2010年6月号 No.442 2010.6.26
1 | 「多摩教会からのお誘い」をご活用ください |
晴佐久 昌英 神父 |
2 | 分かち合い1 『主とともに』 | シスター 林 恵 |
3 | 堅信式の感想 | 志賀 康彦 |
4 | 楽しい初聖体 | 安部実紅子 高山真尚 |
5 | どんな子に | 加勇田 修士 |
6 | お知らせ | 竹内 秀弥 |
「多摩教会からのお誘い」をご活用ください
主任司祭 晴佐久 昌英神父
「カトリック多摩教会からのお誘い」という水色のプリントを、入門係事務局の協力で製作しました。ぜひ、信者のみなさんに活用していただきたいと思います。
これは、まだカトリック教会のことを知らない方たちに教会のことを知ってもらう案内書であり、ぜひわたしたちの多摩教会へおいでくださいとお誘いする内容です。
教会について信仰について、そして洗礼についてお知らせしたいことはたくさんありますが、まずは全く知らない人にほんの少しでも関心を持ってもらうきっかけとなることを目的としているので、内容は最も基本的なことだけを載せ、両面刷り一枚を二つに折った簡単なものにしました。
この「お誘い」の利用方法はいたって単純です。みなさんがこれはと思う人に渡すだけです。そのためにご家庭に複数枚常備し、できればいつでも持ち歩いていただければ。このような「お誘い」がいつどこで必要となるか、分かりませんから。
もちろん、お誘いの基本は、みなさん自身の言葉でのお誘いです。
「わたしの通ってる教会、とてもいい教会ですよ」
「今度ぜひ、一緒に行ってみませんか」
「入門講座は、だれでも参加できて、わかりやすいお話です」
「しつこく勧誘されることはないので、安心して訪ねてみてください」
などなど、みなさん自身が相手との信頼関係の中でお誘いするのが第一であることは言うまでもありません。ただ、そんなときに、教会の本質や洗礼の意味、具体的なコンタクトの方法などが書かれたプリントが一枚あれば便利ですし、お誘いもしやすくなるでしょうからお役立てください、ということです。
内容ですが、第一面は「あなたは神の子であって神の愛によって生きている」という福音です。そして、その神の愛を教えてくれたイエスを信じ、真の神の子となるのが洗礼であると書かれています。今年の洗礼式の写真も載せました。もちろん、いきなり洗礼というのに抵抗感を感じる人もいますから、教会を訪ねたら必ず洗礼を受けなければならないというわけではないことは、補っていただきたいところです。しかし、今のカトリック教会はあまりにも洗礼のことを言わなさ過ぎるのも事実です。現実に「どうすれば洗礼を受けられるのか分からなかった」「だれも勧めてくれなかったし、自分が受けるなんて考えもしなかった」「もっと早く知っていれば」というような声は多く聞かれます。そこで、このお誘いは教会へのお誘いであり、当然それは洗礼へのお誘いであることをあえて前面に出しています。
第二面には、カトリック教会の紹介と、洗礼までの具体的なプロセスが載っています。入門講座の日時と、次回の洗礼式が2011年4月23日であることなど。ちなみにこのお誘いは2010年バージョンであり、新しい日付等が入ったものが毎年色違いで出ますので、古いものは各自で処分してください。
第三面は、ミサのご案内です。教会への初めの一歩は入門講座からと思われるかもしれませんが、まずはミサからという、ミサの力への信頼も大切です。その人によってどちらがいいかは異なってくるとは思いますが、ミサは神の愛に直接触れる恵みの場ですから、臆することなく誘ってみてください。初めてミサに出たとき涙が止まらなかった、という人はめずらしくありません。教会の連絡先、ホームページのアドレスも載せました。入門講座の家庭的な雰囲気を感じさせる写真も載っています。
最終面には、今年度の入門講座の講師の紹介と、特につらい思いを抱えて救いを求めている方にこそ来ていただきたいことなどを書きました。また、講座はいつからでも参加できること、そしてあなたが招かれているのだということに触れています。入門係一同の精一杯の笑顔の写真も載せました。
小さな工夫ですが、大きな可能性を秘めています。ぜひ、実際にだれかに渡してください。その一枚で人生がまったく変わったということが、現実にあるのです。
多摩教会の守護聖人、コルベ神父様が日本に来てまずしたことは、印刷機でパンフレットを刷ることでした。この一冊で苦しんでいる人が必ず救われると信じて、インクまみれになっている聖人のお姿が目に浮かびます。
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第4回
《分かち合い1 『主とともに』》
シスター 林 恵
ある年のとある研修会に参加するために、中南米のGuatemala(グァテマラ)に行かせて頂いた時のことを分かち合いたいと思います。
研修会の一環として聖週間に“福音宣教”のため各地方に派遣されることになりました。私が遣わされた場所は首都グァテマラから約380キロ離れたグァテマラ北部のDolores Peten(ドローレス ペテン)という村でした。そこでは、聖ヴィンセンシオ会の一名の神父様と三名のシスターたちが使徒職に従事していました。受け持っている部落は全部で24部落。一年を通して日曜祝祭日に巡回されるということでした。そのため毎年、特別に聖週間は各教区、修道会にお願いして宣教者を募っているのです。その年も各教区、各修道会の神学生や修練者と私たちのグループで合計48人が集まりました。
