2003年8月号 No.360 2003.8.9
1 | 人はパンだけで生きるものではなく | 加藤 豊神父 |
2 | 多摩教会子供のミサに参加して | 西脇 祐輔 |
3 | 教会学校の夏期合宿に参加して | 塚本 清 |
4 | ミサってなんだ | シスター久野 |
5 | 最近発見したこと | 萩原 スミ子 |
人はパンだけで生きるものではなく・・・
主任司祭 加藤 豊
夏になると出てくるもの、といえば、皆さんはいったい何を想像なさいますか?かき氷、入道雲、花火、幽霊、といったところでしょうか?この他にも色々ありそうですが、わたしの場合、ある生物を真っ先に思い浮かべてしまいます。そいつは黒く、素速く、脂ぎっていて、絶えず人々に驚愕と苛立ちを抱かせ、底知れぬ生命力に満ち溢れ、野外では夜陰に紛れて路地裏などに現れ、遭遇した者に不快感を残します(誤解のないように付け加えておきますが、そいつは虫です。以前よく熱帯夜に街をうろついていたガングロのコギャルではありません。上記の特徴が当てはまるとしでも)。
なんでも聞くところによると、世の中には殺虫剤のメーカーなどでそいつらを大量に飼育している連中がいるそうで、理由はもちろん研究のためですが、その研究結果から、わたしは意外な真実を知りました。すなわち、先ずその虫は「雑食なので飼い易いが、但し複数で飼わないと一匹だけでは衰えて死んでしまうことがある」ということと、次にその虫が「夜行性なのは、本体が薄っぺらで保水性がなく強い光に耐えられない(干からぴる)からで、それゆえ高温多湿の季節にしか出てこない」ということでした。「なんとまあ儚い命だろう」と思いました。あれだけタフで即物的な印象を与えておいて、実は充分な餌があってもー匹だけでは生きていけないわけです(逆にいうと家の中で元気な一匹を見かけたら、他に何匹か隠れているわけです)。
「すべての生物はそれらに必要な条件が整ってはじめて生存が可能であり、種は常に生命の相互内在性を保っている(進化は個のレヴェルで単独に起きることはない)」という点では奴らもわたしたちも一緒だったのです。人間もあらゆる意味で一人では生きていけません。「一緒にしないでくれ!」という声が聞こえてきそうですが、奴らは人類が登場する遥か昔から母なる地球に育まれて来た先住者で、他の絶滅種と比べ、わたしたちとの間に共通点があるのはむしろ当然なのかもしれません。
さて、「人はパンだけで生きるものではない」(Mt.4:4)とイエスはおっしゃいました。これは「パンだけで生きるべきではない」という主張ではなく、「パンだけでは生きられない」という人間の「必然」を語っているみことばです。べき論や理想論ではなく、必然を語っているのです。今世紀、わたしたちは思い知らされています。有り余るほどのパン(物もお金も)があるのに、平和も、秩序も、充足もないという現実を、です。これはいったいどういうことでしょう。誰もが皆、物騒な事件に巻き込まれる可能性を持っています。もしかしたら、人はパン(物やお金)だけで生きるものという人間理解こそ、かなり非現実的な理想論ではなかったかと、今となっては(かといって為す術もなく)多くの人が気づいているのではないでしようか?
多摩教会子供のミサに参加して
府中教会・高校生 西脇 祐輔
6月9日。晴れ。
朝早くから慌ただしい出発になりました。
それぞれの荷物を車に詰め込んで、自分たちも車に詰め込まれて‥・9:30出発。ミサの5分前くらいに教会に到着。なぜか初めて行く教会というのは、キョロキョロしてしまいます。多摩教会は、そんなに大きくはないけれど、すごくきれいな所でした。御聖堂までは、階段を使って入り、天井を見上げれば明るい十字架をデザインしたガラス。つい見入ってしまいました。そして、子どもたちによる先唱。「キリスト」の名が出れば、お辞儀。
「多摩教会は初めて」という子がほとんどだったと思います。みんなも気付いたと思います。同じカトリックの教会でも、少しずつ違う点もあるものです。それぞれの家庭みたいだな、と思いました。今後も交流のある家庭であればと思います。
では、GLORY BEの事を少しだけ・・・僕たちGLORY BEは合計9人のメンバーで構成されているバンドです。今回はそれぞれ、学校や仕事で参加できなかったメンバーもいたのですが、全員が揃うと大バンドです!!みんな揃って演奏できていれば・・・もっとみんなで練習できていれば・・・そうすればもっと・・と、考えれば悔やまれるのでやめます。
でも、失敗も含め、あの演奏は、あの時に出来るベストな演奏だと思っています!!ただ「GLORY BE」ならもっと出来るはずです。次にまた演奏の機会がある場合は、自分たちの納得のできる“ベスト”な演奏が出来るように・‥と思っています。
最後に・・このような場を与えて下さった、多摩・府中教会に感謝したいと思います。あのような場で演奏が出来るというのは、自分たちにとってもすごくプラスになると思うし、それで多くの人が楽しんで祈りの心を持ってくれれば幸せです。 GLORY BE
教会学校の夏期合宿に参加して
塚本 清
今年の教会学校の合宿は、7月25日(金)から26日(土)までの1泊2日で多摩教会を会場にして行われました。
今回は、「ミサって、なんだ?」というテーマで行いました。
1日目は、まず午前中に小学生はビデオを見ながら、ミサがキリストの最後の晩餐を記念して行われていることを勉強しました。この間に、中学生はミサで歌う歌の伴奏に使うギターの練習をしました。ギターにはじめて触れた人も多かったのですが、みんな熱心に練習しました。
