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2010年3月号 No.439  2010.3.27

あなたも同じようにしなさい
晴佐久 昌英 神父
我が故郷の上杉鷹山に習って 竹内 秀弥
第1回セントマキシミリアンズカップ 黒田 憲二

あなたも同じようにしなさい

                           主任司祭 晴佐久 昌英

 先月のニューズで、2010年度の多摩教会のスローガンである「砂漠のオアシスとなる教会をめざして」に関して、「オアシスに行ったことがある人はそう多くはないだろう、もちろんわたしもそうだ」というようなことを書きましたが、なんと早速、本物のオアシスに行くという偶然に恵まれました。このたびの聖地巡礼旅行の途中、聖書の町エリコに寄ったのですが、そこは実は古代からのオアシスの町だったのです。聖地が荒れ野であるとは知っていましたが、そこに本物のオアシスがあるとは思っていなかったので驚かされましたが、期せずして大変良い黙想の機会となりました。

エリコはその温暖な気候と豊富な水のために古くから栄えた町で、紀元前7800年ころに人が住んでいたという遺跡があり、城壁を持つ世界最古の町とも言われています。海抜下260メートルにあって、世界で最も低い所にある町としても有名です。
緑豊かなガリラヤ地方からエルサレムを目指して南下していくと、乾燥して白茶けた荒野が延々と続きますが、エルサレムまであと25キロというところで、忽然と緑の町エリコが現れます。椰子の木が茂り、色とりどりの花も咲いて、それはまさに荒れ野のオアシスそのものでした。そこからは高地のエルサレムまでほとんど上り坂ですから、旅人は必ずこのエリコで休んだことでしょう。現在はパレスチナ自治区ですが、観光に力を入れているとのことで、街の入り口にカジノつきの壮麗なリゾートホテルを建設中でした。要するにこの町は、1万年前から今に至るまでリゾートだったというわけです。
イエスもエルサレムに向う途中、エリコに立ち寄っています。そのとき、イエスがエリコの町に入ろうとすると、道端の盲人が「わたしを憐れんでください」と叫び、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と願います。イエスは言いました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえてイエスに従います。(ルカ18・35−43参照)この幸いな盲人は、開いた目で、美しいオアシスの町エリコをどのような思いで眺めたことでしょうか。
そうしてエリコの町に入ると、罪人と言われていた徴税人の頭で、金持ちのザアカイという名の男が、イエスを一目見ようといちじく桑の木に登りました。イエスはその下まで来ると、ザアカイに声をかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは木から飛び降り、喜んでイエスを家に迎えました。おそらくご馳走を並べたことでしょう。人々は「あんな罪人の家に泊まった」と非難しますが、イエスは言います。「今日、救いがこの家を訪れた。わたしは、失われたものを捜して救うために来たのである。」、と。(ルカ19・1−10参照)現在もエリコの町のまん中に「ザアカイの木」と呼ばれるいちじく桑の古木があって、言われてみればまことに登りやすそうな枝振りで、当時を彷彿とさせています。
このあとイエスはエリコからエルサレムに上って行きますが、エルサレムでは祭司長や律法学者たちとの決定的な対立があり、そのまま十字架上で野死を迎えるわけですから、イエスと弟子たちにとって、エリコは最後の安息の地となったということになります。

 不毛の荒れ野の只中にある、いのちあふれるオアシス。そのイメージは、魂の世界でこそ輝きを放ちます。恐れと不信、争いと絶望の魂の荒れ野の只中に、神のことばが凛と響く。「見えるようになれ」「あなたの信仰があなたを救った」「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」「今日、救いがこの家を訪れた」。そのような福音のあふれるところこそが、現代のオアシスであり、人生の途上でだれもが立ち寄るべき救いの泉です。傷つき倒れている人、闇の底で死に掛けている人を見かけたら、何をおいてもまず、魂のオアシスに連れて行くべきです。
 有名な「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10・25−37)では、イエスはその舞台を次のように設定しています。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」
 その後の展開はご存知でしょう。通りかかった祭司もレビ人も、倒れているこの同胞のユダヤ人を無視して通り過ぎますが、日ごろユダヤ人から蔑視されていた一人のサマリア人だけが、彼を憐れに思って助け起こし、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱します。「エリコへ下っていく途中」のできごとというのですから、その宿屋はエリコにあると考えるのが自然でしょう。つまりこのサマリア人は、死に掛けていた旅人を、まさしくいのち吹き返すオアシスへ連れて行ったのです。
イエスはたとえ話をこう結びます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第1回
我が故郷の上杉 鷹山に習って
                                竹内 秀弥

