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2002年5月号 No.345 2002.5.11

「べき」と「もし」から解放してください! 宮下 良平神父
復活祭前夜祭、洗礼式に代母として 海野 滋子
ミサ聖祭・聖堂におけるマナーについて 遠藤 和輔
「べき」と「もし」から解放してください!

                         宮下良平神父

 へンリ・ナーウェンという神父様が書かれた「いま、ここに生きる」(あめんどう 社)のなかに、“「べき」と「もし」”という小見出しの以下の文がありましたので 紹介します。
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 現在を生きることはたやす<ありません。なぜなら、過去と未来が絶えず私たちを 悩ますからです。とがめや悔いが過去と共についてきます。思い煩いが未来と共にやっ てきます。これまでの歩みは、心を暗くする思いや当惑、あるいは少なくとも愛憎の 念を感じさせる出来事がたくさん起こりました。そして、これらの感情にはたいてい 罪意識が混じっていて、こう責めたてます。「おまえはあんなことをしたか、別のこ とをすべきだった。あんなことを言ったが、別のことを言うべきだった」。この「べ き」は、過去について罪責感を感じ続けさせ、いまを本当に生きることを妨げます。
 しかし、もっとたちの悪いのは思い煩いです。思い煩いは、私たちの生活を「もし こうなったらどうしよう」という心配でいっぱいにします。「もし父親が死んだらど うしよう」「もしお金が足りなくなったらどうしよう」「もし景気が悪くなったらど うしよう」「もし戦争になったらどうしよう」。これらの多くの「もし」が私たちの 思いを占領してしまうと、庭に咲く花や道で出会う子供の笑顔が見えなくなり、友の うれしい声も聞こえな<なってしまいます。
 私たちの生活を妨げる本当の敵は、この「べき」と「もし」です。これらの敵は、 私たちをやり直しのきかない過去に引き戻し、予知できない未来へと引っ張っていき ます。しかし、現実の生活は、いまここで生きているものです。神は現在の神です。 いまの時がつらくても、うれしくても、悲しいものであっても、神はいつも、そこに おられます。
 イエスが神について語るときは、いつも、私たちがいまいるところにおられる神に ついて語りました。「私を見るとき、あなたがたは神を見ているのです。私に聴いて いるとき、あなたがたは神に聴いているのです」。神はかつておられた方、あるいは やがて来られる方ではなく、いまおられる方です。いまこの時、私のためにいてくだ さる方です。だからこそイエスは、私たちの過去にまとわりつく重荷と、未来を覆う 思い煩いを取り去るために来てくださいました。
 主は、私たちがいまある、まさにその場所で神を見出すことを望んでおられるので す。
              〜「いま、ここに生きる」(あめんどう社P16)〜
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 この短い文章の中に、私たちの「今を生きる」ヒントが示されているように思えま す。本当に私たちの個人的にも社会的にも世界的にも、「べき」と「もし」によって 動かされているとしか言いようのない事態が起こっています。怒りと後悔そして不安 に押しつぶされそうになっている「今」を生きなくてはならない私たちにとって、そ れは「イエスがキリスト救い主である」ことを忘れさせ、気づかせにくくしています。
 だからこそ、私たちキリスト者はイエスのことば、そしてイエスの十字架の意味を 祈りのうちに深めてゆかなくてはならない使命があると思います。
 ナウエンはこの本で、「思い煩いから心の深みへ」向かうために「神の国に私たち の心を据えるために、具体的に何ができるでしようか。…できるだけ集中してゆっく りと祈りを唱えることによって、自分の思い煩いから、心の内の深みへと意識を移す ことです。この答は、足が折れたから癒してほしいと頼んだのに、松葉杖を渡された ような気がするかもしれません。でも、祈りが、心からの祈りか癒しをもたらすとい うことは真理です(P131)」と述べ、「主の祈り」でもいい、「言葉をなぞりながら、 それが何を伝えようとしているかを、あなたの全存在でひたすら耳を傾けるのです。 それでもあなたは、自分の心配事で絶えず思いが乱されるかもしれません。しかし、 その折りの言葉に立ち帰ろうとし続けるなら、徐々に思い煩いで惑わされることが少 なくなり、祈りを楽しみ始めている自分に気づくでしょう(P132)」と私たちを励ま します。私たちの日常のあらゆる時と場所で、先ず、祈りの言葉をひとり口ずさんで みましょう。忘れずに。
                               神に感謝。



        復活祭前夜祭、洗礼式に代母として
                                    海野 滋子
 或る日、教会でミサが終わり階段を手すりにつかまって一歩一歩ゆっくり下りてき た私の前に、それを心配そうに見ていた長い髪の女の方と目が合いました。これが彼 女との出会いです。
私:「教会へはじめて?そう、よくいらしたわ、一緒にお食事 しましょう」「あそこが食堂、お話がしたいわ、あらご主人様もお子さん もご一緒? さあさあみなさんこちらへどうぞ」
初めての方と思えないほど会話がはずみました。
_ドライブ中に乞田川のむこうに白い十字架の教会が目に付き、車を降りてよく見る と、それがカトリック教会であるということがわかり、何か引き付けられる力を感じ たこと。
_数日後子供と一緒に来て、子供は彼女より積極的なので、さっさと戸を開けて聖堂 の中に入って見回していたこと。
_彼女は見慣れないキリストの姿とステンドグラスの美しさに心ひかれたこと。 一彼女は、「ここだ!」と心に決め、すぐに神父様にお電話をし、ミサの時間を知っ たこと。
そして彼女は、今、比処へきたのだと。

