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2005年11月号 No.387  2005.11.19

ゆっくり、じっくり、根気よく 加藤 豊神父
典礼一口メモ(3)  
11月死者の月に思う) 神井 貢成 
多摩教会墓参の集い 竹内 秀弥
カナの家ファミリーデイに参加して 加藤 泰彦

ゆっくり、じっくり、根気よく
                                          加藤 豊 神父

 何かにつけて迅速さが美徳とされる現代です。1分でも早く、1秒でも速く、といった具合に、何から何まで「早いこと」「速いこと」が優れたことだと考えられています。これは裏を返せば、それを主流とした社会システムが一般化されているからで、そこでは多くの場合「迅速さ」がある一定の価値観として定着しているからです。
 しかしながらそのような社会基盤にあっても、長い時間をかけなければ決して実ることのないものがあり、それらが古より存続し続けているばかりではなく、絶えず現代人のニードに応えている現実もあるわけです。こんにちでも「待つ」ことの重要性が軽んじられることなどありません。世の中には、迅速に、かつ明快に、というポリシーが当てはまる分野と、ゆっくり、じっくり、根気よく進めなければ何事も成就しない分野とがあること、そこのところが了解済みとなっているならば、わたしたちにとって大きな混乱はないはずです。しかし実際には度々混乱が生じています。ということは、了解済みでない場合が多々あるのです。
 わたしは思います。「信仰」とは、長い時間をかけて深まっていくものであろうと。「ゆっくり、じっくり、根気よく」歩んで成り立つ分野であろうと。それはまた体験の積み重ねなので、どんなに頭で考えても切りがないのは当然で、だからこそ尊いものでもあります。「状況が思うように捗らない」「救われた実感が伴わない」と、わたしたちが嘆いている間にも、その傍らでは神さまがわたしたちのために数々のお恵みを用意してくださっているかもしれないのです。しかしわたしたちはそれにあまり気づくことなく、ついせっかちになってしまうのです。そこにはきっと、飽きっぽいわたしたちが、自分の間尺に合うことを優先してしまうわたしたちが、手間暇をなるべく避けて安易に喜びに浸りたいわたしたちが、総じていえば「神の時」を待てないわたしたちがいます。
 一つ一つの事柄に対して素早いことは、社会にあっても、もちろん教会にあっても理想です。ただ「信仰」そのものについて見るなら、それは待たねばならないことのほうが多いくらいではないでしょうか?イエスの教えは、幼い子供でさえも実践できる易しいメッセージであると同時に、一人のキリスト者が一生を費やして到達したその体験に由来する肉薄したメッセージであろうと思います。それゆえわたしたちは先人たちを追悼しつつ、仲間たちが語る日々の何気ない会話に謙虚な姿勢で耳を傾けることを何より大切にしたいものであります。それらしい仮説や思い込みは危険なものといえましょう。なにやら非日常的で特別高尚なこが望ましいわけでもなく、むしろ素朴なことを何度も繰り返し続けることのなかに、やがて味わい深い「何か」が浮かび上がってくるのではないでしょうか?
 これから「待降節」に入ります。「救いの訪れ」を待ちわびる季節です。わたしたちは「待ちくたびれる」のか、それとも「楽しみに待つ」のか、そのどちらを選ぶのでしょうか?


典礼一口メモ(3)
教会の一年間の典礼と典礼色(第2回)
                                           監修 加藤 豊 神父

