のミサ出席を欠かしたことのない彼女が、日々の生活にみ言葉を重ね、再び力を取り戻すための「人里離れた場所」――総勢45人の子供と孫たちを木の上に立って見るためのささやかな高みなのである。

10月:「初金家族の会」からのお知らせ

「初金家族の会」からのお知らせ

 すっきりした秋晴れとならないうちに、10月の初金の日を迎えました。豊島神父さまはミサの説教で、「近々の嵐により、多摩教会も被害を受けました。気象変動の結果、今後もこのような災害が、各地で発生することが予想されます。神様が私たちを拒んでいるのとかと考えてしまいますが、逆に、私たちが神を拒んでいないか反省する必要があります。悪魔は神と私たちを引き離そうと働きます。教皇様がロザリオの祈りを唱えることを呼びかけています。神から引き離そうとする悪魔からの保護を、聖母と、大天使聖ミカエルに祈りましょう。偶然ですが、10月にミカエル鶴巻神父が多摩教会に来訪、講話の予定です。
 神様の目線に合わせ、災害に遭わずに幸せだと考えるのではなく、人の力の及ばない困難な時、被災者、声をあげられない弱い立場の人に何ができるか考えるのが、神様を拒まずに繋がっていくことになるのです」と話され、共同祈願として、「困難な時、正しい方向に導いてください」との思いを込め、福者ペトロ岐部の取り次ぎを願う祈りとなりました。

 初金家族の会では、井上信一さんより、教皇フランシスコの言葉として、カテキズムを改訂し、「死刑は容認できない」との立場を明確にしたことを、カトリック新聞の記事など10ぺージの資料で説明がありました。そのあと、参加者からの質疑応答討論で、「教皇様の言葉に共感できるが、日本では80%の人が死刑制度の存続を容認している。これは、『凶悪犯罪の防止』『被害者感情の癒やし』『死をもって罪を償う』『因果応報』などの意識によると推察される」と、また、今回オウム真理教関連者13名の死刑執行について、人命とその尊厳に関連し、批判がありました。
 この逆の事例として、1970年のよど号ハイジャック事件が思い出されます。人の命は地球より重いとする人命原理主義ともいえる声もあってか、超法規的処置、高額な身代金での収拾となり、人命を危険にさらす強行処置を採用している欧米より、テロの拡散幇助との批判がありました。「地球より重い命」、ことわざ「罪を憎んで人を憎まず」(論語由来)などの言葉が生きていれば、教皇様の言葉は深く重い言葉として、日本に浸透するのではないでしょうか。
 今回の話し合いで、極刑に関するカテキズム2267について理解を分かち合い、深めることができました。

 初金家族の会、次回11月は、2日の金曜日、ミサの後、午前11時頃から1時間ほど信徒会館で行われます。中島誠さんに、「中東の実地ビジネスで経験した多様性-情報ギャップ、行動ギャップ、文化、社会の違いによる感性、問題意識のギャップ」について話していただきます。多様性を具体的に理解する参考なればと企画しました。皆様に参加していただき、皆で話し合い、分かち合うことを期待しています。多数の皆様の参加をお願いします。
 「初金家族の会」は、初金ミサの後、貴重な体験を披露し、分かち合い、信仰を語り合う、信仰家族の絆を深め合う楽しい会です。皆様どうぞお気軽にお立ち寄りください。

巻頭言:主任司祭 豊島 治「仲良くします」

仲良くします

主任司祭 豊島 治

 記録的な猛暑と度重なる災害に見舞われた夏でしたが、今なお復興に向けて困難の途上にある被災地の方々に心を向け、できる限りのサポートに力を合わせてまいりましょう。

 7月に起こった「西日本豪雨災害」については、朝日新聞や日経新聞の情報によると、避難勧告・指示の対象は6万人にものぼる大きなものでした。200カ所以上で川の水が溢れ、被害が出ました。現在、カトリック教会として広島教区の設置した各所のボランティアセンターが機能し、継続的に支援しています。
 9月4日の台風21号では、大阪湾の高潮が3.7メートルに達したと推定されると発表されました。空港の機能改善状況が多く報道されていますが、大阪だけでなく、四国・近畿地方を含めた広域で、建物損壊・土砂崩れなどの打撃を受け、今も停電の中で過ごしておられる方もいらっしゃいます。
 9月6日の地震は、北海道はじめての震度7という恐怖もさることながら、土砂崩れ・液状化による生活基盤のダメージや、広い範囲で起こったインフラのダメージも大きく、気温の低下も今後に響いていくといわれています。カトリック教会では、札幌教区のカリタス札幌が、ボランティア派遣をしています(参加できる方は北海道内在住の方に限られています)。

