2013年4月号 No.476

発行 : 2013年4月20日
【 巻頭言:主任司祭 晴佐久 昌英 】


光と、ことばと、水と、パン

主任司祭 晴佐久 昌英

 ご復活おめでとうございます。新受洗者のみなさん、本当におめでとう。そしてすでに洗礼を受けられたすべての信者のみなさんに、改めて受洗おめでとうと申し上げたい。もうだいじょうぶです。みなさんは、神に救われました。
 
 洗礼式を含む復活徹夜祭は、4つの美しいシンボルで飾られています。
 一つ目は、光。
 光のない世界は考えられません。神は永遠の恩寵として光を創造し、限りない愛を持ってキリストを輝かせました。人を閉ざしているあらゆる闇を吹き飛ばすためです。
 司祭は復活のろうそくに新しい火をともすとき、高らかに宣言します。
 「輝かしく復活したキリストの光が、心の闇を照らしますように」
 みなさんの心にともった復活の光は、決して消えることなく輝き続けます。

 二つ目は、ことば。
 世界は神のみことばによってつくられました。そのみことばは、すべての神の子に「おまえを愛しているよ」と語りかけています。みことばであるキリストは、聖書を通して「おまえを永遠に愛しているよ」と語りかけています。
 神の救いの歴史と、主の復活の出来事が聖書で読まれたあと、司祭は説教において宣言します。
 「この救いの歴史は、みなさんにおいて完成しました。この主キリストは、みなさんのうちに復活しました」
 みなさんはみことばによってつくられ、みことばにおいて救われているのです。

 三つ目は、水。
 いのちの水、誕生の水、清めの水です。神から流れ出て、人を満たし、生きるものとする水です。みなさんは、「だれでも渇いているものはわたしのもとに来なさい」というキリストのもとに来て、この水に沈められ、この水から新たに生まれたのです。
 司祭は受洗者一人ひとりの名を呼び、水を注ぎながら宣言します。
 「わたしは、父と、子と、聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」
 みなさんはその時、ほんとうの意味で生きるものとなりました。

 そして四つ目は、パン。
 神の愛の目に見えるしるし、キリストのからだであるパンです。受洗者にとっては初聖体拝領となるこのパンを食べることこそ、神の子の生きる意味であり、キリストの家族の一致の実現です。まさに「このパンを食べる者は永遠に生きる」のです。
 司祭は一人ひとりにパンを示し、「いままでつらかったね、ほんとうに、ほんとうによかったね」という思いを込めて宣言します。
 「キリストの、からだ」
 みなさんはこのパンを食べ、ついに神とひとつになりました。

 繰り返し、万感の思いで申しあげます。
 「洗礼おめでとう!」
 これ以上におめでたいことは、この世界には存在しません。

【 連載コラム 】


連載コラム「スローガンの実現に向かって」第28回

「帰国中年が出会ったオアシス」

日野・野猿地区 渡邉 顕彦

 「帰国子女」という言葉がありますが、日本国籍ながらも外国で生まれ育ち、齢40近くなった最近ようやく帰って来た私は、「帰国中年」というのがよりふさわしいでしょう。その帰国中年がどのようにして多摩カトリック教会に辿りついたのか、以下書かせていただきます。

 私が帰国したのは震災直前ですが、洗礼はその1年ほど前、カリフォルニアにあるプロテスタントのバプテスト系教会で受けておりました。カトリックではありませんでしたが、この南部バプテストの教会でも霊的に成長させていただいたと感じているので、帰国後も当然プロテスタントの教会に所属すると思い込んでいました。

 ただ社会全体の宗教に対する見方、そして教会内の空気も、日本と米国では相当違います。最近、米国で日本人クリスチャンの支援にあたっている方から残念な話を聞きました。米国でプロテスタント教会に入った日本人は帰国するとそのほとんど、約8割が所属教会を見つけられず、信徒の集いから離れてしまうそうです。昨年初めの私も帰国後一年経っても所属教会が決められず、あせっていました。

 そこで、教会を離れるくらいだったらせめてカトリックも見ておこうと、(おかしな言い方で申し訳ありませんが)当時の私としては一大決心に至ったのです。幼少時私がカトリック信者が大多数の国、フィリピンにいたということと、成人してから幾人かのカトリック信徒の方々との出会いがあったということもこの決断の後押しをしていたかとは思います。

 まずネット検索すると多摩教会がカトリックでは一番自宅に近いとわかりました。そして多摩カトリック教会ホームページを見ると、入門講座を週に何度も開いているということで、外部への福音宣教も熱心に行っているということが伝わってきました。ただ最初に来た日には、洗礼式の直後で入門講座は開かれてなかったのですが、突然おじゃましたお祝いの席でも神父様や信徒の方々にも温かく迎えていただいて、カトリック教会は敷居が高いという今までの認識を改めさせられました。

 その後入門講座に通い、改宗(転会)もすませました。多摩教会は私にとってはオアシスでありますし、別なたとえだと温かいオアシス、つまり温泉でもあります。日本に帰って、寒い中とぼとぼと歩いていたら突然賑やかな温泉宿が目の前に現れてびっくりしたという感じです。日本的な良さがあり、でも決して閉鎖的にならず常に外部に開かれて成長している、そのような共同体が今の多摩カトリック教会だと思います。