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2000年10月号 No.326  2000.10.14

「聞く耳を持ちたい」ある小冊子 宮下 良平神父
シニアの集いの開催について 井上 信一
シニア・クラブのフレッシュマン? 八巻 信生
シニアの集いに参加して 松本 和子

  「聞く耳を持ちたい」ある小冊子
                                 宮下 良平神父

 皆さん、「家族そろって祈る“祈りの三っの方法−」(ミラノのマルティーニ枢機卿著)を是非お読み下さい。
 何ケ月前にドンボスコ社から見本で送られてきたものでしたが、何気なく読み始めましたら、その冊子には祈りについての深い霊的な講話と指導が語られておりました。
 その冊子の初めには、マルティーニ枢機卿が体験したある家族との対話から始まっています。そして枢機卿は「家族そろって祈ることがありますか」と問われます。その問いに対する答えは、「いいえ」がほとんどという現実として返つてきます。それは私たちの家族も同様だろうと思います。では、なぜ祈らなければならないのでしょう。
 マルティーニ枢機卿は、その点に関して先ず次の聖書の箇所を挙げてお話を進められます。
『わたしたちに祈ることを教えてください』
                (ルカ11:1)
マルティーニ枢機卿は、こう述べられます。「これらの困難に対して執るべき最良の態度は、祈りを終えて喜びと安らぎを示しながら戻つてこられたイエスを見て、『主よ、わたしたちに祈ることを教えてください』と願い出た弟子たちのあの態度です」。
 そして、マルテイーニ枢機卿はイエスの弟子たちが求めた「祈りを教えてください」という心の発露にこそ、祈るということの本質と神が行う不思議さ、そして神からの恵みを受け取ることができるとおっしやいます。
 また、別の枢機卿の言葉を引用しています。「『多くの親たちが、家族が祈りを知らないこと、家族そろって祈る習慣が身につかないこと、家族でする祈りに参加するよう子ども達を説得できないでいることについて愚痴を言う。しかし、おそらくは、そのような賜物を与えてくださるよう、謙虚な忍耐強さと大いなる信頼を持って聖霊に願い求めたことは一度もないのではなかろうか』と。
 従って子供と共に唱える父親の祈り、母親の祈りは、神が驚くほど身近にいてくださる事実を経験するための絶好の機会なのです」。
 私たちの祈りというと、誰々のことや何かの希望が適うように願い事をすることが大半なのではありませんか。それが祈りだと考えているかもしれません。
 しかし、マルティーニ枢機卿は、祈りを次のように説明してくださいます。これは私たちの持っている「祈りとは」の理解を根底から揺り動かすような説明ではないでしょうか。「ある人物のことをよく知りたければ、その人についてのうわさだけで満足するわけにはいきません。その人と差し向かいで話し合う必要があります。相手についてある程度の概念を抱くためなら挨拶を交わすだけで足りる場合もありますが、とにかく会うことです。
 主との対話で特異な点は、初めのうちはわたしたちが神に語りかけていたと思っていたのに、いつの間にか話し合っていることに気づき、終わりには、祈るとは、わたしと対話をしてくださる神に耳を傾けることなのだと悟ることです」。
 祈りは、初めはいわゆる「願い」であっても、わたしと対話してくださる神、すなわち、わたしたちと共にいてくださる(インマヌエル)神に耳を傾けることに気づかせていただくという。
 もし、わたしたちが未だに気づかせていただいていないとするなら、せめて祈りということの新しい意味を受け入れてみてはいかがでしょうか。
 そして、マルティーニ枢機卿は、祈りの方法として次の三つを示します。
     1.祈祷文で祈る
     2.詩編で祈る
     3.みことばで祈る
 信徒の多くは、いわゆる伝統的に唱えられているロザリオや十字架の道行きなどをすれば祈ったと思っている傾向があるようです。しかし、それら以上に伝統的なのが、詩編とみことばではありませんか。しかも詩篇とみことばは常に私たちに最新な息吹を吹きかけます。そのことを私たちは今まで気づかず、または忘れているような気がします。
 わたしたちは、神からのことばに「聞く耳を持ちたい」と思いませんか。
 その思いを強く刺激してくれる小さな冊子です。どうぞ、熟読して祈りを実践してください。                             神に感謝。

      シニアの集いの開催について
                                   井上 信一

 敬老の日に因んで、当教会でも9月17日、主日のミサの後、シニアの集いを催しました。昨年は聖堂建設のため、この集いを行うことができませんでしたので、2年ぶりの集いでした。現在、当教会の信徒名簿には70才以上の方が75人おられます。その方々全員に案内状を送りました。その内、39名の方からご出席の返事をいただきました。当日の朝、あいにく台風の通過の影響で天侯が悪く、実際に集まっていただいたのは30名弱でした。70才から最高は92才の方まで、多少足腰に不安はあるものの、皆様元気な様子で信徒館に入っていただきました。
 宮下神父様の挨拶と乾杯で会はスターとしました。今年の料理は、量よりも質を重んじるということをモットーに、担当地域のご婦人方が前日から用意され、松茸とハモのお吸い物つき幕の内弁当がサービスされました。
 食事が一段落したところで、まず、献堂式で演じられました教会学校の子供たちを中心にした多摩教会の歴史を織り込んだ、ナレーションと歌による献堂のメッセージが、アレンジし直して、披露されました。献堂式に出席できなかったお年寄りの方々に、献堂式の感激を分かち合ってもらおうと思い、もう一度、語り、歌っていただきました。
 そして、シニアのメンバーでもある猪熊さんをリーダーとする5人衆の男声合唱団が登場し、懐かしい歌3曲(旅人よ、ユーアーマイサンシャイン、若者たち)を披露していただきました。そして、神父様にも、ご自分の好きな曲の一つと言われる中田喜直の 「心の窓に灯を」を歌っていただきました。アンコールの声も上がり、楽しい歌の一時でした。
 その後、ご出席いただいた方一人一人に、自己紹介を兼ねて、挨拶していただきました。日頃、お名前とお顔が一致しなかったり、なかなかお話し掛ける機会がなかった方々から、色々とお話を伺えて、良かったと思います。また、欠席された方のメッセージも紹介されました。病気の治療や、病後の療養に励んでおられる方々には、心からお見舞い申し上げると共に、主のお恵みがより豊かにありますように。
 皆様のご挨拶の中でも一人暮らしで、日頃、相談やお話の相手のない方が多いことも考えて、これから時々、このようなご年輩の方々が、ミサの後で、お互いに語り合える場を作ることを考えてみたいと、神父様から提案がありました。
 最後に、信仰の道での先輩である、シニアの皆様の益々のご健康と主の豊かなお恵みを祈念しながら、聖歌「あめのきさき」を歌って、散会となりました。
 歌や楽器の演奏、演出、それに沢山の食事の用意などにご苦労いただいた皆様にも感謝。
                                      