 多摩教会では、8月末から2週間、インド、ケララ州の水害に対しての緊急募金を行いました。8月の中旬ミサの参加者が、スマートフォンの翻訳アプリを使って、現地への祈りのお願いをされていました。日本ではほとんど報道されていない災害ですが、国際カリタスの情報をみると緊急メッセージとなっており、多摩教会内での呼び掛けとなったものです。短期間の呼び掛けでありましたが、90人弱の方が応えてくださいました。カリタスジャパンを通じて現地に送られました。

 日常の中で与えられている情報が、いかにほんの一部で偏っていたかということを、災害が起こると感じることがあります。報道情報が多い地域とそうでない所。わかりやすい映像が重視され、映像化しづらい所は伝えられていない伝達の限界。それは、「行ってみないとわからない」ということなのでしょう。そうかといって、各々は、日常で動ける範囲が限られています。唯一だれでもできること、それは、私たちは「これでおわり」という自分で定義づけして感心にリミットを設けることではなく、起こっている出来事を記憶し寄り添っていきましょう。その前向きになる姿勢は私達の信仰にある十字架にあります。わたしたちの「どうしようもない」というあきらめの気持ちは、十字架を見上げるとき、「まだ、いける」という意識を起こします。

 私は夏の終わりに、短い時間でしたが福島のカリタス南相馬に行ってきました。今まで車で行っていましたが、仙台から常磐線を使って、最寄り駅の原ノ町駅に向かいました。休日の常磐線は、若い人が仙台に遊びに行った帰りでしょうか、多くいました。仕事で旅行で来た方もおられました。被災した山元、亘理にも多くの乗降がありました。
 カリタスのボランティアベースは、有名なスーパーボランティアさんみたいに、黙々と作業するだけでなく、地域の方々とつながりをもってきました。今年で5年。被災者の方々が地域の人々の集まりの奉仕をしてくださる場にカリタス南相馬がなっていました。現地のスタッフにもなっていただき、会議のときにも、話してみなければわからない心情を吐露していただき、それを受け止め、今後の展開を考えて、共に歩もうとしています。現地で話して受け止めたのは、「こんな悲惨なことは二度と起こらないでほしい」と「生きる喜びを皆が感じてほしい」です。愛の奉仕という意味のカリタス。この言葉をかみしめて帰りました。

 災害は他人事でありません。多摩教会では大掃除の日に「避難訓練」を行っています。意識して参加を願います。次回は大掃除のあと、救命や災害防止の勉強の場を設けることになっています。どうぞ参加してください。知っていて損はない事柄です。
 でも、東日本大震災のあと、仙台教区の災害対策本部長がおっしゃったことが記憶から離れません。とっても大事な言葉だったからです。それは、
 「一番の災害対策は、『日ごろからみんな仲良く』だよ」

連載コラム:「神の生命と、私たち人類の憧れ」

人生の旅をいっしょに
= ウエルカムのサインをあなたからあなたに =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第91回
神の生命と、私たち人類の憧れ

