【 巻頭言:主任司祭 豊島 治 】
1月も半分が過ぎ、時の流れの速さを感じている方もおられます。外気温も高めが続き、インフルエンザを含め風邪もはやっているようです。ご自愛ください。
教会の組織は12月が年度末ですし、今年の多摩教会行事予定は、2月に総会を行うことになっていますので、今の時期、雰囲気的に、どうしても組織運営的なものに気持ちが流されてしまうのは、致し方ないのかもしれません。私の関わっている教区管轄の任務のうち3組織が、その年度末の作業に忙殺されてしまっているので、後ろ向きな気持ちに引っ張られます。
教会のカレンダーはそんな気持ちとは離れて、1月はクリスマスの祝いの続きから始まっていました。1月5日の降誕節の終わりが来ると、12日、主の洗礼を祝い、私たちの立ち位置を確認しました。その後からは、キリストと我々の関係を探索する年間主日が挟まれます。
年間期間中の2月11日、ルルドの記念日があります。全世界の教会はこの日を「世界病者の日」としています。ルルドのマリアについては、多くの著書やウェブページが存在していますので、語るまでもありません。病者の日の選定については、教皇ヨハネ・パウロ2世が、病気の苦しみに関する教書に当たるものを布告した上で、決まりました(※1)。ですので「病者の日」の第一義は、病気にある人の癒やしを求めます。ミサをはじめ、行きたいところに赴くことができないその人たちも、大勢います。
そして、関係する医療・施設・家族などと共に、病者の十字架を共に担うことで、疲労している人々、癒やしを求める方々のために、願いを捧げます。私も近年、齢を重ねた母のキーパーソンとして、医療機関との折衝で困り、しんどさを感じることがあります。多くの方がそのさなかにいます。どうしても抱え込みがちな状況にある方々に、力を与えられる祈りがあるとするなら、特にこの日でしょう。
また、身体的な外面でわかる困難を抱えている人と、内面に抱えている人もいることにも意識して祈りを捧げます。困難を抱えている人が集まるのが教会なのですから、互いに助け合いの意識を持つことになります。温かなものを体感したとき、心の頑なさが柔らかくなり、苦しんだ分、苦しむ人のために、何かできることはないかという気持ちに向かいたいものです。互いの困難さに思いやりの心を寄せ、その程度に応じながら、具体的に、支え合って生きていくことができるように、慈しみの主の導きを願いましょう。
教皇フランシスコは、2020年の病者のミサのテーマとして、“Come to me, all you who labour and are burdened, and I will give you rest” (Mt 11:28) 、「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」 を掲げられました。日本語訳は、まだ世に出ていませんが、なぜ、イエスはそのような言葉を発せられたのかの文章が続いているようです。バチカンのウェブサイトから各国語版がでています(※2) 。
病気などで通常の社会活動ができず、歯がゆい気持ちになっておられる方も大勢います。教会みんなで、そのことを思うことは当然です。
その上で教会のミサにおいて、私たちは招いてくださったイエス様の本意を探求しながら、典礼を過ごしていくという視点も、忘れないようにしましょう。ミサに居ることを漫然としているのではなくて、イエス様は私の一週間の生活内のどこをご覧になって “Come to me” と呼ばれているのか、そうすると自分がミサに来ている意味が深まると言えます。
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【 参 考 】
(※1)「病者の日の選定については、教皇ヨハネ・パウロ2世が、病気の苦しみに関する教書に当たるものを布告した上で、決まりました」
教皇ヨハネ・パウロ2世は、1984年2月11日(ルルドの聖母の記念日)に、使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス(苦しみのキリスト教的意味)』を発表し、翌年2月11 日、教皇庁医療使徒職評議会を開設。1993 年には、この日を「世界病者の日」と定め、以降、歴代教皇は、毎年メッセージを発表している。全教会では毎年この日に、病者と、かかわる人たちのために祈りが捧げられている。
・ 諸文書:「世界病者の日 教皇メッセージ」(カトリック中央協議会)
・ 使徒的書簡:内山恵介訳「サルヴィフィチ・ドローリス(苦しみのキリスト教的意味)」(出版社:サンパウロ、1988/3/1)(Amazonでは>こちら)
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(※2)「バチカンのウエブサイトから各国語版がでています」
・ Messages World Day of the Sick:「MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS
FOR THE XXVIII WORLD DAY OF THE SICK 2020 2020/2/11」(THE HOLY SEE)
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【 連載コラム 】
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第105回
ひとしずく
「Agnus dei」
Agnus dei, qui tollis peccata mundi
miserere nobis.
Agnus dei, qui tollis peccata mundi
dona nobis pacem.
