多摩カトリックニューズの第428号の巻頭言に、その月に着任した神父のあいさつ文が載っています。タイトルは「はじめまして」で、「私は多摩教会の信者さんとの出会いを、神のはからいと信じています」と、初々しく書いています。2009年4月号です。(こちら です)
言うまでもなくその神父は私ですが、あれから丸6年。初々しさは図々しさに変わり、私としては最長の7年目に入ったわけですが、12か月×6年ということで、今まで72回の巻頭言を書いたことになります。(1回だけ、海外にいてサボった記憶がありますが)
その72回目は、428+72=500で、ちょうど500号になりました。
この記念すべき数字は広報委員たちの地道な努力の積み重ねの実りであり、私が来てからの6年間を見ただけでも、委員たちの情熱と工夫によって印刷はカラーになり、ページ数も発行部数も増え、今では巻頭言を始め内容の一部がホームページにも載るようになりました。
6年前に、このようなニューズの姿を正確に予見した人がいるでしょうか。いつだって未来は想定外です。神の御計画はだれにも分かりません。ということは、今後の未来も間違いなく想定外だということです。第1000号を迎える時、このニューズは一体どのような姿になっているのでしょうか。およそ40年後です。まさかこの世から紙媒体は消え失せてはいないと思いますが、メディアの進歩は加速度を増していますし、はたして我らが多摩カトリックニューズが、そのころどのような姿かたちになっているのか想像すると、ちょっとワクワクしますね。
40年ほど前、多摩教会のそれこそ初代教会時代に、初代主任司祭の寺西英夫師を慕って集う青年の一人として、私は頻繁に多摩教会に出入りしていました。師が巻頭言を書いていたこのニューズも、当時からよく読んでいたものです。物事の本質を突く内容と、分かりやすく簡潔な言い回しは、今でも私の文章のお手本です。
2010年1月の第437号にも書きましたが、その後神学生となった私は、寺西師に頼まれて、第1号から第117号までの巻頭言をまとめた本「荒れ野から」の装丁をしたこともあります。その本の175ページ(第79号)には私の父へ追悼詩が載っていますし、228ページ(第104号)には、神学生として私の名前も出て来ます。それがいまやこうして記念すべき第500号の巻頭言を書いているのですから、このニューズとは縁浅からぬ仲ということになります。
改めてこの多摩カトリックニューズを振り返ると、それは多摩教会の歴史そのものであり、多摩教会という「からだ」を持ったイエス・キリストの働きそのものであり、それこそ、聖書のように繰り返し読まれてもいいテキストなのではないでしょうか。
創刊第2号で、寺西師はこう書いています。
「(教会は)あくまでも、『キリストから受けたものを伝えて行く』サービスとして存在意義を持っている。だからその第一の務めはコミュニケーションにある。わたしたち多摩教会のこれから作られて行く組織も、その点を見失わないようにしたい。そのためにも、この『多摩カトリック・ニューズ』を大切にして行きたい」
第500号で、主任司祭はこう書きくわえたいと思います。
「みんなで大切に守り育ててきたこの『多摩カトリックニューズ』を、今まで以上に、さらに大切にして行きたい」
【 連載コラム 】
創刊500号に寄せて
多摩カトリックニュースが1972年6月に創刊されてからこの4月号で500号になる。私自身創刊2号から何回か発行のお手伝いをさせていただき、その後を受け継いでくださった方々の努力によって、40数年をかけて500号に達したことは大きな喜びでもある。当初はタイプ印刷を依頼していたこともあり経済的な問題で隔月発行ということであったが、今では広報部の皆さんの努力により毎月ニュースが私たちの手元に届くということは素晴らしいことだと思う。
多摩教会が教区から認可されたのが、72年5月だから教会発足とともにニュースも発行されたことになる。このことは多摩教会がニュースを必要とし、教会の本質的な部分をニュースが担っていたことだとも思う。