オリエンテーションの際、注意事項として食中毒にならないように水・食事には気をつけるようにということでした。病気になっても電話もない、車も何時来るかわからない所に派遣されるので、と言うことでした。ペルーでの経験を活かして正露丸はしっかりバックに入っていました。一歩我が家から出るときの必需品です。各部落からカテキスタが迎えに来て、部落の紹介などがありました。いざ、どこに派遣されるのか…?ドキドキしていると、皆は積極的に手を挙げていきたい場所に名前を入れて行きました。ある人は一人で、または二人組(若年と壮年ペア)に分かれました。私はことばに自信がなかったので二人組の方へ入れてもらいました。相棒はグァテマラで創立された聖マリアのみ心修道女会の2年ノヴィス、マリアンナさんでした。彼女にはたくさんお世話になり、迷惑もかけ、助けてもらいました。感謝!感謝!
出発前の派遣式ミサは村の教会で行われた、枝の主日のミサの中でした。その素晴らしいミサ音楽はすべてマリンバで奏でられていました。マリンバはグァテマラの民族楽器だそうです。低音から高音、伴奏からメロディーまで6人の男の人たちが心を一つにして奏でるハーモニーは今でも忘れられません。退堂の歌が終わり、皆が祭壇の前に集められ、各グループにご聖体の入ったチボリウムが手渡されました。司祭の行けない部落では、聖週間中の儀式は派遣された人が執り行うことになっていました。それから一週間、ご聖体のイエス様との旅が始まりました。
自動車は定番の荷台付ジープ。私たちは車内に乗せられましたが、一般の人は荷台に乗るのが普通でとても楽しそうでした。村から25分行ったところにEl Sos(エル ソス)という部落に到着しました。この部落は35世帯が住んでいて、ほとんどが農場を持つ地主さんたちでした。牛の放牧と、トウモロコシの収穫で生計を立てていますが、アメリカに出稼ぎに出ていたお父さんたちも何人かいました。まず初めに、この部落のカテキスタのホルヘさんの家に着きました。ここで私たちは一週間お世話になることになりました。
大きなだだっ広い部屋の中に、隅々にベッドが置いてあるだけのお部屋に案内されました。「ここがあなた方のベットです」、と言われたところに荷物を置きました。聞く話ですと修道女がここに派遣されるのは初めてで、色々準備をして下さったとか。私が宣教に出てとても楽しみなのは、私が持っている常識に当てはまらないことが多く起こることです。ここではプライベートな空間というものはなく、同じ大きな部屋で隅々に置いてある各ベッドでおじいちゃんからお孫さんまで三世代が一緒に休むということでした。お母さん、娘さんたちのベッドは台所に近くありました。その並びのベッドを私たちのために空かしてくれていたのです。
その家の隣に聖堂がありました。板と丸太、カラミナ屋根のとても質素な聖堂には、ご聖体を安置しておく聖櫃もありませんでした。もちろん入口には壁も戸もなく、ただビニールシートで仕切られていました。さあ、大変(私たちにとっては)どこにご聖体のイエス様を置いたらいいのか…。ホルヘさんに相談すると「あなたが休むところに置くのが一番安全」という答えが返ってきました。「私が休むところ???」見てみると角材がちょうど棚のようになっています。埃を払ってそこにきれいなハンカチを敷き、チボリウムを置きました。“ご聖体のイエス様がいらっしゃる所は赤い火が灯ってなくてはならない”と思いましたが、火事になるのでやめました。イエス様ごめんなさいね。それから毎晩イエス様と語りながら休むことになりました。
電気はもちろんありませんから、日が沈めば就寝時間が来ます。飼われているニワトリたちも木の上に登って休む準備をし、卵を抱える雌鶏も巣に戻って休みます。皆が静かに休んだ後、ガサゴソ音が鳴り出しました。猫です。壁をよじ登って外に出て、又よじ登って帰ってくるのです。その通り道が、丁度私が休んでいるところでした。猫の出入りで夜中目を覚まして眠れないとき、寝返りを打つとチボリウムが目に入りました。それでご聖体のイエス様に話しかけました。「イエス様ってきっと世界中でこんなことは日常茶飯事なんだろうね。きれいに清潔に安置されている場所でも、無造作に置かれている場所でも『わたしはある』ということにはかわりないんだね。そのみ心、人々への思いもちっともかわらないんだ」。こんなことを話しているうちに、深い眠りにおちいる???私でした。
私には一つ大きな問題がありました。それは夜中必ず一回はトイレに行きたくなるということです。そこのトイレは私たちのために作られた特製のものでした。家から30メートル離れに作られたトイレは、左右の壁はバナナの葉を重ね合わせて出来ており、奥は何もなくジャングルがパノラマ状に見え、入口はやはりビニールが垂れ下がっているトイレでした。夜空に満天の星を見ながら…素敵なトイレでした。一度行く途中立ち止まったところで、何か無数の小さいものに足をかまれました。急いで家に引き返し明かりを灯すと、アリが私の足の甲に乗っているのを見てゾォっとしました。注意深く懐中電灯を照らしながら引き返すと、昔『生き物地球紀行』で見た事のある葉アリの行列でした。本当に噛み切った葉をそれぞれ抱えて移動している光景を見て、「テレビと一緒だ」と深く感激しました。
話が福音宣教から離れてしまいました。私たち二人を神様がこの一週間どのように用いられたかは、次回のお楽しみに!
