多摩カトリックニューズ表紙へ戻る

2008年11月号 No.423  2008.11.15

殉教者の列福式を前に(二)
加藤 豊 神父
信徒セミナー森司教の講話要約
御岳山で金祝の祝い 加藤 泰彦


殉教者の列福式を前に(二)
                                加藤 豊神父

 いよいよ今月の24日、長崎で列福式が行われます。そこで先月に引き続き、この巻頭言では「殉教者の列福式を前に」というタイトルで書いてみたいと思います。特に今回は、「殉教」そのものについて考えてみたいと思うのです。
 皆さんにちょっとお訊ねしてみたいのですが、たとえばイスラム原理主義過激派による自爆テロ、あれって「殉教」でしょうか。無差別殺人を引き起こすテロはどのようなケースであれそれじたいは悪であり、平和を望むすべての人にとってテロはとんでもないことです。だから多くの方は、「ああいうのは殉教とはいえないと思う」とお答えになることでしょう。もちろんわたしもそう思います。
 しかし結局、そこでは「教え」のために(それに殉じて)命が捧げられているのであり、特定の信仰形態に則してみずからの生命さえも惜しまない、そういう価値観が同胞からは讃えられ、お手本とされるのです。こうした部分だけを取り上げてみた際に「キリスト教の殉教といったいどこが異なるのか」と問われた時には答えに詰まり、戸惑いを否めない人が案外いらっしゃるのではないでしょうか。「だいたいあんなのと一緒にするなんて不謹慎だ。おまえの見方が歪んでいるんだ」という批判が聞こえてきそうですが、その種の反応こそは客観的な視線を無視した「うちわの論理」といえないでしょうか。
 そもそも「教え」に殉じて死をも恐れぬ勇猛さが即、立派なことで、それが即、神を讃えることになるのか。不寛容な反対者に屈するよりはむしろ死を選ぶという選択が即、理想的なことであるのか。もし、即「然り」とするなら、そういう理屈はその「教え」の内側にいる人たちにとってはともかく、福音宣教という点からは何も説得力がないばかりか、下手をすれば狂信的なカルトと勘違いされたり、誤解を生じてしまうことにもなりかねないと思います。今回の列福式は日本における宣教の突破口でもある、ということを、わたしたちはもっと意識していなければならないでしょう。
 そういう意味で、カトリック信者であるわたしたち一人一人が、この「殉教」というものについて、こんにちどのようなイメージを抱き、どのように受けとめているかを自問自答してみる必要があると思うのです。
 パウロはいっています。「たとえ、わたしが誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ何の益もない」(1コリント13:3b)。そうです。「信仰」とは決して「イデオロギー」でも「信念」でもないのです。「教え」は本来、本質を伝える「ことば」であって、その本質とは、キリスト教の場合には一般に「愛」と呼ばれているものです。
 ペトロ岐部と187人は、まさにこの「愛」に基づく行動の結果、殺されてしまったのです。わたしたちが彼らを敬う直接の理由は、彼らが毅然と自分たちの「信念」を貫いた英雄的人物だったからではなく、むしろ「信念」を貫いた人々によって迫害された彼らが、人間の尊厳を押し潰すようなこの世の不条理の犠牲とならざるをえないほど、それほど愛に基づいて生きたからなのです。それが弱々しい人間の力だけでは不可能であろうことを、同様に人間であるわたしたち自身は好むと好まざるとに関わらず自覚しており、それゆえ究極的にはそこに神の愛が働いているのだということを、わたしたちに向けて彼らは「証し」してくれるのです。