福音史家ヨハネ 山口 泰司

 私たちは、日々、様々な想いの中に生きている。差し迫った現実の問題から、とりとめのない夢想に至るまで、私たちの多様な想いは、千変万化で止むところを知らない。だがしかし、いまだ手にしていないものを、何とか手にしたいという切なる願い、問題解決への止みがたい憧れなど、人間の表層から深層にわたる多種多様な営みの一切を、均しく根底で突き動かしているのは、ただ一つ、聖なる「神の国」への憧れに他ならない。
 私たちが、自然の美しく荘厳な姿を前にして息を呑んだり、自然や社会の隠れた法則の発見に心躍らせたり、紛争国が矛を収めて握手するニュースに胸をなでおろしたりするのは勿論のこと、和やかな音楽の一節に心を奪われたり、白熱のスポーツ競技に興奮したり、お笑い芸人の冗談に腹をよじって笑ったり、はたまた山海の珍味を仲間と味わう幸せに、生きる喜びを味わったりするのも、すべて、私たちの「神の国」への憧れが、部分的に成就したことによるのである。

 では、そうした聖なる世界への憧れは、私たちのどこからやってくるのだろうか。私たちの頭(理性)からでも、私たちの胸(情緒)からでも、私たちの体(感性)からでも、私たちの動物的ないしは植物的な神経(本能)からでもないことは、確かである。これらは、その願いや憧れを、この世で成就したり表現したりするときの、ただの道具でしかないからだ。私たちの全ての憧れは、人間の理性と情緒と感性と本能のすべてを貫いて、これらを根底から突き動かしている、これら一切より無限に深いところに発し、これら一切より無限に高いところにまで及ぼうとする、私たち自身の生命より生まれてくるのだ。
 では、その生命は、どこから生まれてくるのか。それは、直近のところでは、この世の一切万物が生まれたとされる138億年前の天地創造の時からだとも言えるが、それは、本来、姿なき生命が、物質的な形態をとった時のこのことでしかない。私たちの姿なき生命は、元々、永遠の神の生命とともにあって、生まれることも死ぬこともない存在として、おのずからなる歓びを、無限の意識とともに湛えていたのだ。
 では、その生命が、私たち自身の内なる願いとして、すべての願いと憧れを根底から突き動かしているというのは、いったい何故なのか。それは、神の姿なき永遠の生命が、物質的形態をとってこの世に降り、順に、大自然の物理的生命進化、化学的生命進化、生理的生命進化、情動的生命進化、情緒的生命進化のプロセスなどを経た末に、その総決算として、理性的生命進化の受け皿として人間の肉体を準備したとき、神ご自身が、再び、私たち自身の姿なき魂となって、私たちの肉体に直々に降り立ったからだ。

 このようにして、私たちは、神の〈聖なる大自然〉の一環としての人間の、〈聖なる肉体〉の最奥の至聖所に、神の今一つの姿、神ご自身の〈永遠の生命〉として、つまりは神の超自然的な〈魂〉として、ひそかに息づいているのであるが、この霊的〈魂〉は、神ご自身の無限の叡智(真)と愛(善)と力(美)の一切をそのまま湛えた〈聖なるもの〉として、私たち自身のかつての原型である〈受精卵〉に降り立ったあと、自らの変容を通して、私たちのその後の成長を一貫して内側から支え、促し、導き続けて今日に到り、私たちに、更なる進化を迫って止まないのである。そのわけは、愛そのものである神ご自身が、自からの独り児である人類に、更なる進化を通して〈神人一体の栄光〉を輝かせ、一切万物の先頭に立って、愛に基づく麗しい霊的共同体を、この地上に結ばせたいと願っているからに、他ならない。
 したがって、私たちの魂の切なる願いも、内なる神ご自身の願いそのままに、自らを包んでいる物質的な本能と感性と情緒と理性の衣を、慎重に一枚一枚脱ぎ捨てながら、それらの制約から自らを一歩一歩解放して、さらなる高みに達することにあるのだと言ってよい。言い換えるなら、私たち人類の根源的な願いは、こぞって天使的存在へと進化を遂げて、地上に「神の国」を樹立し、そこで、神と自然と人間が不可分一体の中で真に調和する世界を、心から満喫することにあるのである。
 それなのに、私たち人類は、人類としての、民族としての、国家としての、個人としての、長く苦難に満ちたプロセスをたどるうちに、いつしか人類と民族と国家と個人に固有な、〈エゴイズム〉という名の〈無知なる想い〉を育ててしまい、その結果、魂自身の栄光への道を、我知らず妨げているのである。私たち人類が、自らの隠れた本質的な願いと憧れに従って、魂本来の輝きを発揮するためには、あらためて、内なる神の永遠の生命は即ち、自らの魂に一重に帰依して、その表面に付着した蜃気楼のようにはかない諸々の利己心を、日々の瞑想と祈りと精進によって、ひたすら浄化していくしかない・・・。

