「最近、知らない人が増えた」
多摩教会内で、そんな声を耳にすることが多くなりました。
いいことです。そうでなければなりません。集まっている人が全員知り合いであるような教会に、未来はないからです。
元気な教会であれば、当然のごとく、「知らない人」が多くやってきます。
「よさそうなところだな」と興味を持って訪れた近所の人、「あそこがいいよ」と紹介されて訪ねてきた人、インターネットで調べて「ここならば」と期待して通い始めた人。
受洗者や転会者、転入者も、数が増えればその中に知らない人も出てきますし、旅行中に立ち寄った信者さんや、一度は多摩教会を見学したいといって遠方からはるばる来られた方も、毎週必ずおられます。
ただ、「最近、『知らない人が増えた』と言うだけで何もしない人が増えた」ということがあってはなりません。「知らない人」に声をかけてお迎えし、「知ってる人」にすることこそ、キリスト者の務めでしょう。この世に教会ほど素晴らしい出会いに恵まれた集いはないのですから、知らない人を見かけたら、これこそ神さまが出会わせてくださった特別な人だと信じて真っ先に声をかけるのは、義務というより特権ではないでしょうか。
そもそも、だれもが最初は、互いに「知らない人」であったはず。
思い出してください、多摩教会に初めて来たときのことを。知っている人が誰もいない中へ、小さな期待と大きな不安を持って足を踏み入れたのではなかったでしょうか。幼児洗礼の人も含め、だれかから最初に声をかけられ、だれかを最初に覚えたからこそ、お互いに「知ってる人」になってきたはずです。
ところが、ひとたび「知ってる人同士」になると、悲しいかな、人はあっという間にそれに慣れ親しんで、知らない人のことを考えなくなります。確かに、知らない人に話しかけるのは勇気がいりますし、知らない人と交わるのは緊張を強いられますから、できれば知ってる人と安心して気楽に過ごしたいというのは、ある程度は理解できます。
しかし、そうして「安心して気楽に過ごす」のは、教会の本来の姿ではありません。
教皇フランシスコは、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、こう書いています。
「わたしは、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです」
実際、多くの教会が安全地帯に閉じこもって新しい人を招く工夫をせず、だれでも受け入れようとする気持ちがないために、「見知らぬ人がだれもいない教会」になっているのは事実です。そういう教会は、いわば、こんな看板を掲げているようなものです。
「当教会は、仲のいい会員制クラブです。現会員の邪魔になる方や、安定した現状に変化をもたらす方は入会をお断りします。まずは、当教会暗黙のルールをお学びください」
これを見て入ってくる人が、いるでしょうか。
このたび、ミサの前後に訪問者をご案内する、「案内係」が誕生しました。もちろん今までも、総務の担当者を始め数名の有志が奉仕しておりましたが、あまりにも「知らない人」が増えてきたということで、チームとして本格的に対応することにしたものです。
入門係が中心になって、聖堂入口付近に腕章をつけて立ち、これはと思う方を見つけて声をかけ、お世話をいたします。その際、初めて来られた方には、「ミサ後の軽食無料サービス券」をお渡しすることにいたしました。ミサの後もぜひ残っていただき、食事を共にして親交を温め、互いに「知ってる人」になるためのものです。
このサービス券は、運用を開始したその日からさっそく効果を発揮して、岡山から来られた方が一緒に食事をし、案内されて午後の入門講座にも出席して、参加者に「こんなに親切に迎えてくださって、うわさ通りの教会で感動しました」と話してくださいました。
こうなったら、日本一のおもてなし教会をめざそうではありませんか。それこそ、ミシュランの「教会部門」でもできたら、真っ先に三つ星を頂ける日を夢見ていいんじゃないですか。教会のおもてなしは、神のおもてなしの目に見えるしるしなのですから。
【 連載コラム 】
最期のプレゼント