 昨年10月、晴佐久神父様が記念講演をされた旭川の六条教会では、その教会報「めぐみ」の中に、「信仰の分かち合い」というコラムを設け、信徒の方々が交替でその記事を書かれている由です。そこで、我々もこれに習って、同じようなコラム記事を始めようということになりました。2月のニューズ編集の集まりで話し合い、今年度のスローガンである「荒れ野のオアシスとなる教会をめざして」と何か関わりのあるテーマを毎月取り上げることになりました。そして当然のようにトップバッターは私ということになりましたが、次回からは皆様交替でよろしくご協力ください。
 前置きが長くなりましたが、私は昨年NHKテレビの大河ドラマで放映された「天・地・人」で少しは有名になった山形県米沢市の出身です。昨年の春にはこの地で、前年の長崎での列福式を受けて、米沢で殉教された53名の列福記念ミサが行われました。以前からこの催しを待ち望んでいた私たち夫婦も参列し、380年前の往時を追想いたしました。新潟教区主催で行われたこの一連の行事が、カトリック新聞の一面トップに写真入りで詳しく載り、大変感激いたしました。
 そんな郷土をこよなく愛している私ですが、今年度のスローガンが決まったとき、すぐに米沢藩の賢人、上杉鷹山(第10代藩主)のことを思い出しました。鷹山(ようざん)は35才で隠居するとき、家臣にたいし「伝国の辞」を壁書にしてしたため、その最後に有名な「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」との和歌を添えたのです。この詩は、我々子供のころは、ごく一般の家庭の床の間や神棚に大切に貼られていて、学校の修身の時間でも、その時代背景や意味を勉強したりしたので、この年になっても憶えていたのでしょう。当時は、何事も一生懸命やれば出来ないことは無いのだくらいに理解しておりました。
 鷹山が米沢藩の家督を相続したのは、弱冠17歳のときです。九州高鍋家から養子に入った彼は、物静かで思慮深く、孝行心の熱い性格の持ち主でした。当時の米沢藩は、上杉景勝の時代に120万石の大大名だったのですが、政変などで15万石まで減らされ、そのため家臣の士気は衰え、民衆は働く意力も乏しく、土地は痩せ天然資源も底をつく、信じ難いほどの極貧状態で、彼の云う、まさに「灰の国」だったのです。
 そんな中で年若い鷹山のやるべき仕事は、まずこの状態に歯止めをかけ回復させて、やがてこの領地を人民のための理想の国にするということでした。72歳で一生を終えるまでに、江戸の大火による江戸屋敷の全焼、重臣たちの反乱、5年の長きに渡っての飢饉などの様々な試練を乗り越え、卓越したリーダーシップと人間味あふれる優しさで、美しくて、豊かな国に変えて行ったのです。
 かつて故ケネディ・アメリカ大統領が「ウエスギ・ヨウザンは、私の最も尊敬する日本人だ」と云ったとの有名な話があります。熱心なカトリック信者でもあった彼が、我々日本人でもあまり知らないこの日本人の名を口にした背景には、これまたクリスチャンとして著名な内村鑑三が書いた「代表的日本人」を読んでいたからだと云われています。その書では、「神の王国の到来を待つ間、それと良く似た王国が、この地球上のそれも異教の国、日本にかつて実現した話しを振り返るとき、西洋の知恵がもたらされる前に、この国(米沢のこと)は、すでに『和の道』を知っており、独自に『人の道』が実践され、『死を恐れぬ勇者』がいたのである」と紹介しているのです。
 鷹山の政治にたいする姿勢が「他人への思いやり」であり、己に対しては「自己犠牲を貫くこと」だと言い切っていて、彼のそのような思想が、故大統領を心服させたのだと思います。そして「何よりも大切なのは、人間が自分を変えることだ」と家臣に述べたのでした。

 現代に生きる我々は、古い考えへのこだわりを捨て、この事は変えられないとの思い込みを改め、神に信頼して一歩ふみ出すとき、「なせば成る・・・・」の詩の意味が、明日の生活に生きてくるように思われるのです。少し尊大な文章になってしまいました。
「荒れ野のオアシスとなる教会」をめざして、ご一緒にがんばってまいりましょう。

第1回セントマキシミリアンズカップ(サッカー大会)

                               黒田 憲二(桜ケ丘)

 記念すべきサッカー大会を3月22日に多摩市立図書館グラウンドにて行いました。
 私たちのチーム名を冠したこの会は、他チームとの親交・親睦を主とし、近隣4チーム・約60名が集まり、ケガ人も出ず(筋肉痛は数日にわたり出ておりますが)盛会に終えました。(結果は内緒です)
 チームの紹介をさせて頂きます。
 多摩教会の守護の聖人コルベ神父の名前をいただいたセント・マクシミリアンズの創設は2003年11月、キャプテンの高橋英海氏、監督の柴田悟氏を中心に毎月第一日曜日(4月は復活祭の為、中止)午後1時頃から夕刻まで練習、入浴、懇親会。宿里広太郎氏のデザインでユニフォームを作成し、(晴佐久神父様にもお買い求め頂き、感謝しております。)10歳から65歳まで計31人+αがひとつのボールをめぐり、親睦とアンチエイジングの為、活動をしております。
 私の参加は受洗前の2006年2月。日ごろの運動不足、情報交換、悩み事の解消並びに信仰の道の補正に役立てております。
 新しいメンバーも増え、どうすれば勝てるチームを創れるかが今後の課題です。メンバーは常時、募集中です。気軽にお声掛け下さい。最後に、メンバーを代表して、ひとこと。
私たちの活動を理解し、共に生活をおくる家族、特に妻には感謝と愛を込めて
『ありがとう。』

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