 以上が、私の専攻するインドの、古代以来、現代に到るまで連綿と続く〈ヴェーダーンタ哲学〉の、神の生命と人類の願いをめぐる理論の概要であるが、これは、昨年暮れ以来、私が教会のミサに出席することを通して、イエス様御自身の教えの本髄として感じ取ったことと、見方を変えれば、本質的には、そのまま重なり、そのまま通じるようにも思われて、4月に受洗したことの深い意義に、ますます大きな喜びと感謝を、あらためて感じている次第である。

9月:「初金家族の会」からのお知らせ

「初金家族の会」からのお知らせ

 9月早々に、関西には台風、北海道には大地震と、自然災害が続いています。初金ミサの説教で、豊島神父さまは次のように話されました。
 「今日の福音で、葡萄酒と革袋のたとえは、自然の法則の存在を示唆しています。今月早々の台風、地震による災害も自然の法則によるもので、被害を想定外と分析することは、人智の限界を示しています。敬意の念をもって、自然、地球の声を聴き、受け入れ、共生を考えるべきです。地震、噴火が身近な伊豆の島々の人々は、そのような知恵を持っていました。日々、神様より与えられた環境を受け入れ、ゆだね、しなやかに生きていく。私たちの住む地球も生きているのです。神様の摂理に合わせ、その恵みと計らいの上に生きている私たちなのです。神様より与えられたいい世界なのだから、どのように生きていけば良いのかを課題として、お祈りをしたいと思います」

 初金家族の会では、尾崎ひろみさんより、サンチャゴ巡礼の話がありました。フランスのコンクからモアサックまで200km強の距離を十日かけて巡礼した状況です。野の花と風景、ひなびた宿での出会いと交流、特色のある記憶に残る食事、点在する歴史を語る小さな教会などなど、味わい深いものを紹介されました。長い巡礼の道を一歩一歩、ひたすら歩くことが神に繋がっていくとの実感を得たとのことで、他では得られない感慨深いとのことでした。
 最近の巡礼は、アジア系、イスラム系の人々が多くなり、日本人は少ないそうです。人々の出所もいろいろで、習慣所作も異なるものが多い。この多様性を受け入れ合うのも大切と感じる一方、なじめないものもあったそうです。ゴミを拾いながら巡礼する人もいて、皆がこの巡礼の道の環境を大切にする心に感銘したとお話しくださいました。尾崎さんの巡礼の状況を肌で感じ、分かち合うことができました。また、活発な質疑応答も続き、盛況となりました。

 10月は5日の金曜日、ミサの後、午前11時頃から1時間ほど、信徒会館で初金家族の会を開催予定です。今回は、「フランシスコ教皇様のことばを皆で読みましょう」とのテーマで皆様に参加していただき、皆で話し合い、分かち合うことを企画しています。皆様多数の参加をお願いします。
 「初金家族の会」は、初金ミサの後、貴重な体験を披露し、分かち合い、信仰を語り合う、信仰家族の絆を深め合う楽しい会です。皆様どうぞお気軽にお立ち寄り下さい。

巻頭言:主任司祭 豊島 治「お伝えします」

お伝えします

主任司祭 豊島 治

  立秋を過ぎたころから、暑さが収まってきました。今まで、やぶ蚊さえも避暑をしていたかのように出没しない教会周辺でしたが、今は、猫や(子猫が増えました)、小さな生き物たちが元気よく活動しています。
 先週、多くの荷物を聖堂に上げるためにエレベーターに乗りました。階数ボタンを押そうと文字盤をみると、そこにはニホンヤモリがぴったりとおさまっているのです。
 「あの~、何階に御用ですか??」
と声が聞こえそうなクリクリな目を向けながら微動だにしない数秒の()、ほっこりした温かさを感じました。ヤモリもご奉仕しようとしているのでしょうか。もっとも私はせっかちな気質なのでしょう。ヤモリに移動を願って、私の手で「2」のボタンを押しましたが。
 小さな生き物が憩う教会の雰囲気をお伝えするのも大切ですが、神を信じる人の集まりの教会ですから、教会としての最近の動向をおしらせするのもニューズです。NEWなことをお伝えするのも巻頭言のお役目です。以下記します。

