2008年10月号 No.422 2008.10.25
1 | 殉教者の列福式を前に |
加藤 豊 神父 |
2 | 洗礼式を終えて |
若宮 直子 |
3 | バザーが終わって | 小田切 真知子 |
4 | 教区こどものミサに参加して | 塚本 清 |
5 | 「信仰と光」東地区軽井沢合宿に参加して | 増田 尚司 |
6 |
コルベ会からのお願い | 澤江 秀美 |
殉教者の列福式を前に
加藤 豊神父
殉教者の列福式まであとひと月を切りました。いま教会ではその日までの準備の期間を過ごしています。ご存じのとおり、今回、長崎で行われる列福式は188人の殉教者、すなわち「ペトロ岐部と187殉教者」のそれであります。
ところで、そもそもわたしたちは普段「殉教」、あるいは「殉教者」という言葉にどのようなイメージを抱いているでしょうか。熱烈な信仰、堅固な意志、強靭な精神力、そして、それらを貫いた信仰生活のよいお手本、とても真似できそうにない立派な生涯、といったところでしょうか。しかし、そういう印象は的外れとはいえないまでも、それほど妥当なイメージであるともまたいい難い、とわたしには思えます。
というのは、もともとわたしたちが聖人を敬ったり、福者を敬ったりするのは、その根底に秘められている大切なものがあるからで、それが「個人崇拝」に終止してしまうとしたら、やはり不充分な理解に留り続けることになるでしょう。殉教者のことを、「勇ましく戦って名誉の死を遂げた人物」であるかのように、つまり異教的な英雄のようにイメージしては、話がおかしくなってしまうのです。
殉教者の場合は特に、彼らの人間的な力量が注目されやすいと思いますので、この点は一考に値する点です。たとえば、ミサ典礼書のなかにある「殉教者」の序章にも、「聖○○○○は、あなたの恵みに強められ、いのちをささげて御子キリストをあかししました」と記されているものだから、これですと、受け取りかたによっては、「キリストをあかししたのは、聖○○○○の業績です」というふうにも読めてしまうのです。しかし、この文の重要なポイントはむしろ「神様あなたのお恵みだったのです。聖○○○○はあなたのお恵みに強められたのです」と祈っている出だしの一文のほうでありましょう。
もうおわかりいただけたと思います。正確には、殉教者が自分の力でキリストを表したのではなく、キリストが(こちらが主語であり、主体です)殉教者たちをとおしてご自分を示されたのです。
わたしたちの信仰の諸要素のうち、聖人や福者への崇敬は欠かせないものではありますが、それは「個人崇拝」とはまったく違った次元のこと、そういう特定の人々の人間的な栄誉を讃えるのがわたしたちの信仰の中心にあるのではない、ということに留意したいものです。
努力、根性、信念、その他その種の「人間の誇り」に類するものは、もちろんそれはそれで尊いものではあるのでしょうが、しかし、列聖や列福というのはそういう側面が強調されて祝われる機会では本来ありません。カトリック教会が聖人や福者を敬い、祈り、お祝いするのは、その聖人、その福者、その殉教者に神様が固有の使命を与えられ、そのためのお恵みを注がれたからなのであり、その人たちをとおして今日も主キリストがわたしたちとともにいてくださることを思い起こすことができるからなのです。「恵みあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます、主はあなたを祝福なさいました」という言い方からも、それはよくわかることでありましょう。
洗礼式を終えて
若宮 直子
10月12日、秋空澄み渡る日、若宮健が、皆様の見守りの中で洗礼を授けていただきました。加藤神父様始め、皆様に御礼申し上げます。私たち夫婦にとってとても嬉しい一日となったと同時に、神様から授かった子供を、大切に育てる約束を皆様の前で神様に誓ったのですから、責任重大です。気をひきしめて子育てしたいと思います。
健の母である私は、同じく幼児洗礼で30歳を過ぎるまで永く浦和教会に在籍しており、顔なじみの信者さんに囲まれ、自然と生活の中に教会のミサや行事、友達との交流がありました。転勤を機に独居生活を始め、多摩地域に移り住んでからも、浦和教会を離れることができずにおりました。今回、やっと自分の生活する地域の教会にしっかり根を下ろそうと決心できたのも、長男の誕生があったからと思います。神様が招いてくださったのでしょうか。