福音書の中で教会を表すギリシア語は「エクレジア」だそうだ。この言葉の本来の意味は「呼び出された者たちの集会・集まり」の意で、建物だとか教えるという意味はないのだそうだ。多摩教会が教区から認可される前の年(1971年)、白柳大司教(当時)をお迎えして信徒の家庭でニュータウンでの初ミサが行われた。ミサ後、この多摩の地に「教会を」という私たちの要望に対して「教会は建物ではありません。私の名のもとに二人、三人集まるところが教会です。」と話された。まさに、教会の本質が集まりであることを、最初に私たちに話しかけてくださったのである。
翌年(72年)、建物も司祭館もないまま、3月主任司祭が決まり、5月には教会として認可された。教会の本質が「集まり」であるとはいえ、今から考えると東京教区もずいぶん大胆な決定をしたと思う。なぜなら、その時建物を建てる土地購入などの計画は全くなかったからである。ともあれ、多摩教会が認可されたという喜びと同時に集まる場所を確保する必要があった。それが家庭ミサであった。また、クリスマスや被昇天などの多くの人が集まる時には農協などの公的な施設お借りすることであった。
多摩カトリックニュースの創刊号は6月であったが、発行を急がなければならない理由はミサの行われる場所を、皆様に知らせる必要があったからである。月2回の家庭ミサだったから、2カ月分4枚の地図が創刊号の最終頁を飾っていた。主日のミサに欠席された方はニュースを見て、次の集まりがどこで行われるのかを理解したのである。そのため欠席された方にはニュースを届ける必要があった。当時の信徒たちは手分けして各家庭に届けたのである。ニュースが前述したように「集まり」の大切な役割を担っていた、というのはこのことある。その意味からすれば 教会の本質である「集まり」を現実化するため、ニュースを利用したのである。もっとも、根源的な所に「呼び集められた」という部分はあるにせよ、ニュースを利用し「集まり」を現実化出来たのである。
また、そのニュースを届ける、という行為も教会を創設していった、といってよいと思う。なぜなら「集まり」の中の人間関係はこのことによって、即ち、他の信徒と関わることによって、深くなった、といってもよいと思う。
今後、ニュースは1000号に向けて、発行されていくのであろう。もう、地図を載せることはなくなった。しかし、今も信徒全員にニュースは届けられている。それによってニュースが私たち多摩教会のひとりひとりを結んでいる。そしてエクレジアとは「集まり」をその度ごとに確認していきたい。
【 創刊500号記念特集:1 】
歴代主任司祭からのメッセージ
1.初代主任司祭 寺西 英夫神父(現在・ペトロの家)
多摩カトリックニューズが500号を迎えるので、何か思い出を、という依頼が届いてこの一ヶ月、わたしの心の中は、あの多摩教会創成時代の思い出が駆け巡っています。
1972年5月22日、まだ土地も聖堂も何もない中で、多摩教会の初代主任司祭の任命を受けました。
多摩ニュータウンへの入居が始まり、転居してきた信徒たちが連絡を取り合い、諏訪の八巻さん宅に20人近くが集まって、白柳大司教を迎え、最初のミサが行われたのが前年の12月26日。それから半年足らずでのこの人事は、万事スローなわがカトリック教会としては、異例のことでした。
そして、新教会設立発表から、わずか2週間後の6月3日に、この多摩カトリックニューズ第1号は発刊されているのです。これまた異例の早さと言えるでしょう。何しろ、主日のミサは有志家庭の持ち回りで行われるので、人びとはこの「ニューズ」最終ページに記載されている地図入りの主日ミサ開催家庭日程表を見ながら集まるのですから。それは当然のことだったのです。
今から43年前といえば、なんとわたしは42才でした。そういえば多摩教会創成に関わった男女の侍たちは、みな30代、40代の働き盛りでした。「70年安保闘争」後の挫折感にもめげず、ひたすら高度経済成長を目指す日本の進路には「そのまま身をまかせるわけには行かないぞ」という感性をもって、新しい教会づくりに燃えていたのだとつくづく思います。
