2010年10月号 No.446 2010.10.23
1 | みんなの教会 みんなの委員長 |
晴佐久 昌英 神父 |
2 | 耳のオアシス | 増田 尚司 |
3 | 教会バザーを終えて | 郷原 晴子 |
4 | 「信仰と光」の巡礼について | 加藤 幸子 |
5 | 多摩教会墓参のお知らせ |
みんなの教会 みんなの委員長
主任司祭 晴佐久 昌英神父
「今年一杯で教会委員長の任期が終りますので、そろそろ次期委員長をお考えください」 夏の暑い盛りに突然そう言われてびっくりし、思わず問い返しました。
「『お考えください』って、ぼくが選ぶんですか!?」
多摩教会では創立以来、教会委員長を司祭が選び、依頼し、時には拝み倒して任命して来ました。本質的に言うならば、それは間違いではありません。カトリック教会は民主主義を大切にはしますが、それを最高の権威とするのではなく、あくまでも真の権威はイエス・キリストの教えを正しく受け継ぐ教会教導職にあると信じる組織です。教皇が司教を任命し、司教が司祭を任命し、司祭が委員長を任命するのはある意味で当然のことではあります。
しかし、司教が司祭を任命する時にしても、いきなり司教が独断で誰かを選ぶわけではありません。大勢の信徒や養成者からのいわば「推薦」を受けて、最終的に司教の責任で叙階し任命するのです。教会委員長も司祭が任命するにせよ、そこまでのプロセスに教会全体が関るのが望ましいことは言うまでもありません。「司祭が選び、司祭が任命する」のではなく、「みんなで選び、司祭が任命する」というかたちです。ちなみに、わたしが過去に関った5つの教会はすべて後者のかたちでした。
そこでこのたび、司牧評議会のもとに小委員会を設けて話し合ってもらった結果、新たな教会委員長選出の方法が提案されることになりました。正式には11月の司牧評議会で決定して発表されますが、簡単に説明すると、各地区から一名の教会委員長候補を推薦してもらい、推薦された人同士で互選して一名を決め、それを司牧評議会で承認し、司祭が任命するというものです。
少々面倒に思うかもしれませんが、この方法のいいところは「みんなで選んだ」というところです。それは、思いのほか、教会全体の雰囲気を前向きにしてくれます。「教会委員長」は、教会法的に言うならば「司祭と共に教会活動を推進する信徒の代表者」という立場です。選んだほうも「私たちが選んだ代表」という責任を持ちますし、選ばれたほうも「みんなに選ばれた代表」という自覚を持てます。
これを司祭が独りで拝み倒して任命するのでは、信徒全体が「まあ、可哀そうに、断りきれなかったのね」という意識になり他人事になってしまいがちですが、みんなで選んだ以上は、そうは行きません。教会委員長が困っていたら、「わたしたちが選んだのだから」と協力を惜しまないでしょうし、委員長の方も「あなたたちに選ばれたのだから」と、堂々と協力を要請できます。
多摩教会の歴代の教会委員長は、いずれも能力と資質に恵まれたまさに適役と言える人選で、そのそうそうたるラインナップを見れば歴代の主任司祭がいかに的確な選択をして来たかが一目で分かります。しかし、教会委員長という奉仕を単に個人の能力と資質に頼っていては、そこにどうしても限界があります。教会はみんなで話し合い、みんなで助け合う共同体ですから、その代表である教会委員長をみんなで話し合って決め、みんなで助け合って支えていくならば、そのこと自体がとても教会的なしるしになるのではないでしょうか。
次期委員長が「自信はありませんが、みんなに推薦され、みんなに選ばれ、みんなに支えられて、お引き受けします」と言えるように、みんなで話し合っていきましょう。主任司祭はその人を信徒の総意として全面的に受け入れ、信頼を持って任命し、共に働いていくことをお約束いたします。
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第7回
《耳のオアシス》
増田 尚司
9月18日、今年も恒例の日、もたもた生きているうちに、もう3回目になる。戦中派の私は、様々なことがあったが、あっという間である。多摩教会も高齢者が多くなって、今後敬老年齢を75才に底上げするとのこと。20〜30年前からすれば信じられない様な時代になった。外見からは皆元気で若々しい人が多く楽しいことである。だが、人は皆誰でも日々知力も体力も少しずつ減退して行く。自然であり受け入れざるを得ない。
