1 | 「ロザリオ」について思うこと | 加藤 豊神父 |
2 | バザーへのご協力に感謝 | 小田切 真知子 |
3 | 典礼一口メモ(2) | |
4 | シニアの集いに参加して | 石井 正恵 |
5 | 2005年こどもミサに参加して | 石綿 美穂 |
「ロザリオ」について思うこと
加藤豊神父
よく、首から十字架のネックレスをかけている人を見かけます。だからといってその人たちが皆キリスト信者なのかというと?大概、違います(笑)。本来、信心用具である十字架のペンダントは、こんにち広くアクセサリーとして用いられるようになり、今やロザリオもデパートのアクセサリー売り場などで模造品が売られていたりします。
こうした事態を懸念している信者さんたちも沢山いますし、同様にわたしもまた「なんか嫌な感じだなぁ」とか、「なんかミーハーで軽薄だなぁ」などと感じたりしていたわけですが、そもそもホテルのチャペルと本物の御聖堂が全く違ったものであるように、アクセサリーはアクセサリーとしての価値しかないのですから、今となっては、それほど気にならなくなってしまったわたしです。
信心用具や祈祷書は、それを祈る人が手にした時に初めて生きたものとなるので、この点においてわたしたちは一時的な世の風潮にあまり神経質にならなくてもよいのでしょう。
ところで、こうした世の風潮を前に、わたしたち自身、そもそも十字架とは何なのか、そもそもロザリオとはなんなのか、ということを、みずからに問うてみてもいいかもしれません。なぜ、10月がロザリオの月なのか、なぜ、カトリック教会には「ロザリオ」なんてものがあるのか、などなど。
もちろん、ここで、すべてをお話しすることは出来ませんが、たとえばロザリオを考案した人物は、聖ドミニコであるという説があります。ドミニコが生きた時代はヨーロッパ中世ですから、そこから「ロザリオ15の玄義(黙想の主題)」が「詩編150編の祈り」を代用したものであったという説が出てきます(15の玄義だと天使祝詞が合計150回唱えられることになります)。この説は有力で、当時、識字率は現代とは比べものにならないほど低く、字が読める人は全体のほんの一握り、つまり多くの庶民は「聖書を読みたいが字が読めない」「詩編で(教会の習慣に沿って)祈りたいが、聖書が読めない」という状況。そんな中でも皆一応に「主の祈り」と「天使祝詞」と「栄唱」くらいはなんとか諳んじていたので、いわばロザリオによってマリア様に取り次ぎを願い、そのマリア様に代わりに祈ってもらう、という伝統が定着した、という論旨です。
さて、時代を経る毎にロザリオには単なる(詩編の)代用品という位置づけに治まりきらない豊かな内容を付加されてきました。注意すべきは、ロザリオは「正規の典礼」ではなく、オプションとしての信心業なので、「これをしなければカトリックじゃない」とは決していえないことなのです。従って強制的に人に勧めるのは如何なものか、と思う一方、そうはいっても信心を知的な根拠だけで軽んじる傾向には甚だ危険を感じているわたしでもあります。ロザリオは小さな子供にも出来る易しい信心です。これからも後世に伝えていきたいものであります。
2005バザーへのご協力に感謝
小田切 真知子
前日からの雨にハラハラさせられましたが、10月16日“2005バザー”が開催されました。各地区、グループより出品された盛り沢山の食品やいろいろな品々が販売され、笑顔と談笑の中で、楽しい一日が過ぎました。
当日は280人程の人が集いました。近隣の方々も「チラシを見て寄せてもらいました。」と来てくださり、バザーも地域に年々浸透してきているようです。
ビンゴゲームが行われる頃には雨もすっかりあがり、教会学校の子供達の元気な声が先導し盛り上がりました。
皆様の協力の元で319.843円 の収益をあげることができました。
多くの献品にご協力をありがとうございました。何日も前から、値付けやケーキ作り等、テント張りや会場準備に、そして後片づけにと皆様御苦労様でした。
多くの方々の力が合わさって、今年のバザーも無事開催された事に感謝します。
典礼一口メモ(2)
教会の一年間の典礼と典礼色( 第1回 )
監修 加藤 豊 神父
教会の典礼は、12月の初めから始まり、次の年の11月で終わります。ミサの時の司祭の祭服の色は季節や祝祭日に応じて「緑、白、紫、赤」の四色が主として使われます。
「緑」は年間の色、普通の色、特別な祝いがないときの色。
「白」は喜びの色として、大きな祝いの時、特にイエス様とマリア様の祝いの時に使います。
「紫」は灰の色とされて、悲しみの時、犠牲と節制を呼びかける時に使います。
クリスマスの前の準備の時期(待降節)、復活祭の前の準備の時期(四旬節)、また死者のミサの時に使う色で す。
「赤」は血の色、また火の色、これはイエスの受難、聖霊降臨、また殉教者の記念日に使う色です。
一年間の典礼は、クリスマスと復活祭(イースター)という二つの大きな祝い日を中心として展開します。
11月に二つの大事な祝いがある。
◆ 諸聖人 (11月1日、色は白)