洗礼を受けて初めてのクリスマス。わが家にとっては母兄父の洗礼25周年のクリスマスでもあります。まさにワクワク待っている待降節第3主日。
そんな今わたしは、伊豆で泳いできたお魚と旬の素材、おもてなし相手を思いながら、「右近の列福を願う茶事」の水屋を終えて、ひと休み。10月、「高山右近の列福祈願公式巡礼ツアー」で出逢った方々が再び集い、お濃茶でより結びつきを深める静かな時を感じつつ、書いています。
人との出逢いに恵まれて生きてきました。父を早く亡くしたこと以外にこの降り積もるお恵みの要因はないように思います。
天に帰った父が、天の住人同士で神さまに取り次ぎ、地上のものを結びつけてくれていると。今わたしが多摩教会にいることが何よりその証しと捉えています。神さまの近くで、神さまとともにこちらを見ていてくれる天の援軍を何よりの宝物と受けとめて欲しい。ワタシさえ気づけば、亡くしたその人は永遠に生きていることを伝える役目かと。わたしも伝えられ、守られてきたので、失敗続きの奮闘中です。
25年前のクリスマス。父は洗礼式へと、ある教会のお御堂へ続く外スロープを兄に支えられながら上っていました。病身ながら教会へ行って、受けたいと。小学校からの親友である神父さまが手招きする扉へ。お御堂の中では、主任神父さまが、今ここに洗礼を受けるために向かっている方がいらっしゃいます。皆さんで待ちましょう、とお迎えくださったと聞き及びました。
その3カ月後、お御堂の暖められた小聖堂に残された家族三人。安心して眠りに落ちた暖かい空気を今でも肌に感じられます。「病院の床で寝ていらしたなら、ここでも大丈夫でしょう」との神父さまからのうれしいお申し出。お御堂に立っていて、ふと気づくと神父さまが横に立っていらして。「…ピアノ…弾いていいですか?」「いいですよ。」
バッハの平均律第一番アヴェ・マリアの旋律を父へはなむけることができました。
遠くの親戚が帰ったあとも、うちに最後まで残ってくださったのは二人の神父さまでした。
「何かあったら、この人たちに会いに行けばいい」と思えるだけで、その後の多難もあらたまって会いに行くこともなく過ごせました。支えとなってくれるそういう存在がアルと知っているだけで、大概のことはクリアできます。
ご絵にのせるため用意してくださったふたつの言葉からひとつを選びました。
「なすべきことはただひとつ…」〈フィリピ 3-13〜14〉
後半の賞を得るためにという箇所はよくわからないし、賞なんかいらないけど、わたしたちはまだ若いから前を向いていたい、と選んだみ言葉ひとつで25年。
昨日のごミサでもうひとつの「いつも喜んでいなさい」を聞き、ごミサは訪れたもの一人ひとりに、その時その時に響くみ言葉のオアシスであり、福音のあふれだすオアシスであると実感し、幸せでした。
ただただ、そこにいるだけで。生で。ともに集う人の中で。
全ての人の心の平安につながる暖かな空気を身にまとって、心のオアシスをなくした人のもとへ一歩だけでも近づき、「こんにちは」と結ばれたい。
涸れない水をいただいたものは、オアシスの場所を知っている。今、星の見えない人をいざなう小さな満天の星のひとつになるべく、後ろのものを忘れ、前に向かってただひたすら走るのみ、あまねく全ては神さまのご計画のうち。イエス様を近づけてくださった神父さまに感謝。
【 お知らせ 】
待降節第一金曜日の12月5日、この日のごミサで晴佐久神父様はマタイによる福音から、「私に出来ると信じるのか」と問われて、「ハイ、主よ」とお答えした二人の目の不自由な人のように、本気で向かいあい、本気度を確かめておられる神様に対して、私たちも本気で「はい、主よ」と真面目にお答えしましょうと説かれました。
続いての家族の会、今回は聖堂で、信徒の小俣 亜里さんがビオラ、波多野 直子さんが電子ピアノでクリスマスソングやアヴェマリアを演奏してくださり、目の前で聴くプロの奏でる美しい調べに一同耳を傾けました。
1月は初金のごミサはお休みで、家族の会も休会。次回は2月6日の初金ごミサのあと茶話会を予定しています。
「みんなちがって、みんないい」 楽しい初金家族の会に、どうぞお気軽にご参加ください。通常、月の第一金曜日、ごミサのあとお昼までの1時間です。