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2005年6月号 No.382  2005.6.11

「慣れる」こと、「親しくなる」こと 加藤 豊神父
2 「信仰と光」全国集会に参加して 加藤幸子
3 「毎日御聖体に養われて」 内山 正幸

「慣れる」こと、「親しくなる」こと
                           
                                       加藤 豊神父

 ある人からこんな話しを聞きました。「慣れる」ということと、「親しくなる」ということとは、違うことだと。
 その人いわく、「仕事にも職場にも、どんどん親しくなってください。しかし、出来れば慣れっ子にならないでください。ヘタをすると足をすくわれてしまうかもしれません」。
 無論、昔から「習うより慣れ(馴れ)ろ」とはよくいわれていることですが、それは決して「舐めかかれ」とか、「タカを括ってやれ」とか、本来そんな箴言ではないはずで(それらを意味した熟語がおそらく「狎れる」なのでしょう)、言い換えるなら、これまで以上に仕事や職場に親しくなることの大切さを語っているのであろうと思います。
 いうまでもなく、それは「仕事や職場」に限ったことではないでしょう。現状認識において慣れっ子になってしまい、その結果としてタカを括ってしまうようになること、それは一方で経験論的な見通しから、「どうってことはないよ」と周囲に安心感を与える要素であると同時に、もう一方では、取り組むべき物事を前にして、そこから真剣さを削ぎ落としてしまったり、周囲に対して「なぁ〜んだ」という安易で表面的な印象をも与えてしまいかねない、効き目の早い毒ともなり得ます。毒を飲み続けると、人間は死んでしまいます。
 教会には「躓つまずき」という言葉があります。イエスとわたしたちとの親しさ、あるいはわたしたち共同体における相互の親しさ、信仰に基づいて体験される種々の親しさ、それこそはかけがえのない宝であろうと思います。
 しかしながら、宣教という外側への視点を考慮する時、「教会なんてこんなもんさ」とわたしたちがタカを括ってしまうなら、きっと足下をすくわれてすべてが泡と消えてしまうかもしれません。
 かつてわたしの後輩に「神学生らしくない神学生といわれたい」といっていた神学生がいました。彼の気持ちも分かるのです。信徒も聖職者も修道者も皆、畢竟ひっきょう生身の人間で、地上を旅する教会は完全ではなく、その点に正直でありたいというのでしょう。真面目な人ほど偽善者にはなりたくないわけです。但し、それだけではやはり何か足りないのです。何が足りないのでしょうか?それは多分、非キリスト者への配慮、「内輪受け」先行による外部に向かう視点の欠如等々。わたしたちカトリック信者にとって今やあたりまえのように慣れてしまった欠点も、他の人にとってはそうでないことを忘れてはならないと思います。あたりまえのことですが。


       「信仰と光」全国集会に参加して
                                      
                                             加藤幸子

 5月28日から1泊2日で、奈良の野外礼拝センターで行われた「信仰と光」の全国集会に参加してきました。昨年は晶子と二人で出かけましたが、今年は多摩共同体から加藤家3名と石塚さんの計4名で参加できました。
 今年のテーマは“ふりかえり”。長い所で15、6年の歴史のある関西の共同体から、昨年誕生した、群馬の大間々共同体まで、それぞれの共同体の誕生のいきさつから、これまでの歩みを発表しあい、現在の喜びや悩みを分かち合いました。浅草や多摩など新しい共同体は、先輩共同体の貴重な体験談を聞くことができ、大いに励みとなり、力を得ることができました。
 ニ日目のプログラムの一つは、フットプリント(足型に切り抜いた紙に、それぞれの共同体が、年代順に印象に残ったできごとを書き記したもの)を使ったパントマイムの巡礼の旅でした。広い礼拝センターの芝生の上に、フットプリントを並べ、その道の上を皆が巡礼するというものですが、参加者は、道の脇に思い思いのかっこうで倒れ、歩けなくなった旅人を表現します。そこを、イエス役のコアメンバー(知的ハンディのある仲間達)が通りかかり、倒れている旅人をひとりぴとり助け起こし、立ち上がらせ、共に巡礼の旅を続けるという内容です。
 緑の芝生の上、あり合わせの木材で作った大きな十字架を先頭に、ギターを弾きながら、次々と、旅人が助け起こされていく情景は、映画の一場面のようで心に染みわたりました。
 「信仰と光」は1968年、知的ハンディをもっている子供を連れて、ルルド巡礼に同行することを、教会から拒絶されてしまった親子の痛みから始まっています。その後、ジャン・パニエも加わり、知的ハンディを持つ人と、その親、友人達で結成されたルルド巡礼のための小さな共同体は、口コミで膨れ上がり、3年後の1971年の復活祭には、全世界から集まった巡礼団のメンバーは1万2千人にもなったといいます。この世界規模のルルド巡礼は、10年に一度続けられており、「信仰と光」の世界集会とも呼べるものとなっています。そのような歴史もあり、今回のパントマイムの巡礼は、感慨深いものがありました。
 小さく、弱く、何もできないと思われている人たちに、実は、払たちは、いつも、助け起こされ、道を示してもらっている。そのような「信仰と光」の霊性を、皆と共有できた嬉しいひとときでした。
 多摩共同体(名称アレルヤ)も、知的ハンディをもったメンバーと、イエスさまにいつも助け起こされながら、これからも巡礼の旅を続けていきたいと願っています。

