2007年4月号 No.404 2007.4.20
1 | 復活節だからこそ | 加藤 豊 神父 |
2 | 洗礼 | 萩原 和幸 |
3 | 洗礼を受けて | 齊藤 信也 |
4 | 洗礼式を終えて | 金沢 もり子 |
復活節だからこそ
加藤 豊神父
今年もわたしたちは復活祭を迎え、桜の花が咲き乱れる晴天の4月8日、主のご復活の記念を喜び祝うことができました。わたしたちの共同体はこのところ年々信徒数が増加傾向にあり、そのせいか今年は昨年以上に沢山の人が集まったように思います。
いうまでもなく教会は毎年、主のご復活をお祝しているわけですが、そもそも「ご復活」の前には「ご受難」と「ご死去」というものがあったことを忘れてはならないし、それらを想うことなくしては、心からの喜びにはほど遠いような気さえします。そうです。復活節だからこそ主のご受難とご死去を思い起こし、天国にいる先人たちに心を向けたいわたしです。
「週の初めの日の明け方早く、婦人たちは、準備しておいた香料を持って墓に行った」(ルカ24:1-12)。ご存じのように、今年の復活徹夜祭で朗読された『ルカによる福音』の出だしです。イエスの復活を物語る重要な場面を記したこの箇所は、ご覧のように「お墓参り」によって幕を開けるのです。イエスに従った婦人たちは、先ず、イエスが葬られた墓に出向きます。「香料を持って」とあります。おそらくその香料は油で溶いて遺体に塗るためのものだったかもしれませんが、話を日本風に置き換えるならば、いわばお線香を用意したのだと考えればいいでしょう。「週の初めの日(日曜日)の明け方早く」、イエスの墓に行った婦人たちの復活体験は、毎日曜日ミサのために朝早く家を出るわたしたちに受け継がれているのです。
実に?エスにおいてその「死」と「復活」とは切り離せない出来事であって、その意味でわたしたちは今年も「復活祭」という「命日祭」に集まったのだといってもいい過ぎではないでしょう。キリスト教的死生観に基づくならば「死」はどこまでもあらたな「命」への門であり、復活祭と命日祭とは命の営みを巡る両側面であろうと思います(葬儀や追悼ミサの時には、通常は復活節にだけ使われる大ロウソクが必ず用いられることを思い出してみてください)。
キリストに繋がれて既に天に召された人たちが、いまもなお、わたしたちの間で確かに生き続けている。そういう経験が皆さんにもきっとおありであろうと思います。亡くなったわたしたちの家族、友人、恩人たち、その人たちがただ単にわたしたちの「心の中で」だけで生きているのではなく、その生涯が、あるいは生き様が、事ある毎にわたしたちの生き方や考え方に影響を与えているのであり、その存在は常にわたしたちの前方に示されるひとつの「道」となるものです。そんなことはない、というほうがよっぽど不自然で信じ難いことです。
よく「復活ってよくわからない」という人がいますが、神秘はわからないのが普通です。「復活」は教義として頭で理解しようとしている間は何も実らせず、わたしたちの身近な実体験と重ね合わせて見つめ直すときにのみ、わたしたちはそこから力を得、その証人とされて行く、そういうものであろうと思うのです。とりわけ亡くなった人が、キリストとともにいまもわたしたちと生きていると思えたときなどは。
洗礼
萩原 和幸
みんなが応援してくれてうれしかった。いろいろな人が来てくれてありがとう。食べなさい飲みなさいのパンも食べておいしかった。生まれてはじめて食べてうれしかった。イエスさまも食べられてうれしかった。ヨハネ・マリア・フランシスコの教会の名前をもらえてうれしかった。奉納ができてうれしかった。
洗礼を受けて
齊藤 信也
昨年の12月3日、待降節第一の主の日。終電を乗りのがして朝までだらだら飲んで、始発で聖蹟まで帰り、自宅までの道すがら、多摩川の土手をふらふら歩いていた自堕落な私。何気なく振り返ると、冬の冴えた空気の向こうに鮮やかな朝焼け。世界は案外美しい、などと思って少しの間立ちつくしていると、ふと、どうしても今日という日に祈りに行かなければならないという気持になりました。帰宅して直ちに、インターネットで最寄りのカトリック教会を検索し、ミサの時刻を確かめ、風呂に入り、髭をそり、(何を着ていけば良いのか分からないのでとりあえず)スーツを着て、多摩教会の敷居をまたぐことになりました。なぜその時なのか、なぜカトリックであったのか、自分でも訳が分かりません。やや神秘的な言い方をすれば、あの朝焼けの向こう側から招かれた方がいた、と言えるのかもしれませんね。
経歴、親類縁者、友人知人のどこをどうつっついてもカトリック教会と接点のない私ですが、些細な質問にも丁寧に答えて下さる加藤神父様、代父をお引き受け下さった下津さんはじめ信徒の皆様の導きのおかげでこの度洗礼を受けることができました。心より御礼申し上げます。とはいえ、月足らずで生まれたような私ですので、今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。
回心の時がもっと早ければとも思いますが、これが私に用意された時であり、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ロマ5・20)という言葉の実現なのでしょう。
どうか、主イエス・キリストの恵みがみなさんとともにありますように。
洗礼式を終えて
マリア・マグダレナ 金沢 もり子
まるで、誰かに背中を押される様に「教会に行かなくては」と、そんな思いの中で多摩教会の扉を押しました。
そこには初めて出会った皆様の心豊かに満ち溢れた、温かいお顔がありました。又、聖体拝領の列に並ぶ皆様のお姿を見、云い様のない感動に胸が熱くなり、込み上げる物を感じ感激致しました。
それ以来、毎日曜日のミサに娘、孫と一緒に通い始め、祈りのある日々を過ごす様になりました。
毎週土曜日の入門講座にも参加させていただき、まだまだ理解しきれない事が多々ありますが、加藤神父様のお教えのもと、これからも続け、学ばせていただきたいと思っております。
そして、イエス様復活の4月8日、皆様の温かいご指導の元、受洗を迎える事ができました事は全て神様のお導きがあっての事と思っております。教会の皆様からの祝福に胸が熱くなりました。
洗礼式を終えました今、マリア・マグダレナの洗礼名をいただき、気持も新たに多摩教会共同体の一人とし、又、カトリック信者としての自覚と誇りをもち、皆様と共に生き、歩んで行きたいと願っております。
最後になりましたが、洗礼にお導き下さった下津ひとみ様、代母をお引き受け下さいました萩原スミ子様、そして沢山の祝福を下さった教会(兄弟)の皆様方に感謝の気持で一杯です。本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い致します。
神に感謝