6月号で、「ここヤシの家」の小聖堂建設へのご協力をお願いしましたが、おかげさまで目標額も集まり、このたび献堂の運びとなりました。ご協力くださった皆様に、心より御礼申し上げます。
小聖堂は600坪の敷地内の、もっとも海に近い最高の場所に建てました。
室内12畳ほどのスペースに、同じ広さの屋根付きテラスが張り出していて、サッシの戸を開け放つと24畳の一つの空間になるようになっています。
テラスの数メートル先はもう海で、大潮の満潮の時はテラスのギリギリまで水が来ます。ここは湾の奥深くで、どんな嵐の時でも波が立たない絶好の立地にあるために、そのような設計が可能なのです。
このテラスの先端に祭壇を置いて、会衆は海を眺めながらミサに与れるようにしました。海全体が聖堂であるというイメージです。そう感じさせるために、テラスの先の波打ち際に高さ2メートルの丸太の十字架を立てました。司式司祭の後ろにこの十字架が立っていて、その先に、南の海独特のエメラルドの海が広がっているというわけです。
室内は総杉板張りで、木の香に満ちていて、とても気持ちが静まる空間です。
片側の壁に、イコンの祭壇を設けました。このたび安置したイコンは、かつてロシアのサンクトペテルブルグの専門店で買い求めたもので、正式の修道士が描いたものであるという証明書が付いています。イエスさまが聖書を開いて手にしている絵柄で、開いているのはマタイ福音書11章28節の、次の箇所です。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
実際に、この8月に行われた「心のいやしを求める青少年のためのキャンプ」では、このイコンの前で涙を流す参加者もいて、まさに「ここヤシの家」にピッタリのイコンです。
オルガンも置きました。昔懐かしの足踏みリードオルガンで、とても優しい音が出ます。海辺の聖堂にお似合いの暖かな音色で、聞いていると本当に心いやされます。
建設してくれたのは隣接地の海宿のご主人で、この海宿には15年来お世話になっています。ご主人は漁師であり料理人であると同時に大工でもあり、海宿自体も彼が自分で建てたものです。
彼の情熱と優しさ、そして本物を見極めるセンスにはいつも感心させられますが、このたび出来上がった小聖堂を見て驚かされたのは、周囲にびっしりと無人島の白い砂利が敷いてあったことです。彼がわざわざ船で運んで来て敷いてくれたのです。ぼくがあの無人島の白い浜をどれほど愛しているかを知っているご主人からの、最高のプレゼントでした。
無人島とは天地創造そのままということであり、まさに人の計らいを超えた神のみわざを体験する場です。白い砂に囲まれた聖堂はそんな聖なる気配を漂わせていて、そこで捧げられるミサがどれほど尊いかということを、おのずと物語っているのでした。
ご主人は、これを建てるにあたって、三度、「神の声を聞いた」そうです。出来上がった聖堂を見て感激しているぼくに、彼は言いました。
「これは、神さまから晴佐久さんへのご褒美だよ」
先日の中高生のキャンプ中、8月2日の主日ミサが献堂式ミサとなりました。その日の福音書の箇所はヨハネ福音書の6章で、イエスが人々にこうお話になるところです。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」
【 連載コラム 】
先にいるものが後になるも神の国へ
信仰は聞くことに始まり、聞くことに尽きるとの言葉があります。
聞くことは神の言葉を聞くこと、神の言葉を聞くことは、神父様の言葉を聞くこと。このような思いに至ったのは、「多くの先なるものは後に、後なるものは先になるべし」との聖書にあります。多くの先なるものとはまさに、思い切って手放せないものを抱えた頭でっかちな自分ではないか。「読書100回、意自ずから通ず」という言葉があります。100回神の言葉を聞けば、福音を体得できるのではないかと、ミサに通いました。
そろそろ100回になりそうです。それで何が変わったか自問しました。心の方向が、聖書を字面で読んでいた、2次元の世界より、3次元、4次元、5次元(聖霊)の世界に広がる次元を超えた透明、普遍なものを感じるのです。
聖書講座を受講して字面での独り善がりとは内容、解釈、感じが異なり、初心者であることをあらためて感じています。毎回新しい発見があります。
庭の雑草を見ています。雑草の花をみて、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていないとの言葉を思い出します。花、蜜を吸う蜂、蝶、蟻、神の創造した世界に浸れます。バイオミメテックスなる自然の生物の機能を人工的に再現しようとする学問があります。人工的には、蜂の動きさえ神の技に及びそうもありません。野の花はどうして美しく見えるのでしょう。ものを見るのには目と視神経、脳、目よりの情報を解釈する心が必要です。 神はアダムを創造された時自分に似せ造られたとかいてあります。雑草の花を見ている自己の目と視神経、脳、心も神に似せられているのかなと。思いつつ、無心に凝視していると神様もこんな感じで見ていたのではと不思議な感覚になりました。
その夜、初めて天然色の夢を見ました、川辺を歩いていると九厘草、すみれ、シャガなどに似た花が群生しているところがみえました。その鮮やかさ、美しさ、かぎりない透明感はいままで経験したことないものでした。少し見とれ、写真でもとおもい、家にカメラを取りに行こうとしたところで、道がわかなくなり、白黒の夢に変わり、目が覚めました。主が神の国のオアシスをすこしだけお示しになったのでしょうか。この夢の後、主が、身近に感じられるようになりました。神に似せて創造された体と心に聖霊が働くのかもしれません。
日曜日のミサに通うようになって2年近くになります。多摩教会のミサは独特のものを感じます。晴佐久神父演出、主演、信徒全員参加のミュージカルです。入祭のミサ曲にはじまり、聖体拝領にいたるまで、参加、演じていることを実感します。毎回のミサが晴佐久神父様の一つの作品です。ミサは一つの式ですから、洗練された典礼の形式には歴史の重みを示します。祈りと信仰の場として厳かさを感じさせます。
一番後ろの席で耳の少し悪い私にも説教ははっきりと聞こえ、巧みな採光で、明るいのはこの教会の特徴で、神の国のオアシスに近づけそうな気がします。
主の平和につつまれ、限りなく透明な永遠の命を感じ、一週間を過ごすことができます。
神に感謝!
【 お知らせ 】
9月4日(金)、初金のごミサのあと信徒会館で午前11時頃から1時間ほど、稲城地区の竹内博年さんから地球の裏側、ブラジル国在勤7年間の貴重なご体験、日系ブラジル人のめざましい活躍ぶりなど数々の思い出話を伺う予定です。
どうぞ気楽な集い、初金家族の会にご参加ください。