2008年信徒セミナーにおける森司教の講話要約
                         於多摩教会 2008年10月26日

「小教区の可能性とその限界」というテーマをいただいているが、私としては別の切り口から教会のあり方について皆様と一緒に考え、確認をしてみたいと思う。
  教会という言葉の語源からその原点を
 教会というと色々な歴史的経緯や教義、ルールがあり、それに縛られて、そこからなかなか抜け出せない。もう一度教会という言葉、その正しい意味を考えてみたい。教会という言葉の語源は、ギリシャ語の“エクレジア”であるが、この言葉には「教え」というニュアンスは全くない。アジアでこのエクレジアという言葉を最初に訳したのは、 中国においてである。18〜19世紀に中国に宣教に行ったフランス人の宣教者が「わたしはこの岩の上に私の教会を建てよう」という主のペトロへの言葉を訳した時である。日本においては、江戸時代に知多半島のある漁師が難破して、カナダまで流され、鎖国のため国に帰れず、マカオに行き、そこでプロテスタントの牧師と聖書の翻訳に取り組んだ。その時使った言葉は「より合い」という訳語であった。伝道師でローマ字の創始者でもあったヘボン師は「集会」と訳した。次いでプロテスタントの牧師たちと協力して、聖書を訳した際に「教会」という言葉が出てきた。イタリア語・スペイン語・フランス語などはエクレジアから派生した言葉(注:スペイン語ではイグレシア)を使い、英語ではチャーチという違った言葉になっている。
 そもそもエクレジアというのは、誰かに、そしてその人柄に惹かれて、集まることを意味する。キリストの人柄、心の温かさに惹かれて人々が集まった場である。その中にはペトロも、罪を犯した人々、売春婦たちもいた。そのような初期の集まりの中に「教え」とか「教義」があったのかと言えば、そうではなかった。
 しかし、たくさんの人々が集まって来たとき、問題が生じてきた。そこでイエスは「毒麦のたとえ話」をされたが、この話でイエスは教会のあり方を示唆さている。ペトロを中心にした集まりであったが、その中には売春婦や異邦人と付き合っている人たちもいた。これではいい加減過ぎる、社会的基準で問題のある人々を排除しようという動きが出てきた。社会的差別感が生まれてきたのである。これに対してイエスは、それは駄目だよと言われたのである。
 これは教会の一つの特徴と言ってもよい。教会の集まりには一般社会の基準は適用しないということである。教会で聖書朗読をする人の中にも現在、または過去に問題がある人がいるかも知れない。でもその人も教会に来て、どこかでキリストとつながっているかも知れない。
  教義の歴史的意味と教会の原点
 次に教義のことを取り上げてみたい。教会が出来上がって、「教え」というものはあったが、4〜5世紀の頃まで「教義」というものはなかった。しかし、3〜4世紀頃からこの教義の必要性が出始めた。それは異端の問題である。この頃になると異端者が出てきた。そうなるとキリストの教えはこうなんだよ、と明確にする必要が起きてきた。従って、教義は異端との関連でできたもので、異端の意識がない人々にとって教義はナンセンスであった。
 エクレジアの本質には、教義はなかった。あったのはイエスのハート、人柄だけであった。そのことを具体的に分かって欲しいと思い、私の知っているある女性の話しを紹介する。
 この婦人は、日頃から渋谷などで問題になっている14〜15歳の家出少女に声を掛けることをしている。彼女によれば、少女たちは大人の声が届かない状態になっており、両親を初めとする大人に絶望し、不信感を抱いている。ある少女は14歳から援助交際の道に入り、その中でしか自分の存在を感じることができない。教師をしている両親の前では良い子を演じているが、それは建前だけの姿で、実際は両親に不信感しか抱けず、心の中は孤独感で一杯である。家庭に居場所がなくて、渋谷をうろうろするしかない。苦しみのあげく、リストカットを繰り返していた。この苦しみを誰かに知って欲しい。しかし、普通の大人の声はこのような状態の彼女には届かない。ある晩、彼女は、ひどいリストカットをして、救急車で運ばれ、治療を受け、ベッドに横たわっていた。この婦人は一晩中涙を流しながら、彼女の苦しみをいやした。言葉ではない、この婦人の暖かい心が彼女の心の内側に届いた。彼女の頑なな心を突き破り、生きる心を蘇らせたのである。
 キリストとその元に集まった人々との関係は、これと同じであった。キリストには人々の心の底を突き破るものがあり、人々はこの人なら心を開けるという思いがあった。神がキリストの心を通して、もがき苦しんでいる人々の心を開いたのである。様々な人生を送ってきた一人ひとりの中にキリストの心が入り込んだ。これが教会という共同体の原形であり、正に小教区の原点である。
 エクレジアとチャーチ(Church)の違いについては、チャーチという言葉の語源を調べると、それは建物の概念から来ている言葉とされている。建物、すなわち聖堂の堂を強調した言葉である。カタコームの中で隠れて、信仰を守ってきた時代が終わり、キリスト教がローマ帝国から公認されると、教会は多くの人々を集める堂としての面を強調することになる。それがチャーチである。エクレジアとチャーチとどちらに軸足を置くか、それにより教会のあり方は変わってくる。しかし、その原点だけは忘れてはならない。それは今の教会の中でも言えることであり、堂に軸足を置く人に傾きすぎると、それはまた問題である。
  教義という制約に縛られて