堅信式の感想
志賀 康彦
6月13日、調布教会で行われた堅信式の様子と、式の中で個人的に感じたこと等を書きたいと思います。
まず調布教会ですが、式が行われた御堂は2年ほど前に新しく建てられたもので、とても立派でした。建物自体はそう大きくはないのですが、中に入ると小さなコンサートホールのような感じで、近代的な教会といったイメージでした。
この日は多摩、府中、調布教会の新受洗者に加えて多くの中学生達も式に参加し、堅信の秘跡を受ける人だけで100名近く、代親の方々やミサに来られた方々を含めると200名以上が参加し、教会が満席になる程の規模で式が行われました。
堅信式当日の私の心は終始穏やかでした。4月の受洗の時には、「緊張してローソクの火を隣の人の服に点けてしまったらどうしよう、水をかけてもらっている最中に転んで、特注してもらった大切な水瓶に突っ込んで壊してしまったら大変なことになるな・・・」等とナーヴァスになっていたものですが、この日は不思議な程落ち着いた気持ちで式に臨むことができました。洗礼を受けて以来、1カトリック信者として信仰生活を送っているのだという小さな自信と心のゆとりがあったのだと思います。決して、当日ローソクや水瓶等の緊張を増幅させるような代物がなかったからではありません(笑)
式には岡田大司教様が来て下さり、お話をして頂いた後に塗油を授かりました。その後は通常のミサとほぼ同じ流れでした。岡田大司教様は、3月にカテドラル教会で行われた叙階式に参加した時に一度お話を聞かせて頂いたのですが、会場がとても大きく、私は後ろの方に座っていたため大司教様のお姿がぼんやりとしか見えなかったのですが、今回は間近で見られて、お話を聞くことができたことをとても嬉しく思いました。
式が終わった後は大司教様と各教会の神父様と記念撮影をして、その後は別の会場でパーティーがあり、私も参加させて頂きました。そのパーティーでは本当に幸運なことに大司教様と直接話をさせて頂くことができました。私がいた近くに大司教様がいらっしゃって、何か話さないと、と思いドキドキしながら話した内容は「僕は今、公認会計士の資格の勉強をしているのですが、なかなか合格できないんです・・・」何故堅信式の日にそんな話題しかチョイスできなかったのか、後になって考えたらおかしく思いました。
しかしこんな話題でも大司教様は「公認会計士は難しいからね、頑張って勉強して下さい」と笑顔で励まして下さいました。その時の大司教様の穏やかな表情と、温かいお言葉にとても感動するとともに感謝しました。私にとって忘れることのできない大変貴重な体験をさせて頂きました。
最後に堅信の秘跡を受けた後の心境について書きたいと思います。
堅信の秘跡を受けて、正直に言いますと私自身の心に特別に大きな変化というのはありませんでしたが、カトリック信者としての信仰を確かなものにするという意味で、とても素晴らしいことだったと思っています。
洗礼の秘跡と堅信の秘跡を授かった今、今後も毎日朝と晩にお祈りをし、日曜日にはミサに参加するといった日常を大切にし、更に信仰を高めていきたいと思っています。
私は、多摩教会に始めて足を踏み入れてからまだ半年程度ですが、この半年の間で洗礼、堅信という私の人生の中で本当に大切で、素晴らしい経験ができたことに感謝しています。
楽しい初聖体
安部 実紅子
初聖体でよかったことは、友だちができたことと教会の勉強がたのしかったことです。
私の思っていたご聖体の味は、フランスパンみたいな味かと思っていたけど、おもちのやいていない味がして残念だったけれど、大人になった気持ちでうれしかったです。
高山 真尚
ぼくはせいたいを食べた時、ウエハースを食べた時と同じかんじがしました。ミサがおわったら、たくさんの人に「おめでとう」と言われました。うれしかったです。
「どんな子に」
(東星学園)加勇田 修士
