2012年 7月号 No.467
ヨハネ・パウロ2世前教皇の故郷の町ヴァドヴィッチェを訪ねて一番驚いたことは、前教皇の生家が地元の小教区教会のすぐ隣の家だったことです。我が家の玄関を出たらもうそこは教会なわけで、カロル少年は毎朝、まず聖堂の聖母子イコンの前でお祈りしてから学校に行っていたそうですから、まさに将来の教皇を育てるには絶好の環境であったと言えるでしょう。わたしたちが聖堂を訪れた時も、ちょうどお昼のアンジェラスの鐘が鳴り響いて、ああ、パパ様も子供のころから朝な夕なにこの音を聞いて育ったんだなあと思うと、いっそう親近感が深まりました。
カロル少年は7歳のとき、母親を亡くしています。多感な年ごろ、どんなにさみしかったことでしょうか。そんなある日、父親は息子を連れて近くの巡礼地であるカルヴァリオの修道院を訪れると、有名な聖母子イコンの前に立たせてこう言ったそうです。
「カロル、これからはこの方がお前のお母さんだよ」
この一言は前教皇にとっては預言的な一言となりました。前教皇にとってまさに聖母はまことの母となって、彼は生涯聖母を慕い続け、聖母は彼を教皇職にまで守り導いたのですから。
今この修道院を訪ねると、ヨハネ・パウロ2世教皇が教皇に選ばれて最初にこの地を訪問した折にこの聖母子イコンの前にひざまずいて祈る写真が飾ってあり、前教皇の胸中を思うと胸に迫るものがあります。何を祈ったかは定かではありませんが、さしずめこんな感じではないでしょうか。
「ママ、ボク、教皇に選ばれちゃったよ。精一杯がんばるから、ママ、守ってね・・・」
この想像はあながち、的外れではないかもしれません。前教皇が世界平和のためにどれほど必死に努力したかについては誰一人異論のないところですが、それでも世界の情勢が悪化し、戦争が始まってしまい、市民が殺戮されるなんてことも現実にあり、そんなとき、身近な人は前教皇が涙を流しながらこう祈っている姿を目撃しています。
「ママ、ママ、何故!」
そういえば、ポーランドの巡礼地の土産物屋に大抵おいてあるヨハネ・パウロ2世前教皇の写真や絵の中に、聖母が前教皇を抱きしめている絵がありました。実際、今頃天国で聖母は自慢の息子を抱きしめていることでしょう。「よくがんばったね・・・」と。
ポーランドを訪れたら、ぜひ召し上がっていただきたいケーキがあります。その名は「クレムフカ」。上下二枚のしっかりしたパイ生地に、これまたしっかりしたカスタードクリームがたっぷりと挟まっている素朴なケーキです。カスタードクリームが大好きな身としては、これがクレムフカかと、大変おいしく、かつ感銘深くいただきました。なぜ感銘深いかというと、このケーキがヨハネ・パウロ2世前教皇の大好物だったからです。
それが明らかになったのは、1999年6月、前教皇がヴァドヴィッチェを訪問して生家の隣の教会前広場でミサをした折、前教皇は何気ない思い出話のつもりだったのでしょう、「小さいころ、この広場の一角のケーキ屋さんでよく大好きなクレムフカを食べたものです」と口走ったのです。そのケーキ屋自体はとっくに廃業していたのですが、さあ、大変。翌日にはヴァドヴィッチェ中のケーキが売り切れ、以降クレムフカは「教皇のクレムフカ」と呼ばれるようになって国中で大流行し、今やすっかりポーランドを代表するケーキになってしまいました。
今年2月に前教皇を慕ってローマを巡礼した折に、ポーランド人神父や神学生が寄宿する神学校を訪れました。そこはローマに住むポーランド人聖職者にとってはある意味で最もくつろげる「小さな故郷」なわけですが、そこの院長様が思いがけないことを教えてくれました。なんと、ヨハネ・パウロ2世前教皇が、ヴァチカンをお忍びで抜け出して、宿舎のポーランド人シスターが作るクレムフカを食べに来ていたというのです。
それを聞いてますますあのパパ様を身近に感じましたし、ぜひ食べてみたいと思ったのでした。そして、このたび実際に食べながら思ったのです。ああ、きっとパパ様は小さいころ、広場のケーキ屋で、このケーキをお母さんと一緒に食べたんだろうなあ、と。
心労の絶えない激務の中、お忍びで食べに来たクレムフカは、ママの味だったのかもしれません。
【 投稿記事 】
7月14、15日の週末に、三線(さんしん 注記*参照)教室の仲間たちと、福島県の南相馬に「三線とフラダンスのライブ」をしに行ってきました。