多摩教会では、乳児をもつお母様方とすぐにお友達になれたことをとても心強く思っております。代父を引き受けてくださった松原氏とそのご家族、少し前に洗礼をお受けになった田中大智くんのお母さんです。単身で新しい教会に行き始めるよりもずっと、家族で教会に行けるのは、なんと嬉しいことでしょう。子連れで教会に来ると、皆様から息子、健に声をかけてくださり、こんなに嬉しいことはありません。これからも、少しずつ皆さまと顔見知りになれたらと思っております。
お恥ずかしながら、私は、里帰りを終え、多摩の家に戻ってから、泣くわが子を日中、自分一人であやす大変さにめげそうになり、多摩教会に昼間何度か散歩し、祈りにきました。その際、お御堂で祈っていた婦人の方が、健を抱いてくださり、迂闊にも私は涙が出ました。「助かった〜」とほっとした思いからです。情けないのですが、誰かに声をかけてもらいたい心境だったのです。お御堂で神様と対話するだけでも自分の肩を押されている気持ちになり、元気になりますが、人との交流はもっと力をいただけるのだと感じます。
子供を育てていく中で、きっと、つまずきが待ちかまえているでしょう。健が成長していく中で、神様の愛のお恵みと教会の中での皆様との交流が、とても大きな助けになると思っております。どうぞ、夫婦ともどもこれからもよろしくお願いいたします。
最後になりましたが、多摩教会の皆様や皆様のご家族の上にも神様のお恵みが豊かに降り注がれますよう、お祈りさせていただきます。
バザーが終わって
小田切 真知子
10月19日ミサ後、バザーが開催されました。天候にも恵まれ、子供から大人まで、時には売り手になり、時には買い手になったりと、楽しい時間を過ごしました。
“交わりの教会”というテーマの中、普段に交流のなかった人との、新しい出会いが生まれましたか?
献品の品だしをしている時、川沿いを散歩していた人が声をかけてきてくださり、少しお話をさせてもらいました。
バザーなどの行事が、新しい交流の機会に役立てればと思います。
献品、準備、片付けと、たくさんの人々の力が合わされ、盛況のうちに終了したことに感謝いたします。
教区こどものミサに参加して
塚本 清
今年の教区こどものミサは、10月12日(日)に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われました。
今年のミサのテーマは、「アッバ、父よ」(マルコ福音書第14章36節)−殉教者と共に祈るーでした。これは、今年11月24日にペトロ岐部と187人の殉教者の列福式が行われますが、その殉教の記録を読むと父である神への信頼の姿を見ることができることから設定されました。そこで今回は、各小教区で灯籠を作り、殉教者への手紙を書き、これらを霊的花束と一緒にミサの中で奉納しました。
多摩教会の教会学校でも灯籠を作り、その側面にみんなで絵を描きました。また殉教者の話を聞いて、自分の思いを手紙の形で書き表しました。そしてみんなでお祈りをして、霊的花束としました。この霊的花束はミサ後、全教会分を集計して列福式の時に岡田大司教様に持って行っていただく予定です。
ミサの始まる前に岡田大司教様が江戸の殉教者の話をしてくださいました。ミサの中では河野光浩くん、阿部舜幸くんと阿部萌樹くんが侍者団に加わり、若林ゆりさん、河野百恵さん、大塚岳くん、荒木瑞紀さんと大塚陸くんが灯籠の奉納をしました。殉教者への手紙と霊的花束は全体の代表者が奉納しました。ミサは岡田大司教様と多くの神父様方の共同司式でささげられました。大司教様のお説教では、今年のミサのテーマについてのお話がありました。侍者の中には、教会学校の夏の合宿で一緒だった東京教区の倉田神学生の姿もありました。また多摩教会で洗礼を受けた斉藤さんが市川教会の教会学校のリーダーとして活躍していました。ミサのあとは各教会の紹介があり、マウス・パーカッションによるレクリエーションがありました。
東京教区の教会の子どもたちが集まってささげるこのミサも今年で9回目となりました。今年のテーマの中には、今回列福される殉教者と共に祈るということがありました。今から400年ほど前に日本で起きたキリスト教への迫害を受けた殉教者たちの話は、子どもたちには少しショックだったかもしれません。しかし、この殉教者や教えを守った人々のおかげで私たちにも信仰が伝えられたのです。列福式が近づいた今、このことを考える機会になればよいと思います。なお、ペトロ岐部と187殉教者についての子ども向けの本「恵みの風に帆をはって」が信徒会館1階の本棚にありますので、ご一読ください。