    「シニア・クラブのフレッシュマン?」
                            諏訪地区 八巻 信生

 あと2ケ月で71歳になる。朝、洗顔の時、鏡に映る己の姿を見て、“相変わらず老齢(とし)をとらないな”と、死んで水仙花に化身したギリシャ神話の“ナルキッソス”ばりに自惚れてみても、所詮、実・暦年齢の“老い”は秘かに迫っており、最近の体力の衰え、智力の減退は悲しい現実である。自らの「老い」を自覚せねばならないその 「時」が来たようだ。今年、9月17日、招かれて初めて「シニアの会」に出席した。いわば、シニア・フレッシュマンである。(有資格者となった昨年は、聖堂建設のため中止となった。)
 新入会員でもあり、自己紹介を求められたら、何か気の利いたセリフを、スマートな、ジョークをなどと、前夜いろいろと考えてみたが、日頃から、そんなキャラクターでもなし、無味乾燥な“つまらな男”のジョークなど、聞く人はただ“寒(さぶ)−い”だけなので、あるがままの“地”で行くことにした。
 平成12年5月14日、多摩教会本聖堂の献堂式、私以上の感概をもってこの日を迎えた人はいないだろう。創生から献堂まで、多摩教会の29年にわたる“旅”の日々の事を語り遺しておくことが、歴史の「語り部」の義務として、この一文を書き遺しておく。
 多摩教会の歴史は、多摩ニュータウンの誕生(1971年)から始まる。
 この年の春、入居した私は、この地のキリスト教会の所在を調べた。大栗橋際にプロテスタントの教会が一つあるだけ、勿論、カトリック教会はゼロ。「将来40万人(のち、修正されて31万人)都市となるN・Tへ教会建設の宣教計画はなかったのか?」 そんな疑問を抱えて、東京教区・濱尾補佐司教(当時、現在は教皇庁移住移動者評議会議長大司教)に会い、多摩への教会設置を陳情した。そして、その年12月26日、自柳大司教様を我が家にお迎えして、クリスマス・ミサが行われた。参加信徒は7世帯18人、周辺教会の主任司祭らも含めて26人。大司教による家庭ミサという画期的なN・Tでの初ミサであった。その時の信徒達の陳情によって、翌197 2年3月に初代主任司祭に寺西英夫師が任命され、同年5月22日、東京教区68番目の小教区として、「多摩教会」が正式に発足した。「聖堂のない教会」だった。信徒達は主日には各自の家を提供し、家庭ミサが捧げられて行った。「家から家へ」を「旅」になぞらえ、「主の聖名によって集う所が、教会」の聖句を心として、信徒達は、それぞれの「教会」に集まった。「旅する教会」が信徒達のモットーだった。しかし、誰の心にも「何時の日か十字架が輝く聖堂を!」の願いが秘められていたのだと思う。多摩市一ノ宮の1DKから東寺方の関戸ビルへ、さらに、大栗橘際の「シャンボール聖蹟桜ヶ丘」の「多摩教会」へ。主任司祭も寺西師から二代目小字佐敬二師、満留功次師(三代)、そして、宮下良平師(四代)へと変わった。
 今、考えてみると、執拗なまでに、主に「教会を求め続けて」祈り、そして与えられた。献堂式の説教で白柳枢機卿様が言われた「一人一人の心にある神の神殿」が具象化された多摩教会の聖堂が、旅する人々の心の灯台として50年後、100年後までも輝き続けることを祈りながら・・・

         シニアの集いに参加して
                             稲城地区 松本 和子

 大聖年の2000年9月17日は、あいにく雷雨の朝を迎えましたが、ミサの後、30人位のシニアが招待されて、「集い」が開かれました。
 お心づくしの数々のお料理、中でも圧巻は松茸とハモのお吸い物でした。一同、舌鼓をうって、美味しく頂きながら、日頃はゆっくりお話しできない方々とも交流が出来ました。いぶし銀の輝きのあるお元気なシニアから初参加の若いシニアまで、「主の食卓を囲んで」和気藹々とした宴も半ばをすぎた頃、「ぶっつけ本番」とは思えない5人の男性コーラス隊が、数々の歌を聴かせて下さり、宮下神父様は朗々と愛唱歌を歌って下さり、それぞれにアンコールをお願いしました。そして、教会学校の子供さん方が献堂メッセージ」を再現して下さり、感動を新たにしました。最後に自己紹介をして、「集い」は終わりましたが、ご病気などで欠席の方々は残念でした。お大事にして下さい。
 至福のひとときを神に感謝。
                                      (以上)

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