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2001年2月号 No.330  2001.2.17

露天風呂からの「展望」 宮下 良平神父
委員長をお引き受けして 鈴木 眞一
副委員長挨拶 森崎 哲夫
委員長を退任するに当たって 井上 信一
婦人部を終えての雑感 谷内 香代子

   露天風呂からの「展望」

                                  宮下 良平神父
 今日、このニューズの原稿を書きながら、カトリック新聞2月18日の「展望」というコラムを読んでいます。
 この記事を書いた立派なおじいさんが、一片の情報をもとに断定した、昨年のワールドユースディで200人の全国から集まった若者が、「異常な熱気」の中でバチカンに踊らされていたとはとうてい思えなかった事実を私は体験してきていると、何かオトナの「今の若者たちは」とか、「大聖年は何ももたらさなかった」いうその断定には悲しささえ覚えています。
 ところで先日、教会を訪れた同級生の神父を連れて、鑓水の露天風呂に入りに行きました。その露天風呂はいくつもの浴槽があります。その一つに、薬草の風呂があります。ちょうどその薬草風呂の縁に腰掛けて、大学生が5人ほど大声で話していました。たわいもない話で、授業のことやコンパのことを延々と話していました。
 この状況の中に私たちも入ってゆきました。不思議なことに、その薬草風呂にはオトナは誰一人近づきません。明らかに避けて、別の浴槽に入っています。オトナとは、じいちゃんも私くらいの中年も、また私より若い人もです。オトナたちは明らかに「俺はその風呂に入りたいが、お前たちがいるから入れないんだ」と体で語りながら、みんな横目でちらちら見ています。しかし、その薬草風呂の湯船には5人くらい入いれるにもかかわらず、誰一人決して近づこうとしません。
 私は体を洗うために屋内に入り、洗い終わると外へまた出てきました。薬草風呂の状況と、周囲のオトナの様子は全く変わっていませんでした。
 私はそんなオトナからの視線と思いを肌で感じながら、一人、薬草風呂へと進みました。一瞬、どのような反応が起こるかとの不安も確かによぎりました。
 ところが私が薬草風呂に入ると、ことは何も起こりませんでした。相変わらす、大声で話しています。その大声で話している学生5人の前で、一人「部外者」が風呂に入っている、そんな光景が生まれました。考えてみれば、この作り出されている雰囲気は滑稽なことかもしれませんね。
  ところが、 5分くらい入っていると、私の目の前の若者が、手ぬぐいを湯船に付けて体を沈めたのです。そして、仲間と大声で話し続けています。
 私は「手ぬぐいを入れてちゃダメだよ」と彼にすぐ言いました。そしたらその彼は「すみません」と私に言って手ぬぐいをお湯から出しました。すみませんと言って、彼はまた仲間と大声で話し続けているのです。
 何か、そのあっけらかんの「すみません」の言葉が私の心にすがすがしく甦ってきています。
 彼らにとって、私などが一人入ってこようとなかろうと関係ない空気の中にたたずんでいるのです。だからといって、そこを占領しているとかの意識は毛頭ないのです。占領されているという意識を持っていたのは、周囲のオトナたちでした。
 電車の中で携帯電話を注意したら「うるせい」と怒鳴られたということはよく耳にします。そんな身近な見聞きしたことの積み重なりが、いつの間にか「触らぬ神にたたりなし」という「神」に誰かを、この場合、若者たちを祭り上げていったのかもしれませんね
 しかし、もしかすると、若者たちへの「怖さ」と「面倒くさいことに関わりたくない」というオトナの意識は、若者という限られたものだけではないように思えます。自分以外の存在、すなわち親であろうと子であろうと他人であろうと、小さな小さな人間関係を築いてゆこうとする力強い意志を持ったオトナが減ってきているのかもしれませんね。
 自分と関わりが直接無ければ、または関わろうとしなければ、評論家やワイドショウのように高所から語ることは容易いでしょう。
 しかし、私たちの日々の生活の思い悩みからするなら、日々の出来事から「展望」してゆくことしかできそうもありません。
 そこで、私はこの前のくだらないかもしれない出来事の中で、ちょっと展望してみました。具体的な人との触れ合いを展望してみると結構おもしろいことに気づかされるものです。
                            神に感謝