何かが確実に、わたしたちの背中を押していたのです。
その「何か」 —復活のキリストの力、聖霊に他なりませんが— は、今も、ますます力強く、多摩教会を押しつづけています。
それを伝えてくれる「多摩カトリックニューズ」500号、おめでとうございます。
2.第2代主任司祭 小宇佐 敬二神父(現在・ペトロの家)
「多摩カトリックニューズ500号・特別号」への寄稿依頼を受けて、感慨と同時に困惑に陥りました。カトリックニューズに自分が書いたことを全く思い出せないのです。八巻信生さんの姿はすぐに浮かんできました。しかし「ニューズにまつわる思い出」となると、困ってしまいました。多摩教会についての思い出は多々ありますが、「カトリックニューズ」となると…。
頸椎の手術をしたのが1991年12月でした。術後の休養で、多摩教会を去ることになったのですが、その後さらに93年に交通事故に会い、永山の日医大病院に運ばれ、入院してしまいました。その折にも多摩教会の方々には随分お世話になりました。痛いことや辛いことにさいなまれると、意識は痛さや辛さに奪われ、思考や記憶を萎えさせるものです。と言い訳がましく考えましたが、その頃のことを思いめぐらしているうちに、私の身体にとっての「痛いこと、辛いことの始まり」が、多摩教会にとっての大きな展開の始まりだったことに思い至りました。
「脊柱管狭窄症」の診断を受け、頸椎の手術待ちのために、3ケ月近く聖母病院に入院していました。そのさなか、11月頃だったと思います。教会委員会の方々が病院にお出でになりました。「教会建設のための絶好の土地が見つかった」というのです。それまでも建設用地を探して、いくつか巡っていたのですが、これと思う場所は在りませんでした。その話を聞いて、残念ながら私は現地を見に行くことはできませんが、教会委員会の皆さんがそれほど「良い場所」というのであるなら、良い場所に違いないと思い、話を進めるようにお願いしました。話はとんとん拍子に進んだようで、白柳大司教も了承して下さいました。後に、大司教様が病床にいらっしゃって、18年で1億円を超える資産を蓄えたことを感服しておられました。
初代の寺西神父は「荒れ野から」でカトリックニューズの記事をまとめて下さっています。多摩ニュータウンの開発のため、山林を切り崩し、広大な宅地造成を行っている風景を「荒れ野」に見立て、「旅する神の民」である多摩教会の歩みを記して下さいました。この本は「多摩民数記」と言えるでしょう。アパート教会から始まり、マンション教会へと旅は続いていました。ニュータウン造成も落ち着き、いよいよ約束の地が近づいたのだなという感慨を病床で持った覚えがあります。そして、その感慨をカトリックニューズに寄せたと思います。
3.第3代主任司祭 満留 功神父(現在・ペトロの家)
ニューズ発行500号記念おめでとうございます。わたくしが多摩教会を去ったのが20年前だったかと存じます。本年は、多くの機関や施設が、それらの発端から数えた何周年という記念をおこなっているようです。温故知新、初期の時代から、今に至るまでニューズの発行のため尽力された方々に、感謝の念を表したいと存じます。イエスを囲む共同体のニューズレターは、多摩共同体一人一人の信仰の表現のひとつだと確信しております。それぞれの記事に、出来事の当人のキリストに導かれた行動が反映され、そこに輝く、キリストの光が共有されるために、分かち合われるのが教会ニューズの真髄と信じております。
ときおり送られてくる「多摩カトリックニューズ」に目を通すと、そこには、みなさまがたに、生きた信仰のあかしが、燦然と輝いているのを感じます。それぞれ生きる場所が異なっても、みなさまがたから分ちあっていただく、同じキリストの光を感じざるを得ません。感謝申し上げます。
多摩を去り、フィリピンをはじめ、台湾、ロスアンジェルス、ケルンと世界をまたにかけて活動してまいりましたが、どこにいても、皆様方のことを思い出しておりました。目下、ペトロの家で、リハビリを兼ねた静養の生活を送っておりますが、日々の聖体祭儀、個人的祈りにおいて、多摩カトリック共同体の皆様方のために、お祈りいたしますとともに、共同体の分かち合いの手段である《カトリックニューズ》とそれにたずさわる方々の上に、全能の神の祝福を祈っております。