「信仰と光」東地区軽井沢合宿に参加して
増田 尚司
8月30〜31日、わずか一泊であったが初参加し、遠くは名古屋から、また神戸の青年信者も1名協力者として参加、約50名強の合宿である。多摩から信者と家族の方7名の参加。私は全くの新入りで、中身は知らず、当初お茶会だけでもと全く安易な気持ちで参加。多摩の月一回の「信仰と光」の定例会に2、3回参加しただけである。改めて感じたことは、知的障害者を支えなければならない家族の数々の辛苦は、当事者でない自分には半分も理解していない、かえって失礼してしまうのではという気持ちで参加させていただいている。
主に福音書のパントマイムと聖歌を通しての集会と、集会者達各人の出来事とおしゃべり会、日頃外出も制限されている人達なので外部との交流がないからだろう。どうしても内にこもりがち、もちろん私も現役過ぎると人との関係が希薄になるのは同じ者同志と思っているが、多摩の場合とても穏やかなグループで彼らの屈託のない、とって置きの笑顔と澄んだ眼、生き生きした態度でこの還暦を過ぎたしょぼくれじいさんに、友として仲間として接してくれる彼らに心から感謝している。
軽井沢合宿の参加者は多摩とは違ったタイプの人達がいて、ミサの時やその他の集会中集中力が散漫になるのだろう(青年の男性2〜3名)、一般社会の感覚からすれば何ともめいわくこの上ない、その辺を歩き回る、何かしきりにさわる者、その度に介助者の制止する心労はたいへんである。勿論その行動の裏には意味があるのだが、経験不足の私にはよく分からないもどかしさがあるが、彼らと共に仲間として分かち合う喜び、きのう会ったばかりなのに、旧知のようにしきりにハイタッチを求め、こんなにも愛し愛されたい信頼できる友達さというメッセージを発信しているのかと思うと、かたくなな私も彼らの素朴な態度に思わずメロメロに癒されてしまうのだ。人は誰でも孤独とはどんなものか何度も味わうものである。孤独は人を落ち込ませ苦しめる、厄介な代物である。
老年になると働き場もない、体力も知力も収入も何より対人関係の関わりも疎遠になるのは自然のことだが、社会の片隅に置かれた役立たずの気分になりがち、年寄りのヒガミというなかれ、これが現実なのだと。しかしこれはとんでもない思い達いで、他人を視野に入れ、他人のことに少しでも関心を持つことくらいは未だ残っている筈、しかも自分にはゆるぎないより所があるにもかかわらず、なんと思い上がりの怠け者だとこの会で学んだのだ。集会中分かったことは、お互いの共同体意識が生まれ、なんとも驚くべき不思議なパワーが生まれ、キリストの平和・力・赦し・かほり・苦しみも、集会者全員の心の叫びとなっている、言葉で表現はできないパワーを感じたのである。お互いに笑い、喜び、苦しみ、泣き、分かち合うことで、喜びは倍、苦しみは半分になるという実感は本当である。沢山の元気と喜びを貰い、更に自分の訓練の場にもなったことに感謝している。この共同体はほんのささやかなものだが、これから先、勘違いや思い違いなど色々と積み重ねながらも、多摩のグループだけにとどまらず進化していくと信じて、またの機会の報告をします。
コルベ会からのお願い
コルベ会担当 潭江 秀美
東京カリタスではペットボトルのキャップを集めています。キャップを分別回収するだけで、環境改善と再資源化の促進ができるとしたらすばらしいことではないでしようか。
一方、世界の発展途上国には、栄養失調や下痢、または予防のできる感染症で命を落としたり、後遺症に苦しんでいる子どもたちがたくさんいます。
ワクチンさえあれば命が助かる子どもは、世界で一日約6000人に達しているそうです。
ペットボトルのキャップをみんなで集めると、質の高い素材としてリサイクル業者に引き取ってもらい、その売却益が400個で10円になるそうです。ポリオワクチンは、1人分20円なのでキャップ800個で1人の子どもの命が救えることになります。
この素晴らしい贈り物をとどけるため、多摩教会でもコルベ会でこの活動に協力したいと思います。
信徒館の公衆電話の側に入れる場所が用意されました。切手や不用カード類の回収同様に皆さんのご協力をお願いいたします。
なお、キャップは洗って、乾かしてお持ち下さるようお願いいたします。