<アレルヤ巡礼団・随時募集中>
☆例会は毎月第3土曜日(8月はお休み)午後2時から 多摩教会信徒舘1階にて
☆コアメンバーの手づくりおやつ付き

<日本信仰と光ホームページ>はこちらから

「毎日御聖体に養われて」
(“My Daily Eucharist”−WITNESS社−よりの抜粋抄訳)
                                     豊ヶ丘  内山 正幸

 マザーテレサと御聖体(「毎日の御聖体」、12月1日)
 今回のエピソードは、マイケルL.G-パーカー神父がその著書、“The Real Presence through the ages”(時代を超越する神の臨在)の中で、ケニアのナイロビで行われた第43回国際御聖体会議でのマザーテレサの講演を引用したものです。 
         
この文章を読みながら、何故か昔のこと、それも今から約半世紀前の学生時代の事を思い出しました。ドイツ人のゲレオン神父様(私は洗礼と婚姻の秘蹟を授けて頂いた)が軽井沢に建てた聖アントニオの家で、毎夏教会学校や蟻の町の子供たちとキャンプをしていると、必ず訪ねてくる乞食同然のびっこの吟遊詩人(私は密かにそう呼んで
いた)がいました。神父さまは私たちに「あの人はキリストが私たちに遣わされた人、いや、キリスト本人かも知れませんよ」とって、その乞食のような人を、さりげなく歓待、いつもスータンの袖口に忍ばせているものを、そっと渡していたのかも知れません。
 当時キャンプリーダーのボス(?)を自認していた私は、神父さまが留守の時とか、もう十分ぐらいで昼寝(神父様の昼寝の時間は関係者全員が厳粛且つ従順に厳守)が終わりそうなときなどは、「もうすぐ神父さまは現れますから...」などとモソモソ言いながら精一杯その吟遊詩人を接待、いや神父様が早く起きてきてくれないかな、といらいらしながら、“間”をとりもったものです。
 「主は私たちのまえに常に現れている」...当時、いや現在も大差はありませんが、善きサマリア人の話(ルカ10-36)を一応は読んではいても、隣人、とりわけ困っている人、貧しい人に主がお姿を変えて臨在なさっているのだと感じ取ることなど、とても、とてもできなかったのです。前置きが長くなりましたが、マイケル神父さまの本文にはいります。
 “御聖体におけるキリストの愛を黙想する方法は色々あると思いますが、貧しい人々が困窮に喘ぐ姿のなかに、キリストの臨在と私たちのためすべてを捧げ尽くされるキリストの姿を識別することにおいては、カルカッタのマザーテレサの例証ほど心をうつものはありません。御聖体の崇拝を通してイエズスと深く一致し、キリストの愛の現存を揺るぎ無く信じる彼女は、人を思いやる慈しみの心を直ちに実行に移すことが可能だったのです。このような愛の実践による幾多の”出会い“を彼女は淡々と述懐していますが、次の話もその一つです:”
 「私たちがオーストラリア、メルボルン郊外の―『特別公園』(居留地)―と呼ばれている所に行ったときのことを思い出します。人々はそういう所で暮らしておりましたし、私とシスターたちは貧しい家庭を訪問してその人たちと一緒になって何か手助けをしたいと思ったのです。そこで私は一軒の小さな家に行きました。そこには男の人が一人で住んでいました。わたしはその人に家の掃除をさせて欲しいと頼みましたが、彼は『このままで十分だよ』と言いました。それで私も、もし掃除をさせてくれるなら、もっと十分になりますよと応じました。ということで、私は家の掃除と洗濯を始めました。すると彼の部屋に大きなランプがあるのに気がつきました。そのランプはちりとほこりにまみれていました。私は彼に尋ねました。『この美しいランプは
もう使わないのですか?』。すると彼は言いました。『いったい誰のためにかね?俺のところなんか、もう何年も誰もたずねてこないよ』。それでは、と私は彼にこう言いました。『もし私のところのシスターたちがあなたに会いにくるとしたら、このランプに灯をともしますか?』『うん、ともすよ』とかれは答えました。そして私はそのランプを磨き上げ、それからシスターたちは毎晩彼のところを訪問したのです。それから二年経ち、私は彼のことはすっかり忘れていました。彼は私にことづけを送って来たのです。それにはこうありました:『私のともだちであるあの人にこう伝えてください。あの人が私の生活に点してくれた灯火はまだ燃え続けています。』」        (訳:内山 4/10/05)

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