1. 典礼色の配置を変えました
 教会の典礼には典礼色があります。現状では白、紫、赤、緑で一部ではバラ色が使われます。多摩教会も十数年前から奉仕者が典礼色を身に着けることにしたと聞いています。
 典礼委員会での話し合いを経て、聖母被昇天より典礼色の掲示箇所を変更します。詳しくは地区集会にて説明させていただきます。

2. 築20年前後となった教会の建物を維持していくにあたり
 先日の経済問題評議会で、構内二つの建物の定期補修のスケジュールと、おおよその金額の提示をし、周知を始めました。この数年、建物を施工した2社の建設会社や、他教会での作業実績のあった工務店などの聞き取りをしたものです。その話をまとめてみますと、
 多摩教会聖堂は、最も高いところで地上23メートルですから、外壁補修の金額も住宅の金額というよりは、中層規模をちょっと超えた建物を維持する金額となります。エレベーターの保守も法律で定められており、また、デザイン重視の構造物となっているので、贅沢をしていなくても、経年劣化対応と法令順守にかかる費用は思ったよりもかなり掛かることがわかりました。
 教会の経済問題評議員の方の構成メンバーは、今まで教会運営をされた経験を持った方ですが、年度途中ですが改選させていただき、これからの世代の方を含め、今後の建物の管理を含めて評議し、進めていくことにします。
 皆さんにおかれましては、教会維持・活動のため運営は献金で賄っておりますので、建物の維持という課題意識のもとにも協同することになります。

3. ここナツ・ここクリについて=関係をどうつくるのかに着点を=
 私の着任前から実行されている「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス」「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り」ですが、この夏は実行委員の皆さんが希望している日が、福島での会議と重なり、実行委員会は今夏の開催をしないことを決めました。連日、体調に影響するほどの暑さが続きましたので、多摩教会までいらしてくださる方の健康上、体力の消耗も考えると、今回の開催を見送ったのは、安全上よかったのかもしれません。
 夏に向けた実行委員会も5月に発足し、会合を重ねてくださっていました。今回はその分野の専門とされている評議会副委員長に同伴してもらい、実行委員内で人間関係構築ワークショップを行っています。“Welcome”の次の“Share the Journey”へと、教会モットーに即しているという感じを受けたのでした。
 KJ 法を用いて、この企画の原点は何かをさぐる時間も実行委員会で設けました。KJ 法の会を進行した私が分かったのは、この企画の方向性は、きっと始めたときの神父様の考えにはあったのだろうけど、それを手伝いたいという協力的な方は、実にさまざまな想いをもって関わってくださっているということです。「多様性の一致」をかかげる東京教区司教のモットーを思い浮かべて、方向性をどこにもっていくか確認する必要もありました。
 この夏は実行委員の方にとって、実りあるものと受け取っていただいたということで、今後の展開を、与えられた時間を有効に使って設けていくことになるでしょう。

 多摩教会の聖堂に入るとき、マリア様が入り口で待っていてくださいます。酷暑のこの夏も、出迎えてくださいました。
 神さまが教会を常に導くことを示す正面のマリアさまの姿、日が暮れて、涼しくなるとでてくるヤモリ。ヤモリは縁起のよい生物なのは有名です。愛を受けて癒やされてこそ、良い奉仕につながるといえるのかもしれません。これから行事が続きます。一つひとつ丁寧に感じながら過ごしていきたいものです。

 ヤモリの実際の写真を載せると気になさる方もおられるでしょう。WEBイラストで代用します。
 (説明の都合で紙面版とweb版で内容が異なっているところがあります。ご了承ください)

yamori