私は6才の頃、はしかで中耳炎になり両耳の鼓膜に損傷を受け、更に中3の時の、肋膜炎抗生物質の副作用で聴力が通常の60%位しかない。50代になると加齢と共に少しずつ、70代からは更に減退し、合計40年くらい補聴器なしでは生活できない状態である。今は、相当高性能機器でないと、人とのコミュニケーションが困難になってきた。補聴器といっても100%聞こえる訳ではないので、音声を増幅するだけの原理で雑音やよけいな騒音が全部入ってしまう。20〜30年前から比べたら格段に進歩しているものの欠点が多いこと。特に、屋内で集まり、会議など声が散ったり割れたり、音はすれども話の中身が分からなく、支離滅裂になってしまい、人が笑っているとき、皆楽しくしているときなど、ただボンヤリしているだけだったし、諦めと割り切っていた。こんな状態で、現役時代よくも大過なくやってこられたのは、よほど周りが支えてくれたんだと思うと、申し訳なさと感謝で冷汗ものであった。勿論小さな失敗は数々あるが。
この春から夏にかけて3か月くらい体調が悪く手術をし、ミサに参加できなかった。私の知らない間に多摩教会で、難聴者のために電磁波を応用した設備をしてくださり大変感謝している。特に、ミサの進行中、今どの辺なのか先唱者の進行状態位しか分からなかった。これも長くなるとだめで、あとは勘が頼り。ましてや司祭説教となると、どの司祭も同じで半分も理解できればよい方であった。短気な性分で、長くなると申し訳ないと思いながらもイラついてきてしまう。何十年もこの思いをしてきたのである。確か2年くらい前、カトリック新聞で、横浜磯子教会で難聴者のための特別な設備をしたことを知り、電話で聞いたところ、応対に出た方が当方の質問に対して、あまり満足できる回答ができず、やはり健聴者では分からなかったのであろう。設備費が高額で私の聴力ではせっかくの設備が無駄になるようでは何もならないと思い、そのまま今まで放置していた。
9月12日、初めて自前の補聴器で試したのだが信じられないくらいよく聞こえる、雑音もない。大げさではなく、まさに躍り上がらんばかりの喜びである。何十年ぶりの暗闇から光にあったような気がした。この気持ちを早速司祭に、同年代のM氏に、私をよく知るK氏に喜んでください、大きな恵みでまた生きていく喜びが増えたことを告げた。皆本当に喜んでくれたのである。改めて、この設備に努力、協力された方々に厚く厚くお礼申し上げたい。多摩教会でも難聴者は潜在的に私の他にもいると思われます。何人いるか分かりませんが自前の標準型でも、チャンネルを切り替えれば、素晴らしく聞こえるはずです。どうか面倒がらず積極的に使用することを願っています。よくしゃべり、よく笑い、人と接することが、どんなことよりも何よりの元気の素ではないかと思います。いちばん悲しくなるのは、人生の全ての面で消極的になってしまうことなのだと思います。特に高齢者は加齢と共に自分も周りからも必要とされなくなってしまうと思いがちになりますから。神に感謝。
教会バザーを終えて
郷原 晴子
去る10月17日に毎年恒例の教会バザーが開催されました。まず、今回のバザーの収益金は326,847円で、すべて「信仰と光」の活動に使わせていただくことをご報告いたします。ご協力ありがとうございました。
本年度のバザーでは大きな変更点が2点ありました。まずはバザー委員会を発足させたこと、そして1階の駐車場をバザー会場に加えたことです。
今までバザーに関することは教会内の一部の人がとりまとめてやっていました。今回はバザー委員を各地区から2名ずつ選出していただき、会場係り、備品係り、献品係り、ゴミ清掃係りを担当していただきました。委員の中には最近多摩教会に転入してきた方や、今まではバザーも参加する側ばかり、という方も多く、当然初めてのことばかりでしたが、少しでも良いバザーにしようと、一生懸命各自の役割を果たしてくださいました。また、サッカー部をはじめとする男性方にはバザー委員の会場係りと共にテーブルを運んだり、テントを張ったりと、力仕事を積極的に手伝っていただいてとても助かりました。
バザー委員会を発足させたことで、より多くの方々がバザーに関わることができ、「多摩教会のバザー」ということを強く意識できたと思います。
また、会場に関しては前回までは信徒館と屋外で行っていましたが、飲食をする場所が少なかったり、傾斜のついた場所での献品販売で様々な不都合がありました。駐車場をバザー会場に加えたことで、よりゆったりとした飲食コーナーや売り場になりました。駐車場を使用することに関しては、照明や清掃、車の駐車スペースなどいくつかの問題点もありましたが、バザー委員や、その他の有志の方々が協力してくださり、一つ一つ問題を解決していきました。駐車スペースに関しては事前のミサのお知らせで告知し、出来るだけ車での来場をご遠慮いただいきました。当日ご協力くださった方にはご不便をお掛けいたしましたが、お陰様で大きな混乱もなく駐車場を使用することができました。ありがとうございました。