4.第4代主任司祭 宮下 良平神父(現在・カトリック中央協議会事務局長)
多摩教会ニューズが500号を迎えるとのこと、喜ばしい限りです。私は編集担当の方から記念号のために何か書いて下さいと依頼されましたので、多摩教会在任中の原稿などを私のパソコンの中から探して読み返してみました。
私が多摩教会へ赴任したのは、1995年4月からでした。私のパソコンに残っている多摩教会ニューズの最も古い原稿は、その年の9月のものでした。それには、8月中に手書きの信徒台帳の記録を検証して、堅信を受けていない方や多摩教会に所属していない方を調査し、そのデータをパソコンに入力した結果、当時の多摩教会信徒数が643名であることが分かったということが書かれていました。それは、具体的な聖堂建設へと新たな気持ちで多摩教会の皆さんが立ち上がるための出発点となった人数だったことを懐かしく思い出しました。
そして、1996年1月7日の「おしらせ」に「2月からの司牧評議会に、各地区から可能なら2名以上のメンバーが出席できるように、各地区の集まりで相談して下さい。」とありました。多くの信徒の方に教会運営に関わってもらいたいという私の考えを受けて、信徒会館2階に各地区から2名ずつ委員が出て、毎月の司牧評議会を行い、教会行事のことや聖堂建設について話し合われ始めましたことを思い出します。その時から出来るだけ詳しい議事録を作ったことを覚えています。議事録の案を作って下さった委員の方を、私が泣かして何度も詳しく書いてもらったことも覚えています。その詳しい議事録をニューズに載せて、皆さんと情報の共有を図ろうと私は思いました。このニューズに載せられた議事録を通して司牧評議会で何が話され、特に聖堂建設についてどのようなことが話され、検討されているかということが多くの信徒の方々に伝わったのではないかと思います。そのニューズでの議事録をもとに、各地区での地区集会では活発に話され、特に聖堂建設での要望がたくさん出されて、その要望を集約して今の聖堂が形づけられたことを覚えています。今の聖堂は、皆様の考えや思いの反映であることがニューズを通して実現されていったとも言えるのです。
私が多摩教会在任中に、たまたま聖堂を建設するという皆様との一大共同作業に携わり、私を司祭として育てて下さった皆様に心より感謝しております。その一大共同作業において、皆様と一緒に考える情報を共有し続けることが出来たのは、多摩教会ニューズのおかげであることをあらためて気づかされています。
もう時代は変わり、多摩教会の聖堂建設に関わった信徒の方々も少なくなってきましたが、多摩教会共同体の歴史の証言者として、これからも多摩教会ニューズが信徒の方々の情報共有のため、そして信徒の心を一つにするための大切な役目を果たしていっていただきたいと願っております。
5.第5代主任司祭 加藤 豊神父(現在・後五井、鴨川教会主任司祭兼務)
この度の記念に寄せて、お祝いと喜びの意を申し上げます。また「ニューズ」編集、印刷、発行に関わられた皆さんのご苦労も、当時 種々の場面で見て参りましたから、それを憶うと、真にねぎらいの気持ちと、また、感謝と励ましの気持ちとを添えて寄せたいものです。
様々なことが思い出されますが、ニューズと司祭たちとの結びつきという点からは、やはり毎月の「巻頭言」が一番思い出深いことでした。
お恥ずかしいことに、今やもう自分で何を書いてきたのかよく覚えてはおりません。おそらくはその時々の多摩教会の事柄に関連した内容を教話的な表現で記していたような気がするのですが、もともと作文が苦手でしたので、なんだか支離滅裂な文章となってしまったのではないかと思います。
その意味で、校正の方々、製本の方々、講読者の方々を含めすべての皆さんのご寛容とご支援がありましたことが連鎖的に思い起こされます。それ故この場をお借りしてお礼の言葉も添えたく思います。
