2005年7月号 No.383 2005.7.16
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「ナンクルナイサ」 |
加藤 豊神父 |
「ナンクルナイサ」
加藤 豊神父
沖縄のことばです。以前、働いていた習志野教会に沖縄出身の人がいて、その人が教えてくれたことばです。その頃、まだ司祭になったばかりで、同じような失敗を繰り返してばかりいたわたしを慰め、励まそうとして、その人はよく、「神父さん、ナンクルナイサ!」といってくれました。プレッシャーに弱く、大きな仕事を前にたじろぐわたしを勇気づけようとしては、「神父さん、ナンクルナイサ!」。おそらくわたしは、このことばをこの先も忘れることがないでしょう。いえ、忘れることができないでしょう。「ナンクルナイサ」。
聞くところによると、この「ナンクルナイサ」、どうやら「なんとかなるさ」、といった意味なのだそうで、それをはじめて知ったとき、「なるほど、音が少し似ているな」、などと思ったものでした。
今や日々心に暗雲立ち込める時代の中にあって、多くの人が不確かな未来に不安を抱いていると思います。しかし、そのような状況下、キリストを信じる者の幸いがあるとすれば、そのひとつがきっと「神さまはなんとかしてくださる」という、そのような思い、「希望」なのかもしれません。「神さまはなんとかしてくださる」、信仰とは、まさにこの確信に生きることなのでありましょう。ところが、わたし自身、事ある毎にその確信が揺らいでしまう弱い人間です。どうしてそうなのか?
みずからを振り返りますに、先ず一つには、「我執」があるからだと思います。「神さまはなんとかしてくださる」、たとえそれが頭では解っていても、その一方で、「かくあれ」とか、「かくあることなかれ」とか、つまり結果が自分の思いどおりであって欲しい場合に、確信が揺らいでしまうことがあります。
次にその「我執」をきっかけに、「悲観」が生じるからだと思います。一方で「神さまはなんとかしてくださる」と信じつつ、しかしもう一方で、それは決して「自分の思いどおり」になるという意味ではない、と考え、そうなると、一旦、自分ではどうにもならないと判断した問題の解決を、結局はもう一度、自分を拠り所として背負うようなことになりますから、結果的にまたすぐ壁にぶつかって悲観的になってしまうのでしょう。
さて、そういうとき、わたしには時々ふと思い出すことばがあります。「ナンクルナイサ」。信仰(神への信頼)とは本来、不安も不満も、悩みも煩いも、それらを神さまにお委ねして(お任せして)生きることなので、もとより「かくあれ」とか、「かくあることなかれ」とか、個々の欲望に基づく「大願成就」を主目的とするものではないでしょう。では具体的になんなのか?と、問われれば、わたしなりに申しあげられるのは、どのようなときも「神さまはなんとかしてくださる」という思いに立脚して歩むこと、人生の種々の難問の答えを神さまのイニシアティブによって見いだそうとすることではないかと思います。