 私は、まるで可愛い自分の娘に会ったような気持ちでした。近くに住んでいること がわかり、名刺をさしだすと彼女:「あら、このマンションは家の傍一度中へ入って みたいと思っていたのよ」
私:「それじゃ見にいらっしゃいよ、待っているわ」
彼女は、すぐ翌日訪ねてきました。
彼女:「お言葉に甘えまして。 とても来たかったの」
いうまでもなく、またまた話に花が咲きました。そして驚き。
−彼女が私と同じ女学校の卒業生であること
一学生時代にカトリックの教えを聞いたこと
−シスター方と楽しくお話ししたこと
そして、今は
一教会に行きたい
一教理の勉強をしたい
という強い意志があることを知りました。
その時、私はそこに神の思し召しを感じ、彼女とその家族と仲良くしようと心に決め たのです。
その後私が怪我をして病院へ入院した時、度々見舞いに来て 不自由はないかといろいろ心配してくれました。子供が学校に帰る時間になると飛ん で帰ったり、その無邪気な様子が嬉しいものでした。

 その後彼女は教会へ熱心に通い、カトリックの信仰、まもるべきこと、 そして神の愛の如何に深き事を学んだのでしょう。
 一年経って今日、復活祭前夜に洗礼の恵みを受けることができました。
 神が彼女の目を開かせてくださったという思いです。
神父様から代母になるようにとお話がありました。こんな老婆より若い方を選んでく だされば良いのに・・・
 これからの長い人生を指導受けつつ、共に歩いて行かれる方をと思いましたが、や はりお受けして私は天国からでも共にお祈りしましょうと誓いました。 洗礼式の祭壇は、飾られた花々の間にベールが流れるように組み入れられ、洗礼式の 感深く、聖土曜日なのでキリストの像には紫の布が掛けられ死の意味を表し、静寂と 闇の中、各自の手中の蝋燭に次々と点火され、暫くして聖堂中明るくなり
主の復活です。喜びです。
そして、洗礼式が始まりました。
彼女は自分の信仰を力強く宣言し、神は恵みあらわに彼女の額に聖水をそそがれ、神 の子としてくださったのです。私は代母として付き添い、長い髪が邪魔にならないよ うにそつと後ろから押さえてあげました。
「白い衣を受けなさい」の声に「神様」と心の中に叫びながら彼女 の頭の上に真っ白のベールを掛けました。その時、見違える姿になったような気がし ました。 神に感謝。
 彼女は家族の中で一番はじめに「幸い」を手に入れました。 神の望まれる事を理解することが出来、そして実行する力を神が あたえたもう事を信じる彼女です。これから妻として母として 家族揃って、神の恵みの内に幸福な生活を、作り上げてゆくことができますようにと 祈ります。
 私も、この歳になってから与えて下さった責任ある喜びを感謝しつつ、毎週日曜日に ミサに集い、祈り合っています。

                             



    ミサ聖祭・聖堂におけるマナーについて
                              典礼部 遠藤和輔

私たち小教区共同体の拠り所となるミサ聖祭をより豊かなものにしていくた めに、ミサならびに聖堂におけるマナーについて気が付いた点がありますの で書かせて頂きます。
●ミサ聖祭のマナー
・ミサ聖祭において聖書朗読をされる方は、ご自分の席から朗読台に向かう時には、 手を合わせ中央通路を祭壇にすすみ、十字架に頭を下げ朗読台に向かいます。そして、 司式司祭に軽く一礼し、また聖書にも一礼し朗読に入ります。朗読が終わったら再び 聖書に一礼し司式司祭に一礼して自席に戻ります。
・聖体拝領の時は左手の手のひらにご聖体を頂きますが、その時、「アーメン」とはっ きり答えご聖体を頂き、カリスの前に進み御血に浸し、左手を添えて拝領します。
・聖体拝領でもう一つ注意して頂きたいのは、意向の同じミサでの再度の聖体拝領は できません。たとえば、土曜日の夕刻の主日のミサで拝領し、翌日の日曜日の主日の ミサでも拝領することはできません。ご注意下さい。ただし、意向が違えば(たとえ ば結婚式とか葬儀など)その限りではありません。
●聖堂のマナー
聖堂には、ご聖体が安置されていますので、ご聖体の前では静かにして下さい。ミサ 後のひとときは、少し静かに祈っておられる方もいらっしゃいますので、挨拶やお話 は聖堂の外に出てからにしましょう。
                   


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