2006年2月号 No.390 2006.2.18
1 | 「願う=行う」 | 加藤 豊 神父 |
2 | また1年、よろしくお願いいたします | 岩藤 大和 |
3 | ふくろうの会のこと | 工藤 扶磨子 |
4 | 聖書に親しむ | 神井 貢成 |
「願う=行う」
加藤 豊 神父
「節分」は旧暦の正月である、と聞いたことがあります。ちなみに本年2006年は1月26日が既に旧正月の元旦だったはずです。
そもそも太陽暦から見れば本来必ず毎年ずれてしまう旧正月を、無理に太陽暦にも残そうと、毎年2月に祝おうという無茶な発想が「節分」です。本当に強引で無茶ですね。
いずれにしても「節分」には、新しい年を迎えるに当たり、福を招いて災いを追い払い、その一年を無事に平穏に過ごすことを願う「豆蒔き」が古来より行われています。こんにちの住宅事情では、その「豆蒔き」も思うようにはいかないのではという気がします。もちろんかたちの上では「豆蒔き」をする家(することが可能な家)が減っているとしても、それは平和への願いが損なわれているわけではなく、願いそのものはむしろどの家にとっても切実なものとなっていることでしょう。
しかし、わたしは思います。もともと「願う」とは、何かのかたちを伴う「行為」ではないかと。豆を蒔かないなら、何か他のかたちで「願い」を「かたち」に表したほうがいい。もちろん節分にこだわることなく、家族や友人との間で営まれる行事を
はじめ生活全般にいえることですが、かたちが壊れることで、中身まで失われてしまう経験を嫌というほどしてきたのが(ちょうど高度成長期に生を受けた)わたしたちの世代であることを思えば、「心の中でいつも願っているからいい、形式的なことは好きではない」とばかりに、形式という形式はすべて無意味であるとする考え方では、みずからの願望さえも軽んじる本末転倒、「願い」を抱くことじたいが空しい戯れとなり、心願成就もほど遠いのではないかと思います。それは単なる胸のうちに抱いた本気が伴わない幻と同様な「願望」、浮かんでは消える「漠然とした観念」に過ぎないものとなってしまいます。
その昔、人々は世界中、何処の国でも、どのような「かたち」でも、とにかく「願う前から祈っていた」のでした。「祈り」は務めとしてではなく、そうせずにはいられない「衝動」であって、一心に何かを願う表現行為の一貫として営まれていました。それは特定の信仰を持たない人の間でも、「ご健闘を祈ります」とか、「ご回復を祈ります」といった具合に、ごく普通に見受けられたことでした。今はどうでしょうか?
わたしたちカトリック信者には、毎週日曜日に主日のミサがあり、その他にもこの地上にはまだまだ祈る人たちや祈りのかたちは沢山残っていることでしょう、けれど、そうでない人たちがどれほど増えてしまったことでしょう。「現代」というこのわたしたちが生きる時代は、人間から祈りのかたちを奪い去り、その結果、今や、祈りの心さえも奪い去ろうとしている気がしてなりません。わたしは自分がカトリック信者であることを素直に「よかった」と思っていますし、「ミサ」が繰り返されること(また、今となっては司式までさせていただけることをも)心からありがたく思います。
この時代それらしい知識人や偽預言者は、こんにちの日本社会における物質的な繁栄に「心」の喪失を見ているようです。もちろんそれも本当でしょうし、否定はしません。但し、そのような物質的な繁栄も、それらがすべて「悪」であるはずはありません。もとはといえばこうなる以前、当時この国の皆が皆、祈る気持ちで望んでいた幸せは、とても真剣な「願い」として確実に生活のエネルギー源となっていたはずですし、その意味では、願うことそのもの、幸せな人生へと向かわしめる行動規範となっていたのは確かなのです。人間が単純素朴に幸せになりたいと望み、前を向いて歩き出すこと、それは尊いことでさえありましょう。そうです。その頃、そこにはきっと「豆蒔き」をはじめ、様々な「願う=行う」風景が、至る所で見出されたことでしょう。
また1年、よろしくお願いいたします
一委員長再任の挨拶−
岩藤 大和
2004年委員長に任命されてから2年間、皆様の暖かいご支援により大過なく務めさせて頂くことができ、心から御礼申し上げます。また加藤主任司祭の今年のご意向を受け、また現副委員長任期と合わせるため、更に1年間の再任となりました。皆様の力添えをよろしくお願い致します。