 教会の典礼は、12月の初めから始まり、次の年の11月で終わります。ミサの時の司祭の祭服の色は季節や祝祭日に応じて「緑、白、紫、赤」の四色が主として使われます。
 前回は11月に二つの大事な祝いと一般の暦の年末にかけての待降節、降誕祭、降誕節と様々な祝い日に使われる典礼色をお話ししました。今回は、四旬節、聖週間と復活祭、主イエスの様々な祝い日についてお話いたします。
《四旬節》
復活祭の前の40日間は「四旬節」と言う(色は紫)灰の水曜日で始まるこの時期に、特に祈りと断食と節制によって心を清めて、復活祭を迎える心の準備をします。
《聖週間》
復活祭の前の一週間は「聖週間」と言う。
・枝の祝日(復活祭の前の日曜日、色は赤)イエスがエルサレムに歓迎されたことの記念です。
・聖木曜日(色は白) 主の最後の晩餐の記念です。
・聖金曜日(色は赤) 十字架を礼拝しながらイエスの死を記念する。
・聖土曜日(色は白) 復活の前夜祭。この夜から復活祭が始まり、イエスがよみがえられたことを記念する。この夜は、火と水の祝福と洗礼式が行われます。
復活祭はいつも日曜日に行なわれ、日にちはヘブライ人の過越の祭に従って、三月の末から、四月の末の間で毎年変わります。
《復活節》
復活祭の喜びは、その後も「復活節」(6週間)の間に現されます。
この時期にイエス・キリストに対するいろいろな祝い日が集中しています。
・ 主の昇天(色は白)
(復活祭の6週間後)イエスが弟子たちの目の前で天に昇ったことを記念します。
・ 聖霊降臨(色は赤)
(復活祭の50日後)聖霊が弟子たちの上に降りて教会が誕生した出来事の記念です。 
・ 三位一体(色は白)
(聖霊降臨の次の日曜日)神様は唯一の神(一体)でありながら、三つの位格(父と
子と聖霊)として現われていることを祝います。
・ キリストの聖体(色は白)
(三位一体の次の日曜日)イエス・キリストの体はパンとぶどう酒の形で永遠に教会
の中に生きている記念です。
・ イエスのみ心(色は白)
(キリストの聖体後の金曜日)キリストは無限の慈しみによってすべての人を愛し、
すべての人の救いを望んでいることを祝います。
・ 主の変容(色は白、8月6日)
イエスが弟子たちに栄光の姿を見せた記念です。
《年間主日》
この後しばらく「年間」(普通の時期・色は緑)が続く。
                    (次回はミサの中の所作についてお話いたします。)


11月死者の月に思う
( Fr. Gribbonを偲んで死者の月に思うこと)
                                              神井 貢成

 身近な人が亡くなったとき、その姿は見えなくなっても、どこかにその人がいるようなそんな気がする。キリストはそんな気がするだけではなく、人は死を超えて生きると保証しているのです。
          わたしの父の御心(みこころ)は、
        子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、
      わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。
                           (ヨハネ福音書 6章40節)
 カトリック教会では11月を「死者の月」とし、故人のために祈り、また、その方たちの取り次ぎを祈ります。この月は、私たち一人ひとりのための、「よき死」のための準備のときでもあると理解しなければいけないのではないでしょうか。
 多摩教会では11月5日(土曜)の午前10時から『死者のためのミサ』が執り行われました。ミサには約40名の方たちが集い、故人を偲び一心に祈られている姿が窺われ、ミサに集った方々の一つに集中した祈りを強く感じられたミサでした。主日のミサとは異なり、亡くなった方たちへの式文に、集った方たちの祈りがさらに協和し、それは帰天された故人のそれぞれの霊にみんなの祈りが届いたと思える素晴らしいミサとなりました。 ミサの後、集った方たちの口々から「今日のミサは本当に良かった」との言葉が発せられていたことからも、祈りをあげられた方たちの思いが一つとなったミサであったのではと言えるのではないかと思います。毎年『死者のためのミサ』がこのように行われることを望みたいものです。
皆様は如何でしょうか?
 今年の夏に帰天されたFr. Gribbon(グリボン神父)から教わった11月の意味が今回のミサの中で私の胸に甦ってきましたので、併せてお話しさせていただき筆を置きたいと思います。
(Fr. Gribbonは私にとってとても大切な方であり、ニューヨークで何もわからなかった私に信仰をご教授してくださった神父さまです。)
 11月には3つの祝日があることは皆さんもご存知のことでしょう。一つは、11月1日の 諸聖人の日。二つ目は、11月2日の死者の日。三つ目は、王であるキリストの祭日です(今年は、11月20日です)。これら3つの祝日は、あまり関係がなさそうですが、実はとても深い関係と意味を持っているのです。
 「諸聖人の日」は、キリストと愛によって結ばれ、キリストのもとに集まって賛美する者たちの日です。キリストとともに永遠に生きるすべての聖人を記念し、かれらに取り次ぎを祈るのです。
「死者の日」は、この世のいのちを終え、今は永遠のいのちを生きる人たちを記念し祈ります。死者のために祈るとき、私たちはキリストの愛に結ばれ、「永遠のいのち(復活)」への信仰が、死者のために祈ることの意味を深くしてくれます。
 「王であるキリスト」の祭日は、救い主イエス・キリストが王として玉座につき、すべての民がそこに集まり、王を賛美するのです。このように、3つの祝日は、終末的な意味で、深いつながりを持っていると在りし日のグリボン神父は話しておりました。
 その意味からも11月は、死者の月ではなく、終末の月と言えるのかもしれません。死者の月である11月に亡くなった方たちのことを思い起こしながら、同時に私たち自身のよい死を準備していくことができるよう祈っていければ、否、いきたいと思います。