カトリックミッションスクールとしては、宗教教育をベースに置きながら、人間関係能力を育む教育カウンセリングの実践を大切にしています。小学校の保護者を対象に年に4回設けている「校長を囲む会」では、子育てのあり方についてともに学び、交流を深めることを続けています。一年目の保護者には@子どもが置かれている状況(現在地)と子ども理解の方法A親の愛情が伝わるコミュニケーションについてB構成的グループエンカウンターによる交流。二年目は@子育てに役立つカウンセリング理論(かかわり技法、交流分析、論理療法)A構成的グループエンカウンター。三年目の方々とは二月の一回だけシェアリング(分かち合い)を行っています。
「どんな子に育って欲しいか」によって子どもとのかかわり方が違ってきます。
ア.とても従順で素直だけれども自己主張、自己表現が苦手な子 イ.わがまま一杯で基本的生活習慣が身についていない子 ウ.人の話も聞けるし自分の意見も言える、判断と決断力を備えた子。三つの極端な例を並べた場合、健全な自立の道を歩んでいる子はウ.のタイプの子どもです。おどしや権威で押さえつけたり、あるいは全く子どもの自由に任せて放任した場合には、ア.やイ.のタイプになりやすいことが想像できると思います。ア.のタイプの子は、とても手のかからないいい子ですが、自分の考えや感情を抑えてしまい、自己肯定感が低いために、思春期になってから不登校や家庭内暴力を始める確率が高くなります。イ.のタイプの子は、基本的生活習慣が身についていないだけでなく、コミュニケーションが苦手なために対人関係のトラブルが多くなります。ウ.のタイプの子育てを目指して、保護者の方々と一緒に考え、学び合ってきた内容をお伝えします。
子どものエネルギーの補給源は家族です。厳しい人生を生き抜いていくためには、家庭が居心地のいいベースキャンプとしての機能を発揮できているかどうかにかかっています。
特に高学年から始まる思春期の修羅場を乗り越えるためには、十分な情緒エネルギーの補給が必要なのに、かえってストレスを与えられることで問題行動が生まれます。子どもの問題解決に取り組むとき、家族や保護者の方々との連携が欠かせません。今後の連携のあり方を考えるとき、問題の所在を明らかにしてその対応策を検討する際の重要な柱として「環境調整」が取り上げられます。「親が変われば子も変わる」のはよく知られていることです。たとえば、子どもの自立を言う前に、親自身の子離れが必要な場合があります。私たち大人が気づかない自己盲点を克服するための取り組み、新しい環境作りに向けての支援方法、連携のあり方等についての話し合いが重要です。
環境調整の方法や具体的な対応のしかたについては今回は省略しますが、トマスゴードンの「親業」(昨年のカトリック新聞でシスター小野恭世がシリーズで紹介したコミュニケーションスキルです)を学びながら、先ずはアイメッセージ(わたしメッセージ)で話せるようになることを目指しました。ユーメッセージとは「あなたが悪い。あなたはおかしい。あなたはこうした方がいい。あなたは努力が足りない」などの言い方です。一方,アイメッセージとは「私はこう思うけどあなたはどう思う?私はこう感じている。あなたのことが心配だからこうしてほしい」などの言い方です。好意的な感情を根底にした自己開示が伴っているからコミュニケーションが深まり,プラスの情緒エネルギーが蓄積されます。
神様に愛されていること、親に愛されていることが実感できるようになった子どもは自己肯定感が高まり、意欲的な学校生活が送れるようになります。 (以上)
カトリック多摩教会の信徒の皆様へのお知らせ
司牧評議会委員長 竹内 秀弥
当教会では毎月ニューズを発行し、主任司祭の巻頭言や司牧評議会からのお知らせを始めとし、教会の活動、信徒の皆様の動静などを掲載しております。
昨年4月に着任された主任司祭、晴佐久神父様は、この教会ニューズをできるだけ多くの信徒の皆様に読んでもらいたいと考えておられます。この意向を汲んで、司牧評議会としても、すべての信徒の手にこのニューズを渡す方法につき話し合いました。結論として、現在個人ボックスを持っておられる方々にはボックスにある3・4月号をできるだけ早く受け取ってもらうこと、そして残っているものは、郵送でお届けすることにしました。
その上、当面教会に来られてない方々には、今後も郵送にて届けることにしました。どうか皆様のご協力で信徒の皆様にこのニューズが行き渡るようにしたいと思いますので、よろしくお願いします。