昼食の後は大谷戸公園に出かけて、レクリエーションを楽しみました。キックベースやドッジボールなどで、子どもも大人も大いに遊びました。教会に戻るころには、雨が少し降り出してきたので、急いで帰りました。
お母さんたちに作っていただいた夕食の後は、ゲームをしました。加藤神父様やミサのことなどについて○×ゲームも楽しいものでした。
2日目は、朝食の後、ミサの準備にかかり、2階の会議室でミサをしました。この2日間空き時間があれば、練習を重ねてきた中学生たちによるギターの伴奏も加わり、自分たちでミサのいろいろな役割を分担しました。
今年の合宿は、短いものだったかもしれませんが、ミサについて勉強したり、ギターの練習をしたりして、教会で行われる子どもミサのために役立つものになったと思います。また教会学校のみんなで一緒に遊んで、楽しい時間を過ごすこともできました。
この合宿にご協力いただいたたくさんの方々に感謝いたします。どうもありがとうございました。
“ミサってなんだ”
シスター久野
教会の夏期合宿は7月25日・26日このテーマで行われました。
午前10時に始まる合宿なのに、9時前から集まり教会は賑やかな子供たちの声でいっ ぱいでした。
小学生の部はすべて加藤神父様のご指導でテーマのミサについて工夫したお話しが あり、ビデオを通しても学び、聖堂や香部屋ではミサに使用する聖具を見たり触れたりできる体験学習でした。
カリス、パテナ、ストラ等質間にも優しく答えて、神父様のご指導は小学生の興味と学ぶ心を充分にみたし、その後のミサの時の子どもたちの目が祭壇に向くようになりました。中学生はこの合宿でミサの聖歌とギターの学習会でした。6名の中学生は小俣・宿里両リーダーの個人指導を受けてギターのとりこになり寸暇を惜しんでの練習でした。
午後からは大谷戸公園まで歩き小島・加藤両リーダーによるゲームは幼児ちゃんから大人まで全員参加でもちろん加藤神父様もすべてご一緒です。
「花いちもんめ」「長なわとび」「ドッチボール」に「フットボール」など緑の美しい広い公園での競技は教会共同体の和と輪のつながりでひとつになり晴天のもとスポーツで汗を流しました。
心配された天気も帰り着いてから崩れて神様のご保護に感謝。
小学生から順に一個しかない風呂も計画通り河野・石綿の両リーダーの奉仕で手早くシャワーをすませ、清々しい気持ちで夕食の時間を迎えました。
下津リーダーやご婦人方の手作りのハンバーグやフルーツジェリーなど美味しいご馳走を頂きながら和やかな家庭的雰囲気の中で時がたつのも忘れる程でした。
夕食後は若さあふれる高校生や青年たちの協力を頂き朝から学んだミサと加藤神父 様についての○×ゲームがあり外の大雨などものともしない賑わいでした。
翌日は10時より感謝のミサがあり中学生の集中した努力のギターで二曲伴奏して神様を讃えることができたのでこの豆ギターリストたちに大きな拍手が送られました。
もう一つ素晴らしいことは加藤神父様がカナダのトロントからのお土産のブドウ酒がミサで捧げられ“ミサつてなんだ”のこのテーマの最高の恵みであるご聖体拝領の時に頂き合宿は終わりました。その後の子供たちにミサへの関心が深まり合宿の実りが見えてきたようです。
子供と共に遊ぶ主任司祭やリーダーの姿は同伴者キリストを感じます。1泊2日の合宿は多勢の方々のご協力により無事終わることができました。
最近発見したこと
萩原 スミ子
その1
私共の多摩教会は今から丁度7年前(1996年8月15日)に創立25周年を迎え、白柳枢 機卿様と16名の神父様によって記念ミサが捧げられました。そして、その記念の集合 写真に何と神学生だった加藤神父様が私共信徒の中にいらしたのです。すでにその時、 7年後多摩教会の中心的存在になられることが神様のご計画だったのですね。そうです、丁度写真の真ん中にいらっしゃるのです。写真をお持ちの方は出してご覧になってください。真中にいらっしゃるので、すぐ判りますよ。すでにご存知でしたか。
その2
私は小学生の頃両親から“自分が嫌なことは人にもしてはいけない”と言われていたことを憶えています。やがてそれは国語の教科書で孔子の教えと言うことを知りました。教会に行くようになって、“自分がして欲しいことを人にもしなさい”というみことばと出会いました。このみことばには自分の中で抵抗がありました。孔子の教えの方を好んでいました。愛の実践の消極性と積極性の違いでしょうか。最近どちらも聖書のことばであることを知りました。トビト記に“自分が嫌なことは、ほかの誰にもしてはならない。ぶどう酒を酔うまで飲んではならない。”とありました。これもご存知でしたか。
その3
去る6月21日多摩教会で開かれた“信仰と光”の集いにたまたまそこに居合わせて、誘われるまま参加しました。年甲斐もなく初めての人たちの中に入ることに警戒したり、躊躇したりすることの多い私ですが“何か”いいことがあると直感したからです。
その日の集いの終わりに聖堂でお祈りし「キリストの平和が私たちの心の隅々にまで行き渡りますように」を手話をしながら歌うことになり、参加者は祭壇の前に集まりました。私は他の大人の方たちとベンチにいました。するとH君が“おばちゃんも前に出て歌おうよ”と手をひっぱりにきました。すんなり前に出て、見よう見真似で手話をしながら歌いました。
その夜1日を振り返っている時、とても不思議な思いでした。人前では恥ずかしがり屋の私でしたが、H君によって違う私を発見しました。
そしてニューズの先月号で2回目が開かれることを知りました。難しいことは一切ないのが特色とのこと―いいですねえ―。 「何か“よいもの”を得たいと思われる方はどなたでも参加してみてください。」と加藤幸子さんの呼びかけが嬉しくて、また、仲間に入れてもらいました。