多摩教会墓参の集い   
                                               竹内 秀弥

 東京地方に木枯らし一番が吹き、雨混じりの寒い朝。五日市霊園の多摩教会墓地に向かって、9時をすこし廻ったころ、2台の車が出発しました。間もなく天候は急速に回復し、陽もさし始め、現地に着いたころには小春日和の暖かな、絶好の墓参日よりになりました。みんなで墓地や墓石をきれいにし、10時半から墓前にて「主にまかせよ」の聖歌で始まりました。回心の祈り、聖書朗読、そして説教のあと、現地に直行された方々も含め、20名ほどの参加者一人一人が墓碑に潅水し、司祭の献香が行われました。その後「主の祈り」を唱え、祝福をいただき、最後に「神ともにいまして」を歌い、墓参の集いは終わりました。その後で、教会の墓地と同じ区番にある3家族の墓にもお参りをして散会となりましたが、途中、近くの墓地から、どちらの教会の墓参だったのでしょうか。「主よみもとに」の聖歌が、秋晴れの心地よい風とともに流れてきていました。帰路のドライブは、車の渋滞もなく、スムーズに1時間ほどで教会に着きました。 余談になりますが、近いうちに現地への案内地図の詳細なものを、ご希望の方にお渡ししたいと考えております。

カナの家ファミリーデイに参加して

                                          加藤 泰彦(南大沢)

 11月12日(土)静岡市にあるラルシュ「カナの家」のファミリーデイに娘、妻と南大沢の石塚さんの4人で出かけました。ラルシュ「カナの家」は、知的ハンディを持つ人たちが、その協力者とともに生活する共同体です。多摩教会にもあるF信仰と光」共同体が、知的ハンディを持った人、家族、協力者の定期的な集会を中心にしたグループだとすれば、ラルシュ(ノアの方舟の意)は知的ハンディを持った人とともに生活する共同体です。ジャン・ヴァニエ氏が1964年にフランスで創始したもので、現在、全世界29カ国に120ほどの共同体が存在します。静岡のFカナの家」は、日本で唯一のラルシュ共同体です。
 当日は、多摩教会のバザーのような雰囲気で、特設のステージでは、ここで生活しているメンバーのさまざまなパフォーマンスが行われました。「カナの家」の名前の由来ともなっている、新約聖書の「カナの婚礼」が当日の全体テーマとなっており、日本風にアレンジされた寸劇「カナの婚礼」も上演されました。
  「カナの家」は、静岡駅からバスで40分ほどの、山を背にして周囲には茶畑が広がるのどかな土地にあります。私たち4人はイベントが一段落したところで、のんびりと周辺を散策しました。小さな池や竹やぶの小道を歩きながら、ゆっくりとした時間の流れに浸っていました。  「カナの家」では現在20名の仲間(知的ハンディを持つ人)とスタッフ合わせて40名ほどが生活しています。東京教区の1人の神学生も数ケ月ここで研修のために過ごしています。今回の行事が行われた本部と、少しはなれたところにある「まどい作業所」の2つの施設があり、石鹸や洗剤づくり、手工芸品の製作などが主な仕事です。
 夕方からミサがありました。当日の参加者も含め30名ほどが集まったこのミサの奉納は、カナの婚礼にふさわしいものでした。祭壇の前に大きな空の鉢が置かれ、参加者は各自、自分の賜物のシンボルである水を入れた湯飲みを持ち、一人一人その鉢に水を注ぎます。全員が入れ終わり、水をたっぷりとたたえた鉢を中心にミサが進みました。さすがにこの水は、最後まで酒に変わることはありませんでしたが、一日のイベントを締めくくる印象的なものでした。

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