デイヴイッド・プリンカットさんからのお便り
皆さん覚えておられるでしょう、南大沢に住んでおられたマルタ人のディヴイッド・
ブリンカットさんを。彼は日本に4年8ケ月も暮らし、今年の7月1日に帰国されました。
その間多摩教会にはほとんど毎週来られて、主日のミサに与っておられ、我々とも親
しく接してもらいました。そのディヴイッド・ブリンカットさんは現在、マルタに帰
られ、首都のヴァレッタから少し奥に入ったクオルミという町に住んでおられます。
彼から多摩教会の皆様によろしくと宮下神父様のところに便りがきました。そしてそ
の中にマルタという国を紹介する文章が入っていましたので、その要旨を下記の通り
訳しました。この文の中にもありますが、マルタは聖パウロがローマに向かう途中で、
船が難破して上陸した島であり、その辺のことは使徒言行録の27と28章に詳しく描か
れています。小さい島ながら何と教会が359もあるという羨ましいカトリック王国で
す。どうか下記の彼のマルタ紹介文を読んでみてください。
マルタの歴史と文化の要約
2001年8月 ディヴイツド・ブリンカット
マルタは英連邦諸国の中の独立共和国で、地中海のシシリーと北アフリカの海岸と
の中間にある小さな島々から成立っている国です。マルタは地中海の輝くような青い
海の上にあり、ヨーロッパの中では最南端にある国です。マルタ諸島は五つの島から
成っています。それはマルタ、ゴゾ、コミーノの三つの島、それにコミノットとフィ
ルフラという二つの無人島です。総面積は約316平方キロ(マルタが246、ゴゾが67、
コミーノが2.7平方キロ)です。マルタ島の中で測れる最も長い直線距離は、北西か
ら南東の方向になりますが、それでも約27キロしかありませんし、東西方向の幅は14.
5キロです。この島の中でドライヴしてみると、どんな地点からでも1時間以内で行け
ないところはありません。マルタ諸島の総人口は約36万6千人ですからほぼ町田市の
人口に近いですね。そして、位置的にはシシリー島の南ですが距離は90キロしかあり
ません。そしてアフリカの北岸(チュニジア)からは290キロあります。
世界最初の文明の中核となった地中海の真ん中に位置しているので、マルタは戦略
的に重要な場所を占めており、それが故にマルタ諸島は歴史の交差点となり、紛争の
種ともなりました。過去のヨーロッパの列強諸国はマルタをヨーロッパとアフリカと
の間の踏み石と考えていました。マルタの歴史に登場するのは、先ずは石器時代と青
銅器時代の人々であり、それに次いでローマ人とフェニキア人、アラブ人、ノルマン
人とカルタゴ人、カスチラ人、エルサレムの聖ヨハネ騎士団、フランス人、そして最
後に英国人たちで、その英国人の支配からマルタが独立したのは1964年でした。ナポ
レオン・ボナパルトは僅か6日の占領の間にマルタに大変なダメージを与えました。
第二次大戦中、激しい爆撃にも拘わらず、マルタはヒットラーと決然として戦い、そ
の勲功により国家として1942年4月にジョージ十字賞を授けられ、そのことは国旗の
左隅に描かれています。
マルタは比較的小さな国であるにも拘わらず、文化的には豊富な遺産を引き継いでい
ます。マルタ諸島独特のものとしては、巨石神殿がありますが、これは5,500年前に
遡るもので、現存する独立した石造構築物としては、世界最古のものです。エジプト
の巨大ピラミッド以前に建造されたこれらのモニュメントは、マルタとゴゾ両島にわ
たり群を成して立っています。マルタとゴゾ両島には7つの巨石神殿が見られ、その
一つ一つが別個に建造されたものであることが分かっています。これらの神殿は建築
物としては貴重な傑作であり、建造された時代の技術や材料が限られたものであった
ことを考えると、ことさら感銘を受けるものであります。