 しかしながら、長い歴史の中で教会には色々の制約が設けられてきた。その一つの例として、自殺者の扱いがある。ある教会では、自殺者には葬儀も正式に行われず、教会の墓地にも入れない。その遺族も差別される。これは、自殺が大罪の一つであるという教義の解釈に縛られてきたからである。
 そこで私たちは、「命のまなざし」という文書の中でこの点を改めたうえ、自殺された方の「裁きは神に委せよう」という言い方をした。しかし、自分としてはもう一歩踏み込んだ、教会としての介入をする必要があったのではと思っている。生きることの辛さを通しての介入、自殺するほど苦しかったのね、という慰めの気持ちを持っての介入に教会は踏み込まねばならない。現代の人々の心を癒してあげる心を表に出して行かないと、教会は存在の価値を失う。苦しい人と一緒になり、一緒になって苦しんでいく中に教会の意義がある。人を責めるのでなく、人生の重さ、辛さを抱えて、一緒に歩むことに救いの道が開かれる。
 芥川龍之介が作家として世に出る前に書いた短編に「隅田川」というのがあるが、その主人公は屋形船の上で、何時もひょっとこのお面を被って、戯けて踊っていた。ある時そのお面を外して見せた本当の顔は、あっと驚くほど青白い痩せこけたものであった。世の中の皆がお面を付けて生きているということを言いたかったのであろう。
 もう一つ、やっかいな教義の問題がある。それはカトリック信者夫婦の離婚についてである。教義は離婚した人々に厳しい姿勢をこれまでとっており、教会が聖体拝領を拒否するなど、残酷な扱いをしていた。新しい教皇は、今年の6月にある地域の対話集会で、この問題に対して理解ある立場を示していた。しかし、この10月に家庭問題についてのシノドスにおいて、この点について期待されたような踏み込んだ発言はなく、従来通りということである。やはり司教の多数が変革を求めていないと言うことであり、教皇としても無理をすることが難しい。長い歴史の中で作られた教義の束縛を刷新することは大変なことである。
 新しい教皇の評価についての私の経験をお話しすると、民間出身の元外務大臣の大来佐武郎氏が始めた人材育成の勉強会があり、もう30回ぐらい続いているが、そこで「国際社会とキリスト教」というテーマで話しをする機会があった。その際、自衛隊の幹部の方が質問され、先代の教皇は世界各地に出掛けて、開かれたキリスト教という印象があったが、新しいベネディクト16世教皇は、少し違うのではないか、その違いをあなたは具体的にどう受けているのか、と聞かれた。これに対して私はこのように答えた。「カトリックの教皇の存在はファジーなものである。一般社会の組織と違って、トップの教皇は絶対的なものではなく、我々はキリストという鏡、福音という鏡に照らして、行動しており、その意味で教皇が替わったから、私が変わるということはない。」
  召命を受けた司祭の教会
 教会のもう一つの問題についてお話しすると、神と信徒の結びつきのあり方である。カトリック教会においては、神・キリストと信徒の間を結ぶものは、司祭を通しての教義・秘跡・掟であり、この3つの柱で信徒は神とつながっている。それに対して、プロテスタント教会においては、神と信徒の間には聖書・信仰・めぐみを通じて、信徒一人ひとりが神とつながっている。極端に言えば、無教会主義である。ルーターは、一人ひとりが祭司であると言った。牧師は単に信徒のリーダーとして選ばれた者にすぎない。それに対して、カトリックは、その歴史を見れば、そのトップの堕落から脱却するため、根本的刷新を迫られ、神学院制度を設けた。そこで召命を受けた若者を司祭として育成することになった。信徒は、この召命で選ばれた司祭に従う者、教えられる者という立場に立つことになった。信徒は教会のお客であった。第二ヴァチカン公会議の前は、「告解しなさい、跪いて祈りなさい、献金しなさい」と告げられていた。召命された司祭とリーダーとして牧師、それがカトリックとプロテスタントと根本的な違いである。
  カトリックの権威者
 三権分立が前提となっている現代の民主主義社会において、教皇は全権限を持っている。ただし、修道会においては、フランス革命より前の時代に、すでに民主的な選挙制度を採り入れていた。司祭に叙階する際、100人の聖職者の投票による多数決で任命していた修道会があった。教皇も選ばれる時は、コンクラーベと称される選挙制度で、絶対多数が出るまで、投票が繰り返される。ただし、一旦選ばれると、全権限を持つことになる。その中で「民の声は神の声」いうことがどのように実現されるか。アメリカにおいて司祭の性的ハラスメントの問題が大きな社会問題となったこともある。そこには司教の組織運営に問題があった。教会の運営は、多数決制ということではない。その中で反対意見には十分配慮を行い、話し合いを重ねて、その中で総意をまとめていく努力が必要であろう。全てが民主主義的という訳ではないが、逆に民主主義の多数決で全てが解決されるわけではなく、少数意見にどのように対応するかという問題が常にある。
  結びの言葉として
 マリアが神の心を喜び讃えたように、教会という共同体に魂を吹き込む必要があると思う。小教区が生涯をかけた養成の場となり、年齢、性別に関係なく、一人一人と向き合いながら、ダイナミックに生きる場となるようにしたい。このことをどう具体化して行くかを皆で考えていこう。
                                                 (以上)                                                記録:井上信一


