聖コルベ神父と遺品

 コルベ神父は1894年ポーランドで生まれました。
 16歳のときコンベンツアル聖フランシスコ修道会に入り、18歳のときローマのグレゴリアン大学に派遣され、 1918年に24歳の若さで司祭に叙階されます。
 その翌年ポーランドに帰り、「聖母の騎士信心会」の活動を開始しました。

 1930年にはゼノ修道士(1898-1982)ら5人とともに来日し、長崎に聖母の騎士修道院を創設して、印刷所を開きます。そして、月刊誌『聖母の騎士』を発行するなど宣教活動に励み、多くの人びとに影響を与えました。『聖母の騎士』は現代でも多くの方々に読まれています。

 1936年、コルベ神父はポーランドのニエポカラノフの修道院長に選任され、日本を去ることになりました。

 1939年、ナチスドイツ軍のポーランド侵攻が始まり、1941年、コルベ神父は、反ナチ的との理由でゲシュタポに捕えられ、アウシュヴィッツ強制収容所に送られてしまいます。同年7月、コルベ神父と同じ班の囚人から逃亡者が出て、収容所長は見せしめのため飢餓牢に送る10人を無差別に選びますが、ひとりが妻子との離別を嘆いたとき、神父は、妻子あるその人の身代わりを申し出ます。そして「死の地下室」と呼ばれる飢餓牢での死に至るまで、他の仲間を励まし、支えて、臨終を見送りました。

 そして2週間後、コルベ神父を含め残った4人に死を早める注射が打たれ、天に帰ることとなりました。8月14日、聖母被昇天祭の前日、47歳でした。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15-13)というキリストの愛を実践した現代の殉教者といわれています。

 1971年には教皇パウロ六世により列福され、1982年教皇ヨハネ・パウロ二世は、「福者マキシミリアノ・マリア・コルベを聖人と宣言し、殉教者として崇めるよう定める」として「聖人」の列に加えました。

 1994年8月14日、聖母被昇天の前日に多摩教会の信徒館(仮聖堂)が落成。新しい教会は、折から聖コルベ神父の生誕百年を迎える時期にあたり、この最も新しい現代の聖人を保護(守護)の聖人としていただくことになりました。
 教会には、「聖コルベ神父の遺物」が安置され、崇敬の念を集めています。
 この遺物は長崎でそられた顎ひげで、ポーランドの修道院に保管されていた一部をいただいたものです。

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