指揮者の棒がそっとおろされる。静かに静かに最後の音の余韻が消えてゆく。聖堂に広がる感謝と平和と安堵の中に、私たちは包み込まれた。
多摩教会混声合唱団(ぶどうの実)では、毎年「祈りと聖劇の夕べ」で合唱を披露しているが、今年度は初めてラテン語のミサ曲に挑戦した。
シューベルトの「ミサ曲第2番」。彼が18歳の時に作曲した美しいミサ曲である。(ちなみに、かの有名な歌曲「魔王」も同年に作曲されている。)
複雑な和音やリズムはほとんどない。それだけに青空のような澄んだ響きが求められる。
団員一同必死に練習した。が、数々の困難が待っていた。怪しい音程やハーモニー、口がまわらぬラテン語、おまけにインフルエンザ・・・。本番、大丈夫か!?
そのうえ何とも恐ろしいことに、今年はソロもある。しかも数曲! あまり動じなさそうに見えるらしい私でも、やはり恐ろしいので、まじめに練習してみた。当日声が出なくなってしまったらと考えると、とてつもなく恐ろしいので、体調管理も万全にし、のどに良い蜂蜜のお世話にもなった。
そして迎えた本番。大きなミスもなく、合唱もソロも心を一つに練習以上に歌い、「アニュス・デイ」を残すだけとなった。うん、なかなかいい調子、決して悪くない。しかし、自分としては、何か大事なものを置いてきたような気がしてならないのだ。
あと1曲。一番難しいソロがある。伴奏が始まり前に出た時、ふっと忘れ物が降ってきた。
「この曲をお捧げします。」
小学生の頃に読んだ本で、今でも忘れられない話がある。アナトール・フランスの『聖母の軽業師』という短編である。確かこんな話だった。
「純朴で敬虔な軽業師バルナベは、ふとしたことで修道士となる。修道院では、修道士たちがそれぞれの能力を発揮して聖母への信仰を表していた。本を書いたり、音楽を創ったり、絵画を描いたり、彫刻を彫ったり、詩を詠んだり。
そんな中でバルナベは次第に嘆き悲しむようになる。自分には何もできない、と。
しかし、やがてバルナベは一人聖堂にこもるようになり、表情も明るくなっていく。何をしているのか不思議に思った修道士たちが聖堂を覗いてみると、バルナベは彼ができる唯一のこと、曲芸を祭壇の前で一心不乱にやっていたのだった。
驚き、やめさせようとする修道士たち。しかしその時、聖母が祭壇から降りてきて、衣の裾でバルナベの額の汗を優しくぬぐった。」
この話を読んで、なぜだか涙がこぼれた。そして、子供心にも感じ取った。バルナべの汗のひとしずくは尊い。自分のできることを、ただひたむきにひたすらに捧げるその生き方は美しい、と。
きっと私は“歌って”いた。うまく歌おうとしていた。もちろん人前で演奏する以上、技術を磨くことは必要だが、一番大切なことは、歌は祈りであること。
きっと、音楽への感性は研ぎ澄ませるものだろう。でも、それだけではない。柔らかく満たされていく祈りでもある。それが、これからも教会で私たちが歌い続ける意味だと思う。
バルナベのような生き方はできないかもしれない。でも、私は私の“ひとしずく”を捧げよう。大河のほんの一滴にすぎないけれど。それでも、いつかきっと大海に注ぎ、恵みあふれるその一滴になれる、そう信じて。
※ 最後になりましたが、「祈りと聖劇の夕べ」の出演者やスタッフの皆さん、会場にお越しいただいた皆さん、そして支えてくださったすべての皆さんに心から感謝いたします。本当にありがとうございました。
【 お知らせ 】
1月3日が初金の日となりました。初金ミサは幼児洗礼式を含めた式次第で行われました。
今年の初金家族の会は、従来の自由な対話に加え、「初金の福音を語る」との要素を入れてみたいと考えています。
ルカによる福音書15章には三つの寓話があります。そのなかのコインの寓話は、一日の生活のための必要なコインを無くしたが、捜しだし、喜んだとの話ですが、最後の神の使いたちの間に喜びがあるとの所と繋がりが直接的なものでない感じです。しかし、ここでコインを、一日を生きる大切なもの、明日を生きる希望と捉えると、灯火は神様の光、福音と捉え、家中を掃く心を覆う思い込み、不安、欲望などを取り去り、赤子のような無垢の透明な心でもって、「捜す」は祈る、希望を捜し出すまで祈ると解釈します。すると、コインを捜し出すことは明日を生きる希望を見いだすことと解釈できて、罪を離れ、神の使いたちの喜びにも繋がります。ここで、希望を捜す神による光を明るいものとしなければ、捜し出すのは難しくなります。
初金の福音、心に残る聖書の言葉、教皇、聖者、回勅、説教の言葉などを語り合い、分かち合い、心のなかの神の光を輝かせたいと思います。希望は信仰と言えるほど深い関わりがあります(教皇ベネディクト16世回勅「希望による救い」)。ヨハネによる福音書では、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている(ヨハネ1.4-5)」と、神と命と光の関係を示しています。光の中に希望を見出したとき、その喜びを人々に話したくなるものと聖書は示しています。
初金家族の会は初金ミサの後、10時ごろより信徒会館で予定しています。初金ミサに出席される方は初金家族です。心ある方の参加を期待します。