2006年は多摩東宣教協力体発足から4年目。教会学校・中高生を初めとして聖堂共同体相互の交流が活発に行われ、協力の輪は着実に広がってきました。協カ体にとって最大の行事、「交流ミサ」は、今年4月29日(みどりの日)に多摩教会を当番教会として行われます。調布・府中の皆さんを迎え、私達の聖堂でミサを捧げ、集うことで一層の一致が実現されることを願っています。今年上期は復活祭・堅信式・交流ミサなど、私達にとって信仰の喜びとなる大きな行事が続きます。
聖書には「何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(※)、と記されおり、岡田大司教様は、「キリストの共同体として成長することを」、「教会が豊かな泉として成長するように」と呼びかけられています。
今年教会で行われる全ての行いがこの言葉に添えるように、また私自身も聖書を読み親しみたいと思っています。そして教会のしもぺ・信徒使徒職として微力でもお役立つよう、この1年を捧げたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
(※)年間第6主日「聖書と典礼」(1コリント10.31)より
ふくろうの会のこと
工藤 扶磨子
藤田さんの発案で、食事をしながらゆっくりお話し出来る場が欲しいということで、貝取こぶし館で、ふくろうの会が始まりました。2002年の4月から約4年、19回の食事会を致しました。
毎回、藤田さんに旬の食材を使って、季節を大切にした家庭料理を教えて頂いております。ご飯もの、お椀もの、魚か肉の主菜、煮物、あえもの、香のもの、デザートと、懐石料理並です。日本には四季折々の豊かな食材があり、食感や見た目の美しさ、色どり、盛り付け等、さまざまに楽しむことが出来て、幸せなことだと感謝しております。
皆でおしゃべりしながら、作って食べて、楽しくやっています。今までに教えていただいたお料理の中で、私は特に、アメリカンチェリーのご飯が気に入っています。他にもりんごのコンポート、わらび餅のイチゴソース等など、いろいろあります。参加される皆様も、毎回お気に入りのものに出会って、ご自分の家庭でも楽しみながら作っておられる様です。
なかなか場所を確保するのが大変ですが、一回一回その時に出会った皆様から、学んだこと、心に残ったお話を大切にして、この集いがずっと続いていけますように協力したいと思っています。 主に祈りながら・・・
聖書に親しむ
ちょっと違った角度から(1)
神井 貢成
私達が欧米の映画を観ているとき、小説や雑誌を読んでいるとき、さらに欧米で人と話しをする時に聖書の言葉や、聖書に語られている物語をバックグランドにした言葉がよく出てきます。
聖書の教えや物語が生活の中で生きている国々の人々と会話をするときに聖書の教えや物語を知らないと理解できない事に多々出会います。そのような情況を想定しながらちょっと聖書に親しんでみたいと思います。
"Do to others whatever you would have them to do to you."
あなたがしてもらいたいことを、人にしなさい。
これは、相手の立場に立って、「自分だったらこんなとき、どうして欲しいと思うか」をよく考えて、その通りにしてあげなさい、ということを表しています。
つまり人間関係の基本、対人関係の処方箋、人間世界における究極の道徳と考えていいものではないでしょうか。
では、"Do to others whatever you would have them to do to you" が聖書のどの部分に出てくるのでしょうか。
それはマタイによる福音(7章12節)に「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(新共同訳)の部分です。
では、英語の聖書ではどのように表しているのでしょうか。
"Do to others whatever you would have them to do to you. This is the law and the prophets.” (New American Bible-Catholic Book Publishing Company) と表されています。
表現をもう少し簡単にして "Do for others what you want them to do for you." と表現する人たちが多くいます。この方が子供達にもわかりやすいし、英語になじみの薄い人にも言わんとすることが理解できるでしょう。
「あなたがしてもらいたいことを、ひとにしなさい」と言うことが、自分の心の葛藤も無く実行できれば、世界はもっと平和になるのではないでしょうか。