普遍的な救いの証し人として (受洗者記念文集:晴佐久神父巻頭言)

主任司祭 晴佐久昌英

 「洗礼を受けたから救われるのではない。救われたから洗礼を受けるのだ」
 入門講座では、よくそのようにお話しします。
 洗礼は救いの条件ではなく、救いの結果だからです。
 救いとは、「神と人が親子として永遠の愛で結ばれている」状態です。それは、およそこの世に生まれたすべての神の子に、すでに、初めから与えられているものです。人はそれを知らないから苦しみますし、それを知って信じた者は心から安心し、喜びと希望に満たされ、それを信じる教会の一員となるために洗礼を受けます。
 その意味では、「救われたから洗礼を受ける」というのもまだ不正確で、正確に言うならば「すでに、初めから救われていることに目覚めたから洗礼を受ける」というべきでしょう。
 わが子を救えない神を神と呼んでも意味はありません。神はすべての人を救う神であり、神の子たちはそれを知って喜ぶために生きています。つまり人は、洗礼を受けるために生きていると言ってもいいのです。

 今年の新受洗者の記念文集をお届けします。
 39人の受洗者一人ひとりが、洗礼への熱い思いを語っています。皆、かつては自分が救われていることを知らずに苦しんでいましたし、福音に出会って救いに目覚める喜びを体験してきましたし、その救いの証しとして、洗礼を受けた人たちです。
 この受洗者たちを見れば、神さまは本当にまことの親であり、私たちは皆共に天の父と親子として永遠の愛で結ばれていることを確信できるでしょう。
 すでに洗礼を受けて久しい人たちも、自らの存在そのものが救いの証しとなっているのだという誇りを取り戻して、いっそう普遍的な救いの証し人としての使命を果たしていただければと、願ってやみません。