土曜の朝7時36分東京発の新幹線に乗車。家が郊外にあるので、起きたのは5時前。今回は三線と衣装もあるので、それはもう大荷物です。福島までは2時間ほどで到着したけれど、バスの便がとても少なくて、福島駅から1時間待って高速バスに2時間乗りました。東京から南相馬まで片道5時間の旅。メンバーは三線スタッフ6人、フラチーム2人、総勢8人でした。
2日間で5カ所の仮設住宅の集会所を回り、10曲ほどの歌と踊りでたくさんの笑顔をいただいてきました。私は主に客寄せ(ライブの前に仮設住宅の間を三線を弾きながら宣伝して回る)と、ライブでは「安里屋ゆんた」、「花」、「島人ぬ宝」の歌と三線、そして、「鳩間の港」の踊りを担当しました。
今回すごく驚いたのは、私たちは三線教室の生徒で、素人の集団であるにも関わらず、相馬の人たちがすごく喜んで迎えてくれ、一緒に歌って踊って、「楽しみに待ってた」、「すごく楽しかった」、「また絶対来てくださいね」、「癒された」と口々に喜んでくださったことです。すべての集会所で20人以上の方が集まってくださり、毎回満員御礼。2日間で100人以上の方たちに参加していただくことができました。
「遠くから来てくれてありがとう」と感謝され、本当にこっちのほうが「心からありがとうございました」と言わずにはいられない気持ちになりました。礼儀正しくて、我慢強くて、原発のために自宅に帰れなくても笑顔を絶やさない相馬の方達に、たくさんのエネルギーをいただきました。歌うのが本当に楽しかった。行って良かったと本当に心の底から思いました。メンバーたちもレンタカーの荷台(通称ドナドナ)で「喜んでもらえて良かった〜!!」と興奮気味です。
しかし、今回のツアーを企画してくれたメンバーが、1日目のライブが終わったあとに、私たちを海まで連れて行ってくれたときのことです。海辺が近づくにつれて、私たちは言葉を失っていきました。
震災が起きてから、もう1年半近くがたとうとしているのに、壊れた防波堤。寸断されてねじりあがった道路。折れた防風林。曲がった信号、看板。中身がむき出しの家。地盤沈下のために、残った防波堤の中から引かない水。そして、一面の野原。そこにはきっと、かつてたくさんの家や畑、田んぼなどがあったのでしょう。でも、今はただ、一面の野原。津波に飲み込まれて何もなくなった大地。震災と津波の傷跡をまざまざと見せつけられて、「ああ、まだ全然終わってない。支援はずっと必要なんだ」と実感することができました。
海辺で「花」をそっと歌って、十字を切り、祈りを捧げてきました。この海で亡くなったたくさんの魂のなぐさめに少しでもなることを願って。
仮設住宅の皆さんは、明るくしていらしたけれど、「相馬にはボランティアの人が他よりも来てくれない。放射能を怖がって、なかなか来てくれない。だから、あなたたちが遠くから来てくれて、すごくうれしい」とおっしゃっていました。
自分たちの無力さと、でも歌の持つ力と、人々の生きる力、自然の脅威。いろんなことを感じることのできる濃密な2日間でした。この先の私の人生に、大きな足跡を刻んだに違いない2日間でした。
すべてのライブを終えて、南相馬のバス停でバスを待つ1時間ほどの間に、地面にシートを広げて乾杯をしていると(笑)、道行く車や人々に大爆笑されました。教室のメンバーとも、いろいろ話せて楽しかった。でも何より、あの仮設住宅の皆さんの笑顔に、必ずまた戻って来ようと強く思いました。
家に着いたのが深夜で、大荷物なのに満員電車でクタクタ、翌日は半日寝たきりでしたが、すばらしい旅でした。
わが多摩教会の皆さんも、まだ被災地に行っていない方は、可能ならばぜひ自分の目で見てきてほしいです。私自身、恥ずかしながら震災後1年が過ぎて、樽献金が封筒での献金へと移行し、御ミサの共同祈願の祈りが通常のものに戻って、いつの間にか、ある程度の区切りがついたように思っていました。でも、本当は何も終わっていないし、何も解決してはいないのです。現地の空気に触れ、人々と話して、自分の目で見て初めてわかることもあると思いました。そして、「継続した息の長い支援をずっと続けていけたらいいな」と、心から思いました。
注:三線(さんしん)は、弦楽器の一種。沖縄県および琉球文化(沖縄音楽)を代表する楽器である。