           委員長をお引き受けして

                                     鈴木 眞一
 先日の信徒総会資料のうち『2001年活動方針』は「新聖堂献堂式を行った私たちは、この教会を福音宣教の拠点として一層の活動を展開する年にしたい」と述べています。私に与えられている任務はこの方針に沿ったささやかな奉仕を、この1年させていただくことにあると思っております。
 考えてみますと、自分の所属する教会の献堂式に巡り合うというのは信徒にとって大変に幸運なことであり、昨年は皆がその喜びを分かち合った年でした。そして拠点を与えられた私たちは、今年は腰を落ち着けて福音宣教を実行しようというのが活動方針の趣旨であろうと思います。
 自分なりにこの1年間、努力を傾けます。しかしそれは皆様のご協力なくしてはとうていできません。どうぞお力添えと、危なっかしい私のためにたまにはお祈りくださいますよう。



             副委員長挨拶
                                      森崎 哲夫
+主の平和
思いがけず、副委員長を仰せつかりました、森崎です。一年間よろしくお願いいたします。
2000年度は、大聖年、献堂式、東京教区の巡礼教会、納骨堂の建設等と大きな行事があり記念すべき年でした。みなさま、大変ご苦労さまでした。
今年は、多摩教会の基礎をさらに強固にする良い機会だと思います。
みなさまのご協力をお願いいたします。
                              神に感謝。


     委員長を退任するに当たって
                                      
                                      井上 信一

 教会建設の最終年、しかも大聖年という年に委員長をやる巡り合わせになり、何と恵まれたことだったか、いや何と大変なことだったか、などと今となっては、自分勝手な思いを巡らせています。例年以上の行事や奉仕の仕事に追われて、それをこなすだけで精一杯というのが、正直なところでした。皆様のために積極的に役立つこともできず、ただ、沢山の方々の献身的な奉仕の姿をボーット見ていただけでした。皆様のそんな姿を見れたことが、そもそも大変な恵みだったかも知れません。そんな中で、配慮のなさから、あるいは早くも始まったボケから、多くの方に思わぬご迷惑を掛けたことが、しばしばありました。その度毎に、神父様を初め、皆様にカバーしていただいたことを感謝しております。
 立派な聖堂ができ上がり、外部の方々からも素晴らしい教会という声を聞くことがありますが、このような人たちにも開かれた教会になるよう、私もこの共同体の一人として、皆様と一緒に祈り、奉仕していきたいと思います。どうも有難うございました。



        婦人部を終えての雑感

                                      谷内 香代子
 大した役でもないのに名前が表に出ているというのは何となく重荷でもあり、まあまあ無事に終えられてホッとしているところです。
 ですけれども、ただ単に無事であればいいのかどうか・・・当初私は、備品、消耗品の在処をきちんとして、教会の美化に努めたいと婦人部に臨んだのでしたが、もちろんいちばん悪いのは私の怠惰なせいですが、多勢の人が携わるものを管理するのはとても難しいというのが実感です。これはみんながいい加滅にやっているというのではなく、むしろその反対なのですが、ひとつの規範がないためにそれぞれのやり方でする事になるので、きれいだけど、どこかきたない、物がごちゃごちゃしていて整理・処分したいけど勝手にさわると困る人もいるかもしれないと放っておいてしまうので、何となく雑然とした状態になる。みんなが一生懸命やっているにもかかわらず、なぜか雑然ときたなくなっていくような気がしています。誰かが大ボスになって、物の在処、使い方・片づけ方をきちんと管理すれば、それなりに整然としてくると思います が、自分自身がその誰かになる元気はないので、これは言えた事ではありません。
 美化に関して大改革案を出して教会を揺るがすこともなかったので波風を立てることもなく、無事婦人部を終えましたが、何となく心のしこりとなっています。


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