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2006年5月号 No.393 2006.5.20
1 |
良心 |
加藤 豊 神父 |
2 |
涙がでそうになったよ |
黒田 憲二、美佳子、渓日 |
3 |
洗礼式が終わって |
阿部 晴明 |
4 |
聖書に親しむ3 |
神井 貢成 |
5 |
聖地巡礼から帰って |
参加者一同 |
良 心
加藤 豊 神父
「お友だちと仲良くしましょう」、「お父さん、お母さんのいうことを聞きましょう」、「親切な人になりましょう」、その他諸々。これらは、わたしが幼稚園時代に聞かされていた園児の努力目標です。見る限りたわいもない道徳訓のようですが、それでいて大人でもなかなか実行できないのが現実ではないでしょうか? 否、そもそも今や社会は複雑化し、それに伴って一人一人の生活状況が急激に多様化してしまい、一律の訓戒では誰も救われなくなってしまったのかもしれません。
そのような現状を知りつつも、ふと我に帰って思うことがあります。わたしにとって、信仰とは「幼稚園」ではなかろうかと。難しいことは解りません。ただ、もし、わたしがどうにか人間らしく生活するための指針らしきものをどこかで学んでいるとすれば、それは「幼稚園」で、なのです。正確には「幼稚園の頃に」、というべきでしょうか。
「お友だちと仲良くしましょう」、「お父さん、お母さんのいうことを聞きましょう」、「親切な人になりましょう」、その他諸々。いったい幼稚園で教えられたことなのか、はたまたその当時、親からいわれていたことなのか、今や正確なことはよく覚えてはいません。しかし、何処で誰に聞かされていたのかはともかく、その当時であったろうことは確かです。
イエスのみ教えの神髄は、きっと、シンプルでストレートなものであったはずなのです。そういう意味で、わたしにとって、「主に立ち返る」とは、良心の初心に立ち返ることで、その「良心」の萌芽として浮かび上がるイメージが「幼稚園」なのです。
「お友だちと仲良くしましょう」、「お父さん、お母さんのいうことを聞きましょう」、「親切な人になりましょう」、その他諸々、そして「神さまに感謝して過ごしましょう」。
「なぁ?んだ、それじゃぁ結局、カトリック教会の教えも錆び付いた一般道徳と変わり映えしないじゃないか?」という反応が返ってきそうですが、それは違います。なぜならいわゆる「一般道徳」には最終的な根拠が見当たらないからです。そのご本尊は移ろいやすい「世間様」という巨大な偶像、それは決して揺らぐことのない神様ではありません。世の人々の生業が変化する度に、「昨日の真理」も「明日の誤謬」となってしまいます。ですから18世紀ドイツの哲学者カントが「実践理性」という定義を打ち出してくれたからよかったようなものの、そこまでしないと、この一件は人間性の崩壊にまで行き着いてしまいかねません。
幼稚園を軽んじることはできません。素朴な良心こそは、来るべき世の終わりにも神の裁きの前にわたしたちをして抜かず居らせる最善のものではないでしょうか?
涙がでそうになったよ
黒田 憲二 黒田 美佳子 黒田 渓日
4月15日 復活徹夜祭、たくさんの方々に祝福されながら私たち家族3人は、洗礼のお恵みに預かりました。
「涙がでそうになったよ」は、洗礼式で水を注がれる場面での娘の感想ですが、この娘がいたからこそ、私たちは神様と出会い、その暖かく優しい呼びかけに答えることができたのだと思っています。娘が1歳4ヶ月になった春、かおり保育園へ入園しました。そこでは、たくさんのお歌やお祈りを教えて頂き、5年間いつも暖かく見守って頂きました。これがきっかけとなり、いつしか教会へと自然に足を運ぶようになりました。
今ふり返ってみますと、きっとすべてが神様の素晴らしい計らいだった、私たち家族を招いて下さったのだと、心静かに受けとめています。いつのときも神様は共にいて下さいました。
「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13-34)
愛をもって生きよう、私たち家族が頂いたお恵みを少しでもお返しすることができますように。
最後になりますが、暖かい信仰の道を示して下さいました加藤神父様、 かおり保育園シスターはじめ職員方、ノートルダム修道院
白田シスター、代父母をお引受け頂きました鈴木様、浜辺園長、森井先生、そして多摩教会のたくさんの方々に心から感謝を申し上げます。 これからの日々を共に歩ませて頂ける幸せを謙虚に祈りながら。
洗礼式が終わって
阿部 晴明
先日の復活徹夜祭にて、長男、次男と共に無事洗礼を受けることが出来ました。
三男の死後、葬儀ミサをこちらで行ってもらった事もあり、そのご縁で洗礼を受けることを決意しました。
当初は「自分はキリスト者としてやっていけるのか?」「口下手な上に人付き合いが苦手な自分が、周りの方々と上手くお付き合いしていくことが出来るのか?」と色々不安な部分がありましたが、神父様のお人柄、サッカーを通じての様々な方との出会い等で少しずつではありますが、不安な気持ちも晴れていきました。キリスト者としても、また人間的にもまだまだ未熟なところが御座いますがこれからも色々御指導の程、宜しく御願い致します
またお忙しい中、私と長男、次男の代父をお引き受けくださった下津さん、高橋さん、宿里さん、本当にありがとう御座いました。
聖書に親しむ
ちょっと違った角度から(4)