「思い出」については、ほぼ上述したことに尽き、それらを更に3つの言葉に分け治めるなら、「賛美」「感謝」「痛快」となりましょうか。特に「賛美」と「痛快」は表裏を成すものです。従ってわたしの至らなさを遥かに超えて主のみ旨は広がって行ったのでしょう。
「ニューズ」のみならず、ふわふわと過ごしてしまった自分の多摩教会時代の6年間を振り返りますと実に胸が痛いが、それでも「ニューズ」がこんにちまで揺るぎない役割を果たして来たことは皆さんの献身と忍耐の賜物といえるでしょう。その証しであり、「しるし」であろう「500号の発行」おめでとうございます。
6.第6代主任司祭(現在の主任司祭) 晴佐久 昌英神父
今月号巻頭言をお読みください。 >>> こちら です。
【 創刊500号記念特集:2 】
30年後のカトリック教会 私の夢
- 青年会から6人の声 -
1.伊禮 正太郎
30年後の教会
自分は生きてるのか?って考える今の生活を続ければ間違いなくこの世に存在しないだろう。
そこには何が存在して何が消えていくのかと考えてみる。
青年会は消えているだろう。もしかしたら続いてるかもしれないが、今の青年会とは全く違うものが出来るだろう。じゃあ何が残るのか?それは間違いなく「神様の愛」「人間の信仰」だと思う。今の教会も30年後の教会もそこだけは変わってはいけない。いや、必ず変わらない。神父がロボットになったりしてるのだろうか(笑)それでも「愛」は壊れない。神が人間を創造した時に与えた唯一の壊れないものだと思う。これを言えば元も子もないが、そもそも将来の教会を思い描いても無駄では無いだろうか?「明日の事は思い煩うな」と言うイエスの言葉がある通り僕は今の青年会や教会を精一杯愛する。
2.岩崎 莉乃
30年後…多摩教会には今以上に沢山の愛の輪が重なりあっていてほしい。無邪気な子供たち、活発な若者たち、あたたかく子供達を包み込む大人たち。皆が言葉を交わし、幸せを分かちあえたら、愛の輪は増えてゆくだろう。辛いことがあったときにも、「ここに来れば不思議と心がじんわりあったかくなるなぁ」と思える教会になれば、益々愛の輪が広がるだろう。今後青年会をきっかけとして、また新たな愛の輪が生まれたら嬉しい。
3.下田 眞理子
まだまだ「教会に行くこと」が世間の一部の人の間でしか親しまれていない今、将来的には、宗教云々の壁を越えて、洗礼を受けている受けていないに関わらず、誰でもいつでも気軽に来られるような開かれた教会にするのが私の夢です。人と人とが直に繋がって得られる幸せ、充実感など、すべての人の心のオアシスを教会となるように広められていったらいいなと思います。
4.森 友昭
日本は戦争もなく平和で恵まれている国であると思う。しかし、日本の中には孤独を感じている青年達がたくさんいる。30年後は、そんな悩みや悲しみを抱えている青年達に喜びや安らぎを届けることができる教会を作っていきたい。教会にくれば不思議と心が安らぎ、喜びに満たされ、神様の愛を感じることができる。青年会でもそのような空間を作っていきたい。
5.佐内 伶奈
一見して青年会は単なる若者の集団である。 そして彼等は子供から大人への過渡期であり心も脆く、とても立派とは言えない。しかし友人を愛し、支える大きな力を持っている。何かを変える力も持っている。今はまだ自分達の事だけで精一杯の青年会だが、30年後、自分達と同じ様に青年期を悩み迷いながら歩んでいる、孤独を感じた沢山の青年達が心から救われ、希望を持って集えるような教会を作り上げたい。
6.坂本 宏喜
30年後…僕たちはおじさん。ただのおじさんではない。「神は愛だ!」とかっこよく叫んでいるおじさん。今とあんまり変わらない。そんなおじさんたちを見ながら、キラキラした瞳で教会を走り回る幼稚園児と小学生。今とあんまり変わらない。焼肉パーティーに釣られて集まる中学生と高校生。今とあんまり変わらない。この世に絶望しながらも希望の光を求める青年たち。今とあんまり変わらない。
30年後……結局今とあんまり変わらない。ただ、もっといろいろな場所で、そんな光景が見られるんだろうな。