その他にも今年のバザーには新しい試みがいくつかありました。シスター方には大きな素晴らしい看板を作っていただいたり、入門係りは正面入り口で道行く方々に声を掛けていただき、教会やバザーの案内をしていただきました。さらにバザー委員の提案でゴミをすべて持ち帰りにする、という試みを行いました。これらも今までのバザーには無かったことです。
私はバザー委員長という立場上、前面に出ることが多く、バザーを終えて皆様から温かいお言葉をたくさんいただきましたが、今回のバザーの成功は、その他の多くの方々の素晴らしいご協力があってのことだと深く思います。本当にありがとうございました。
「信仰と光」の巡礼について
加藤 幸子
「信仰と光」は来年40周年を迎えますが、この共同体は、ジャン・バニエとマリー=エレン・マチューの呼びかけで、1971年の復活祭に、ルルドで行われた巡礼をきっかけに始まりました。
1968年にタデーとルワックという全介助が必要な知的障害を持った兄弟と、その両親が、教会の企画したルルド巡礼に参加しようとしたところ、「障害が重すぎるし、巡礼の意味も分からないだろうし、他の人々の迷惑になるから」と参加を断られました。このときの、この両親たちの「嘆き」に対する応えとして、ジャンとマリー=エレンは3年かけて、知的障害者とその家族、友人たちによるルルド巡礼を準備したのです。
知的障害を持つ人とその両親、友人たち15人~30人からなる、共に祈り、互いを知り、共に楽しみ祝う小さな巡礼団のメンバーは、口コミで膨れあがり、1万2,000人にもなり、1971年のルルドの町は大きな平和と喜びにつつまれました。
ルルド巡礼で親たちは、自分の子供が、この平和と喜びの源になりうるということを発見しました。ハンディを持つ本人たちは、自分が多くの人々に喜びをもたらしていることを知りました。関わった友人たちは、してあげたことよりも、彼らから多くのものを受け取っていることに気づくことができました。
巡礼が終わり、それぞれの生活に戻った後、小さなグループで定期的に集まりを続けることになりましたが、その後、この共同体は世界中に広がり、現在、81カ国に 1,600余りの共同体が存在します。日本には10の共同体があり、東京は多摩教会と浅草教会で活動しています。
その間、1981年、1991年、2001年と10年ごとに1万数千人規模のルルド巡礼を繰り返してきましたが、40年目となる2011年度の巡礼は、それぞれの地域で自由に場所を選び行うということになりました。これはこれまでに得た喜びという恵を、自分たちだけの宝にしておかず、広く外へ向けて伝えてゆくためです。
日本が属する東アジアグループ《Light of Orient》(韓国、香港、台湾、日本)は、2011年の巡礼地に、奈良を選びましたが、これは20年前に日本で初めて誕生した「信仰と光」が奈良共同体であり、その後、年に一度の日本の全国集会も奈良で行われ、ハンディを持つメンバーが慣れている、他の国の人達が日本に来たがっている、などの理由から決定されました。
東アジアグループは、言語面において、共通言語を持たない最も困難な地域(北京語、広東語、韓国語、日本語)で通訳がいないと、会話ができない状況にありますが、来年、10月に予定されている奈良での集いでは、ハンデを持った仲間たちが、言葉や文化の壁を楽々と越えて、皆を一致と深い喜びへと招いてくれると信じ、楽しみにしています。
信仰と光の巡礼は、その土地に行ってからだけのものではなく、準備の段階から、参加できない人も含め、共に祈り、共に一致し、歩んでゆくことを大切にしています。
今回ホスト国となる日本は、資金面、労力面でかなりきびしい状況ではありますが、これからの1年間の巡礼の旅が、それを上回る恵を与えられる旅となることを信じ、一歩ずつ歩んでいきたいと願っています。
今回のバザーの収益を、「信仰と光」の活動のために献金いただいたことを深く感謝すると共に、多摩教会の皆さんに「信仰と光」の存在を知っていただくきっかけになったことを嬉しく思います。
これを機会に、このような集いを必要としている、親子、友人がいらっしゃいましたら、どうぞ、お誘いください。「信仰と光」は、どのような状況であっても、神さまが必ずそこにいてくださると信じ、安心して集っています。その原動力は、神さまを身近に感じさせてくれる、知的ハンディをもった人たちが、真ん中にいてくれるからだと思っています。
毎月、第3土曜日の午後2時から信徒館で集いを行っています。どうぞいらして下さい。
多磨教会墓参のお知らせ
11月7日(日)13時に現地集合で五日市霊園の多磨教会共同墓地へ墓参に参ります。
昨年と同じように晴佐久神父様のお祈りとお話しがあります。多摩教会共同墓地を利用さている方々だけでなく、五日市霊園内に墓地をお持ちの方もご一緒に追悼の祈りが捧げられます。また、午後2時からあきる野教会で教区合同ミサが行われますので、墓参の帰りにミサにあずかることもできます。