すべての聖人、神と共にいる知られていないすべての人を祝う日である。
◆ 死者の日 (11月2日、色は紫その他)
すべての亡くなった人のために祈る日である。
「年間」全部で34週あり、その最後の日曜日を「王であるキリスト」と言う。(色は白)
イエス・キリストが全宇宙とすべての万物を支配していることを祝う日である。この後はまた新しい一年の待降節 に入る。
そして、12月25日を迎えるために待降節の4週間が始まりす。
《待降節》
クリスマス前の4週間は「待降節」と言う(祭服の色は紫)
降誕祭(クリスマス)を待つ時期、救い主の降誕を待ち望んで、心の準備をする時期である。
《降誕節》
12月24日の夜と25日は「降誕祭」(クリスマス)である(色は白)
イエス・キリストの誕生を祝う日である。クリスマスの後に、イエスの誕生の喜びを表わす「降誕節」が続く。クリス マスの次の日曜日は「聖家族」の祝日で、イエス、マリア、ヨゼフの模範的な家庭を仰ぎみて祝う。降誕節の中の 「主の公現」(1月6日、またその前後の日曜日、色は白)は特に大事にされている。三人の博士たちに現われた ことによって、イエス・キリストがご自身を全人類に現わしたことを記念する祭日である。
《年間主日》
降誕節の後に、数週間「年間主日」がある(色は緑)
特別な祝いがなく、普通の日曜日である。
以上のように、待降節、降誕祭、降誕節と様々な祝い日が、これから展開します。ミサに参加する度にその日とその時期の意味が分かっていれば、もっと深く イエスの神秘を理解し、積極的に神を讃えることができると思います。
(次回は、四旬節、聖週間と復活祭、主イエスの様々な祝い日についてお話します。)
シニアの集いに参加して
「この後の者にも」
石井 正恵
この頃の主日の御ミサは、あらゆる世代の人達の熱気に満ち溢れています。シニアの会も七十数名とか、思いがけない方がお席に就いてらしたりして、神様はこの世の時間だけは万人平等も刻んで下さることを痛感しました。
女性三人の三分間スピーチが廻って来ました。当日のお説教は天国のぶどう園のお話でした。「労働に対する賃金の分配から考えれば、第五段階の最後の人がトクをしたことになる。しかしこれは福音の本質。長い間働いていて御聖体を頂いていた人は損でしょうか。神の救いと恵みの場のぶどう園と気前のよい主人に感謝!」
私は思わず人生のたそがれ時、ぷどう園の扉の閉まる寸前に、拾い上げて頂いた夫の話しをしてしまいました。そして希望を持ってお祈りすれば、必ず叶えて下さることも。怠惰な我が身をふり返れば、教会活動に身を捧げてらっしやる方々と同じ宴の席に招かれている後めたさ。でもこれも、神さまから等しく与えて頂いたお恵みと、感謝で−ぱいです。
ジュニアの活動と、それを育ててられる方々のエネルギーにも感動いたしました。次世代育成はカトリック教会の大課題です。多摩教会は人材の宝庫。豊かな実りを!!
「2005年こどもミサ」に参加して
石綿 美穂
10月9日(日)、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて行われたこどものミサに初めて参加しました。とても楽しみにしていた我が家の子供達は、朝からはりきってピアノと勉強を済ませ、まるで遠足気分でカテドラルヘと出かけました。
大聖堂の中はたくさんの子供達でいっぱいで、息子は「これ、みんな教会の人?こんなにたくさん教会の子っているの?」と驚いてしまいました。今年のテーマは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」というものでした。ペトロの後継者が教皇様で、使徒達の後継者が司教様達で、イエス様は今も教皇様、司教様達を通して教会を導いて下さっているのだなあと、岡田大司教様を前にして感じることができました。御ミサの中で娘は、他の教会の子供達と―緒に奉納のお仕事をやらせていただきました。笑顔で「嬉しかった。」と言っておりました。主の祈りの時は、隣の人と手をつないで唱えました。知らないお友達とも心を−つにして祈りを捧げることができたと思います。そして岡田大司教様からご聖体をいただきました。閉祭の歌は、アーメンハレルヤを手話をつけて歌いました。大人も子供も大きな声で楽しく歌いました。感動的でした。御ミサの後は、大きなお兄さん、お姉さん達が劇を見せて下さいました。その中に、あの多摩教会が誇る“シメオン”も出演していました!今、劇を見て楽しそうに笑っている子供達みんなが、何年後かには今度は自分達が劇をし、小さな子供達を楽しませてあげられるように成長してくれたら素敵だと思いました。
18年前のちょうど今頃、私はこのカテドラルにて結婚式を挙げました。今年の御復活祭には子供達2人が洗礼のお恵みをいただき、こうして2人を連れてカテドラルヘ来られたこと(主人は残念なことに仕事で来れませんでしたが)、そしてこの場所で御ミサを一緒に捧げられたことは、私にとって大変感慨深いものがありました。長い長い年月がかかりましたが、今日この日を迎えられたことを感謝します。神様からの素晴らしいプレゼントをいただくことができました。