実際、神殿は有史以前の巨石芸術を証明する素晴らしい作品であり、ユネスコの世
界遺産のリストに加えられています。
マルタの主要な宗教はローマン・カトリックです。マルタ人の信仰の由来は聖パウ
ロによるものです。それは聖パウロが西暦60年に裁きを受けるためにローマへ行く旅
路の途中で船が難破して、このマルタ島に逃れたからです。この出来事は聖書の中で
も触れられています(使徒言行録28章1−10)。
信仰がマルタ人の心に深く根付いているということは、マルタのほとんど全ての人
が生まれると直ぐカトリック教会で洗礼を受けるという事実によって証されています。
マルタ人が自分たちの宗教上の遺産を大切にしていることは、今もなお歴然としてお
り、この貴重な信仰の遺産を守り続けたいという強い意向に支えられています。マル
タ諸島にある教会の数は大変なもので、この規模の小さな島々にも拘わらず、教会の
総数は359にもなります。マルタでは何処にいても、教会が直ぐ近くにあります。マ
ルタ諸島で特色のある行事は、教区毎に年一回催される大きな祭です。それは丸々1
週間続きます。それは教区の宗教的な祝祭日であると同時に、教会の外でのお祭り騒
ぎでもあり、カラフルな花火を打ち上げたり、村の大通りでブラスバンドが陽気な音
楽を演奏します。
カトリックの信仰はマルタの歴史を通じて、受け継がれてきましたが、特にエルサ
レムの聖ヨハネ騎士団の時代は、この信仰が顕著な働きをしました。このエルサレム
の聖ヨハネ騎士団は、多国籍の修道士の集まりであり、彼らは兵士や慈善看護士たち
の役目を果たしており、マルタの歴史に大きな影響を残しました。皆さんはマルタ・
クロスをご存じと思いますが、それはマルタの聖ヨハネ騎士団の記章であります。
そして皆さんはマルタの鷹の話しを聞かれたことがあるでしょうが、それは地中海
のハヤプサで、1530年にローマ皇帝チャールス五世がこの島々を聖ヨハネ騎士団に贈
与した際、皇帝が年貢として捕獲することを要求したハヤプサ(訳注:鷹狩りをする
ためのもの)です。騎士団の人たちは皆が揃ってこの小さな島々がローマから贈られ
たことを喜んだ訳ではありませんでした。それは決して自然のパラダイスではなかっ
たのです。彼らの目の前にあったのは、荒れて乾ききった岩だらけの土地だったので
す。しかしながら、聖ヨハネ騎士団は、領土拡大に必死だったトルコのオットマン帝
国の侵略から1565年にこの島を防衛することに成功したことで、マルタの歴史にその
威力を記しました。 この戦闘は《大包囲作戦》という名称で知られています。騎士
団は268年間にわたりマルタ島の管理を委され、その間に立派な教会や自分たちのた
めの素晴らしいモニユメントを建造しました。例えば騎士団の人たちの国籍毎に自分
たちのパレス(館)を建てました。 この騎士団の活動は1798年にナポレオン・ボナパルトとフランス帝国に征服される
まで続きました。
最後にマルタ島の言語について少しばかり触れたいと思います。マルタ諸島には二
つの公式用語があり、それはマルタ語と英語です。英語は164年に及ぶ英国の植民地
支配が残して行ったものです。マルタ語はレバノン語、ヘブライ語、そして古典的な
アラブ語などに最も近い言語で、ローマン・アルファベットで表記される唯一のセム
語系言語です。またイタリア語も若い世代の人々の間では広く使われています。それ
は特に距離的に近いイタリアから放送されるテレビ番組の影響によるものです。言葉
のガイドを雇うことば簡単です。そしてマルタ語も非常に興味をそそるもので、少し
ばかり努力してみる価値があるもので、皆さんがいくつかの言葉を覚えて帰られると、
それは貴方のマルタ訪問の美しい思い出になるでしょう。観光は最も収益性の高いビ
ジネスとなっており、マルタの人々は訪れる人に親切で、歓迎する気持ちで接するよ
う心がけています。
(文責:井上)
|