神井 貢成
キリスト教国の人たちが聖書からの言葉を折に触れて故事、ことわざとして日常の生活の中で多く使っています。今日はその中から同害報復法として日本でも広く使われている言葉を紹介しましょう。
“Eye for an Eye”
“目には目を”
「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」(共同訳・出エジプト記21章23-25)
But if injury ensues, you shall give life for life, eye for an eye,tooth for tooth,hand for hand,foot for foot,burn for burn,wound for wound,stripe for stripe. (New American Bible)
「目には目を、歯には歯を」として、日本でも広く使われていた言葉です。最近ではあまり聞かれないような気がするのは、私だけでしょうか。
この「目には目を、歯には歯を」という言葉は「受けた損害に対しては、それと同様の報復を加えるべきだ」というたとえの使われ方をしています。これは同害報復法という、ハムラピ法典に見られた復讐を意図した法に示されたもので、わかり易く言えば「自分が害を受けても、相手に無制限に報復してはならない。それと同時に、相手の身分によってその報復に差別をつけてはならない。(名尾耕作『旧約聖書名言集』)」ということを意味するたとえです。換言すれば、同じ行為で仕返しをするという事でしょうか。
神がモーゼに民の前に示すべき掟として述べた詳細な掟の一つですが、「目には目」の部分があまりにも有名で、今日でもよく使われている表現であり、意味もモーゼの時代のまま残されているものです。
「目には目を」に相反する表現として「うらみに報いるには徳を以てす」(老子第63章)という表現があります。これは「恨みのあるものに対しても恩徳をもって報いる」ということです。また、ローマの信徒への手紙でパウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぷらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮しなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(12
・ 15〜19)と言っているのですから、私達は「目には目を」という、言い換えれば、いやな相手に律儀にお返しをする必要はないのではないでしょうか。それよりも、恩徳をもって他の人にもかかわっていくことこそが大切であり、それが隣人愛となるのではないでしょうか。
3月21日〜31日聖地イスラエル巡礼から帰って
●この度の巡礼では、私たちが出かけたというより、目に見えない力によって「招かれて」巡礼の道をたどったような気がしてならない。
○テルアビブから最後まで運転手を務めて下さった、オデットさんは、絶えず、「心配ない」「問題ない」「大丈夫」と言って皆を励ましてくれた。子どもが道路に飛び出して、あわやという場面があった、直後に「神のお恵みで事なきを得た」とつぶやくなど、何度のアクシデントもすべて神にゆだねて切り抜けていた、彼の姿に信仰の真髄の何かを教わったように思われる。
●かって、戦闘が続いたゴラン高原に「いわだぬき」が元気な姿を見せてくれた。この平和が続きますように・・・
○聖書に出てくる動物・植物を身近に観察できた。さらに、聖地をまわり、行く先々で聖書が朗読され、地理的感覚がはっきりとしてきた、聖書の地名を 親しみをもって読む事ができるようになった。聖書のみ言葉の背景として風景が思い出され、五感をとおして味わうようになった気がする。
●エルサレムでは、石の廃墟の上に廃墟が重なり、考古学の遺跡のなかを巡礼しているような気がした。イエス様が歩かれた石段、奇跡を行われた場所、2000年前の出来事ではな<、今この場を自ら体験してきた喜びは生涯忘れないでしょう。機会があればもう一度、いや、何度でも巡礼したいと思います。ある人は「もう少し若かったらヘブライ大学でお勉強して、聖地で一生を過ごしたい」と感激を述べています。
○四旬節の最中に、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)をたどり、十字架の道行きが出来たことは、本当に素晴らしい事でした。聖墳墓教会でのごミサに預かった後、外に出ると日食を眺めることさえできました。お蔭さまで生涯最高のご復活を迎えることが出来ました。
●イスラエルの各地に見られる、新興住宅地、原野が沃野に変わる光景、パレスチナ自治区を囲む塀、自動小銃を肩に監視する若い兵隊さん。イスラエルを囲む厳しい現実、そこに住む宗教・民族の異なる人々の混然とした生活、それでも、平和であることの有り難さを感じました。
○帰国してもなお、聖書を開き、ごミサにあずかるたぴに、「あの景色が、この場所が」と巡礼の感激が続いています。このすばらしい巡礼の体験をとおして私たちの信仰が強まりますように・・・
4月25日の分かち合いから・・・
参加者: 内海喜佐子、加藤由美子、澤江秀美、萩原スミ子、松原文子、松原 睦、松本千恵子 (文責:松原 睦)
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