御岳山で金祝の祝い

                                  加藤 泰彦

 11月2日(日)〜3日(月)、奥多摩の御岳山にある宿坊「御岳山荘」に70名ほどの元・青年達が集まり、一泊の合宿を行いました。「藤岡神父・寺西神父の金祝を寿ぐ、元多摩ブロックリーダー・中高生の練成会」と題されたこの合宿は、多摩ブロックの中高生練成会のリーダーや参加者(当時の中高生たち)の久々の集いです。多摩ブロックは現在の宣教協力体の前身で、東京教区の多摩教会以西の小教区・修道会の連合体。その活動は1973年から十数年続きましたが、特に多摩ブロックは青少年活動に重点を置いていました。金祝を迎えられた2人の司祭はこの多摩ブロック活動の要であった方で、藤岡神父様は当時、立川教会の主任、寺西神父様は私たち多摩教会の主任司祭でした。
 会場となった宿坊は、奥多摩の御岳山の山頂近くにあり、すでに秋深い凛とした空気に包まれていました。当時の練成会は、しばらくここで行われていました。神社の宿坊でカトリック教会が練成会を行うという、ユニークな試みでした。
 三々五々集まった仲間たちは、夕方17: 30から、思い出の詰まった大広間でミサを行いました。この日はちょうど死者の日にあたり、ミサの中で多摩ブロックにかかわった人々の中で、すでに天に召された方々のために祈りました。ラサール会の二人の修道士ベランジェさん、フィリップ先生、参加者としてリーダーとして活躍されたMSさんATさん、青年たちのために家庭を開放したH夫妻。廊下を走り回ったり、障子をぶち抜いたりしてリーダーに怒鳴られた懐かしい場所に座っていると、当時が断片的に思い出され、次第にそれがある確信になって行きました。ここに集った私たちの中で、大きな力が息づいていると。
 ミサ後は、夕食をとりながらの宴になりました。この会の幹事長を務めた晴佐久師から、「ここに集った昔の仲間たちは、みんなニコニコしているけれど、本当はみんな悩み、苦しんでいるのです。どうかこの機会に近くの人たちの話をじっくり聞きましょう」という呼びかけがありました。近況から始まり、仕事のこと、家庭のこと、子供のこと‥・いくつもの話の輪が出来上がり、夜が白むまで続きました。
 翌日も朝食後ミサが行われ、このミサでは2人の司祭の金祝を神に感謝しました。寺西師は説教のなかで、この宿坊「御岳山荘」で練成会を開<に至った経緯や、当時のさまざまなエピソードを語られ、その体験から「たしかに神の国は来ている」という確信を持たれたことを話されました。
 ミサ後にお二人の司祭に、参加者全員のお祝いの言葉の詰まったアルバムが贈られましたが、幹事の晴佐久師は「司祭にとって最もうれしい贈り物は、自分がかかわった人たちが、こうして天の父の慈しみを讃えながら生きていること」なのだと締めくくられました。
 同窓会の一時のお祭りではない、これからも関わり続けていける仲間としてこの集いを大切にしていこうと思います。次回はI神学生の司祭叙階のお祝いのときに、という暗黙の約束をして、山を下りました。


多摩カトリックニューズ表紙へ戻る